お世話になります。 4月6日に父が亡くなりました。4年のガン闘病生活を親子で頑張って前向きに過ごしてきました。末期だったにもかかわらず、辛い言葉は一言も言いませんでした。入院中もほとんど毎日病院へ行って色々話したりしました。 ただ、最後の日だけ、痛みを口にしながらも私や孫の心配や励ましの言葉を残して、苦しい姿を見せることなく逝きました。病室に着いて見た父の姿は、吐血の後がありましたが本当に穏やかな顔でした。 私はひとりっ子なので、私が困らないように、すべて亡くなった後のこと(葬儀やお金、連絡先など)をきちんとわかるようにしていってくれました。 父は離婚していて、本当に私は何でも話せる大好きな父でした。また来世でも父になって欲しいくらいです。 葬儀も言われた通りに、主人と相談しながら無事に終わりました。家族葬だったのでゆっくりお別れができました。 が、最後の日にありがとうが言えなかった事、穏やかな顔でしたが吐血のあとがあったので苦しかったんだろうと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになります。 毎日、お線香をあげて手を合わせ感謝の言葉や日頃の出来事を心の中で父に伝えています。父に対して供養になっていますか?生前、お互いにありがとうの言葉を当たり前のように伝えて来たのに、最後の日は言えなかった事が本当に悔やまれます。お恥ずかしいですが、まだまだ涙が出てしまい寂しいです。 でも、ひとつひとつ一生懸命に生きなさいと父に言われたので頑張って毎日を過ごしています。いつか時が解決してくれるまで心の寂しさに涙してもいいものでしょうか?
最近、勉強や遊び、本を読んでる時など、「いつか死ぬのに生きる意味はなんだろう」と思う事があります。 頑張って何か功績を残せば、それが後世の人々に影響を与えるから意味がある、という考え方も出来るのですが、数億年後?には地球も無くなってしまうそうで、だとしたら私たちが生まれてきて勉強したり仕事したり遊んだりする意味って一体なんだろうと思ってしまいます。 意味なんかなくても良いのかもしれませんが、どうにも虚無感があり不快です… お坊さんは、虚しくなった時どうされますか?
自分は3月で死にます。 私の母は「自殺なんてしたらあの世でもっと苦しい思いをすることになる。だから自分は絶対に自殺しない。」と前に言っていました。 私は鬱病と診断されているのですが、鬱で死ぬのは自殺ですか?病死ですか? 自殺は死んだ後、どうなるのでしょうか。 寿命を全うされた方とは異なるのでしょうか。 病死と考えるなら、寿命を全うしたとなるのでしょうか。
はじめまして。 2〜3年前からテレビで芸能人が亡くなるニュースを観て、死についてふと寝る前とかに考えてしまう様になり、とても怖くなりました。 心臓が止まってしまったらどうなってしまうのか、火葬されたあとどうなってしまうのか、死ぬのがとても怖いです。 これから先も死のことをふと考えてしまう時があって怖くなってしまうと思います。 考えたりしないようにする方法などあったら教えていただきたいです。 よろしくお願いします。
私くしは、まだ自分が ヨチヨチ歩きの時に 誰かと 会話をしていた 記憶が なんでか ありました。 度々 今考えると 助け船を出してくれていた事も ありました。それを 踏まえてお話し致しますが ある日突然 私くしに 聞こえるというか 私くしの口を借りて話す存在に気付きました。 その存在は お地蔵様だと 伝わって参ります。 この世を救いたいんだと 強く伝わって参ります。 でも、その存在には 身体がございません。 私くしと 共に 生まれ生きているように 感じます。 その方が突然 私に お坊様になりなさいと 伝えて参りました。 私くしは その気持ちを無視して 生きていいのでしょうか? 私くしの話がおかしいと思うと思うので お答え願うもよし 願わないも よし 欲世で は行というのは 成り立たない気がします。 行というのは 仏様に 関わる事で 行というのではと 思うからです。
彼氏が事故で突然死にました。 世間的には許されない恋愛を何年もしていましたが、全ての解決の見込みがたちました。 しかし結婚の予定がたった矢先彼は 突然事故死しました。 事故後数日間の記憶はなく お通夜、告別式も終わっていました。 涙に明け暮れる毎日で 何日も寝込み点滴で生きる日を過ごし、今日に至っています。 本当に優しく、私を気にかけてくれる彼でした。 私もいつも甘え、頼りにして過ごしていました。 彼の居ない人生なんて考えられませんが どれだけ待っても帰ってきてくれません。 それでも死んだなんて信じられません。 彼の魂は傍にいるのか、私を必ず守ると約束したのを忘れずに見守って居てくれるのか、いつかは会いにきてくれるのか お墓を知らないので行くことも出来ず写真に毎日話しかけては泣いてる日々です。 宗教には詳しくありませんが、彼の実家のお墓が曹洞宗なのは知っています。 世間的には良くない恋愛でしたが私達は本気でした。 あと少しで幸せに手が届くところで居なくなってしまった彼。 今はどうしているのでしょうか。 傍にいるのでしょうか。 話しかけてるのは通じてるのでしょうか。 いつかはまた会えるのでしょうか。 今は幸せに過ごしているのでしょうか。 良くない恋愛だったので地獄へ行ってしまったのでしょうか。 曹洞宗はあの世を認めないような文章も読みましたが、本当に考えるだけ無駄なのでしょうか。 精神的ショックで薬を手離せない私は立ち直れない日々です。 藁にもすがる思いで書かせて頂きました。
私の元妻は交際中の男性の最寄り駅の建物から娘と共に飛び降りこの世を去りました。幸い娘のほうは奇跡的に助かり、今も病院で治療を頑張っています。 私は離婚してからも、元嫁、娘と同居の関係にありました。 元嫁と娘は一旦は交際相手と同居をしていましたが、娘と男性 との間がうまくいかず、結局私のもとに戻ってきていました。 その為週末、休みだけ元嫁はその交際相手のもとに行く生活を続けていました。 私としては気持ちいいものではありませんでしたが、娘のことを考えると 元嫁を追い出せず、我慢をしていました。 そんな生活が数か月続き、時期は把握されてしまうので伏せますが、 ある晩に娘と元嫁はビルの屋上から飛び降りてしまいました。 当日特に変わった様子もなく、死ぬ数時間前、私のご飯を心配して連絡をくれていました。特に肉親、私等に遺書なく、交際相手にだけ別れのメッセージを送っていたそうです。当日は何の前触れもなく、突然、これは警察の方から教えてもらいました。 ネットなど色々調べていると、自殺した人の霊と波長があうと連れていかれるとありました。また自殺した魂はその場に残り同じことを繰り返すということが書いてあり、お花をもって現場に行ったほうが成仏できると書いてあるサイトを見ました。娘がまだ治療中であることもあり下手にそんな場所に行き、悪い者が取り憑いたり、自殺した元嫁が娘を取り返しにこないかとか色々不安があります。 自分で納得するために現場に訪問したいと考えていますが、上記の不安があり、簡単に訪れることができないでいます。 ただ元夫として妻が亡くなった場所がどんなところなのか?その場にとどまっていないか、苦しんでいないか等、考えてしまいます。また自殺した隣のビルは以前に事故物件となっているようでした。近隣の防犯カメラには当日もまずはそっちのビルに上ったそうですが、鍵がかかっており屋上には出られなくなっていて、飛び降りたビルに向かっていったそうです。その霊と波長が合って飛び降りてしまったのでしょうか? 自殺した人はその場にとどまるというのは本当なのでしょうか?また私は現場に 行かないほうがいいのでしょうか?49日等はしっかりと行っています。
私はもう20年近い年月、10代前半の頃から将来に生老病死の不安を強く強く感じるために死にたい、楽に死なせて欲しいと明確な訴えをいろんな方にしてきました。 日本では法律上許されないことなので訴えを聞いてもらえないのは仕方ないとは思うのですが、何か道徳的のように聞こえる詭弁でもって私の「楽に死にたい」という訴えについて真剣に取り合ってもらえることはありませんでした。 私が最終的に今も「生きる」という選択をし続けているのは私ではあるのですが、世の中が、相談した教師や心理カウンセラー、医師などの専門家も含む方々が私が「生きるという選択」しかできないように誘導して強制してきたから「生きる」しかない状態に置かれているのだと感じて止みません。 死なせてもらえていれば少なくとも今、人間として生きているせいで感じる段階の苦しみは取り除かれていたはずです(死後の苦しみは今回は別問題として置かせてください)。 私に生きる選択を半ば強制した連中は私が苦しんでしまっている責任をとってくれているとは思えません。これは理不尽極まりないものです。 本当はどこかで折り合いをつけて、解決不可能な問題は程々にして、今を生きることが大切なことはわかっていますが、私の体、空気、水、食糧を含む私を生かすありとあらゆる全てのものが、無責任であると感じることの怒りはどうしようもありません。 どのようにすればよろしいでしょうか?お忙しいとは思いますが、答えていただけますと幸いです。
母が自殺してしまいました。母のいない寂しさと、助けられなかった罪悪感で胸が苦しいです。母の魂がこれ以上苦しまないよう、私にできることがあれば教えてください。 母は、幼少期から苦労したと聞いています。病で妊娠が難しいかもしれないと医者に言われながらも、私と妹、弟が生まれ一生懸命育ててくれました。父は長期出張が多く、経済的にも厳しい中、母1人で3人を育てるのは大変だったと思います。看護師として働き、多くの患者さんを助けるお手伝いをしていることを、娘としても誇らしく思っていました。いつも気丈に振る舞いながらも、時々精神的に落ち込む姿も見ており、お互いに励まし合いながら生きてきました。 長年かけて父と離婚し、妹と私が結婚し、母も再婚しました。弟も社会人となり、孫も3人産まれ、今度こそ幸せになれると信じていたと思います。 再婚相手から、暴力や暴言がありツライ思いをしていると、何度か相談されていました。話しを聞いたり解決案を提示したり、自分なりにできることをしたつもりでしたが間違いでした。母がずっと1人で耐え続けていることも知らず、我慢させてしまっていたのです。 亡くなる前日と当日にも連絡をもらっていたのに、LINEでのやりとりだけで済ませてしまいました。なんて酷いことをしてしまったのだと、後悔しかありません。 私も妹も母の家から近く、毎週頻繁に会っていました。なのに何故その日は行かなかったのか、母に1人で寂しい思いをさせてしまったのか...母に申し訳なく、不甲斐ない娘で情け無いです。 母に甘えていた自分に気づかされ、母のいない現実にただただ絶望感を感じています。母を幸せにしてあげたかったのに、ひどいことをしてしまった。この罰はきちんと受けるつもりです。 悲しみすぎると成仏できなくなってしまうと言われます。母のためにも前を向かなくちゃいけないのは分かっているのに、涙が溢れて止まらない自分の弱さにも嫌になります。 母の骨は、母自身の父母が眠るお墓に入れることにしました。お仏壇は私の家に置き、きちんと供養します。母の魂が安らかに眠れるよう、私にできることがありましたら、教えていただけると幸いです。
主人が急死して一か月経ちました。世の中には、同じような方が沢山いて、毎日つらい思いをしている方がいて、自分も生きていかなくてはいけないとおもうのですが、更につらくなってきました…早く側に連れていってください…とお祈りする毎日です…
今日は13才で突然の心不全で旅立った、愛猫の49日です。 一人暮らしの私にとって、こどものような存在でした。いまだに猫のことを思っては、涙がでます。突然の別れをどう、理解すればいいでしょうか。 実は昨年末に、猫に早期の悪性腫瘍が見つかり、手術をして、順調に回復していた矢先のことでした。 私自身ががんを経験していて、「手術したら長生きできるよ!」と病院嫌いの猫に言い聞かせて、手術しただけに、なぜ…という思いが消えません。 ただ、最後の診察では、主治医に術後の傷を触られても嫌がらず、苦手なことを克服して旅立ったのかなぁという気もしています。
先日、飼っているインコの具合が悪くなり病院に行きました。 症状が死亡率の高い癌の症状と似ていて、この子が死んでしまったらどうしよう、と病院につくまで不安で不安でたまりませんでした。 結果的に癌ではなくちょっとした体調不良なだけで、命に別状はありませんでした。 しかし、一人暮らしで頼れる人もいない状況で大切な家族のインコになにかあったら、仕事はどうするか、どこまで手を尽くせるか、色々な問題があることに気が付きました。 それから毎日、元気にごはんを食べるインコを見てほっとしています。 常に心の片隅に「明日突然死んでしまうのでは?」「朝起きたら動かなくなっているかも」「仕事に行っている間に何かあったらどうしよう」と考えるようになってしまいました。 まだまだインコも寿命には程遠く、今日もとても元気でした。からなず生き物は死んでしまうし、私より早く亡くなるのだから覚悟は必要です。でも今から死ぬことばかり考えたら、一生懸命生きてるインコにも失礼ですし、ここ最近私が参ってしまっています。 もともと神経質で心配症な私は、今回の出来事をきっかけに祖父母のことや両親のことも同じように考えてしまい不安に押しつぶされそうです。 このままではいけない、となんとか意識を変えようと昔から試みていますが、漠然とした死の不安や、それに伴う環境の変化を予測してしまい心がついていけません。 こんな心配や不安でいっぱいの毎日が楽しいわけなく、本当にしんどいのです。 死は必ずくるもの、乗り越えなくてはいけないものとわかってはいるつもりです。 その日が来るまで楽しく過ごしたいのに、毎日毎日例えようのない不安ばかり湧いてきて、病気になってしまいそうです。 これを乗り越えるには、心配症を治すには、どんなきっかけが必要なのでしょうか?何をしたら、どのように考えることができたら、この辛い日々を脱せるのでしょうか。 先に天国に行ってもらい、いつか私が行くまで待っててもらおう、そう考えてもなかなかうまくいきません。 死に対する予測的な恐怖と不安を消化できるようなお話や思想がありましたら、教えて欲しいです。
以前、法座で冥福の冥は、暗闇の世界だから適切ではないと伺っております。テレビを見ていると泣くなった人に対して、アナウンサーは必ずと言って良いほど「ご冥福をお祈りします」と言っています。その度に違和感を感じてしまいます。 身内を亡くしているので、余計に感じます。 もちろん、言っている人は悪気はないのは承知していますし、間違っていると言う訳でもないのかなと。しかし私は、「お悔やみ申し上げます」を心がけています。 ずっと気掛かりだったので教えて下さい。
私の相談をお読み頂きありがとうございます。 前回、仏壇の参り方もご教授頂き本当にありがとうございます。 その後も変わらず、お世話?お参り?させて頂いていると思っております。 今は色々簡素化されて来ており、私の周りにも、「自分が亡き後は我が子の負担になりたくないから法事等も不要だ」と申す者もおりますが、私自身は代々引き継いでもらえればと思う部分もあります。きっとご先祖様はそんな姿を見て下さっていると信じております。 またまた無知な私の質問ではありますが、仏様とご先祖様の関係性が分からなくなってきました。ご先祖様は仏様とは違うのでしょうか? 先ほども仏壇のお世話は私自身は代々引き継いで欲しいとお申しましたが、純粋なお供養の気持ちだけかと言われれば、正直なところ、お恥ずかしい限りですが見返りを求めている部分があるのかもしれません。私は適齢期を過ぎてもまだ独身であります。私がこのまま独り身で亡き後、甥なり姪なりが、どこかで私を思い出してくれれば…だから今は私のやっていることを見て、「あー、叔母さんあんなことしていたなぁ」と頭の隅にでも置いてもらいたいと思っていたします。 そして… 仏様は私たちの願いを叶えて下さるわけではなく(冷酷とかそのような意味ではないです。)温かいお心で私たちを見守って下さっているのだと今現在私は考えております。では、ご先祖様は? ご先祖様も私たちの傍で見守って下さる存在なのだとは思いますが… 悲劇のヒロインを演じたいわけではありませんし、もっともっと大変な方々がいらっしゃる事も承知ですし、こんなこと序の口だとは思いますが、家庭内で上手く行っていないことが長きに渡ったり、ずっと頑張っている婚活が全戦惨敗中で、自分の力不足を棚に上げて気持ちのはけ口をご先祖様に向けているだけなのかもしれません。 ご先祖様はご先祖様のお役目だったり修業があるのだとは思いますが、私たち子孫が温厚な日々を送れる手助けなり道しるべなりを頂戴したいと思うことは私のエゴであり愚かな事なのでしょうか? もちろん、日々私たちがこうしていられるのはご先祖様あってのことですし、軽んじているわけではなく、感謝はしており、だからこそ毎日仏壇のお世話も続けられています。
父が亡くなり来週で49日になりますが、お坊さんの都合で、今日49日の法要がお寺で行われました。 墓は未定のため、三回忌くらいまで家にお骨を置いておくつもりでしたが、曹洞宗のお坊さんに、家にお骨をもって帰ると故人が亡くなってから修行したのがもとに戻って無駄になるから、もって帰らないで寺に置いておいた方がいいと勧められ置いてきたと母に言われました。 そのようなことはあるのでしょうか? 将来、そのお寺に埋葬するとか、そのようなことは何も決めていない状況です。母は檀家と信徒の区別もわからず、父の葬式に際し檀家になったとかで、契約書もありません。某県の田舎のお寺です。
もうすぐ母の四十九日を迎えます。 仏教では亡くなってから四十九日まではこの世に魂が居て、四十九日を過ぎると魂はあの世(浄土?)へ行くと聞いた事があります。 四十九日までは母の魂がまだ家にいると思い、遺影に話しかけたり母が好きな食べ物や飲み物(コーヒー等)を毎日供えています。しかし四十九日を過ぎ母の魂があの世へ行ってしまうのであれば、今までのように話しかけたりお供えしても母に伝わるものでしょうか? 四十九日で母が近くからいなくなるのかなぁと考えると寂しい気分にもなります。
朝早くすみません。おはようございます。 あのぉー、こういうことをいうのはどうだろうと思ったのですが。 言っていいですか? もし、自分が死んだら無煙仏を選んだら駄目なのでしょうか? 親不孝ですか?
友人と話している際に仏教の話になりました。 仏教ではこの世は苦しみであり私たちは輪廻の中にいる。と以前聞きました。 hasunohaで教えて頂いた事や今までの自分の経験から考えたのですが、 輪廻から抜け出した時に本当の世界が見えるのか。 この世が苦しみの世界ならば、苦しみを減らす生き方が楽なのではないか。という答えにたどり着きました。 それを友人に伝えたところ、その考え方は「諦め」だと言われました。 今ある世界が本当の世界! 死んだら無になる、輪廻などない! そんな事をしたら生きている意味がなくなる! この世は地獄なんだよ! 苦しみを減らす生き方は諦めである! と言われたのですが、 私の考え方は諦めなのでしょうか?? 生きていたら、(自分から見てですが) 良いことも悪いことも同じだけあって、 良いことには感謝すれば良いし、 悪いことには苦しみがあって、 それをどう受け取るかで世界は変わると思うのです。 そうやって肉体と精神で苦しみを減らして行くのは諦めや逃げですか?? ご助言いただけましたら幸いです。
先日、まだ幼かった愛犬を、不慮の事故で亡くしてしまいました。 事情が複雑だったため、ここhasunohaで質問させていただき、有難いお言葉を頂戴しました。 私にとりあえず今すぐできることは祈ることだと思い、 昨日からさっそく近所のお寺にお参りしに行き始めました。 なんとか愛犬が幸せになるよう、通いたいと思っています。…ですが、 私のお家は浄土真宗らしく、調べてみると ペットは畜生なので浄土へ往生できないとのこと。 近所のお寺も浄土真宗でした。 信じる気持ちはありましたが、祈る立場と場所、方法が悪かったのでしょうか。 それとも信じる気持ちが大切なのでしょうか。 勉強不足で申し訳有りませんが、分かることを教えてくださると有難く思います。 よろしくお願いいたします。 最後に補足になりますが、 自分の願いは、愛犬がなんの憂いもなくいてくれることです。 そのためになにをするべきかも併せて教えていただけると有難く思います。 よろしくお願いいたします。
私は昨年、自分でも思ってもいなかった過ちをしてしまいました。 なぜあの時あんな事をしてしまったのかと後悔し、自分はなんて最低な人間なんだと気付かされました。 これから先、二度と同じ過ちはしないと誓い猛省しております。 ただ、どうしても過去の自分を許す事が出来ません。 この過去の出来事は私の人生において必要な事だったのでしょうか? また、過去の自分を受け入れ、過去に囚われず今をこれからを大事にし、前に進んでいける方法はありますか? 随分と勝手な質問をしているのは重々承知ですがどうかお答え頂けたらと思います。 よろしくお願いします。