こんにちは。はじめまして。 私は某地方国公立大を卒業後、某旧帝国大学の院を出て現在大手の企業に勤めています。 現在はIT系の部署で働いており、仕事をする中で、色んな人が喜ぶシステム(まさにhasunohaはそんなシステムだと思います。)を作りたいと願い転職活動を始めました。 転職活動中に知ったとあるIT系ベンチャー企業が、社会の役に立つシステムを作っていると知り、面接を受けて採用されました。数年はその会社でお世話になりながらITのスキルを磨き、さらにステップアップをしてより広範に人の役に立つシステムを作っていこうと考えています。 しかし初めての転職、大手からベンチャーと不安に押し潰されそうです。 収入面、初めての業務内容、会社が潰れないか、老後の資金は貯まるのか…などなど。 何人もの友人に相談した結果、人一倍不安を抱えやすい性格だと知りました。不眠症でもあります。 また、私には結婚を約束した同棲中の彼女がいます。彼女と協力してこの先の人生を渡っていこうと考えています。 彼女は私が不眠症だということも知っております。彼女を心配させないためにも不安症と向き合い、できれば克服し、不眠症を治したいです。 座禅から派生したマインドフルネスを実践していますが、煩悩(特に不安)が多く、うまく集中できません。 仏教の考えにも共感することが多く、もっと学んで煩悩と向き合いたいのですが例えば空という考えはこの世には実体と呼ぶべきものがないと言うのならば私の彼女に対する愛情や信頼はどう解釈すれば良いのでしょうか。煩悩をなくせば愛情を感じなくなるかもと思い悩んでいます。 長くなりましたので質問を要約します。 1. 住職(敬称が違っていたら申し訳ないです)の方々は不安を感じないのでしょうか。例えば住職になることに対して不安を覚えたりしないのでしょうか。もしあればどう向き合っていますか。 2. 社会の役に立ちたい、愛する彼女と協力して人生を歩んでいきたい反面、(路頭に迷わせたくないというような杞憂にも感じる)大きな不安とどう向き合えば良いでしょうか。 3. マインドフルネスを行なっていますがどうすれば煩悩と向き合えますか。 4. 不安と向き合う時に仏教の教えをどう活用すれば良いですか。 5. 不安にはプライドに高さも関係してると考えていますが、プライドとの向き合い方をご教示下さい。
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。