突然の質問申し訳ありません。 最近、私は失敗ばかりをしてしまい、なんて自分は惨めなんだ、出来の悪いやつなのだと思います。 昔から、そのような事を他人に打ち明けたいと思っても、こんな陰気臭い話、誰が聞いてて心地がいいだろうか、相手が嫌な思いをするだけだと思い、出来ません。 そして、そんな感情たちが心の中に積もりに積もって、もう消えて無くなってしまいたいと思うようになりました。 しかし、自殺をするとなると周りの方に多大なるご迷惑がかかってしまうと思い出来ません。家族、友人、サークルの先輩方、他にもアパートの隣の人なども私が死ぬ事によって良い印象は与えず、嫌な思いをしてしまうでしょう。 しかしもう、気持ちが明日へ向けなくなってきているのです。何を楽しみにしたらいいのか、何を希望にしたらいいのか、私にはもう分かりません。 キリスト教では、自殺はダメなことでが、仏教ではどうでしょうか。自殺しても天国へ行けるでしょうか。 ですが、こんな質問をしても明日は変わらないし、状況が良くなることはないとわかっているのです。本当に自分は弱いと思います。他人に縋ることしか出来ないのです。 最後にこんな質問をしてしまい申し訳ありません。また、文章も拙いので読みにくいと思います。本当に申し訳ありません。
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
職場の先輩が過去の自分の感情や経験を対人において説教し、悪者に仕立て上げ、高みにいこうとします。 相手のほうが知識も対人関係も良い形で積み上げていても全否定です。 横取りして蹴落とそうとします。 みんな前の人との続きだから入れ替えられてめんどくさいし リセットして始めるのに必要なのが祈りや題目や念仏や真言になるのかなって思いました。 話せる場所があって受けいれてくれる場所があって自己受容があると思いました。 介護施設で働いていますが、お年寄りは介護職員を観察されて自己再生されている。介護職員との人間関係の構築を自己再生の方法とされている。 私は心理学や真理を学び 日蓮聖人や念仏やキリストを考えることで自分や相手の不浄をリセットして正しい方法で自分との関係をつくろうとして、嫌な相手も自分の一部に入り込んでいることに気付く。 闘いモードで食ってかかってくる奴ら 信仰が癒されるものとして求めてみたけど 信仰ある人は、大変だけど永遠の成長ある人なのだと思いました。 慈悲を感じ、自己受容できて真理に気付き、また正しく自己受容するときに葛藤があり成長がある と 書いてる間に気付けました。 職場の先輩のことも成長過程なのだと思って理解して私の成長としたいと思いました。 ありがとうございました
先日、NHKで『戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜』という番組が放映されていました。 日中戦争、太平洋戦争の戦時下の動員に仏教自らも(当番組では対象を同派としていましたが、国民総動員法の元ですので宗派に関係はないと思います)戦争に加担してしまった、その実態を取材した内容でした。 77年前のはいえ、生々しい出来事の記憶です。 一方、日本史という仏教が伝来し、今日に至るまでの長い目で見たとき、お坊さんはある時、僧「兵」でもありました。また、信仰のため、民衆のため、中々アグレッシブな姿になる事もあったと思います。 私は、仏教については高校の教科書程度の知識しか持っていませんが、印象としては「穏やかな宗教」といったものです。 例えば、キリスト教やイスラームには「聖戦」という教義がありますよね。 では、仏教ないし仏教徒が「戦う」とき、戦いを「是」とする考え方はあるのでしょうか? もちろん、それぞれの事象の背景には「そうなる経緯」があります。ですので、一概には言えないと思いますが、こんな考え方、こんな教義があるというものがあれば、宗派関係なくご教示願いたいです。 あと、これは愚痴?ですが、いつも戦時下の鉄の供出にはがっかりします…お寺さんの鐘もさぞかし由緒があったろうに…。 お忙しい中とは思いますが、ご回答をよろしくお願い致します。
今の恋人との関係で悩んでいます。 大学生同士で、恋人は私のことを大切にしてくれており、このまま結婚したいと言ってくれています。私も彼の人柄はもちろん好きですが、結婚となると踏み切れません。 それは彼がクリスチャンだからです。祖父母の代からということで、生まれたときから教会とともに生きているようなおうちで、教会つながりの人間関係もたくさんあります。 他方、私の家は今どき珍しいほど古い慣習を大事にする家で、例えばお正月は年末年始の10日間はそれぞれやることが決まっていてお着物で本家に挨拶にいくような家です。それを窮屈だと思うことはありますが嫌だとは思いませんし、このような考えを大切にしたいと思っています。 恋人関係はほぼ当人同士のみの関係ですが、結婚は家同士の話だと思います。彼は、私は改宗する必要もないし例えばお正月の礼拝も嫌なら来なくて構わないと言ってくれます。しかし私は嫁に行くという立場ですから、そんなことをして相手方がいい気分になるわけもありませんし、私自身も居心地が悪いだろうことは想像できます。 また彼の話にたびたび教会の人間関係の話もでてくるので、それらに関わらなくてはいけないであろうことや、もし子供が生まれたらその子には幼児洗礼を受けさせるのか(私は無宗教論者なので嫌ですが彼は希望しています)など、彼がクリスチャンであることでいろいろな懸念がうまれています。 その他は、こまごまありますが、私を大切にしてくれる素敵な彼です。 私は結婚もしたいし子供もほしいですが、今後の環境は出会いの機会は多くないので、もしうまくいかないなら今のうちに結婚を見据えたお付き合いに切り替えるべきなのかとも思います。 私は考えすぎなのでしょうか?
こんにちは。バイオリンを習っている高校2年生の者です。私は親に呆れられるほどのクラシック音楽オタクで、いつもクラシックのことしか考えていないと言っても過言ではないくらいクラシックが大好きです。 しかし、私にはどうしても分からないことがあります。音楽に命はあるのでしょうか?人の奏でる音、楽譜、楽器、それら全てに魂が篭っているのでしょうか? ご回答お待ちしております。
こんにちは 仏教徒の皆さんは、クリスマスにケーキを召し上がるのでしょうか? 他にも何か特別な事をなさいますか? 幼いころからの疑問です よろしくお願いいたします
仏教は世界に名だたる宗教ですが、最も信者が多い宗教は何と言ってもキリスト教、ですよね?またイスラム教もかなりの影響力がありますし、それらの始祖たるユダヤ教も、アメリカの政経界に強い影響力を依然として持っていると聞きます。 そんな世界的な影響力の持つ、これら一神教が冠する「アブラハムの宗教の唯一神」に対して、仏教がなんのアプローチもした事がないとは個人的には考えにくいのですが、なんらかの仏教的解釈を加えて、仏教の中での位置づけ、みたいなものが決まっていたりするのでしょうか? ヒンドゥー教や神道などの多神教の神々を仏教の中に取り込んでいくのは、日本でも本地垂迹の歴史等があったように、既にやられて来たことですし、個人的にもそこまで波風が立つような事ではないと思います。 が、流石に「アブラハムの宗教の唯一神」を仏教の中に位置づけようとすると、各一神教徒から「そうじゃねーよ唯一神なんだよ!仏の中に入れるんじゃねーよ」と大バッシングが食らいそうで、なかなか難しさを感じます。 他宗教との兼ね合いの話になってはしまいますが、もし仏教として果敢に唯一神を取り込もうとした歴史や、または現役のお坊さんとして私はこう考えているなどありましたら、小生にご教授頂けたら幸いでございます。 ※最後に、小生はあくまで仏教や神道、一神教に対してはズブの素人です。質問文に根本的な間違いがあるかも知れません。その際はお手数ですがご指摘願います。
こんにちは。 いつも有難く多岐にわたる内容の問答を拝読させていただいております。 大変、ためになっております。 今年になり、やっと天照さまと氏神さまを家にお祀りさせていただきました。 神社・または神棚の前に行くと、気持ちがピシッとなる感じ・凛とする感覚・良い意味での威圧感、そして寺院・仏様の前に行くと、不思議な安心感・ほっこり感・言い方が悪いですが甘えたくなる感じ…があります。 さて質問なのですが「信心」の意味は、神様と仏様で意味が異なりますでしょうか? 自分なりにここhasunohaはじめネットや本で勉強した中、(かなり簡潔で申し訳ないですが)仏教では「菩提心を持ちそれを実行する」が最終的には信心であり信仰だと思っています。 神道で言う信心とは、主には「誓い」なのでしょうか? 自分的には神様に感謝をしつつも「絶対的であり恐れ多い」感覚を持っています。 うまく表現できずにすみません。 お教えいただければ幸いです。
既に両親を亡くしています このサイトでも多くの人が質問していますが 亡くなった親に会いたい。身近な人に会いたいと言う思いが強いです 不動産賃貸収入などがあるため経済的に困窮しているわけではありませんが 仕事も失いました。 勤めていた会社は、家族の介護を理由に休暇休職がほとんど取れないため辞めざるを得ませんでした。再就職できる年齢ではありません。 一人っ子でしたので兄弟もいませんし、もし今私が死んだ場合の法定相続人も現在はいません。 両親がこれまでやってきたことを無にしたくないために親戚から養子をとらないといけないと思っていますが 私自身はこれからの人生に何の目標もなく、ただ「両親に会いたい」と言う思いだけです(自殺するという意味ではないですよ) 昔もてはやされた霊能者番組ではあの世や霊魂が存在して、亡くなった人の声が聞けると言う話もありますが、私自身は目に見たわけではないので本当にそうなのか懐疑的です。 なお 私は大学では理工系を専門にして、学んだ分野としては かの 大槻義彦教授(超常現象や超能力などを否定することで有名)に近いです つまり、霊やあの世があって欲しい 親と会いたい と思う一方で 存在の証明がされていないものに対して俄に信じられない人間です 仏教でも 他の宗教(神道、キリスト教、イスラム教など)でも はっきり 霊魂やあの世の存在を証明した人はいないはずなのに なぜ 「あの世から最愛の人が見ています」と言える宗教家が多いのでしょうか? 私は慰めや気休めを聞いて自己満足をする気もないですし この先の人生相談をするつもりもありません 私にとって関心事は「何が真実なのか?」ということと 亡くなった親にもう会えないなら辛くてたまらない(それも願望を持ち続けるだけで終わりにしたくない) と言う思いだけです 亡くなった人が自分を見守っている と答える宗教関係者が多いですが なぜ自信を持って言えるのでしょうか?
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
私は今、独学で仏教の勉強をしています。 仏教を深く知るにはまず、仏教の教えの内容含め、その思想が生まれた背景と、変遷を知るのが良いだろうと考え、現在私は仏教史を勉強しています。 そして今現在、仏教が生まれた古代インドの世界の理解に非常に難航しています。 インド哲学に馴染みがなかったのに加えて、大量のカタカナと抽象的な語句が大量に出てくるので、混乱してしまっているのです。 古代インド世界とインド哲学を知れば、釈迦がどのような状況で、どのような経緯と意図で教えを説いたのか、正確に知ることができると考えたのですが、もう既にリタイアしそうです。 お坊様方は皆どのように勉強なさったのでしょうか。 仏教を理解するには、どのように勉強すれば良いでしょうか。 ちなみに、勉強で用いている本は「新アジア仏教史」です。 そして、今現在の私の仏教の知識の度合いは、大まかな基礎を知っている程度です。 よろしくお願いいたします。
初めて相談申し上げます。一人でずっと苦しんできました。この場所を見つけて、本当に嬉しいです。宜しくお願い致します。 私には息子と娘(共に30代)がおります。元夫とは昔に離婚いたしました。 苦しくて、苦しくて堪らない悩みがあります。娘には生来、重度知的障害があります。会話はありませんが、いつもニコニコと可愛い子です。辛いのは知的障害ではなく、付随する二つの持病です。てんかん発作と嘔吐症です。 嘔吐症は、器質的にどこかが悪い訳でもないようですが、本人の意思の外で神経的にスイッチが入ると吐きまくって止まりません。安定剤を処方されたこともありますが、只ボーっとするだけで嘔吐自体には効きませんでした。一日に数十回と何日も吐き続けるので入院を繰り返した時期もありました。嘔吐の合間を縫っててんかんの服薬をさせるのが大変で、神経を苛まれます。薬が身体に入らなければ恐ろしい発作が起きます。風邪の引き始め等、ちょっとした体調の変化、ストレスがきっかけで吐き始めます。外泊も大きな引き金です。ホテルや施設等に私と一緒に泊まる練習も重ねてきましたが、施設での単独宿泊には遥かに遠い道のりです。 そんな娘を残して、私はいつか死なねばなりません。入所施設にお願いするつもりですが、施設の方々がどれ程熱心でも、私ほどの目配りは無理です。産み育てた私でさえ逃げ出したくなることが何度もありました。仰向けのままバーッと吐くこともあるので、吐瀉物を誤嚥すると思います。私の死後は長生きしないと思います。私の魂は、死後も娘の頭上をうろうろして、「吐かないで、吐かないで!」と唱え続けるんだろうと思います。 どの様な心の持ち方をすれば、この苦しみ *「ここが痛い」とさえ言えずに、吐き、発作を繰り返す子を残していく不安。 *私から娘を託される息子が引き受けることになる辛さを思う申し訳なさ。 から救われるのでしょうか?以前、キリスト教の本で、「自分より大きな神に子を託すのだから安心できる」と書いてあるのを読んだことがありますが、私はとてもそんな心境には至りません。 どの様に思えば安心して死ねるでしょうか?それが分かれば安心して生きてゆかれます。どうかお教えください。お願い申し上げます。
私はクリスチャンホームに育ち、現在学生で実家暮らしです。 20代になりそろそろ親から離れたいという思いがあり、夜のラウンジでフロアレディのアルバイトを始めました。多分非行に走りたい思いと、お金が欲しい思い、若いうちにしか経験できない等の気持ちからです。おばさんになってからじゃ世間的に価値を認められないから。 キリスト教的には女性の処女性はとても大切とされていて、母に思春期の時教育されたため、長らくそういう経験はなかったです。婚前交渉は罪深いことだと思う一方で、周囲の友達が彼氏とのあけすけな話をするのを少しの嫌悪感と羞恥心を覚えながら聞いていました。 昨年12月に初めて店のお客さんと関係を持ちました。気の合うお客さんだったし、罪深いとは思ったけれど、私の初めてにそれほど価値があるとも思わなかったから。拗らせてるみたいで恥ずかしいという思いもありました。痛かった。でも終わってみると「なんだこんなものか」という思いが湧きました。 聖書でも旧約の時代の何千年も前から売春婦はいたし、職業に貴賤はないし、悔い改めれば許されるはずだし…そう言い聞かせました。 その後店に客として来た若い男の子とお付き合いすることになり、その人は真っ当で、関係を持つのはお付き合いしてからが良いし、大事にしたい、浮気しないでほしいと真剣に言ってくれました。 (彼と交際前段階の状況でも、店の別のお客さんとも関係を持っています。全然良くなくて痛かった。) 彼とは交際がスタートしてから、関係を持ちました。優しくてうれしかった。 でも、婚前交渉には変わりないから罪の意識はありました。 彼が真剣に言ってくれたから、客と関係するのはもうやめようと思いました。でも私は断れない性格で、ママにも太客を捕まえなさいと言われるし、断って怒らせるのも怖いし、もう一度罪を犯したのだから2回も3回も変わらない気がして考えないようにその場限りでフラフラしていました。 先日、中国人の御新規の客が来て、私を気に入ったようで何言ってるか分からないけれど、アフターに連れて行かれ、そのあと腕をつかんで引っ張られて宿泊している部屋に連れ込まれました。さすがに嫌だと言いましたし、抵抗しましたが、怖くて流されてしまい、結局既遂です。これはレイプだったけど、そもそも貞操観念が緩い私がいけなくて、でももうどうすればいいか分からないです。
私は19歳です。今までしてきた無礼な行動、思想、参拝方法のせいで私は家族に多大な死んでも償いきれない天罰が下ると考え、死にたくなっています。 精神的に病んできたのはコロナ渦と父が交通事故で大怪我を負ってしまい家族全体が暗い雰囲気になってしまったことによるストレスからの強迫性障害によるものです。 最近神様や仏様について考えるようにりました。そうすると、今までの私が行ってきた悪い行動、未成年にもかかわらず神社のお祭りで飲酒をしていたこと、未成年にもかかわらず、朝にお寺の前で和尚さんが掃除をしている前で喫煙してしまったこと、浅草寺にお参りした際、お参りの作法を間違えた上におみくじを引いた時に引いた番号が見えなかった為、出てきた数字の書かれたものをもう一度出して見てしまったこと、キリスト教会の前でスケボーをしたり、教会の前にある塀で壁当てをしていたこと。お寺のある公園の前でスケボーをして遊んでいたこと。母、父、弟の財布から、自営業の祖父の家にあるレジからスリをしてしまったこと。この盗みをしてしまった状況は全て神棚や神社で頂いたお札の下でおこなっていたことです。お札と仏壇を向かい合わせにしてしまっていること。昔頂いたお守りや、お札を丁寧に扱わず汚したりかなりの折り目をつけてしまったこと。家にある神社で頂いたお札の下でタバコを吸ってしまったこと。アルバイトを何度も無断で欠勤し、無断で辞めてしまったこと。 このような今までしてきた行為を思い出し、自分には必ず天罰が下り、自分の命を落とす。あるいは家族に死んでも償いきれないような迷惑をかける。このような考えこそ無礼だと思いますが、神様や仏様の力により世界を変えてやってもいない罪で死刑、または何億円もの損害を家族に生じさせてしまうと考えています。 天罰について調べたのですが、天罰は本当に下る事を知りとても怖くなりました。このような事の積み重ねで自分には必ず天罰が下ると考えています。 この先のことが怖くて怖くて本当に死にたいです。しかし、今ここで死んでも私は地獄に落ちるだけなので、生きてても死んでも地獄だと考えています。私はこれからどうすれば天罰が下されず、平穏に過ごせるのでしょうか。 乱雑で読みにくい文になってしまい申し訳ありません。本当に反省していて、夢も叶わなくていいので家族に迷惑をかけずに平穏に暮らしていきたいです。
何年もずっと考えている疑問があります。 『何故この世界は残酷なのか』 私は神様も仏様も運命も信じています。敬虔な信者ではありませんが、キリスト教も信仰しています。 現在ウクライナでの戦争で、日本含め世界中(主に欧米諸国ですが)の人々が戦争に反対し、ロシア国民の中にもロシア政府を非難する声をあげていますよね。 多くの人が平和を望み声をあげているのを見て、彼らの善良な心に感動する反面、『ウクライナだけ?』とも思ってしまいます。 戦争はシリアやアフリカ、ベトナムでも未だ続いています。 ひいてはウクライナでのロシア政府による殺戮より、もっともっと非人道的で残虐な行為が私がこうして文字を打つ間にも起こっています。 あるイギリスのキャスターが『彼らが青い目をした私たちと同じ白人だから声をあげるんだ』と言って非難されていました。 しかし、それが事実なのではないのかな?と思います。 非難した人々は、有色人種の危機に何かしたんでしょうか。 実際、シリアではアメリカは軍を派遣しただけで他の国も何もしていません。アフリカでの内戦なんて放置です。自国の利益に関係ない事だから、アフリカはそういうものだからで片付けられている気がしてなりません。 実際、日本のニュースでもそうですが不倫なんかが取り上げられて、他人が口を出す。 ウクライナの問題が流れれば、戦争反対と言う。 でも、ウクライナ以外での人道的危機は取り上げられず、寄付も集まらず、ましてやデモなんて起こりもしない。ほとんどの人は知らないし、知る気もない。 他にも思う事柄はありますが、 私自身も含めて、人間ってこんなものなんだなとずっと感じています。 何を言っても綺麗事で、エゴにまみれていて、何が美しい世界なんだろうと思います。 何故産まれてしまったのか、意味なんて無いのかもしれませんし、そんなものは自ら定める事とも思います。 いっそ消えてしまいたくなる日も少なくないですが、自死は神様が赦してくれず苦しみは永遠に続くもの、試練を乗り越えて往生しなければならないとも理解しています。 月光の歌詞が気持ちにとても近いです。 人間って本当に不完全で醜いです。 こんな事真面目に話し合える人もおらず質問させていただきました。読みにくくてすみません。 よろしくお願い致します。
私は 以前 お不動さん、観音巡りもしたことがあります。五戒をおこさないようにと思い 写経をしたりもありました。 日蓮聖人の教えを弘教している人達に 会うことが 多くなり 仏教の教義 謗法について 回想することになりました。その時から 幻聴が始まりました。 救いや懺悔を 日蓮聖人のご本尊にすればよかったのでしょうが 攻められているようで 他の宗教や念仏に救いを求めてしまいました。 キリスト教の本を読んだりして 教会に行ってみたり 新興宗教から日本神話を読んでみたり 神社に行ったり しましたが 原因になった仏教が気になりました。 日蓮聖人は 法然さんを 立正安国論で 謗法といい 布施までやめるように 国に論じてました。法華経を捨ておき 念仏を信心しなさいと言われたから法華経に対する謗法だということでした。法然さんは 他のお坊さんからも意見が多かったようですが。法然さんは 他は 気にしないで 念仏をしなさいといっています。 法然さんの教義では 念仏以外を謗法とは言わず 雑行と言われてますが 気になります。 法然さんは 法華経を学ばれた上で 念仏を選びとられたのだと思いますが 私は 自分が救われるのかが不安です。かといって 日蓮聖人の教義に没頭するには 不動巡りや 法然さんに 執着があったのだと思いました。 お寺にいってもお坊さんには 聞きづらく またどういって伝えたらいいのかもわかりませんでした。 幻聴があることでの死への恐怖があります。克服したくて 介護の勉強 カウセリングの勉強をしています。 幻聴がなくなり 仕事として 役立てたいのです。が 幻聴があることで自信がありません。 幻聴は大分落ち着いたのですが 仏教を正しく学ぶことで 良くなることを願ってます。 メールで お話しできることが 救いです。 祈祷を頼むのもいいのかなぁと思ったこともありましたが 思いも定まってなく 内容も深そうで 迷惑かなぁとも思いました。 お墓は 宗派問わずとありますが 質問も宗派問わずでいいですか? 法華経と 念仏は 敵対してるのですか? 私は 宗派より 心が整理できて 赦され 勉強している介護やカウセリングが 人に役にたつ仕事が できるようになりたいのです。 よい方法はないでしょうか?
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
おかげさまで内定が二件出ました。 どちらの道を選ぼうか悩んでいます。1つは情緒障害児短期療養施設での児童指導員の仕事です。住み込みでの仕事です。基本的にチームワークのようですが、1回の労働時間がかなり長く(職員から聞いた実情)、子供たちの心の闇に向き合うことに対応していけるかどうかが分かりません。まだ若くて、病んだ過去がないならこんな不安は覚えなかったでしょうが……施設の各通路の扉は施錠が常で圧迫感があります。 常務クラス二人による面接時に感じた威圧感が気になります。キリスト教の牧師も兼任する方のようですが、訊かれたことは私自身のことよりも、定年した父親の職業、職位のこと。現職場の理事長(知り合いのようです。私とは折り合いが悪いです)をどう思うかなどが中心でした。保守的な印象です。 もう1件は、知的障害者と高齢者の入所施設を運営している法人です。こちらは理事長はじめ、理事8人くらいによる面接でした。私個人をよく吟味しようとの姿勢が感じられました。私の社会福祉に対する思いにも、共感していただけました。理事のなかには、女性、障害者の方もいました。開明的な印象です。こちらもチームワークが基本です。給与も含め労働条件はこちらのほうがいいです。自宅からも通勤圏です。 いずれの法人にも病んだことは告げてあります。前者も後者も尊い仕事です。後者は経験のある知的障害の分野です。実際に施設を見て感じたときのメタ認知では、後者を選んだほうがいい気がしました。 内定後両法人から感じたこと、調べて得た情報などを紙に書き出してみました。そして、前者の情緒障害児短期療養施設に後ろ髪引かれる理由が1つに絞られました。それは見学時に見た一人の女の子です。変な意味ではありません。自転車で職員と遊ぶ姿がけなげでした。私はこの幸薄い子たちと寄り添うべきなのではという気持ちが捨てきれないでいます。ここに行かないという選択は子供たちを裏切る行為なのではと、悩んでしまいます。私自身に子育ての経験がなく、これからもなさそうなことも影響しているかもしれません。 ただ自分の生活基盤を築く必要があり、両親のことも気がかりです。特にあまり丈夫ではない母のことがあります。自分で決めなければいけないことですが、とても苦しいです。 ご助言をいただきたくお願い致します。
この世界が嫌いで嫌いでしょうがないです。 私はこの世界の苦しみを毎日毎日受けています、 しかもそれが誰かから受け入れられる事もなく私は誰1人悩み相談せず宮沢賢治の雨にも負けずのような生き方をしています。 毎日、理論物理学を勉強して本気でセルンに協力してミニブラックホールなどで宇宙や遺伝子がなくならないかなと考えたりするほどです。 この宇宙や生物の仕組みが神秘的とは反対でクソほど汚らしいものにしか思えないのです。 この世界を作った何かはおそらく最悪な存在です。 このクソ世界から逃れるには解脱しかないと言われてますが、その解脱は、なんとくだらない仏教の何かを追求しないといけないそうです。 しかもそれはある所では踊りで、ある所では念仏で、ある所では修行とかで笑ってしまいます。 それって仏教の悟りは客観的なゴールがないということではないか!? しかも悟るには時間かけないといけないし、仏教を理解できる知能が必要。 輪廻転生のルールを作った奴って意味不明じゃない? 悟れねえよ、人生苦しんでる時にどう仏教の追求すんだよ、どう修行とかするんだよ。ふざけんなよ。 私は仏教の矛盾に対して質問しましたが、"万人は信仰の自由がある"と言われました。 という事は結局は、仏教はみんなに取っての客観的な答えがあるものではないということですよね。キリスト教を信じてる人はゴッドを信じていて仏教の人は別の概念を信じていてそれは結局相対的でこの世界の後の世界は誰も説明できないという証拠ですよね。 結局解脱する方法はきちんと仏教を勉強できる恵まれた人、知能が高い人、仏教系の子息に生まれた人、時間が取れる人、人生に苦しんでない人という多大な時間を取らないといけません。 それならやはり解脱できない不幸な人間は自殺しかないのではと思います。 このクソルールを作った世界のゴッドだかアッラーだか宇宙だか何だか知らんがクソ制約を個人にてるくせにクソみたいに恵まれた人しか得れないシステムを作るゴミが設計してる。 さあどうすればいいのだ? 恵まれない奴はどうすれば解脱できる? どうこの苦しみをコントロールできる? それが輪廻転生のゴールと言われたら誰もゴールできねえし満足するわけねえだろ全知全能とは思えんしクソだろ。