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hasunoha 問答検索結果 : 「私 生きる意味 」
検索結果: 5802件

「有意義に生きたがる自分」が邪魔です

幼いころから長い期間ストレスにさらされたため体を壊し、バイタリティがほとんどありません。 やりたくないことはもちろんですが、楽しいことも、本当はできません。 あまりにも辛いので自殺は何度か図りましたが、体はやっぱり生き物なので大人しく死のうとしてくれず、完遂できていません。「自殺する」ということを解決法としてすがりつくのは諦めました。 とりあえず寿命までは波風立てずまともに生きているふりをしようと思い、まず生活・収入は絶対途切れさせないように、仕事と生活上必須の作業(食事やお風呂や睡眠)を優先しました。 それだけで限界だと分かったので、体力と収入を削る楽しみ(料理・絵を描く・何か作るなどのクリエイティブ系・読書・SNS)は仕方なくやめました。 人間関係が嫌いになったので頼れるパートナーを作ろうとは思いません。関わると生活がうまくいかないので親族とは縁を切りました。 金銭面は公的機関からすでに援助を受けているので、これ以上誰かを頼りたくありません。 精神科に8年かかっていますが、効果は頭打ちのようです。 今更生きている意味とか、楽しみが欲しいとか、苦労したんだから報われたいとかは全く思いません。無理に求めればそれなりの代償を払うことになります。 まあまあ満足な人生を送るには、今回あまりにも運が悪かったとだけ理解しています。寿命が尽きれば何でもいいです。(死後どうなるとかは置いておいて、この世に参加しなくてよくなる時を待っています) こんなに理性的に働いてやり、食べたくないと思っても無理に食事を食べさせて生かしてやり、苦しむのが目に見えているから趣味や人間関係の危険から守ってやっているのに、常に自分が不機嫌で、ぐずっているのがはっきり分かります。それが「自分の本当の気持ち」だとしてもいちいち構いたくありません。何がしたいのか分からないし、生活の足を引っ張るだけなら黙ってほしいです。 この不機嫌さを完全に消滅させて、何も感じずに毎日同じことを淡々と繰り返す、「外から見たら普通の人」になるためにはどうしたらいいでしょうか。 「疲れているので休みましょう」といった意見は求めていません。仕事を休んで解決する問題ではないと思っています。

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2025/03/13

虚しくて憂鬱で苦しいです。

毎日虚無感を感じながら過ごしていて、どうしたら明るく楽しく生きられるか考えています。お坊さんのお知恵を貸していただけないでしょうか。 まず、私は仕事もあり、生活は不自由なく、大病も患っておらず(うつ病という診断や持病はあるが)、趣味に打ち込むこともできています。とても恵まれた環境にいると思います。 平日に主にデスクワークの頭脳労働をしていて、休日は土日祝日有休をフルに使って、激しく体を動かす遊びをしています。毎週末に好きな運動をするのが楽しみで、平日は週末のことばかり考えています。週末に身体を酷使するため、平日は毎日身体が重く(特に週の前半)、頭も回っていません。それでも週末に遊ぶお金を稼ぐために、頑張って働いてい(るふりをしてい)ます。 周りから見たら悩むことなんてないように思えるかもしれませんが、毎日憂鬱です。仕事ではプレッシャーがあり、常に周りと比較し(比較しないように心がけていますが難しい)、自分の情けなさに辟易しています。成果を出さなければ、任期が切れた時に次の職もありません。そうでなくても、昔思い描いていた理想像からは程遠く、自分の能力の低さに自分が一番がっかりしています。 週末の遊びがいくら楽しくても、人と比べてしまい、自分のやっていることの小ささを考えてしまいます。もっと難しく、周りの人があった驚くような成果を出したいという気持ちもあります。そんなことをしても意味はないのに。自分が楽しければそれでいいのにと思う一方で、そう思い切れない自分もいます。 週末に遊んでいて疲れているから平日に身が入らないというわけでもない気がします。でも少し遊ぶのをセーブすればもっと仕事を頑張れるかもしれません。でもこれ以上遊ぶ時間を削るのはしんどいてす。そのために生きているのですから。でもその遊びでさえも人と比べて落ち込むことがある。八方塞がりです。誰もいない世界で自分1人だけになりたい。それが無理なら、明るく生きる方法が知りたい。年齢を重ねるにつれ、生きているのが辛くなる。これからもっと辛くなるのかと想像すると、もうここで終わりにした方がマシにも思えてきます。助けてください。

有り難し有り難し 28
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時間とお金

こんにちは。 いつも回答ありがとうございます。 私は自分のための時間の使い方がわかりません。 自分がこれといってしたいことがないのもありますが、例えば、 私が友達と遊ぶとき、家に誰もいない=遊びに行きやすい。その反対の場合、母や別の場所にすむ祖父母は寂しくしているのではないか。1日の大半を家事にあてがわなければならないので、自由な時間や、話し相手がいないのではないか。 と思ってしまいます。 なので、あまり家から出たいと思えません。 しかし、たまにこれ食べたいなぁ、とふとなんの意味もなく、家族が言葉に出すと、私が勝手に出て行って買いに行ったりはできるのですが、よくよく考えればこれも、人のための時間なのではないか。と思います。 自分の予定ややりたい事を優先できて良いなって思うのです。 わたしには、自分のために使いたいと思える時間が見つからないのです。 こんなのでは、友達もいなくなってしまうのでは。と思います。区切りごとの友達(小学校、中学、高校)に仲良くしていた人の大半が、区切りの間だけ、つまり、通っている間だけの友達だったように感じます。 卒業してしまえばあうことも、連絡し合うということもあまりありません。 そして、たまにあった友達がお金がない。と言われてしまうとせっかくあったから、など思ってしまい、相手の分まで払ってしまう所も私の悩みです。 払う必要がないのもわかっているのですが、私がバイトでお金を稼いでも、自分に使いたいものがあるから稼ぐのではなく、人に何かをしたいための自由なお金が欲しいから働いているんだと思います。 見返りを求めているわけではないのですが、その奢った人と遊び終わって数日したらまた連絡返ってこないなどがあります。 わたしのこの二つの欠点は治らないと思います。 友達には、いつか騙されそう。など言われます こんな私でも生きている意味や必要としてくれる人、いつか見つかるのでしょうか。

有り難し有り難し 20
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どうすれば人間を本物だと思えるでしょうか

私は大学院生です。5月ごろ糸が切れたみたいに何も手につかなくなり、そこから1ヶ月は動けずにただ死にたいなぁ、と思いながら過ごしました。薬を処方されましたが気持ちは塞ぎ込んだままでした。両親や先生がとても良い人達なので、勧めてくれるままに休学することにしました。 気分がいい時に本を読みはじめました。その中に一般向けの仏教の本がありました。興味深いものでした。 心の働きと体によって引き起こされる感情の働きは別のものであると考えると心が整理できました。 自分と世界の境界はなく、全てが平坦に繋がっていることを感じます。すべて同じ温度です。 私の世界は私だけのものであり、どうあっても私たちは孤独なのだと思いました。 五感で感じるものは自分の脳が処理したものであり、世界が「本当」である確証はない。 本当のことは「そう考えている自分」を観察している私の視点だけです。 ずっと死にたかったのに、死ぬことにも生きることにも意味はないことが今ではよく分かります。 両親に顔色がよくなったと言われました。今はまだ動けませんが、元気になっていくのだと思います。 ただ、価値観の変化に戸惑いも感じています。 三浦春馬くんが自殺したニュースを見た時、以前なら「どうして」「悲しい」と思ったはずです。ですが私は「彼は決めて、実行したんだな」とだけ思いました。自分の変化に驚きました。世間が彼のニュースに過敏になる気持ちがもはや全く分からないのです。 それからテレビは見なくなりました。SNSもすべて辞めました。 最近、人間が本物だと思えないのです。 他人を見て、心が冷え切ることがあります。彼らの話す言葉や動作は愛せても、彼らという個体に価値を見出せないのです。 神も仏もないのと同様に、この人を大切にする理由もなければ傷つけない理由も無いのだ、 社会のルールは人間が作った洗脳であり、本来そこには何も無いのだという考えが離れません。 本にあったので試しに一万円札を破いてみました。簡単に破けました。私を縛るルールがとても陳腐に思えます。 本当に人間は、私を含めて大切で本物でしょうか? 暴力的な感情ではありません。心はずっと静かです。このまま誰かを傷つける人間になるのでしょうか。すでに私の考えはそれを否定できません。 私はどこで間違った考えをしているのでしょうか。未だ鬱であるだけなのでしょうか。

有り難し有り難し 22
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ずっと続く日常がこわい

こんにちは。sogoromoと申します。 就活がうまくいっていません。いや、うまくいっていないとかじゃなくて、実質的にほとんど就活をやっていないような状況です。 院まで卒業して、資格をとるまでしたのに、自分がスーツを着て毎日電車に乗って、働くということについて上手くイメージできないのです。 昔から、ぼんやりした性格でした。頭のなかでいろいろなことを考えめぐらせ、妄想するのが好きで、現実のことが手につかない。というより、私にとって、現実のことはいつも退屈で面倒で意味のないことでした。それでもこの年までは一応やってこれたのは、たまたま勉強ができたからで、でも仕事となるとそうはいきません。 目の前の現実と向き合って、きちんと対応できるようにならなきゃいけない。妄想と観念の世界に生きないで、地に足をつけなきゃいけない。でも私にはそれが、退屈だし、やりたくないし、もっというと、そこに埋没して人生が終わってしまうことがこわいんです。 決まった時間に朝起きる、決まった時間に出社する、決まった時間に寝る、というルーティンのなかに、布団をたたむ、掃除する、こなさなきゃいけない課題を片付ける、家賃光熱費を払う。大きなビジョンもないまま、ただ目の前のやるべきことに時間が消費されて、それで人生を終えてしまうのではないか。でも他方で、大きなビジョンを持とうとしても、一時的になにか希望を見出したとしても、結局長続きしない。本気で抱いてる希望や目的意識じゃないから、すぐにぶれるし、そこへ向けた地道な努力は続かない。 なんだか生きるということが、おれには虚無に思えてしかないです。飯食って歯を磨いてうんこして、金稼いで家賃光熱費と税金と生活費を支払って、そうして何者にもなりきれないままやがて死ぬ。バカバカしくないですか。 甘えてるし、幼稚なのかもしれません。まだ自分が何者かになれる妄想の中に浸っていたいだけです。でも、世間の大人のひとたちが、どうやってそこに折り合いをつけて、日々、地に足つけて生きてるのか、そこが本当にわからないんです。

有り難し有り難し 35
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