いつもお世話になっております。今回もご相談させてください。 ここ一年くらい前から、本を読んで仏教や御真言の勉強をしています。勉強をしていくうちにいろいろな疑問があるのですが、特に気になることがあります。 歓喜天様と荼枳尼天様についてなのですが、いくつかの本に「気難しい」「正しい信仰しないと祟られる」「真言をちょっとでも間違えると駄目だ」というような記述がありました。 他にも弁財天様は嫉妬深いからカップルでお参りするとよくないとか書いている物もあります。 私はお寺や神社を巡るのを趣味としているのですが、こういう話を聞いてしまうと、歓喜天様や荼枳尼天様にお会いしたときに、手を合わせるのが怖くなります。 また、お経についても勉強していて、参拝させていただいたときに唱えるようにしているのですが、間違って唱えてしまうことがあり、その後、大きな過ちを犯してしまったような気分になることがあるのです。 歓喜天様や荼枳尼天様・弁財天様の仏像にいろいろな所でお会いしたことがあるのですが、どのお方もお優しい顔をされていて、とてもそんな存在に見えません。なので、私自身は仏様が祟りを起こすようなことはないと思っています。 しかし、心のどこかで恐怖が拭えないのです。 そこで質問ですが、なぜ天部の仏様の中にはこういう風に言われてしまう仏様がいるのでしょうか? 専門家であるお坊さま方ならばよい答えを聞かせていただけると思い相談させていただきました。 ご回答宜しくお願い致します。
いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。
無知な為私の書く内容が間違えているのかもしれません。教えて下さい。 私の家は浄土真宗本願寺派の直門徒のようで田舎の祖母は菩提寺で葬儀をしました。最近母が亡くなり遠方である為こちらの葬儀屋さんに手配していただき葬儀を済ませました。菩提寺とは祖母の件のみで馴染みも無かったので葬儀が済んでからの連絡となってしまいました。 母は田舎のお墓には入らずこちらで永代供養を望んでおり、私も嫁に出ている為家を継ぐ事は出来ないため祖母の代までで菩提寺さんに永代供養を頼みたいとお話ししました。 後日、本来は葬儀、法事は菩提寺が行う事が筋であると手紙が来ました。こちらに来るのが難しいならお坊さんが出向いて下さるとの事でした。正直出向いて頂くと御車代など費用がかさむ為法事の度にお越しいただくのはお断りしたいのです。 田舎にはお墓もあるので揉めたくは無いのですが菩提寺の言われる様にしなければならないのでしょうか。同じ浄土真宗本願寺派のお坊さまにお経をあげて頂くのと何が違うのでしょうか。どうしたらいいのかわかりません。
実父が今年1月、手術の為の入院中、容態が急変し家族に見守られることなく病室で亡くなりました。その後の葬儀は、父に信仰心がなく無宗派、生前から戒名もお坊さんも必要ないと兄に話していたこともあり、本当に家族のみで祭壇を囲みお別れをしました。私の中にモヤモヤする物はありましたが、兄が簡素ながらも葬儀を取り仕切り、母は憔悴し兄に一任していたので、嫁いだ私は黙っていました。 落ち着いた頃母は「やっぱり気持ち的にねぇ…」と言い、小さな仏壇を購入し、入魂などはせずに位牌が無いので写真とお花を飾り、普通に毎日線香を立てて御りんを鳴らしています。自分でお経を読む練習もしていたり。供養は気持ち…と私も思いますが、このような形でいいものなのかと今も考えます。 今年初盆ですが、来年春まで納骨はせず、仏壇横に安置しています。初盆も提灯を飾ってあげたいと購入しました。誠に都合良し…ではありますが、普段の供養は仏式風に小さな孫達も気持ちを込めて手を合わせています。 母が納得していれば、このような形でも父への供養になっているのでしょうか。非常に苦しい闘病の中、一人で旅立たせてしまった父は成仏できているのでしょうか…。 兄は良く言えば、形ではなく気持ちの問題と考えているようです。 ご回答よろしくお願いいたします。
私は浄土宗の檀家です。 お仏壇も阿弥陀様を主役におまつりし、毎日「阿弥陀経」を読誦し、発願文を読み、お念仏を100回唱えております。 しかしお不動様と大黒様も大好きで、阿弥陀様とは別に個人的な持念仏として、毎日勤行しております。 浄土宗のお寺にもお不動様をお祀りしている寺院もあること、個人的に尊敬している祐天上人がお不動さんと縁のある方であったこと。 またお不動さんを開眼してくださった密教系のお寺でも「阿弥陀様と共に信仰しても構わない」とアドバイスをいただいたことから、問題無いと考えていたのですが・・・ しかし法然上人のご著書を読んだところ、専修念仏では雑修(お念仏以外の仏道修行)は行わない方が良いと書かれていました。 阿弥陀様以外の仏様に浮気をする雑修は、往生の妨げになると。 (真宗では特に厳しく、阿弥陀様以外の仏様は、原則祀らないと聞いております) しかし家の菩提寺の浄土宗のお寺では、お地蔵様や聖観音様、馬頭明王様も祀られています。 (菩提寺とは遠方に住んでおり、ご住職とはほとんどお話しできません) 浄土宗は、本当のところ、雑修をどう考えておられるのでしょうか? ご意見をいただけましたら、幸いです。
こんにちは。幸いなことに好きなトピックを好きなだけ、いつも楽しく拝読しています。回答僧の皆様、たくさんのありがたくて興味深くて面白いご回答ありがとうございます。 今年7月、もう今月ですが、大好きだった祖父母の十三回忌となります。 亡くなった時期もあり、法事は大体お盆にまとめてというのが定番だったのですが、今年は新型コロナの影響で、お寺さんの方から法事自体断られました。 お盆も、家にお経をあげには来ないそうです。 私も家族も親戚もみんな、それには納得しています。怒るようなご先祖様じゃないだろうし、とこちらの都合で考えてしまっていますが、特に問題はありません。それより、ご高齢のご住職様の体調が悪くならないようになさってほしいと思っています。 とはいえ…失礼な言い方かもしれませんが、本来祖父母にとってはたった一度のイベント(?)のはずが、何もしないのもどうなのかな、とも思います。 お盆にはお迎えに行って、お墓を綺麗にして、今年はじいちゃんが大好きだったお酒の一つもコップに入れて…そんないつも通りのお盆(新しい生活様式バージョン)を普通に行って、来年以降も通常通りで大丈夫なんでしょうか? もしよろしければ、教えていただければ嬉しいです。
お世話になります。 先月父が亡くなりました。 父の実家は真言宗のお寺の檀家ですが、父は長男ではなくまた飛行機の距離に住んでおり、お寺との関わりはほとんどありません。 そのため今の住まいの周辺でお墓を探すことになりました。 母と姉と姉家族、そして私で近所の民間霊園と寺院霊園(浄土宗)の見学に行きました。 私たちは寺院霊園の印象が良く、そちらに決めようとしました。 しかし管理寺院の住職の方に「焦らなくても良い」と熟慮することを薦められ、契約には至っておりません。 そんな中母がやはり今後の法要のことを考えて、真言宗ではない寺院霊園は止めるべきでは、と悩み始めました。 ちなみに母の実家は浄土真宗の檀家だったため、あまり熱心ではありませんが「南無阿弥陀仏」が落ち着くと言っております。 寺院霊園は宗派は問わない、檀家になる必要はない、但し寺院で法要等を行う場合は他宗派では行わない、とのことでした。 このような状況ですので私としては寺院霊園が良いと思っているのですが、母の気持ちを考えると押し切るのは良くないと思います。 ただ生前の父はお経を唱えることもなくまた初詣やお祭りくらいにしかお寺に足を運ばなかったため、信仰や宗派にこだわっているようには見えませんでした。(一度尋ねたことがありますが、こだわっていないとの回答でした。) そのため真言宗にこだわって民間霊園にしようという母の意向に従えない思いもあります。 真言宗にこだわるべきか? 気にしなくても良いのか? 出来れば心の持ち方の御指南をいただきたくお願いいたします。
先日は相談にお答えいただきありがとうございました。 ところで、皆様にお伺いしたいのですが、仏教系の組織・団体で慈善事業・活動をされているところはあるのでしょうか?また、私のような特定の宗派の門徒・檀家ではない一般人が参加できるような活動をされているところはあるのでしょうか? というのも、現在、とある本の影響で始めたのですが、少額ですが毎月一定額を募金して、貧しい国の子どもたちを支援する、というのやっております。これは、キリスト教系のNGO団体が行っている活動で、かなり昔から行われているとのことで、ここなら信頼出来ると思って始めました。 もちろん、貧しい人、困っている人を少しでも助けられるのであれば、どこの組織だろうと宗教だろうとそんなことは問題ではないとは思います。しかし、自分の宗教観に合う組織を通して募金が出来るのであれば、その方がいいなとも思います。 ちなみに、私は、実家が浄土真宗(本願寺派)の門徒で、個人的にも幼い頃から慣れ親しんだからか、浄土真宗が親しみやすいです。と言っても、これまで何かの活動に参加したという経験は全くありません。毎月、祖父の月命日にお坊さんがお経をあげに来てくださるのを、後ろで正座して聞いていたくらいで、あとは本で詠んだ程度の知識しかありません。 皆様には、特定の組織・団体について発言されるのは、お立場上難しいこともあるかもしれませんが、参考になるサイトなど自分で調べる方法をお教えいただければと思います。よろしくお願い致します。
私は一人っ子で、両親が亡くなり実家にお仏壇を置いたまま月参りに来ていただいていたのですが、実家を処分することになり、永代供養することになりました。(実家は姫路で、大阪在住です) 父は、平成25年に、母は平成20年に亡くなりました。 宗派は真言宗です。 お寺さんから、100万と言われたので、両親の遺産でお支払いしようと思っていたのですが、お位牌を渡した後も、毎月27日に護摩焚きをしたりするので、お盆と2回のお彼岸で年間3万納めてくださいと言われました。 月参りのお布施(5千円)はお経をあげていただいているのでお支払いしてると思っていたら、お寺の維持費も含まれると言われました。 お盆にはお施餓鬼代として5千円も渡しています。 私は、永代供養が終わったら、年に2回父と母の命日にお寺に行って拝んでいただいてお布施をすればいいと思っていたので、ずっとお金がかかり続けるとは思っていませんでした。 そのための、100万だと思っていたのです。 もちろん、7回忌以降の法要はちゃんとしようと思っています。 法要は5万円です。 両親の遺産もいつまでもあるわけではないので、心配です。 1代祀りなので、子どもは関係ないとはおっしゃってくださってるのですが‥ 両親のことなので、ちゃんとしてやりたいとは思うのですが、どこのお寺さんでもそうなんでしょうか? 私が生まれる前からのお付き合いなので、もめたりはしたくないのですが、今後どのようにお寺さんとお付き合いを続けていけばいいのかも教えていただきたく思います。 よろしくお願いします。
私には中絶という選択をした水子がおります。 お寺に行った際 慈母観音像やお地蔵様を見かけた時に お供物やお線香を焚き、手を合わせてきました。 ですが、時間が経つにつれ 思い出す回数が毎日から1ヶ月に1回、半年に1回、1年に1回、、と減っていきました。 そんな自分を許せないですし これからも生んであげられなかった子供への供養と、自分への戒め、修行、色々な意味も込めて 自宅に慈母観音像を小さくても置き、 毎日手を合わせようと考えております。 が、しかし、 値段や見た目、材質もピンキリ。更に 自宅はアパートで、海外を行き来する様になるか、海外移住になる為、お仏壇などの設置が困難に近いです。 ・慈母観音像、または違う像の方がいいのでしょうか? ・仏壇が置けないですが大丈夫でしょうか? ・方角や向きなどはありますでしょうか? ・値段や材質、どこで購入かなどは気にしなくてもよいのでしょうか? ・慈母観音像などを置き、水子を供養する場合なにかお経を唱えた方がいいでしょうか?私はお唱えしたいと考えていますが 何かアドバイスをお願いいたします。
兄がなくなり、13回忌の時期が迫っています。 兄は長患いの末、なくなりとても私の悲しみが深く、まさか亡くなるとは思っていませんでしたので、両親も未だに悲嘆にくれております。 今、段取りを組んでいるのですが、今までのようには、わけあって自宅でできず、法要する場所とお坊さんを探しています。 お坊さん探しもさることながら、段取りも場所が自宅でないのならどうして良いかわからす、困っております。 永年供養出来るよう、兄の死後、父の一家とは別に、自宅近くで急遽お寺さんに墓地、墓碑をつくり、3回忌、7回忌早く自宅でおこなっていました。 しかし、そのお寺の住職さんは3回忌では、従姉妹にアルバイトを持ちかけ、7回忌に至っては日にちを忘れてしまい、慌ててくるという始末で、その方にはもう二度と頼みたくないというのが私たち家族の本音です。 悲しみを理解してくれ、きちんと心を込めたお経をあげていただきたいのですが、法要だけを行う葬儀社は少なく、ましてお坊さんをどう探せば良いかわからず、非常に困っています。 具体的な提案と共に、どう考えれば良いでしょうか。兄の知り合い、親戚もの方も、少人数ながら来ていただきたいのです。 長々失礼いたしました🙇
私なんかを育てさせてごめんなさい、と最近よく思います。私を育てるために苦しんでる姿を見るたびに罪悪感で胸が押しつぶされそうになります。将来は楽をさせてあげたい。でも自分にそんな力があるか自信もない。親孝行な娘になりたい。どうすればいいですか。
こんばんは。 過去私はいじめをうけ、抵抗できず呪いに手を出しました。 その時はすっきりしたのですが、今になりすごい罪悪感にくるしんでいます。 というのも、私自身が統合失調症になり、幻聴などが聞こえて、過去のことをかなり声としていわれるからです。 呪いはその時は相手が怪我をしたりしましたが、そのあと私もあまりいい目にあいませんでした。 人間関係の不和の悪化やいじめの悪化などです。 今もあんなことしなきゃよきゃったとお持っています。 死んだ後地獄に行くのか生きながらにしてこの病気という呪いを受けていくのかと思うとつらいです。 いじめのときに反抗できなくて、やったことで、いじめられっ子は裁かれず、私だけが裁かれこんな目に遭うのかとたまにすごく苦しくなります。 でも、呪いなんてしなきゃよかった。本当に相手を苦しめたかもしれない。今は神社仏閣で相手の幸せを願っていますが、心がはれません。 どう考えたらいいでしょうか?
先日親が他界し自分の家の宗派が解らず、葬儀屋さんに実家の仏壇の写真を見せて浄土真宗大谷派と判断して頂きその宗派で葬儀致しました。その数日後宗派が本願寺派とわかり以前にお世話になっていたお寺さんもわかり早速お寺さんに相談し最初は連絡無しに引越ししてしまいお寺さんにお叱りを受けましたが満中陰法要をお引き受けして致けました。 その満中陰までの間に親が元々住んでいた所が好きだった事からその町内のお寺さんの敷地内の墓地を契約しました。ただその墓地のお寺さんは法華宗でそのお寺さんいわく他の宗派のお寺さんも墓地に来てもらってお経唱えて頂いても問題ないですよと言われました。 その事を今お世話になってるお寺さんにお願いしたらウチはそれは致しませんと断られそこの宗派の違うお寺さんに今後面倒見てもらってくださいと突き放されまた。。 私自身は宗派に拘りなく親戚も僕に一任しております。 ただ先祖代々続いて来た浄土真宗本願寺派をここで変えて良いのかなやんでます。御葬儀の時も大谷派と間違えたのにどうして良いのかわからないのでアドバイスよろしくお願い致します。
先日、叔母が他界し、菩提のお寺は曹洞宗でしたが、喪主の長男が、無知のため、真言宗の形式で葬儀を行ってしまいました。 来週49日が来るのですが、 その後、菩提寺に相談するどころか、葬儀社から紹介された、自宅の近所にある、曹洞宗の寺院に相談に行き、結果的に、他宗派で法事を執り行なってしまったこと、菩提寺がある、という当然な事より、49日、100日法要は断られ、故人は曹洞宗を信仰していましたが、お経を上げてくれる和尚様とはご縁がなく、49日法要は、喪主が一人で、心を込めて行うと言われました。 菩提寺に相談するという選択肢がなく、具体的な理由もないようでした。葬儀社に依頼しきりで、他人任せなのも垣間見えました。 墓地管理規則も無視した行為ですので、ご縁がなくなるのは当然です。 そして、この行為により、いずれ墓地そのものも撤去されると思うと、今までろくに墓参りもした事のない喪主に、故人に頼まれて、先祖代々の墓を守ってきた私としては、先祖を敬う心を抉られる様な、許せない気持ちで頭の中が混乱しています。 49日、100日、1周忌…と法要がありますが、呼べるお寺様もないため、喪主が一人で行うというのはいかがなものか、ご意見をいただきたく存じます。 よろしくお願いいたします。
先日父が亡くなりました。 それまで菩提寺がありませんでしたので、親戚と同じお寺にお願いしました。 葬式についてよくわからず、葬儀の当日、お経をよんで頂く直前に控え室で初七日までのお布施をお渡ししてしまい、「それはおかしい」と危うく返されそうになりました。 その事があったため、母はお坊さまに対してビクビクしています。 葬儀屋さんから「お布施は後日お渡しする以外にも当日葬儀の直前にお渡しすることも多いですよ」と聞き、そうしましたが…。 後から聞くと、お坊さまもお怒りになった訳ではなく「本来なら後日ゆっくり渡してくれて構わない」という意味でそう教えて下さったのだそうです。 しかし、その一件のせいで母は必要以上にお坊さまに怯えていて、どうしたものかと思っています(私自身はざっくばらんな方という印象です) 今後どうしたら、母はお坊さまと良い関係が築けるでしょうか? やはり直接おたずねするのが一番でしょうか? わからない事が多く、周りに聞ける人がおらず、正解もないようなので悩んでしまいます。 それから、よくわからず父の法名に院号をつけなかった為、「以前亡くなった親戚に比べ文字数が少なく見劣りする」と母が後悔しています。 一般的には院号を付ける方が多いですか?少ないですか? 今から院号を付けて頂くのは可能ですか? (ちなみに、我が家は浄土真宗です)
先日、告別式がありました。 その時、3人のお坊さんが来て、読経をしてくれた一人のお坊さんが髪が長く、ポマードをつけ、出棺のときに自分の白いスポーツカーに乗ったまま、ゴツい時計をして、タバコをぷかーとしてました。 一仕事終えたって感じでした。頭剃って、車は国産でいろ、タバコは吸うな、時計は安いものにしてと言っているわけではありません。けど、出棺のときは神聖な大事な時です。そんな無神経なお坊さんを見て、すごく嫌な気がしました。 僕は意識しすぎでしょうか? お坊さんは物欲とか煩悩を超越した存在でいてほしいと思うのは僕の思い込みでしょうか?教えて下さい。
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
親子でも親は子を100%理解出来ないし逆に子は親を100%理解出来ない。 夫婦間や他人なら尚更理解するのは難しくなる。 人は1人では生きられない。多くの人達の助けがあり、それは気づきもしないところでも助けられています。これらは事実だと思いますがやはり自分以外の人間を事を思いやるにしても心を理解するのは難しいことですよね。 助け合うが行き着くのは自分自身であり自身の人生を歩むしかない。 私はそういう事を感じてはいましたが長年目を伏せて生きてきました。 両親に助けられ1番絆が深いのは母です。 しかし母も67歳で病気持ちです。 1番の私の理解者の余命もそんなに長くはないことに目を向けた時、私は母が亡くなったら孤独になると感じました。 しかし最初に書きました人は自分自身の人生を歩むことしか出来ない。全ての人間、1人1人が違う心である。 その事を私自身受け入れたいのです。 今まで母に助けられすぎて自分は母とは心が繋がり、一生を共にするような錯覚がありました。 でもそれはやはり錯覚です。 50億人間がいるなら50億の心があり50億の孤独がある。 私の考えは間違っているのかどうか、皆様のアドバイスをよろしくお願いいたします。
今年の1月8日息子が亡くなり、まだ中陰の期間です。 1月5日の日に、お父さんと2人で旅行楽しんでおいでと送り出してくれて、その時に僕も考えたいことがあるから、ゆっくり考えると言っていました。 旅行最終日の早朝に息子が自分の部屋で亡くなっていると母から連絡を受け、現地からどのように帰ってきたもかも記憶にありません。 警察署の安置場に迎えに行った時には、息子の名前を呼び家に帰るよ!って思わず言ってしまいました。 いろいろ、息子の事を考え、ネットで調べると自死は、亡くなったその場から離れられず、永遠に同じ行動を繰り返していると知りました。 息子の為にも、みんなで仲良く生活をしようと思っても。息子の部屋では、目に見えない、感じられないけど、息子が苦しみ続けているのかと思うと、胸が詰まり、なかなか前向きになれません。 遺書には、学業や私と実母の確執の間に挟まれ思い悩むことがあり、これ以上生きていくのは難しいと考え、自分の意思で死にますと書いてありました。先の約束もいっぱいしていたのに、何で?という気持ちでいっぱいです。 毎日毎日、霊前でお経を読み、御逮夜には、それぞれの本地のご本尊がある御寺をお参りして何とか暖かい世界に向かってくれるように拝んでいます。 人として生まれ、やってはいけない事をしてしまった息子が苦しんでいないか?もし苦しんでいるなら、私には今何をしてやれるのかを教えて頂きたくて投稿いたします。