4年ぶりに故郷へ日帰りでしが久しぶりに両親と会い、お墓参りに行ってきました。 両親も高齢になりましたが数年前より電話で毎日「何を食べたの?」と親子の話をしているので久しぶり感がないよう感じましたが、二人とも元気そうで良かったと思います。 お墓参りに行き父方、母方のご先祖さまの墓石は隣同士、枯れ葉や草が生い茂り熊手や箒もなく手で雑草を抜き取るだけ、祖父母に近況と御礼をしましたが、祖父母は久しぶりに墓参りに来てくれたが草を抜き取って枯れ葉も掃除しないで帰ったと思ってるのかな、、 子供の頃に遊んだ通りや街、眺めながら両親と一緒にラーメンを食べ買い物に行ったり笑ったり、帰る時に両親が段々と小さくなっていってることを感じましたが誰にでも年齢を重ねると通る道、これはご先祖さまが脈々と繰り返して来て今の僕がいること、感謝の気持ちです。それが生きる意味の一つなのかも知れませんね。 ふと、感じています。
私の職場は女性が多いのですが、オープニングスタッフということもあり年齢関係なく、皆仲良くていい人たちばかりだと思っていました。 しかし最近になって、やはり「結局女の世界だなぁ」というか、一見仲よさそうに笑顔で話しているのに、他ではその人の悪口を言っているのを聞いてしまったり、というような事が増えてきて、私は揉め事やトラブルに巻き込まれたくないと思っているのですが「私もきっと何か言われてるんだろうな…」と思い始めてしまい、前より仕事へ行くのが嫌になってきています。家に帰ってきてからも色々思い出しては、勝手に不安になったりもします。 どんな職場でもそういう事はあるとは思いますが、人からどう思われてるか気にしないでいられるにはどうしたらいいでしょうか?
どうぞ宜しくお願い致します。 浄土宗のお経?の中の言葉で 「心転倒せず、心失念せず、心錯乱せず」 (順番間違えてたり、漢字間違えてたりしたら すみませんm(__)m) が、好きです。 何か問題があった時など 心がフラつかないように、失わないように、乱れないようにしようと思っています。 中々出来てないですが。。。 実際、この言葉の私の解釈があってるかわかりませんので、本当のところの意味を どうぞ教えて下さいませm(__)m 宜しくお願い致します。
実家の居心地が悪く、転職を機に実家を出てから10年ほどになります。今では結婚して子どもも生まれて、私は私で家庭を築いています。 思春期の頃から4人家族(父母私と弟)の中で私だけ馴染めていないような、私の本当の居場所はここではないような気持ちを抱いていました。 両親にはもちろん世話になっているし、優しく良いところもたくさんある親です。 毒親というわけでは全くないのですが、幼いころより「お前の考えてることは理解できない」と言われることも多く、私とは相性が悪いのかなとずっと思っていました。 先日、父母とちょっとしたトラブルになり、それをきっかけに実家に対する違和感が再燃しました。 家も出たのにこの年齢になってまだ幼い頃のことを思い出して苦しむなんて!という悔しさ、 今まで育ててもらった恩・今でも心配してくれて援助してくれることに対する恩、その重さと私の感謝の気持ちが全く釣り合っていないように感じる苦しみ、 こんなことを考えるなんて親不孝だという自責の気持ち、 いろんな感情が混ざって爆発しそうです。 どのような心持ちで実家と接すればよいでしょうか? また、このような気持ちを静めるために参考になるような仏教の教えをいろいろ知りたいです。 よろしくお願いいたします。
現在高3で受験生です。 ここ6年ほどずっと、生きていたくないという思いを抱えながら生きてきました。 私は中学受験がうまくいかず、父親にはよく怒鳴られ殴られ、小学校や塾の先生とも衝突ばかりで、小6の時に恐らく軽い鬱状態に陥りました。 そのまま受験に失敗したので、地元の中高一貫校に進学しました。(受験をさせてもらえた上、私立に通わせてもらうことがどれだけ有難いことかは理解していますし、親にもとても感謝しています。) しかし校風の厳しい学校で、どちらかというとマイペース、というか協調性のない私は全く馴染めず、先生方には問題児と認識されていました。 そんな調子である上に、私はそもそも学校というシステムが苦手で、教室にいるだけで精神が摩耗され、毎日がとても苦しかったです。通学に片道2時間かかることもあり、怠惰さからすぐ不登校気味になりました。人生に少しも希望を見出せませんでした。 中1の冬に初めて自殺を真剣に考え、中2で首を括りましたが、意識が飛びそうになった瞬間怖くなり、未遂に終わりました。その後も何回か出来事が引き金になっては突発的に死のうとするものの、恐怖に打ち勝てずに完遂できたことはありませんでした。一度親にバレて、カウンセリングに通ったこともありましたが、あまり意味はありませんでした。 死ぬことすら満足にできない弱い自分に死にたくなります。 私は比較的恵まれているという自覚はありますし、もっと苦しい問題を抱えている方がたくさんいるのに、この程度で死にたいと言っていることが、甘ったれとも思います。 ですが、どうしても死にたいという気持ちが消えません。私は弱い人間なので、この暗くて悲しい世の中でこれからずっと苦しみながら生きていくよりも、死ぬ方が遥かに楽だろうと思ってしまいます。 もうすぐ共通テストです。 大学に合格し、迷惑ばかりかけてきた家族を安心させたい思い、受かれば人生をやり直せるかもしれないという思いもあります。 なのにここにきてまた、気持ちが沈んでしまいろくに勉強できていません。 机に向かって泣きながら何時間も呆然としている日々です。 なんてどうしようも無い人間なんだと毎日思います。 死にたいという気持ち、苦しい気持ちを抑えて、希望を持って勉強に集中するにはどうしたら良いでしょうか。
別段大きな理由がある訳ではないのですが、生きるのが辛いです。 これまではなりたい職業や結婚して子供を持つなどの夢や目標といったものがあっため考えませんでしたが、なりたかった職業になったものの、想像していたものと違い退職。大好きな人と結婚し、子供も出来、ふと振り返ってみると、これから先なぜ生きるのかがわかなくなっている自分がいました。 今は幸せか不幸かと言われれば幸せだとも思います。 仕事は好きではありませんが、安定しており、それなりの収入もありますが、 特に他にやりたい仕事がある訳でもなく、後何十年も働かなければいけないという事実やこれから動かなくなってくなっていく身体や将来の老後の生活のことを考えると何が楽しいのかわからず絶望しかありません。 もちろん生きているからこそ楽しいこと(家族での旅行や子供の成長や小さいことで言えば、サッカー観戦や待ち焦がれている映画の公開)があるというのは解ります。ただ、それと天秤にかけてもこれから生き続ける方が辛いです。 妻や子供の事は心から愛していますし、家族のために生きるというのが目的になれば一番良いと思うのですが、そう思うことが出来ず、むしろ家族を悲しませない為に生き続けなければいけないということが、苦しいです。 苦しいので色々な本等で調べたりましたが、概ね「人生は生きる意味などなく、どう生きるか」という言葉か宗教的には「人生は修行なので苦しいもの」という、どう生きるかの目標がなく、苦しいのから生きる意味を感じないのに、そもそも苦しい物だというとても救われる答えではありませんでした。 家族が悲しむので、自殺はしないでおこうと思いますが、何か大きな病気や不足の事故などで死ねれば楽なのになと思って今日も生きています。 こんな私はおかしいのでしょうか?おかしい私に何か楽になれる言葉をください。
こんにちは。初めて相談させていただきます。 私は今年、本厄の年です。 ネットで過去に本厄を経験された方のお話を読んだところ、嫌なことがたくさん起こったとか、自分だけでなく家族にも被害が及んだなど、とても怖い内容ばかり書かれていました。 でも数年前からパートも辞め、変化のない引きこもりに近い生活を送っている私は、特に気にすることもなくこれまで過ごしてきたのですが、今年の初めに、叔母さんが倒れたから来てという緊急の電話が親の元にかかってきたことから、やはりキチンと厄払いに行っておくべきだという考えに至ったのです。 親はひどく落ち込んでいて、これは全部私が厄年だからだ…と改めて恐怖を感じました。 久しぶりに外に出て、近所の神社に向かいました。厄払いのあと、叔母さんの体調がよくなるようにと絵馬を書き、賽銭箱の前で手を合わせ、『これから頑張るのでどうか叔母さんの体調を良くしてください』と神様の前で誓いのようなものをたてました。 その後叔母さんの容態は安定し、自宅で過ごしていたのですが、数カ月前に再び緊急入院することとなってしまいました。 私はその時、『これは私が神様との約束を守らないでいつまでも引きこもっているからだ、今からでも動き出せば間に合うかも』と思い、いつ働きに出てもいいように、髪を切りに美容室と、ワクチンも打ちに行きました。 叔母さんは、いつ亡くなってもおかしくないと家族へ医者から告げられていたようでした。 親は動揺して、たまに泣いているところも見たり、常にそのことが頭を離れないようでした。 でも私はあと一歩がどうしても踏み出せませんでした。数年のブランク、そもそも人付き合いが苦手でまともに仕事も出来ない、働きに出るのが怖くて怖くて仕方なかったのです。 そして一昨日、叔母さんが亡くなったと親のところに連絡が来ました。 これは私のせいですか。約束を破ったからですか。そもそも神様の前で簡単に約束してはいけないのだということも知らずに、出来もしない誓いをたててしまったせいですか。ネットで調べたら神様がひどく怒っているのだと書かれていました。 私が頑張って動き出していたら、叔母さんは死なずに済んだかもしれないと思うと親に申し訳なくて言葉になりません。私はこれからどうしたらいいですか。
人は死んだらどうなるのでしょうか? 私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??
いつもお世話になっております、今日あるお寺さんにお参りした時に引いたおみくじ(厳密には違いますが)にあった言葉で思った事があるので質問いたします そこに書かれていたのは「足るを知る」という言葉で、自分でも何度か聞いた事はあるんですがこの言葉と自分の生活を良くしたい、豊かになりたいという考えは矛盾するのではということです。 足るを知るという事は、自分が恵まれていると感じる事でそれなら豊かになろうとする必要は無いのではと思います。これが足りないから手に入れよう、と考えるもので満足している、恵まれているならそれ以上は必要に感じる事は無いはずです。 数字で言うなら、90%を100%にしようとする事と100%を110%にする事は違うのだろうと思いますが、私にはこの違いがよくわからないのです。 世間で言う金運アップやそれに関する本やその他色々の媒体では後者を言いたいのだと考えていますが、大抵の人は前者で考えそうですし自分もそうなのではと思います。 例えば、年収を倍にしたいとか家が欲しいとかそういったことは現実としてそうなってないから望むのであって、なっていれば即ち満たされていれば望む事がない、望む理由がないのではと思います。 お腹が空いていれば何かしら食べようとしますし、空いてなければ食べる必要はないです。仏教だと欲自体は悪ではなく、どう折り合いをつけるかが大事と聞いた事があるので、欲自体を悪とは言わないのでしょうけど… 自分も含めて現状に不満がある、つまり足りてないから金運アップの行動やその他色々行動をするのであって満足していれば必要性を感じる事があるのだろうかと疑問に思いました。 自分の生活を良くするための色々な行動とこの言葉は両立しないのではと考えて質問しました。自分自身も生活の質を上げたいと思っているので、否定されたとまでは言わないですがこれまでの行動は実は矛盾しているのではと改めて疑問に思いました。 足るを知るからこそ、より良い生活を求められると言う人もいますがぱっと見でも辻褄が合わないように思えます。 より良い生活、豊かさを求める事と足るを知るは両立するのかどうかよろしければ教えていただければと思います。
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
こんにちわ突然すみません。 私が相談したいことは人生についてです。幼少期には色々と満たされない人生を送ってきました。大人になり自分の人生はある程度の自由を得られて子供の頃に叶えたかったことできずに思い悩んでいたことも簡単にできるようになりました。 最初のうちは心の奥底から喜びを得られて人生が充実しているような満足感が得られれていました。楽しいと思える仕事や趣味があれば一生を生きていけるように考えていました。 けれども最近はそれらをやっても楽しいよりも虚しい感覚が徐々に増えていっているような気がします。 うまく言葉にできませんが本心から楽しんでいたものがただの暇つぶしになってるような感覚です。それらを解消するために新しいことに取り組んでみたりもしますがそれも結局はだんだんとつまらないものに変わっていきます。 欲求を叶えていっても次の欲求がと出てくるような感じです。 抽象的な相談になってしまい申し訳ありませんがどうすれば人は満足できるのでしょうか?軽いヒントのようなものでも構いませんが答えていただからと助かります。
私は、中高とエリートコースに乗り、大学も旧帝大を卒業しました。しかし、24歳の時、大病を患ってしまい、将来のエリートコースが途絶えました。 私は、公務員か医者、弁護士になりたかったのですが、病気のためそのような志も、もう叶うことはありません。あの時こうしていれば、あの時あんなことしなければ、病気にならなかったのに、と後悔ばかりが先立ち、心がとても苦しいです。 過去を患わず、未来に向かって生きていきたいのですが、病気のためそれもままなりません。一体この心をどうしたらいいのでしょうか? 過去のエリートコースに乗っていた自分と比べて今の自分があまりにもみじめで嫌になります。不躾な質問で恐縮ですが、回答よろしくお願いいたします。
人を殺したいという動機で人を殺すというニュースを見て自分の興味本位だけで人を殺してしまう犯人の狂気に恐怖を覚えました。 そしてそんな犯人に対してもう自分の欲望が満たされれば何をやってもいいという部分にもうこんなことをする奴はもはや人間ではない、見た目は人間でも人間じゃない化け物のような何かなんじゃないかという怒りも感じるようになりました。 被害者のことを考えると悪くないのに無残な死に方をした被害者、悪いことをしたのに司法制度の欠陥でのうのうと生きている加害者という不条理を考えるとただ死ぬのではなくひたすら酷い死に方で死なないと気がすまなくなってしまいました。もはや人でないから人権を剥奪する刑でも課したいくらいです。 できれば自ら制裁を加えていくらいですがそれはできないのでこのやり場のない怒りをどうしたらよいでしょうか。
質問です。心のない返答をしてもいいのでしょうか?自分の考えやとらわれに左右されない返答に、自分でも嫌になるときがあります。食べ物に、好き嫌いが激しい人がいて、私の解釈では、食べ物に、好き嫌いが多い人は、人間の好き嫌いも多いと解釈しています。その人がやじろべえさん、これ嫌いだから食べてくれない?と聞いてきました。私は、本当のところと違う返答をしました。それは無理です。食べれば、それになじんできて食べることができます。と返答しました。相手もそれはそうだといいました。しかし私はこう言いたかったのです。好き嫌いしている今の状態ではないと思いますよ、収入も少ないのに、かすかすの安い肉だとわかるけれども、そんなこと言っている給料ももらってないのに、好き嫌い、言っている状態ではないだろ、、、と言いたかったのです。どう思われますか?
自分の人生に不安な事があってこれから生きるのが怖いしやらなきゃいけない事も多くて面倒くさいと感じている高校生です。 (自分の人生の不安は定期テスト、模試、大学選び、大学受験、大学生活、自立できるか、就職、仕事、人間関係、親しい人達との別れ、推しロス、健康、恋愛、性、結婚、子供、親の介護、親の死、犯罪や事故を起こしたり、巻き込まれないか、自分の老後、自分の死、自然災害、将来の日本、世界の事など) そんな感じで最近はこれから生きることが怖いしめんどくさいなと感じていますが、かと言って死んだら自分の好きなことが出来なくなるし、美味しいものも食べれなくなるから死にたくはないです。だからこれから生きるのも死ぬのも怖いし嫌だという気持ちになっています。 でも僕は世界的に見たらすごい恵まれてると思うんです。帰れる家があって、教育を受けられて、毎日美味しいご飯が食べられて、趣味も持てて、自分の好きな人達が今も生きてて、信頼できる相手も居て、毎日屋根の下で眠れたりする事ができててとても幸せだと思うんです。なのにそれでもまだ苦しみがついてくるのかと思ってます。 そしたら僕はこんな考えが浮かんで来たんです。どんな場所に産まれても、どんな生物に産まれても、結局生きる事が苦しい事には変わりないんじゃないかって。とはいえ死んでも苦しい。 そこで質問です。 何故生きる事は苦しい事なんでしょうか? 何故生きる事と苦しい事がセットでついてきてしまうんでしょうか? 何故こうも生きる事って面倒くさい事、苦しい事、理不尽な事だらけなんでしょうか? 何故私達生物は苦しまなきゃいけないんでしょうか? 何故人生は思い通りに行かないんでしょうか? 生きる意味はないってよく聞くけど、じゃあ何で生きてるんでしょうか? 何故生きても死んでも苦しみが着いてきてしまうんでしょうか? 未来の恐怖、不安を無くすにはどうすればいいですか? こんな状況で僕はどうすれば良いですか? こんなめちゃくちゃな長文を最後まで読んでくださりありがとうございました。
夜分に失礼いたします。 私はうつ病で障害者雇用で一般企業に勤務させていただいております。 先日も同様のご相談をさせていただきまして、良いアドバイスをいただき、焦らずにうつ病と向き合い今できることをやってみようと近くのお寺のご住職に相談しにでかけてお話しをしてみたり、主治医の勧めで運動をはじめたりしているのですがいざ出勤となると体が動かない状態が数ヶ月続いております。 こちらでアドバイスをいただき、お寺のご住職のアドバイスもあり1日だけ出勤できたのですが お正月明けからまた出勤ができなくなってしまいました。それも仏様のお導きで私はその中でできることをするのが一番の努力なのではないかと自分なりに解釈しているつもりですし、毎日ではないですが思い出した時には呼吸法と共に「南無阿弥陀仏」を唱えたりさせていただいておりますがふと、他のお坊さんのアドバイスも聞いてみたくなりご相談させていただいている次第でございます。私の中ではこれも仏様が何かのアドバイスとして私に投げかけて下さっている。あとはできることをやってみなさいとご慈悲をいただいているのだと思っておりますが…とは言えこのままの状態で良いのかどうかと迷っております。仕事に対して嫌な気持ちも会社の人間関係にも不満はありません。 むしろ心配していただいたり、お気遣いいただいたりと恵まれた環境です。 今私が他にできることはあるのでしょうか? ちなみに友人と食事にでかけたりすることはできる状態の時もありますが、朝になると出勤ができないという状況です。 お忙しい中ではあるかと思いますがご回答よろしくお願いいたします。
こないだは、御返事有り難うございました! そうですね…。確かに私の旦那に対して甘えている部分もあるかもしれません。 昨日、うちの旦那が恒例の1泊から帰ってきました。 今回も彼1人だけ参加しました。 ここ最近は更年期の症状がでてきており、自分自身をコントロールするのが大変になっており、彼は仲間に私が更年期で参加してないというような感じで話しているみたいです。 ただ、私は更年期で彼に対して嫉妬深いところもありますが、更年期のせいなのか、ただ単に彼の仲間が苦手なのか分からなくなります。 今日も旦那に対して素っ気ない態度をとり、彼に私ってイヤな感じだよね?あなたも私に対して何か(イヤなことが)あればちゃんと言ってね、私は当分の間はこの行事に行けないよ。 と話しました。 旦那は黙ってましたが、私に言われたことが気に入らなかったのか、それからは口を聞いていません。今日は早めに寝てます。 最近の私は、夫婦って一体何だろう…とよく考えるようになり、私の旦那は私と一緒にいて本当に楽しいのだろうか?本当に幸せなんだろうか?などと考えるようになりました。 彼の大事な仲間ともつきあえないような私は、彼には合わないのでは?と彼を支えていく自信が段々となくなってきてます。 結婚して20年がすぎましたが、どんな夫婦にも 色々な出来事はあって当たり前ではありますが、今後どのような態度で旦那に接していけばよいのかアドバイスを宜しくお願いします。
まず素朴な疑問のうえ、お坊さんの限りある時間と質問を増やしてしまい頭が下がります。 死後の行き先は生前の「行い」によって左右されるというのは勿論ですが、 こちらのサイトでもいろいろ知恵を授かっている内に、 死後の「裁判」は良い悪いの数直線上では計れないところもあると感じています。 たとえば、ある人は日本に住んでいて、 まったく仏教に触れていなかったとしたら? ある人は仏教に触れて、 仏教の「表面上の」知識は身に付けて、 それでもなお多かれ少なかれの悪い行いをして… 後者は私ですが、少なくとも「知っていて尚悪いことをする」のと、 知らずに悪いことをしたのとは、やはり裁判の天秤の重さに違いがあるのでは?と思いました。 「弥勒菩薩は兜率天に住み…」 「虚言はいけない」 「丸々寺は誰々により開かれ」 「般若心経」 「お寺や神社の真ん中を歩いちゃ駄目。」 「蚊を殺しただけで地獄」 「獄卒が火であぶる。」 私はこのような「情報」を得て、我を顧みることもなく過ごしています。 ただ蚊は殺めません。 仏教で守るべき掟も、出家された方にとっては、いままでとはより厳しくなると思います。 まず、 出家された僧たちにある戒律は、破ったときにのちの自分に降りかかるのでしょうか? それとも守ることで人のため、世界が良くなるべきの「願い」の要素がありますか? また、「在家」まではいかないが仏教を信仰する私として、 表面上の仏教を(インターネットで閲覧できる限りの知識を)覚えるごとに 死後の裁判の「ものさし」が厳しくなるということはあるのでしょうか。 おなじく、お坊さんとも一般人とも、仏教の知識が死後の「ハンデ」とはならないでしょうか?
こんにちは。表題の件、アドバイスをいただけたらと思い、投稿させていただきます。 約二ヶ月前に母をなくしました。突然の死亡でした。 初めの一ヶ月は死の原因が自分の不注意であることを攻め後悔し、それでも色々なかたから寿命であったこと、穏やかな死に顔を見、苦しみから解放されたんだからよかったんだ、というような事を言われ、そういう一面もあるのではないかと思えるようになりめした。 ですが最近は、やはり母をなくしたことが寂しく、もう一緒に散歩もできない。私がつくった料理を文句も言わず食べてくれるひとがいない。父と姉がいますが、私のみかたは母一人であったから、もう私の無条件の見方は誰もいないと考えると、涙が止まりません。 毎日、道を歩いても、音楽やテレビを見ても母と一緒にみたり歩いたりしたことと繋がり、一日に何度も、すぐに泣いてしまいます。以前は滅多に泣いたことはありません。 願わくば早く私も母のもとに行きたいですが、また会えるとも限らないし、あの世で会えても、母は私の母ではないかもしれないですよね?となるとほんとに、もっと一緒に過ごしたかった。また後悔してしまいます。 こんなに悲しいのは普通なんでしょうか? それとも母の無念さのメッセ~ジなんでしょうか?いずれ癒されるか、普通にやっていけるのでしょうか?ほんとに悲しく、全て母に繋がり、辛いです。
この数ヶ月、不安感が強く後ろ向きな事や悪い想像ばかりしてしまい心身ともに疲弊してしまっています。専門の先生にも相談しています。やれる事はやっていると思います。 しかしなかなか回復せず、心を崩してから何ヶ月も経過しており、家族も疲弊させてしまったようです。家族を巻き込んで家族まで病ませてはいけないと想いますし、心の専門家ではない人が色々相談を受けるのはしんどいと思いますし、これ以上相談出来ないと感じますが、不安になると誰かに話を聞いて欲しくなってしまい…吐露してしまいます。本当に申し訳ないと思っています。 心の方もなかなか自分の意思では支配出来ず、不安な事や感情が湧いてきてざわついて辛い日が続いています。 優しい夫、優しい両親に恵まれているのに、1人になると「もう死んじゃいたい」と思う事が多くなりました。何ヶ月も不安感や恐怖に苛まれて心身ともにヘトヘトになってしまいました。 何かとても良くないこと、悪い事が起きそうな気がして怖いんです。昔のことを急に思い出しては「あの時のアレは大丈夫だったのかな?将来大きな事件揉め事になったりして…」と恐怖し、落ち着いていられません。もういっそ死んじゃえば楽なのに、消えちゃいたい!と考えてしまいます。 自殺しようとは思いませんが、この先なにか悪いことが起きたらどうしよう?いつ起きるんだろう?もうすでに知らないところで起きていたらどうしよう…と不安でたまりません。この先生きていくのが怖いです。何十年もある寿命を生きていく事を考えると不安で怖くて仕方ありません。 こんなに不安で怖くて辛いのにどうして生きていくのか?生かされているのか? どうしたらもっと楽に生きていけるのかどうかヒントを教えて下さい。 よろしくお願いします。