ずーっと、ずーっと、お坊さんに聞いてみたかったのですが、内容が内容なだけに反応を目の前で見るのが怖くて聞けずにいるんです。 質問は、【生身で(現実の毎日)感じる“地獄”と、自ら命を絶ったら堕ちるとされる“地獄”】どちらが辛いのでしょう? 以前、自分がどうしようもなくドン底で辛かったとき、こんなことを考えていました。今でも時々考えてみますが【辛い】と感じる“心”があるかぎりは現実の方がよりシンドク感じます。 では、【辛さ】を感じないように心を閉ざし、感覚を断ち毎日を過ごそうとすると【死んだように生きるのは死んでいるのと同じ】という考えになってしまって、【じゃあ、もぅ、(死んでも)いいよね。】となってしまいます。 亡くなった後の世界、“地獄”は本や文献、掛軸などで知るのみで信仰が違えばまた各々違った世界なのでしょうか? 実際に在るのかも今、現世に居る以上はわかり得ないですし、、。 お坊様でしたら、こんな質問を投げ掛けられたらどのように応えられますか?
前回質問を立て 素敵なご回答をいただきました。(誤字が 多い質問に…💦ありがたいことです…) 人と出会ってその人との繋がりによって人間が 変わる程変わってしまうことってあるのでしょうか? 素敵な人からいい影響があれば私も学びたいと 思うのですが… ….と、いうのは、元々ひどい人見知りがあっていつも おどおどして、自信がなくて… 散々だった前の会社の影響大きく更に人に対して強い恐怖感をいだいてしまい… 人に話せばどうして?と、思われる位人が怖かったです。でも、最近理由がわかったような気がして、 私は、人に自分の頭が悪い事が知られるのがこわくって!だから人の目ばかり気にして… それでも最近は 頭の悪さを恥ずかし気もなくカミングアウトしていたのだろうか?(毎日時間の過ぎるのが早すぎて覚えていません💦)人に対する恐怖感が 少し減ってきた気がします。 仕事柄 人前で話したり、コミュニケーションが必要不可欠なので良かったです。やっぱり身勝手な願いなのでしょうか? もう少し付き合いを深めてみたいと思ってしまって やっぱり私という人間を知られると、けっこう離れて行く人多かったから だから人として深さをつけたいな、と。ハスノハ読むのは とても良いアイディアだと思います。プラス 人と出会って繋がって学ぶのはさらにいい気がして…でも!悪い出会いの罠にはまるのは嫌です。裏切りやだまし、たくさんあるし、もっとひどいのもあるそうだし…私はいい人間とたくさんであってきた、という人が羨ましいですがそういう人は その人が素敵な人だからですね。 あともうひとつ、素敵な関係とは どの様な関係だと 思われますか? もちろん誰かに依存したいとかではないのですが、人との良い関係は 生きて行く上で大事ですよね? すみません😣💦⤵️このような質問をあげてしまいました。
心のままに打っているので失礼な文がございましたら申し訳ありません。 つい先程、私は父親を殺してしまうところでした。 と言っても現実には何もしていません。 朝から小さな事で叱られ、カッとしてしまいました。 父親に化粧道具を投げつけ、台所から包丁を取り出し何度も切りつける想像を何度も何度もしました。 でもその台所には父の朝食を作る母がいました。 いつも母を思うと何もできません。 寂しさと惨めな思いしかしない人生を終わらせたいと何度も思いました。 短気で傲慢な父親や職場の同僚を殺したいと何度も思いました。 でも何十年も短気で傲慢な父親や祖父母の介護に耐えて今の幸せな家庭を築いた母を思うと何もできないまま吐き出せないまま立ち尽くしてしまいます。 母を気にすることができる内はまだ余裕があるのかもしれません。 でもきっと母がいなかったら私は自殺しているか父親を殺していたと思います。 このままずっと苦しみや寂しさを味わいながら何の喜びも味わわないまま生きていかなければならないと思うとこの先の人生が苦痛でしかありません。 今は何も喜びと感じられないのです。 常に寂しさや苦しみが先行してしまうのです。 生きている内は修行だけですか? 死んだ先にだけ幸せ、極楽浄土があるのですか? ほんのすこしのしあわせもないのでしょうか? ほんのすこしでいいんです。
自分は3月で死にます。 私の母は「自殺なんてしたらあの世でもっと苦しい思いをすることになる。だから自分は絶対に自殺しない。」と前に言っていました。 私は鬱病と診断されているのですが、鬱で死ぬのは自殺ですか?病死ですか? 自殺は死んだ後、どうなるのでしょうか。 寿命を全うされた方とは異なるのでしょうか。 病死と考えるなら、寿命を全うしたとなるのでしょうか。
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?
私はポジティブな性格でいつ死んでも悔いのない生き方をしてきたつもりでした。母が亡くなった後も、とてつもない大きな悲しみを感じながらも、母はきっと今頃は亡くなった祖父母たちと天国で幸せに暮らしているに違いない、私も死んだらそこに行くわけだから、これからは死ぬ事も怖くないと思っていました。 しかし、最近、仏教に興味を持ったので、少し勉強してみると、死んだ後にみんなが極楽浄土に行けるわけではなく、ほとんどの人はまた生まれ変わってしまうこと。それも、人間に生まれることは滅多にないということではないですか。そう考えると、もう母に会えないのかもと、また落ち込んでしまいました。 悩み相談の答えを読むと、亡くなった方たちは、他の亡くなった家族と幸せに暮らしているから心配ないなどと書かれていますが、それらは単なる気休めなのでしょうか?
今日は13才で突然の心不全で旅立った、愛猫の49日です。 一人暮らしの私にとって、こどものような存在でした。いまだに猫のことを思っては、涙がでます。突然の別れをどう、理解すればいいでしょうか。 実は昨年末に、猫に早期の悪性腫瘍が見つかり、手術をして、順調に回復していた矢先のことでした。 私自身ががんを経験していて、「手術したら長生きできるよ!」と病院嫌いの猫に言い聞かせて、手術しただけに、なぜ…という思いが消えません。 ただ、最後の診察では、主治医に術後の傷を触られても嫌がらず、苦手なことを克服して旅立ったのかなぁという気もしています。
回転寿司が大好きで週に一度は食べに行っています。 そこで、hasunohaの左上のロゴの類似であるホッキ貝より、味は赤にし貝、歯ごたえはつぶ貝が好きだなと気づきました。 気付いたんですが、ホッキ貝も食べますし、赤にし貝やつぶ貝のみ食べるという事をしませんでした。 そして回転するベルトコンベアを見て、自分の輪廻からの解脱は本当に難しいなと感じました。 今回の『輪廻』の定義は死んだ後の話ではなく、 『執着する限り何度でも苦が繰り返される、因果応報としての輪廻』です。 (本を見たりネットで調べたり人に聞いたりしたわけではなく、毎日自問自答しているうちに『生きているうちにも輪廻している』と気づきましたので、これは仏教やブッディズムでいう輪廻ではない、というご意見もあろうかと思いますが、その場合は正しい言葉を教えていただければ有り難いです) 気付いてもなかなかやめられない、そして心に余裕がなくなったら外的要因のせいにしている自分の心がいます。 ダンマパダや七仏通誡偈の中に、 諸悪莫作(サッバパーパッサアカラナン) 衆善奉行(クサラッサウパサンパダー) 自浄其意(サチッタパリヨーダパナン) 是諸仏教(エータンブッダーナサーサナン) がありますが、白楽天に言った道林禅師の『3歳の子供でも分かるが80歳の老人にもできない』という偈に自分の経験を当てはめて痛感しております。 僧侶の皆様は忘れてしまったらしょうがないのですが、忘れてしまいそうなときはどのようにして忘れないようにしていますか。 (忘れてしまいそうなときは忘れていないから、忘れることはない、という答えもあるでしょうが) 苦の輪廻を寿司で例えると味にアクセントを与えるワサビ(たまに多くつけすぎたり少なくつけたりして苦しむがちょうどよい辛さを探している)だと、勘違いしている自分がいるのかな? と迷ってしまっています。 いや、違う。ただ何も考えてないだけですね。
私の両親は50代で病気もなく健康体です。ですが、私自身「もし両親が急に死んでしまったらどうしよう」というどうしようもない不安を常に抱えて生きています。 先日家族旅行に行き、帰りの空港でもこの旅行が家族での最後の旅行になったらどうしようと考え、1人でこっそり泣きました。また、この空港でのエピソードを友人に面白おかしく話そうとしたところ、その時の感情を思い出して再び泣いてしまいました。 私自身、予想もできない未来に不安を抱いて生きるより、今一緒に過ごせている時間を楽しく過ごした方がいいことは十分理解しています。むしろ私自身もそうやって過ごしたいのですが、楽しい時間を過ごしている時ほど、終わりを考えてしまいます。 私自身、身近な人を失った経験が現時点でない為、人一倍死への恐怖が大きいように感じます。家族との別れを想像しても、乗り越えられる気が全くしていません。小学生の時から20になる今までずっとこの考えで生きてきたので、根本から変えるということは難しいのかもしれませんが、少しでも楽に家族といまこの時間を過ごせるような考え方はないでしょうか、、 お坊さん自身が、ご家族との別れについてどのように考えているかだけでも教えていただけたら幸いです。
薬の副作用で死にかけて入院しました。 死ぬことに恐怖を感じました。 それから死ぬのが恐ろしくなりました。 今まで鬱を患ったせいか、死に対してあまり恐怖を感じたことが無かったのですが、今は怖いです。 これは普通の感情ですか?
こんばんは。 このサイトを拝見して少し自分について考え直すことが出来た様に感じます。 私は今を精一杯生きて、自分が苦しいときや、迷ったりした時は仏様に救いを求めようと考えています。 しかし、私は死んでしまう時のことを考えて恐ろしくなってしまいました。仏様の教えには諸行無常と言う物があり、全ては無に帰ると聞いたことがあるので、死んでしまった後のことは余り考えない様にしています。 ですが、死んでしまうその時が恐ろしくなってしまいます。勿論誰だって痛かったり苦しいのは嫌だと思います。 しかも私は、何も無い人間なので、孤独死だったり、重い病気にかかってしまったりするかも知れません。 死に対する向き合い方を教えて頂くことが出来たら幸いです。 新型コロナウイルスが流行し、自粛を続ける生活の中で、考え込んでしまう時が増えた様に感じます。毎日ニュースも暗いものばかりで、何も手につかず、ずっとぼんやりしてしまいます。早く元の生活に戻れることを願っております。皆さんお体に気をつけてください。 ご回答いただければ幸いです。
はじめまして。 わたしはタイトル通り死や病気に対しての恐怖心がとても強いです。 そのことについてお坊さん方のお考えをお聞かせいただきたく投稿いたしました。 わたしは様々な体調に関する不調があるとすぐにネットで調べて不安になり、病院にかけこみます。 医師から様子を見ていいと言われても『もっときちんと調べてもらった方が良かったのかもしれない』とまた別の病院を受診することもたびたびあります。 家族は『本当に心配性』『そんなに気にしてどうするの』『なったらなったで受け入れるしかない』と言いますし、私も頭ではその通りだと理解はしています。 しかし、病気になって、しかも余命宣告を受けるようなものだったらどうなってしまうのだろう。 自分がそうなったらその状況に耐えられるはずがない。 死んだらまだ幼い子ども達はどうなるのだろう。 そう思うと、病気が怖くて仕方がありません。 実際に婦人科系の疾患で経過を診ていたり、別のことで手術も経験しました。 さらには悪性を疑っての生検をしたこともあります。 子供がいるのに、そのたびにネットで調べ、この病気だったらどうしようと最悪の事態を考え、まだ病気と言われてもいないのに暗い表情で最低限の家事しかせずに落ち込んでしまいます。 主人にも、そういう性格だから仕方がないと思っているけど、子どもに対しては無理をしてでも明るく接して欲しい言われています。 病院受診が続いても主人は何も言わずにいてくれますが、私自身この考え方を変えたいと思い今まで本を読んだりいろいろな方法を試しました。 いまを生きる。 先のことを思い悩まず、目の前の一瞬にかける。 現にいまこの時も私なんかよりもっと若くもっと幼くして病と闘っている人もいるのだろうと思うと自分の心の弱さが情けなくなります。 頭ではわかっているんです。 でもすぐに不安感情がその上に覆い被さるように乗っかってきてしまいます。 この先も自分だけでなく、子ども達も体調を崩したりするたびに毎回こうなるかと思うとこの考えを断ち切りたいのです。 何に対しても、私は理屈っぽいと思います。どうしてそう思うの?その根拠は?とつなげてしまうところも災いしていると思うのですが。 そんな私が、少しでもどん!と腰を据えて何があろうと例え重病になろうが運命だったと受け止められるようになるアドバイスがありましたらよろしくお願いいたします。
僕は模型を作るのが好きで、その中の一つで戦車の模型を作ることが好きです しかし最近、戦車の模型を買うたびになにかと不吉なことが起きたりしました 一つは、戦車の模型を買った翌日に北朝鮮がミサイル発射の予兆を出したこと 二つは買ったその日のバイトで何もしていないのに神経質なお客様からクレームを食らったこと 三つはごく最近なんですが買った翌日に大阪北部地震が起きたこと こう言ったことが戦車や戦闘機など、戦争に関係する模型を買うたびに起きているようで、とても怖いです 僕は、戦時中の戦車兵や戦没者に祟られ、災いや不吉な出来事が起きる呪いに、かかってしまったのでしょうか・・・ お坊さん、お力をお貸しください! お願いします!
主人が急死して一か月経ちました。世の中には、同じような方が沢山いて、毎日つらい思いをしている方がいて、自分も生きていかなくてはいけないとおもうのですが、更につらくなってきました…早く側に連れていってください…とお祈りする毎日です…
最近思ったことがあります 前に質問した時に地獄はあるかというした時に 精神状態で決まるて聞いた時思ったことがあります 病んでる人は地獄に行ってしまうんではないか と思った時もありました それはどうなんでしょ? ケアすると大丈夫なのでしょうか?
はすのはに出会えたことは奇跡です。今日は77のぼんさんと私の軌跡を噛みしめます。感動、感謝。
こんにちは、日々の供養について相談させてください。 ここ数年のうちに相次いで両親を亡くしました。子供は私しかおらず私にも子供がいないため、将来を考えて両親とも永代供養です。 永代供養にともない仏壇は処分し、あとに亡くなった父の一周忌には父母の魂の入った位牌を閉眼供養しお焚き上げをしていただきました。(これも将来を考えて決めました) ここからが相談なのですが、魂の入った位牌がない今、日々の供養をどうしたらよいかということです。 今現在仏壇がないので、両親の写真にお線香とお茶を供えています。お線香は亡くなった人の食事と聞いたことがあるのですが、これからもお線香を炊いたほうが良いのでしょうか? 狭い賃貸のリビングにお線香立てとお鈴とろうそく立てが並んでいる眺めはなかなかシュールでずっと違和感を持ちながら今日まできました。 位牌ももうないのでいっそのことお線香をやめて、写真とお花を飾ることで日々の供養になったらよいなという思いがあります。 父も母も花や植木が好きでしたので華やかだと喜ぶかなという純粋な気持ちと、お線香立てを仕舞うことでリビングにも馴染みやすくなるし煙で喉がイガイガせずに済むなという不純な気持ちと、両方が入り混じってはいるのですが……。 (お線香は煙が少ないものにしていますがそれでも煙くて寒い日でも燃え終わるまで換気が必要です) お線香をやめるという考えは間違っているのでしょうか? どんなことでもかまいません、お言葉をいただけますと助かります。よろしくお願いします。
祈りの効果ってあると思いますか? あるとしたらそれは祈った人の力によるものか あるいはそれを見ていた神仏や霊魂のものか お聞きしたと思います。 参考 https://diamond.jp/articles/-/98488 これは病気の人に対して 患者を2つのグループに分けて、一方のグループだけに他の人から祈りを送ってもらい 祈ってもらったグループの方が病状が改善するという大学の研究結果があるという話です ネットで検索するとこの大学だけでなく 複数の大学でこんな研究結果が出たという話があります 霊能力があると詐称する霊能者が出てきてあることないことを言って人から金をまきあげる霊感商法の宣伝の類ではないようです ここで話は脱線しますが 医学や薬学の話をすると やはり患者を2つのグループに分けて、一方のグループだけに薬を投与して 薬の効果を見定める ランダム化比較試験 と言うものがあり効果があれば、 医学的なエビデンスが得られているとして日本では正式に認可され保険適用の治療が受けられます。 現実は 研究開発を始めてから いくつかの過程を通過した後 ランダム化比較試験を経て保険適用になる薬は1万分の1と言われています https://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~amod/kenkyu/rinsho.html 話を戻して 祈りの効果も このランダム化比較試験と同じ方法を取っていると思われ 科学的に効果があると証明されたと 研究した大学は主張しています このような研究結果が事実だとしたら それは 全ての人に祈りの力が僅かながらあると考えるべきなのか (例えば万有引力の法則も、天体だけでなくあらゆる物体や生命体に引力があるが微々たるものなので人はそれに気が付いていない) それとも 神仏もしくは 守護霊などの霊魂の力によるものか どう解釈すれば良いのでしょうか?
私には現在お付き合いしている方がいます。5歳年上の方です。その人はとても優しくて何よりも私の事を大切にしてくれる人です。私も彼の事が大好きで誰よりも大切な人です。叶うことならずっと一緒にいたいくらいそばを離れたくありません。 ただふと疑問に思う事があります。それは「死んだ後あの世でまた彼と会えるのか」という事です。彼と心中すれば同じタイミングであの世へ行くことが可能になるかもしれませんが、彼が先に亡くなる可能性もあれば私が先に死ぬ可能性もあります。 また、死んでしまってもまた生まれ変わる事ができると聞いた事があります。私も彼も同じ「人」として生まれ変われるなら、もしかしたらきっとまた巡り会えるかもしれませんが、必ずしも「人」として生まれ変わることは出来ないとも聞いた事があるので、もしそうなら生まれ変われる前に1度だけでもいいから大好きな彼に会いたいです。 死んでしまってもあの世で彼と再開することは叶うのでしょうか?
母が他界しました。63歳でした。 3年半闘病しました。2年間は食べる事も飲む事もできませんでした。 旅行が好きな母でした。私が社会人になってからはいろんな所へいきました。 最後の旅行の時「あなたと後何回いろんなところへ行けるかな。」とポロっと言われました。その時は「何言ってるのー?」と笑って返しましたが、その旅行が最後の旅行になりました。何故こんな事を言ったのかずっと心に突き刺さっています。 亡くなる3日前に急に体調が悪くなり、肺炎でした。施設に預けていましたが、亡くなる前日少し状態が良くなり、付き添いを止め、私も自宅に帰りましたが、夜中に1人で逝ってしまいました。 「付き添いをしてあげればよかった」「仕事で忙しいと言わずに時間を作ってもっと会いに行ってあげれば良かった」いろんな感情がぐるぐる回っています。3年半も頑張ってくれて、もう辛くないんだから前を向かなきゃと思いますが、どれだけ泣いてもふっと気を抜くと涙が止まりません。 そばにいて貰いたくて、分骨したいと思い骨壷ペンダントを買いましたが、家族に言えずにしまっています。 分骨も悪い事ではないとインターネットで見ましたが、やはり身内にお願いできません。また遺骨を砕く勇気も私がありません。身体が鉛のようで何もできないです。 このままじゃ母が心配しそうです。