生後6ヶ月の愛娘(二女)を病気で亡くしました。先週四十九日の法要を執り行いましたが、納骨はしませんでした。 私は無宗教ですし、私自身、義実家のお墓に入りたくありません。(旦那さんは次男ですが、長男が遠くにいるため、旦那さんがお墓を継ぐことになりそうです)そもそも私はお墓というものに入りたくありません。子どもに私のようにお墓問題で煩わしい思いをさせたくないのです。 自分でも入りたくないところに娘を入れるなんて考えられません。私の骨と一緒に散骨でもしてもらおうかと思っています。それまで手元に置くのはおかしいでしょうか。保存しておけるかという問題もあるでしょうが。 義父には、とりあえず今はいいが、なるべく早く納骨しろと言われます。お寺の友達にも納骨することが供養になるとも言われました。 そこでふと疑問に思いました。遺骨ってなんなんだろうと。 四十九日にお寺さんから位牌に魂をいれてもらいました。ということは娘は位牌(自宅)にいる、と考えるのですか?でも、新盆は故人の霊が初めて帰ってくるから通常のお盆より盛大に執り行うんですよね?「魂」と「霊」の違いもよくわかりません。 今後の法要についても形式的に義父からいろいろ言われそうでストレスを感じます。自分で納得して供養をしていきたいです。 娘はどこにいると考えるのですか?私自身は、今日は天国の保育園でお友達と楽しく遊んでるかなと思ったり、いつも私たちのそばに空気のようにいてくれると思ったり。それで、手を合わせる対象として写真や遺骨や位牌を自宅に置いて、毎日お線香をあげられればそれでいいんじゃないかと思ってしまいます。お墓も要らないです。 今後、法要をしたとしても参列してくださるかたは生前の娘を知りません。長期入院で基本的に両親、祖父母の面会しか許可されていませんでした。お葬式で初めて顔を見た方ばかりです。そんな方が集まっても娘の話をすることはありません。四十九日の法要も、ただ義親の兄弟親戚の集まりで娘の話は出ません。会ったことが無いのだから当然です。そんな法要を今後していく意味が感じられないです。 今後の法要で、残された人の気持ちに区切りを付けるとかあるのかもしれませんが、私は娘を亡くしたことを毎日忘れることは出来ませんし、義父に指図されながら法要をしていくことが堪らなく嫌です。
ヘルプマークは、周囲からは 見えない 分からない 。 内臓疾患 や 精神障害 、高次脳機能障害(私はこれに当てはまります)、妊婦さん などが、地方行政の、障害福祉課 などへ 申請 することで、受給される 比較的 新しい マーク です。 著作権は 東京都福祉保健局 が所有していて、各地方行政の 福祉課 は、それぞれ個々で 申請して給付しています。 周囲からは 見えず 分からなく ても。 当事者本人も周囲の人たちですら、まだまだ認知度の低い。 けれど、声に出せない SOS のマークです。 せっかく生まれた マーク なのに、周知が足りません。 そこで、こちらに登録なさっている皆さまへ、お願い致します。 ヘルプマークの周知・啓発に、御協力ください。 ヘルプマークには、強制力はありません。 また、各地方行政によって管理管轄が違うため、せっかくの 周知・啓発 ポスター や チラシ も。 それぞれ各自が問い合わせて、取り寄せなければ、掲示する意思を伝えなくては、行政からは、強いることは出来ないそうです。 〝お寺〟という場所は、古くから、地域 地元 を繋いで、一般の、その場所に住む人たちに寄り添う。 啓蒙力にある場所では無いでしょうか? それぞれ各地方の、地元の、福祉窓口に、お問い合わせください。 そして、少しでも、人の目に触れる場所に、ヘルプマークの啓発ポスターを掲示してください。 本当は、本山だとか、もっと大きな 宗教界 全体から… 声をあげて欲しいのですが… 今のワタシには、近親の家族との対話さえままなりません。 ↑実家にポスター掲示はしてもらえていますが、全体を結ぶ取り組みに対しての理解は難しく… どうか、力を貸してください。 声を出せない SOS に、気づいてください。 伝えてください。 知ってください。 よろしく お願い申し上げます。 #Femmefataleプロジェクト
遠方で一人暮らしをしていた高齢の母を介護呼び寄せして世話をしていたのですが、先日他界しました。 菩提寺は、両親の生まれ故郷(呼び寄せ前に住んでいた土地)にあります。 父はすでに他界し、その菩提寺に遺骨を預けてあります。お墓は建てておりません。 菩提寺は家から遠かったこともあり、護持費と行事ごとのお布施を振り込んでお寺で供養していただくのみで、直接対面のお付き合いはありませんでした。 母の葬儀はこちらで執り行い、通夜や告別式はせずお坊さんも呼ばず無宗教の直葬としました。 現在、遺骨は私の手元にあり、写真を立て、ろうそくと線香、お茶と生花を供えて供養しています。 今後、母の遺骨は、こちらの自治体の無料の納骨堂(期限1年間)に預ける予定で、その期限までに永代供養墓か納骨堂などを見つけて移すこととなります。 私は独身で子供もいないため私の代で家系が途絶えます。 遠方にある親の持ち家は引き継がないため、いずれ父の遺骨もこちらに持ってきて、母と一緒に永代供養墓に入れる予定です。 そこでお伺いしたいのですが、 * * * * * (1)母の他界は菩提寺にすぐお知らせした方がよろしいのでしょうか?それとも永代供養墓など預け先が決まってからでもよろしいのでしょうか? (2)すぐにお知らせする場合は、父と同じように菩提寺の供養に則り戒名もらったり法要を執り行うことになるのでしょうか? (3)お墓はないので墓じまいはありませんが、菩提寺とのお付き合いを終わりにする際、父の遺骨を引き取るのにどのような費用がどのくらい掛かるものなのでしょうか? * * * * * 母が健在のときはかなり高額なお布施を何度もしており、菩提寺からもお寺改修費などで一人〇〇万円と希望額を提示した寄付のお願いなどが来るのですが、私は現在無職で収入もなく大きな出費を負担するのがとても厳しく、また、遠方のため行き来するのも難しい状況です。 どういう段取りで何をすべきかや、どのくらいのお金の準備があればよいのかわからず頭を抱えております。長い文になり申し訳ありません。 アドバイスいただけますと大変有難く存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
はじめての質問です。よろしくお願いします。 私は今33歳ですが、幼少の頃から死にたい、消えて無になりたい気持ちがあり、その辛さとなんとか付き合って生きてきました。 これまでは、若さゆえの体力や大人になったら変わるかも知れない。自立したら変わるかもしれないという希望に縋って生きてきましたが、30歳を過ぎた今この辛さはどうしても消えることなく、死ぬまでうまく付き合っていくしかないのだと悟りました。 ただそれにも精神的な力、気力が必要です。 普通の人間は皆、良いこと、犯罪などの悪いことに限らずなぜそんなにいろいろなことをする気力、原動力があるのかと感心させられます。 私の気力の乏しいさについては、おそらく幼少の頃から母親の考えや、入信していたカルト宗教の教えなどで、その環境の厳しさや周りとのギャップに折り合いをつけるのに持っているエネルギーの大半を奪われてしまったこと。 もしくは心のエネルギーの源がほとんど壊されてしまったのだと思います。 ずっと枯れて壊れた井戸のようです。 ここ数年はいっそう気力が湧かず、何もしたくなく、何も感じたくない、消えてしまいたい日々が続いています。 夜、ベッドのなかで自分で首の動脈を締めて意識が遠のく時が、この先に無があることを感じられ唯一安心できます。 私の人生、この世に生まれてきてしまったことにこそ後悔がありますが(それが奇跡だろうと後悔です)根暗で友達もおらず、勉強もできず、コミュニケーションも苦手ですが、それでも引きこもらずになんとか社会に出て正社員として10年ちょっとですが仕事もしており、本当によくやったと思います。 ただこれをこれからもずっも続けていく力はありません。私は元々能力が低いのでこれで精一杯です。もう十分です。これで終わりでいいです。 人の平均寿命でいうと残りの人生が50年ほどありますが、もう悔いも気力もなく、これ以上生きていく理由がありません。 それでもこれから自然と死ぬまで生きていくと仮定したとき、このような人間に対して仏教やお坊様にはどのような答え、アドバイスがありますか?よろしくお願いします。
「私には信仰の自由がありません。」 そう書いていて何ですが、親の言いなりに生きてきましたけど、学生最後、型破りな生き方をして大学を卒業しました。 そういう卒業の仕方がアリなのか?ナシなのか? 多分、私と同じことをしてもナシだったり、卒業を認めてくれないかも知れません…破天荒過ぎて…。 でも、先生の理解をこえた生き方をすると…ナシがアリに変わることがあるのです…。 私は、とても熱心に勉学に励み、文句言う先生がいないぐらいちゃんと成績も残して、講義だって休んだことはありませんし、居眠りもしたことがありません。 勉学だけでなく、先生との信頼関係を得る為に、積極的に研究室に足を運んで、私なりに努力して努力して努力して… 卒論を書かずに卒業しました。 その代わり、大学以外の場所、社会人の中に混じって様々な活動をし、最後のまとめの卒業発表の場でないところ、教会のミサの場、人前で、自分がどんな生き方、学生生活をしてきたかをお話しする、それを私の着地点とすることで無事卒業を認めてもらいました。 信仰の自由もない、信じる余地もない、もちろんキリスト教徒でもない… たまたまミサだっただけで、もしかしたらお寺さんだったかも知れません。 たまたまです。 京都市内に下宿していたので、お寺さんだってたくさんありましたし… だから、本当にたまたま教会で時間をお借りしただけでして… 今?今は… ちょっと仏教を…親に秘密なので…無宗教っぽいですが… お寺さんも仏教も大好きです。 こんなこと言ったら、殺されそうです。 体を包丁で刺されるとかでなく、心を包丁で刺されるような気がします。 でも、死ぬのは怖くない。いつ死んでもいいと思っています。 後悔はありません。 今、南海トラフ地震が起きて、家が倒壊して潰されてもいい。 今、外に出たら車に跳ねられてしまった、でもいいのです。 親不孝なのは申し訳ないと思いますが、そういう覚悟で、今を偶然生きています。 皆様、どうもありがとう。 何故か生きていますよ。 hasunohaの相談を読ませていただいたりすると、人はいろんな苦しみや悲しみを感じて生きているのだなぁ…と思います。 私はいろいろ不自由ですが自由なので、生きている間は、白い色鉛筆で絵を描いていきます。 間違っていた時には、厳しく喝!を入れて下さい。
皆さんいつもありがとうございます。 ① 如来行とは 辛く苦しい時も、自分と周りを認めて許し、全ての人に徳を積んでもらうよう感謝し続けています。 この行動は何かお地蔵様に尋ねてみたら 「如来行」と答えをいただきました。 生きて仏に成ると 如来様同様に慈悲などを感謝の気持ちで永遠に伝える修行があります。 ② 如来行と神様仏様 すべての物事は神様仏様という成分でつくられてます。 自分自身も神様仏様でできていますし、がん細胞も、嫌がらせをするという行為も神様仏様でできてます。 全てはいただきものです。自分の身体、悔しい、死にたいという感情さえいただきものです。 何かもらった時は何と言いますか? 「ありがとうございます。」です。 自分とはこの世の時空間では点です。位置を示す座標です。あとは全ていただきものです。 如来行は一神教、多神教、あらゆる宗教宗派を超えて行うので、ご本尊も、教祖様も、経典も、総本山も関係ないです。 時間場所を選ばず自由気ままに修行ができます。 お金がかからないので助かります。 修行は簡単で、目に見える見えないに関係なく「おかげさまでありがとうございます。」と思うだけです。(陰徳) この世では声をかけた方が良いこともあるので「ありがとうございました。」と言っても良いです。(陽徳) 如来行をして感じたのは、神様業仏様業はとても辛いということでした。 敵も味方も善悪関係なく、分け隔てなく平等に愛情や慈悲を注ぐことは、この世(人間社会)では全てを敵に回す覚悟が必要です。 心から感謝されることはあまりなく、「なぜ私の願いは叶わないのか」「自分はどうして苦しく死にたいくらい人生なのか」というクレーム処理に追われます。 見事なまでの「ブラック業界」です。 でも、神様仏様は皆さんのすぐそばで、一喜一憂せず穏やかな心で労わりや慈しみ、愛情を注いでいます。 そばにいることに気づき、「ありがとう」と言えば、何とかしようとします。努力の仕方とかそっと教えてくれます。 神様仏様は森羅万象の一番下にいらっしゃいました。とても謙虚です。 万物を頭の上に持ち上げ、感謝とともに愛情や慈悲を注ぐ方が良いそうです。「頂戴する」の原点です。 これからはもっと謙虚に森羅万象の下を目指し「おかげさまでありがとうございます。」を気軽に言えるよう精進したいと思います。
2年前に、友人が病気で亡くなりました。 他の友人も交えて仲が良かったので、友人(以下A氏)が友人が亡くなった(亡くなった友人はB氏)3ヶ月後位に、B氏の母親に電話で、「B氏にお線香をあげたい」と言ったら、B氏の母親は「辛いので来ないで欲しい」と言われました。 A氏と2人でやり取りして、B氏の母親にお花とB氏が元気だった頃の写真と寄せ書きを送りました。 B氏の母親は喜んで「ありがとうございます。B氏の横(納骨していなかったので骨壷)に置いておきます」という電話を頂きました。 それからB氏の母親と寒中お見舞いなどでやり取りするようになり、今年になって「B氏のお墓まいりに一緒に行きましょう(一周忌でお墓に納骨した)」という手紙を頂きました。 B氏が亡くなって2年経って、B氏の母親とお墓まいりに行きました。 墓石にはB氏の名前が書いてあり、B氏の母親は「B氏はここにいるよ。今日はお友達が来てくれたよ」と話しかけていました。 私よりも先に、B氏の母親とお墓まいりに来たA氏は「A氏はまだ居ると思ったけど、お墓を見て死んだと実感した」とB氏の母親に言ったそうです。 私はお墓を見ても、B氏の死を実感出来ず、B氏の母親からA氏の言ったことを聞いて、ただ涙が出ました。 お墓を見れば、B氏の死を実感すると思っていましたが、実感するどころか、死を信じられず、「この中には別の人がいるのではないか」とも思いました。 お墓を見ても、その方の死を実感出来ないというのは、まだB氏の死を受け入れていないのかも知れません。 このような気持ちでお墓まいりをしたことは、B氏やB氏の母親にとって、失礼になりますか? 宗教について知識不足ですが、お坊さんの視点からお答え頂けると幸いです。
すみません。心配なことがあるので教えていただけますか。 個人が仏様から嫌われるということはあるのでしょうか? また、女性の仏様は、綺麗な女性がお参りに来るとやきもちを焼いてしまうので、お参りしない方がいいと聞きました。本当ですか? それと、お参りの作法を間違えると逆鱗に触れる仏様がいらっしゃると聞きました。ふらっと立ち寄ったお寺で私は大根を持参できませんでした。失礼がなかったか心配です。 私は神社仏閣を散策するのが大好きです。でも、なんとなく上記の事項を意識してしまい、心配にかられることがあります。 私のご先祖様は天台宗のお寺にいて、法事の際にはいつもお世話になっております。私自身もこちらのお寺の幼稚園で成長しました。(でも大学はキリスト教の大学に行きました。)若いときは、信仰を重んじるというより、興味本位のほうが強くて、宗教に対して軽率な気持ちだったと思います。申し訳ございません。 以前、厄を迎えたお正月に、観光を兼ねて有名な真言宗のお寺で厄払いをしていただいたら、その年に物凄く悪いことが自分の身に立て続けに起こりました。 その後、私は結婚したのですが、旦那さんの実家の信仰も真言宗で、なんとなく不吉な予感がし、結局いろいろあって離婚に至ってしまいました。 偶然なのかもしれないのですが、もしかしたら私は真言宗のお寺と仏様から嫌われているのではないかしら、、、とお参りをすることが怖くなってしまいました。 真言宗のお寺を拝見させていただく際には、以前の悪夢を意識してしまい、仏様から嫌われないようにといつも怯えてしまいます。。。 私は今後も、お寺や神社を散策したいと思っていますが、怯えずに安心して仏様にお迎えしていただき、お参りしたいです。 どうしたらよろしいでしょうか。 よろしくお願いいたします。
社会や宗教はよく、「人は人を殺してはならない」と説きます。しかし、僕はこの問いに対して自らの内に納得できる答えを出すことが未だできていません。 決して僕自身は人を殺したいとは思いませんが、僕は別に人を殺したいなら殺してもいいと思うし、殺してしまったらならそれは仕方がないと思っております。 よく、自分が殺されたくないなら人を殺すな、だから人を殺してはならない、という回答を散見します。しかし僕はこれに納得していません。その相手が憎くて「殺されてもいいから、殺してやる」と思う場合、人を殺してもいい、ということになってしまうからです。 僕は度々報道される殺人事件のニュースを見ると悲しくなってしまうのです。「なぜ人は人を殺してはならないのか。」この問いに対する真実の答えがこの世のすべての人に知れ渡れば、殺人事件や戦争などという悲しい出来事がなくなると思うし、自殺もなくなると思うのです。 僕は決して殺人を犯した人がいなくなればいいなどとは思いません。殺人を犯してしまった人も、この地球に生まれ落ちた我らが同胞であり、兄弟であり、愛すべき存在だと僕は信じているからです。 そして、僕は生きる苦しみから逃れたい、自殺したいと思っていた時期がありました。自殺も、つまるところ「人(自分)が人(自分)を殺す」という事象に当たると思っています。自殺もいけないことだと真っ向から否定してほしいのです。 僕は生きる悦びを手にし、その生きる悦びを愛しているので自殺することはないと思います。しかし、この地球上に生まれ落ちた愛すべき存在を、殺人や自殺などといった形で失うことを、僕はただただ悲しいと思うことしかできないのです。 また、自殺の方法として餓死を選んだ場合、人は生きる苦しみから解放されるのでしょうか?一般的に自殺は生きる苦しみからの逃げ、だと僕は思っています。自殺の方法として餓死を選んだ場合、それは生きる苦しみと真っ向から向き合うことだと考えています。 近い将来、自分が餓死による自殺をしてしまうのではないか、と不安になる時があります。
僕は高校1年生の時に読んだ白石一文様の「僕のなかの壊れていない部分」に孤高な自尊心を見出し、その自尊心と対峙してきました。それこそ、父親と向き合えなかった起きている時間分、16×365×5≒30000時間分ずっと。 僕はその自尊心を、他の何よりも重要な価値基準と置きました。その価値基準は一般に考えられる道徳的価値観をも完全に超越してしまいます。僕は2億円を出してでも良縁を買うべきだと思うし、文字通り、命を賭してでも殺意に愛そうとしました。それが前回の質問の真意であり真理です。「僕」は「ユング分析家」の「才能」を持つ、他の大人の誰よりも幸福な「天才」で、それが「運命」、「事象」だと信じております。 僕は名前を変えようと思います。そう僕が思うことが「僕」の「主体性」は完全に否定され、「僕」が「事象」として「現れている」だけの「運命」ではあるのですが。 僕は名前を両親から戴いた文字を取り、「晨」としますが、いささか苗字に悩みます。僕は「蓮水」という苗字がよろしいかと思います。 聖章様はどうお感じになられるでしょうか。「蓮水晨」という名前は「僕」という「事象」の体を為すと思われますでしょうか? 僕は聖章様との良縁を他の何よりも大切なものだと感じます。恐らくいつになるかは分かりませんが、聖章様の下で仏道を歩み、己の為すべき使命を全うしたい、そう考え、岡山に出向くと思います。聖章様と仏教について議論を重ねることが、何よりも「仏教」という「事象」を「肯定」できる「使命」があるのだと信じるからです。僕は岡山大学で心理学を学び、京都大学で「ユング心理学」を大成し、善人と寄り添えることとなりましょう。それが僕の運命です。 宗教は何かと敷居が高いです。僕はそのユング心理学と仏教を同じ「事象」だと考え、それを同列に語られるようにすることが、僕の「使命」で「運命」なのだと心から思いました。「思い」の力は「現実」とする力になり得るのです。 差し支えなければ聖章様の個人的な連絡を教えていただきたいと存じます。 合掌
一ヶ月ちょっと前に四人目を死産しました 主人は忘れてしまったかのように 今までと変わらず普通に生活していて 私は今でも思っては泣きで前に進めず 一人だけ取り残されてる気分です 私は地元から離れて暮らしてるため相談できる人も近くにおらず、子供達の送り迎え生活に必要な買い物以外は家に引きこもってる状態です。 もうすぐ四十九日なので供養しに行こうと思ってるのですが、骨壺は自宅で保管して供養しようと思ってます。 ですが水子の祟りがと言われどうするべきか悩んでしまってます。 自宅で供養する場合は何が必要なのか どうしたらいいのかという悩んでる状態です 主人は私のしたいようにとあまり意見を言わず 実母は色々アドバイスをくれるのですが 最終は宗教が違うのでそういうのにうるさい義母に一回相談してみたらとのことです ですが義母は前々から嫁いびりがすごく関わりたくなく今回報告だけして終わりにしようとしてましたが、入院の日にわざわざ休みをとってついてきて、私にもう少し週数いってたら出産一時金全額だったのにねっと言ってきて、火葬には子供達は良くないから連れていくなとか水子の祟りがとか人の気持ち考えてるのかと思うことを次から次へと言ってきました そして私が死産する数日前に主人の妹が出産していて、私はどうしてもその子に会う気にはなれず、その事も主人に義母は色々言ってるみたいです そんな人に相談しても また心ないこと言われ 自分が傷つくだけだから関わりたくありません それで今回このサイトを見つけ 相談してみようと思いました どのように供養してあげるのがいいのか 嫌な思いをしてまでも義母と 必要最低限以上の付き合いを 持つべきなのか 今後どうしたらいいのかわかりません
この分野には詳しくありませんので、恥ずかしながら諸大徳にご相談致します。 私の師僧(60代独身)についてなのですが、元々精神的な問題を抱えている人で、感情が高ぶると御葬儀の場やお法事の席でも大声で叫んだり、真言宗の住職でありながら真言宗や弘法大師を否定してカルト宗教に入ったり、お檀家さんや周辺とも何かとトラブルが絶えない人なのですが、数年前師僧の母親が怪我で入院した頃からさらに言動がおかしくなり、私にも「これからは毎日8時間無料で留守番しに来なさい。」等々無理難題を言ってくるようになりました。 それまでも師が母親を病院に連れていく日などには勿論留守番やお手伝いにはこちらから行っていたのですが、それで何を勘違いしたのかだんだんと要求がエスカレートしてきた状態です。 ちなみに私はお寺に雇われているわけではなく、役僧でも内弟子でもありません。 2,3か月に一度御葬儀の助法をする程度なので、普段は他の仕事で生計を立てており「私も生活があるのでさすがに毎日無料奉仕というわけには・・・」とやんわりお断りしたところ激昂されてしまい、「そんな薄情な事を言うなら師弟関係を解消させてもらう!!」と怒鳴られ師弟関係を人質に度々大した必要性もないような用事などに呼び出されております。 近所に買い物に行くだけのほんの数十分程度の外出にも留守番に呼び出されるので、仕事場からも「そんなにしょっちゅう休むんなら辞めてほしい。」と通告され、年齢的にもかなり厳しい状況です。 その旨を師に伝えても「弟子が師匠のために多少の犠牲になるのは当然の事だ。」等々しれっと言うので最早信頼などとてもできませんが、それでも在家から苦労して20数年なんとか必死の思いで続けてきた僧籍だけは消したくないと思い、ギリギリまで我慢してきましたがこれ以上の師の要求はとても受け入れられず、離弟(僧籍削除)してもらうしかないかと覚悟しております。 総代会も30年余りの間に正式に開かれたことはほとんど無い状態で、相談してもどうにもならない状態です。 そこで離弟する(僧籍が無くなる)ことでどういったデメリットや僧侶としての行動に制限が出てくるのか、師僧が無くてもできることはあるのか等、様々なパターンについてお詳しい方がいらっしゃいましたら御教示いただきたく思います。
先日、車を運転中に一人で歩いている方を見かけました。その日は雨で風が強く、しかもその方の行く方向は高い橋のほうでした。 傘もささずに歩いており、車を停めて声をかけるべきではないかと感じました。 そこでふと、身近な人たちと話したことが頭に浮かびました。私は、エンパスと言われています。全く知らない人でも、過度に感情移入してしまい、実際は本人が必要としていない手助けをしないといけないと感じてしまいます。例えばお年寄りが荷物を持って一人で歩いていると、車にのせて家まで送ったほうがよいのでは、と本気で声をかけそうになります。家族や友人から、不審者だど思われるからやめなさい、相手が望んでいるとは限らないとよく言われます。自分の感情と他人のそれを混同しないよう気を付けています。 その方も好きで歩いているのかもしれない、余計なお世話かもしれない、橋の途中なので車を停めたら他に迷惑かもしれない、自分の用事に間に合わなくなるかもしれない、そう言い聞かせて通りすぎました。 数日後、ニュースで、私が通った約一時間後に、橋から海へ人が転落したと見て胸が締め付けられました。きっとあの方だと。 後の祭りですが、声をかければよかった、直感に従っておけば。と後悔の念が湧き出ると同時に、もし事故ではなくその方が自ら選択したことであれば、その方の歩まれてきた人生はもちろん全く知りませんが、私が介入して生き続ける状況になったことでもっと苦しめることになっていたのかなという考えも浮かびます。お互いにどういう運命でこうなったのか、出口のない自問をしてしまいます。 ただ、通りすぎてよかったとは微塵も思えません。申し訳ない気持ちでいっぱいです。 私が悩んでもなにも解決しないのはわかっていますが、気持ちの整理がつかず心が落ち着きません。 今回のことをどう捉えればよいでしょうか。そして今後は、余計なおせっかいになったとしても行動すべきでしょうか。 また、私が今その方にできることは、無宗教ですがその方を想って祈ることなのか、なにか別のことなのか、はたまた何もしないで忘れるよう努めるべきか、教えてください。
普段、仏教や宗教などとは縁遠く生活しているため、不躾、不遜な言い回しがありましたらご無礼をお許しください。 タイトルにもあります通り、先日夫が逮捕されました。罪状は強制わいせつです。相当にお酒に酔っ払った際に見知らぬ女性に抱きつきお尻を触ったそうです。 被害者の方は恐らく夫に遭遇後そのまま警察署か交番へ行き、道端でいきなり押し倒され臀部を弄られたと通報したそうです。 双方の言い分が乖離していますが、夫は逮捕後の勾留は免れ、現在は実家に身を寄せており私とは別に生活しています。現在も在宅捜査は続いている状況です。 私の夫は自身で物事をきちんと考えるということをあまりしたことがなく、今の状況でも具体的に何が悪かったのか、これからどう償っていくのかを具体的に考えられないようです。 私は幼い頃より両親から深く愛されながらもその辺りは厳しく育てられたので、モラルを逸脱することはあり得ないですし、万が一自身が何か人様に迷惑をかけるようなことがあればきちんと自分のしなければいけない償いを考えられると思います。 夫は金輪際お酒をやめると言っています。また仕事もやめ、交友関係もリセットすると言っています。今回の事件では弁護士さんに入っていただいており、被害者の方とは示談の話も出ています。 しかし、私としては夫が本当に心を入れ替え真っ当に生きていくことができるのか、これ以上私を含めまわりに迷惑をかけないことが可能なのかを非常に疑問に思っています。 逮捕されてから気が動転しパニックになっているのを考慮しても夫はまだまだ今までの甘い考えから抜け出られていない気がしています。 夫はお酒を飲まなければ、罪を犯すような人ではなく、普段はお調子者ながらも真面目な一般市民です。ただ育ってきた環境の違いからか、私とは意見がぶつかることも多いです。今まで述べているように甘い考えが露呈している場面も多く見てきました。 私は夫とこれからも共に生きていけるでしょうか。夫とは縁を切ったほうが良いと思う反面、ここで別れてしまったら夫は甘い考えのまま生きていきまた人様に迷惑をかけるだろうなと思います。離婚していれば、夫の行いなどわたしには関係のないことと頭では理解していますが、夫がそのまま生きていくのも許せません。私はどうすれば良いでしょうか。
初めてこちらにて相談をさせていただきます。 私は今月から、ヨガインストラクターの養成講座を受講します。 そのスタジオは長年養成講座を行なっており、講座の説明や見学、普段のレッスンも受け、レベルの高さやスタジオに通う方々の人柄にも触れ、ここなら大丈夫だと受講を決めました。 しばらくして、先生方と一緒にヨガ哲学を交えながらみんなで悩み相談や雑談を楽しむ企画が始まり、私も参加しました。 そこではいろんな方の話を聴く事ができ、先生方の受け答えの内容に時には心震え、涙しました。 しかし先日、その企画に再度参加した時の先生方の返答や考えに違和感を覚えました。 ヨガ哲学や食生活に合わせて出てきた言葉が、行きすぎた反ワクチンの考え方や添加物は絶対悪といったもの。 さらには○○社や××社は裏で武器を作って利益を出しているから、そこの商品を買う事は戦争に加担している。ワクチンは人口削減の意味があるし、金儲けの為にワクチン接種の決まりを作り、真実がバレると誰も打たなくなるから情報規制をしている人がいる。 Qアノンなど陰謀論を語る人には有名な単語も出てきて、「私達は真実を知っている。だからこそ見本となり、間違った現代の日本を変えていきましょう」と熱く先生が語り、皆がうんうんと頷いたあの空気に今でも恐怖を感じます。 もしかしたら先生の言葉の中に真実もあるのかもしれません。 ですが普段聞き慣れない単語、怪しいかもと思えるようなものを半ば押し付けるように語り、自分が知るものを知らない周囲を見下し、自分達が正しいと断言…まるで洗脳でもするかのような言動をした先生方を目の当たりにした事で一気に恐怖心が芽生えてしまいました。 怪しい宗教を目の当たりにしたような恐怖や不安、嫌悪感は日に日に強くなります。 長くなりましたが、タイトルにもあるようにこのような不安や嫌悪感を覚えたまま本当にこの人のもとで学んでいいのでしょうか? 今の自分がなくなりそうで怖いです。かといって安定を求めるのは退行でもある、と先生は言っていました。その言葉には概ね同意出来ます。 ですがあの時の先生のような思想や言動で自分や家族、応援してくれる人を傷つけたり、振り回したくないです。 どうか、ご意見をよろしくお願いします。
現在訳あって、期間限定で実家に滞在しています。 母が障がい(精神的な障がいも含む)がある人に対して差別的な事を言ったり、近所の人の動向を観察(何時に帰ってきたや今何をしてる等。。)しては報告してくる事が耐えられないです。本人は特に悪気もなさそうで、おそらく無意識で言っている気もします。 昔からそういうところはありましたが、数年ぶりに数か月も一緒に暮らしているうちに、目につくようになってしまいました。 私の周りにいる人は「自分に迷惑や被害がなければ、人が何をしていても特に気にならない」という人ばかりです。私も同じ考えで、自分に関わってくるもので無ければ特に気になりません。 本人に話してみようかとも思いましたが、話を流したり取り合ってくれないのがわかっているので、母がそういう発言をしたときは私がスルーしている状態です。 母の年齢からして、考え方や物の言い方が今さら変わるものではないと思います。 私は毎日仏様にお祈りをしていますが、そのことについても馬鹿にするような発言がありました。(本人は馬鹿にしていないつもりでも、そう聞こえました。)宗教や信仰はそれこそ人それぞれ。自分が大切にしていることに対して、相手に迷惑をかけていないのに何かを言われるというのは特に辛いです。 事情があり、この先数か月は実家に滞在することになります。母とは普段はとても良い関係で一緒に買い物に行ったり、手伝いをしたりと仲は良いです。ですがここ最近の母の言動で私の口数が減り、本人も違和感を覚えていると思います。 実家を離れた後は、なかなか帰省もできなくなりますし両親とも高齢の為、関係を壊したくはありません。 母の気持ちを汲み取りつつ、うまく付き合っていくにはどういう心持ちでいれば良いのでしょうか。 お忙しいところ恐縮ですが、回答頂けますと幸いです。よろしくお願いいたします。
見つけてくださってありがとうございます。 うちは臨済宗妙心寺派です。 6月に父が仏様に召されました。毎朝,般若心経を読んで仏壇に手を合わせます。(時々寝坊します。寝坊した時は「ごめん!行く!」とお線香とおりんを鳴らしてお経はカットしてます。色々申し訳ないです) 悲しみも後悔もいっぱいありますが,自分にできる範囲のことをして,少しずつ心を静かになるようにしています。 問題はここからです。 「@@(父の名前)だけずるい」 と子どもから大人まで,各種時代の人(Max古くて江戸後期?だと思います)がどうも父を羨んでいるようです。 父を羨んでいる人たちはどんな生き方をしたか,死に方をしたかなど頭の中にふわぁっと流して,私に教えてくれます。 その人たちに,「僕たち,私たちは忘れられたの?」と言われました。 恥ずかしながら父方の家の方は,法事はショートカットするようで,御墓参りもしないようです。父の兄も新興宗教に入ってしまい,仏壇がオブジェ状態です。そのため,亡くなった人に「私こういう人!」と教えてもらわないと誰が誰だかわからないし,その人が私たちどんな繋がり方かわからないのです。祖父母もあんまり先祖については聞いても教えてくれないので,聞くに聞けない状態です。たまに自称先祖の人もいるので,教えてくれる人の話を全部が全部鵜呑みにできない状態です。(なんとなく「あ,この人人間違いしてるかも?」と思う時があります) 正直,私も父方の祖父母の家には怖くて行けず先祖に手を合わせるのができません。また,お墓はもっと怖い(荒れ果てすぎててお地蔵様にも申し訳ないです)ので,家の仏様に手を合わせるのが精一杯です。 私が直接そんなひどい状態にしてしまったわけではないですが,ご先祖様とお墓のお地蔵様に申し訳なくて・・・。 ただ,「ごめんなさい」としか言えない自分に無力感を覚えます。 たくさんの人がどんな生き方をしたか教えてくれるたびに,人間ってすごいな,と思ったり,生き方に尊敬するところもあります。時々私を見ていてくれるようで,「見てるよ」と言われるたびに照れくさく,少しありがたいな,と思います。 どのようにしたら,父を羨むことなく心安らかにご先祖様がたはいられるでしょうか。また,お墓のお地蔵様に申し訳ない旨をお伝えしたいのですが,どのようにすればよいでしょうか。お墓に行く勇気がないです。
自分の人生を自分で進みたい。見えない物に怯える事なく過ごしたい。 母は私が幼少の時から蔑む言葉をよく私に言ってました。学校で虐められても「お前が悪い」と言う人でした。学校の行事など、周りに人が沢山集まる時にだけ私に優しかったのですが、2人きりの時は、数えるほどしかありません。 妹がおりますが、妹と母は仲が良く、何かと優先するのは妹だと私は感じてます。私には内緒で2人でよく出掛け、食卓に並ぶのは妹の好物ばかりです、因みに母は私の好物など知りませんし興味がありません。 また、実家には神様を祀っております(ニュースで出る様な怪しい宗教ではありませんし、宮司さんも普通です。本当に普通の方です)。 ですが、母は何かと神様、神様と頼りにしています。そして、私が母から蔑む様な態度や言葉に反抗すると、「悪量が着いたんだ」と言われてしまいます。私がうつ病の時には、その宮司さんの元に連れてかれ、御祓を受けさせる事もありました。御祓を受けつつ「状況が良くなると良いな」と思いつつも「この病気の原因はお母さんなのに、神様すらそう思わないんだ」と悲しく思っていました。常に母の基準は神様で、「良い事は神様のお陰、また母が毎日欠かさず神様にお礼など手厚くしてるからだ」と言うのが口癖で「悪い事は全て娘の私」なのだそうです。なので、小学校の時の絵が表彰されたのは神様のお陰で、母の仕事が失敗するのは私の責だそうです。 神様は人を見ていると言いますが、私は神様が母を守っていると思うと怖くて仕方ありません。何でこの様に私を蔑み、虐める人が神様に守られるのか、私がおかしいのかな?って不安になり、「私がおかしいなら、神様からいつか罰が下るんじゃないのか?」と悪魔にしか見えない母を前にして、本当にどの様に生きていいかわからなくなってしまいました。 母は、私の話はしっかり聞いてくれた事もありません。「聞いて」と言っても「お前に構ってる暇はない」と言い、神様の奉仕として遠方まで行き御参りします。神様に奉仕をする母がいるから、お前は生きてるのに、感謝が足りないと責められます。それが息苦しかったです。 今は、実家には住所も教えず一人暮らししています。神棚の無い部屋ですが、見えない力に罰を与えられるのでは無いかと、リラックス出来ない日々です。人間力を磨くのは必要です。でも神様に振り回されるのは、もう嫌です。
はじめて相談させていただきます。 端的に言えば嫁姑問題になります。 姑はスピリチュアルなものを大切にする人です。 特定の宗教を信仰しているわけではないようですが、神、縁、因果、祈りといったものを大切にしているようです。 それ以外の面でいうとフレンドリーで優しく、結婚当初はとても仲良くしていました。 きっかけは、遠方で行われる婚家側の慶事の欠席を申し出たことでした。 理由は幼い子供の体調の心配でしたが、主催者は激怒されました。 姑は完全に主催者側につきました。 そこで姑は今回の欠席は私が独断だと決めつけ、「経済的な嫉妬が原因」などあらぬことをでっちあげ、私の実家の慶事の在り方についてまでケチをつけ始めました。主催者と姑で他にも陰口をたたいていたそうです。 私はそれまで仲良くしてきた姑の言いようにショックを受けました。 欠席のままにすべては終わり、主催者とは何とか和解したものの、私はそこまでの間に怒りも悲しみも混ざった混乱が続いていました。 夫は多くの面で私のことを守ってくれて、距離を置いていいとしてくれました。 しかし距離を置いた姑から来た連絡は、よく分からない自分語りとスピリチュアルな話。 どうやら私の修業だかが足りず、(姑のように)心を穏やかにいればそんなことで傷ついたりしないというようなことが書いてありました。 「私が悪意無く言ったことであなたが傷ついているのは、あなたが悪いのです」と。だから心を入れ替えて気軽にまた(略)とのことでした。 …同じことを当人ではなく、最初からhasunohaで指摘されていたりすればまだ聞けていたのかもしれません。 でも傷つくことを言った本人から心の修業だなんだといわれても、ただの開き直りとしか思えないのです。 私が穏やかにスルーすることが相手の本望だと思うと腹立たしく、相手の望みなんかかなえてやるもんかという気持ちが渦巻いてしまう。 そのためあらゆる媒体でそういった主旨のアドバイスを読んでも、姑の言ったことを先に思い出してしまい、どうしても救われません… どうしたら乗り越えられるのでしょうか。
はじめまして。3ヶ月前に体育会の部活を辞めた大学1年生です。 私は入学当初から、専用のエンブレムをつけたいのと就活のネタの為に、種目は問わず、体育会に属したいと考えており、部員が少なく雰囲気が穏やかな航空部に入部しました。 しかし、文系の私にとって、週に数回ある、飛行機を動かすための勉強がまるでわからず焦ってしまい、周囲との熱意の差(私以外は理系orパイロット志望)を感じ、5月時点で辞めたくなりました。 更に先輩から、お金が年間30万越えする、合宿が月1、2回ある等の事情を話されたのも不安になり、「長期インターンに申し込みたいので退部する」と言い、6月に辞めました。 それと同時に、大学入学時から、部活の悩みとサークルの人間関係の為に通っていたカウンセリングにも通わなくなりました。 結局夏のインターンは、宗教じみていたことから、怖くなり逃げ出し、この夏休みは、月2でサークル、週1でバイトに行き、資格の勉強をしながら友人と少し遊ぶ。というものになりました。 今更ながら、「もし再入部したらどうなるだろう」、「あの時辞めないで続けるか、休部すればよかった」等と考えてしまいます。 退部する間際に望んでいた環境は全て手に入ったにもかかわらず、現状に不満を抱いている自分に呆れます。 贅沢な悩みで、言っていることがめちゃくちゃなのは重々承知なのですが、私はこれからどのような道に進むべきでしょうか? そして、再入部したいと願ってしまうのは、隣の芝生が青く見えているからなのか、優しい先輩や同期が恋しいだけなのか、本当に戻りたいのか、それすらも自分でわからなくなっています。 拙い文章ですみません。どうかご回答お願いします。