お坊さん 隠者、厭世者、世捨て人、ニートの違いはなんでしょうか。 単純な興味本位の質問で恐縮です。 最初の2つは仏教やキリスト教など、なんらかの宗教を信じて、修行を実践している人のようなイメージがあるのですが、現代でもいらっしゃるのでしょうか。何を目的に、どんなことをして日々を過ごしたら、上記の人々のようになるのでしょうか。
以前からこのサイトを拝見させていただいてましたが、初めて質問させていただきます。 就職が決まり遠距離になって一月半の彼から、先日フラれました。 彼からの熱烈なアピールで結婚を前提に交際を始め、とても優しく尽くしてくれました。 対する私は、年下の彼が学生の頃から色々な面でサポートをしてきたつもりです。 しかし、慣れない仕事、初めての土地での一人暮らし。 彼が責任感が強くプレッシャーに弱いのを知っていたはずなのに、支えてあげることができませんでした。 それどころか、毎日くる愚痴の電話を少し鬱陶しいとさえ思ってしまいました。 そんな私の言動に彼の気持ちは冷め、借りや義理しか残らなくなり、考え抜いた結果別れを言い渡されました。 その場で泣いて足掻きましたが、チャンスは貰えませんでした。 私自身いつも自分の心変わりで恋人を取っ替え引っ替えしてきて、優しい彼の為に彼だけを見ていられるようにとしてきた行動が、傷つけ疲れさせてしまったのだと思っています。 また、彼からの熱烈なアピールが始まりで自分の気持ちがよくわからず、「好きだ」と言葉で伝えることもほとんどありませんでした。 失って初めて、とてつもない独占欲が出てきました。 彼が誰かを好きになるのも、誰かに好きになるのも耐えられません!(恋愛感情において) 今のまま復縁を迫っても、悩んで悩んで決意した彼には届かないと思い、原因であろう言動を直すため心理学を少し勉強しようと思っています。 彼を追いかけた時にアルバイトも辞めたので、次は自分にプラスになるような仕事を探そうとも思っています(約束で一人暮らしのところに追いかけた日にフラれました) まだ時間がさほど経っていないのはわかっています。 しかし、このまま忘れてしまっていいのでしょうか。 30歳直前にして焦っているだけなのでしょうか。 ろくに友達も無く、自分には勿体ない程の人と気が合い、アピールしてきてくれたのが惜しいだけなのでしょうか…。 出家して修行したいなと感じているのもただの逃げなのでしょう。 どうか皆様の意見をお聞かせくださいませ… 長文、乱文失礼致しました。 ここまで読んで下さってありがとうございます。
毎日虚無感を感じながら過ごしていて、どうしたら明るく楽しく生きられるか考えています。お坊さんのお知恵を貸していただけないでしょうか。 まず、私は仕事もあり、生活は不自由なく、大病も患っておらず(うつ病という診断や持病はあるが)、趣味に打ち込むこともできています。とても恵まれた環境にいると思います。 平日に主にデスクワークの頭脳労働をしていて、休日は土日祝日有休をフルに使って、激しく体を動かす遊びをしています。毎週末に好きな運動をするのが楽しみで、平日は週末のことばかり考えています。週末に身体を酷使するため、平日は毎日身体が重く(特に週の前半)、頭も回っていません。それでも週末に遊ぶお金を稼ぐために、頑張って働いてい(るふりをしてい)ます。 周りから見たら悩むことなんてないように思えるかもしれませんが、毎日憂鬱です。仕事ではプレッシャーがあり、常に周りと比較し(比較しないように心がけていますが難しい)、自分の情けなさに辟易しています。成果を出さなければ、任期が切れた時に次の職もありません。そうでなくても、昔思い描いていた理想像からは程遠く、自分の能力の低さに自分が一番がっかりしています。 週末の遊びがいくら楽しくても、人と比べてしまい、自分のやっていることの小ささを考えてしまいます。もっと難しく、周りの人があった驚くような成果を出したいという気持ちもあります。そんなことをしても意味はないのに。自分が楽しければそれでいいのにと思う一方で、そう思い切れない自分もいます。 週末に遊んでいて疲れているから平日に身が入らないというわけでもない気がします。でも少し遊ぶのをセーブすればもっと仕事を頑張れるかもしれません。でもこれ以上遊ぶ時間を削るのはしんどいてす。そのために生きているのですから。でもその遊びでさえも人と比べて落ち込むことがある。八方塞がりです。誰もいない世界で自分1人だけになりたい。それが無理なら、明るく生きる方法が知りたい。年齢を重ねるにつれ、生きているのが辛くなる。これからもっと辛くなるのかと想像すると、もうここで終わりにした方がマシにも思えてきます。助けてください。
こんばんは。 私の兄は、昔からお金にだらしがなく両親や祖父母に借金をしていました。 そんな兄が昨年結婚しました。しかし、兄もお嫁さんも実家で暮らし同居しません。 実家で暮らすなら、お金を家に入れて欲しいと頼みましたが『借金があるしお金がない』の一点張り。 家族みんなで生活費を出し合い、協力しあって暮らしているのに兄だけはマイペースに暮らしています。そんな兄と一緒に生活しているとイライラしてしまいます。 どうすれば、この怒りの感情をなくすことができますか?
人生がつまらないです 全てのことが嫌です まず休日がつまらないです 私は大学生で実家暮らしなのですが母が厳しく土曜は必ず掃除機をかけなければいけません 風邪以外などとにかくやらなければいけません そして課題等やることをしお昼、午後は録画したドラマを見る という土曜を5年くらい行っています これは自分も悪いですが友達が少ないのと恋人がいなく本当はデートなど出かけるなどして楽しく過ごしたいと思ってます 毎週遊ぶ訳には行かないですがとにかく楽しい休日を送るのが理想です 友達はたまに遊ぶくらいです 掃除機をかけていると 「私の休日は掃除機をかけるためにあるのか」とか思ってしまいます 掃除が嫌いとかではなく(本音は嫌ですが)掃除機かけてる人生ってダサいなとか思ってしまいます 芸能人や金持ちなど幸せに暮らしている人がいるのになんで自分は惨めなのかと思ってしまいます 一人暮らしもしたいですが金銭問題、その他色々難しいです 録画したドラマを見てる時楽しいですが見終わった後終わってしまって心が空になったりします 日曜日は買い物とかしますが大して楽しくありません 何をすれば楽しいかというよりこの状況、人生に不満がある気がします ということをずっと悩んでいます 来週も1ヶ月後も1年後も同じ気持ちになる気がして嫌気がします カラオケなどストレス解消しても心の悩みは消えません いっそ出家とかしたほうがいいのでしょうか 生きるのが辛すぎて死を考えたりしてしまいます(人生が楽しくないので)
妙音菩薩品第二十四で 「聲聞の形を以て得度すべき者には、聲聞の形を現じて爲に法を説き…」と、ありまして 観世音菩薩普門品第二十五 「聲聞の身を以て得度すべき者には、卽ち聲聞の身を現じて爲に法を説き…」と、ありますが 「形を以て」と「身を以て」で、うん?どう言うこと??似ているようで全く違うものだし、この違いはなんなのかな?と。 すいません、まだ二十四を数回しかあげたことしかないのでまだまだわからない部分が多々ありますし、理解力が及んでないのも十分に承知しております。 もし、教えて頂ければ幸いです
私は精神を病んでおりまして病院で薬をもらいながら自宅療養をしております。仏教は中学生の時ぐらいから興味を持っており、そのときから大人になったらお坊さんになりたいと思っておりました。しかし、高校時代にいじめを受けてしまいました。その後、大学には行ったものの、途中で精神病になってしまいました。仏門の世界は精神的にも体力的にも厳しいとお聞きします。今の私の精神状況や体力ではとても出家は無理なのではないかと思えてしまいます。しかし、どこかで自分が変わらなければこのまま歳だけとっていき悲惨なことになってしまうのではないかと思い、眠れなくなることもしばしばあります。こんな私は一体どうすればよいのでしょうか。
初めまして。私の悩みは20歳頃から過食が続いている事です。過食症で色々な病院へ行きましたが治癒していません。過食が発症すると仕事も続けることができません。 過食の原因を特定する事は出来ていません。 ただ、20歳からしている今の職業が自分に合っていないのでは…と最近よく感じます。 この数年、瞑想をする方との縁があり、禅の生活を取り入れた時は、過食が落ち着きました。(しかし、今は禅の生活から離れ、坐禅は出来ていません。) このままでは、心身ともに疲弊してしまいそうなので、どうにかしたいです。今の仕事を辞めて出家しようか、それとも夢である、結婚をして新しい家族を持つことで何か変わる事が出来るだろうかと考えています。 何かアドバイスを頂ければ…と思います。宜しくお願いします。
特定の宗派に属することなく仏教と関わることについてどう思いますか? 私は仏教に関心のあるものです。悩んでいる時に禅に関する本を読み、だいぶ心が楽になりそれから仏教に興味を持ちました。YouTubeで僧侶の方が視聴者からのお悩み相談に答える動画を見たり仏教の本を読んだり、お寺を見に行ったりするのが好きです。自分なりに仏教と関わり楽しんでいます。 私は普通の会社員であり、出家したりどこかの宗派に属するというつもりもありません。ただ一つの宗派だけにこだわることなくいろんな宗派の仏教の考えも知りたいです。この様に一つの宗派に属せず横断するものについて僧侶の皆様はどう思われますか?邪道でしょうか。
浄土教(浄土宗あるいは浄土真宗)の深い信仰に入りたいと思っています。もちろん出家ができればベストなのでしょうが、なにしろ仕事もある身ですから、在家のまま信仰が持てればと思います。勇気を出して近くの浄土真宗のお寺に見学をお願いしたこともあるのですが、門前払いの対応に落胆し、それ以後どこの寺院にも連絡できていません。昔の日本ではお寺は「駆け込み寺」であり、もっと庶民にも門戸が開かれていたそうですが、近年は本当に「葬式仏教」になったのでしょうか? ただ、そうも思いたくはなく、深い信仰をお持ちの僧侶もおられるに違いないとも思います。ご自分の体験から、在家のための信仰の入り方についてお導きください(ちなみに、仏教関係の読書はある程度は広く浅く行ってきました。もう200冊以上は読んできたかと思います)。
はじめて相談させていただきます。 二人の子を持つ兼業主婦です。 今までフルタイムで仕事をしてきましたが、この冬に入り、仕事と家事の両立が体力的にきつくなり、帰宅すると、息をするのもつらかったり、めまいや吐き気、腹痛などもおこり、食事も前のように食べられなくなり、涙もとまらず、このままだと、精神的にもおかしくなってしまうと判断し、職場にお願いして、パートに切り替えさせて頂きました。 しかし、夫は、今は具合が悪いからそう思うのであって、老後を考えるとフルタイムを続けた方がよい、今は動くべきではないと、話していました。そのことで口論になり、最後は夫があきらめました。 私の具合が悪いので、実母が助けに着てくれていた矢先、実母が普段介護していた祖母がなくなり、私の体調不良がなければ、祖母もまだ生きれたのかも、とも自分を責めています。 また今、体調がよくなってきて、冷静に考えると、夫の言っていたことも正しく、今度は実母の老後も見ていきたいという思いもあり、フルタイムを辞めなければよかったとも思います。 人手不足の職場にも迷惑をかけていますが、今さらフルタイムに戻ることも、手続き上できません。 八方ふさがりに思ってしまうのは、自分に覚悟がなかったためだと思いますが、あのときの精神状態では、あの決断しかなかったとも思ったり、また、私がもう少し堪えてフルタイムを続けたならば、祖母も母のことも丸く収まっていたのではないか、とも考えてしまい、苦しいです。 仕事は好きでやっているので、仕事も沢山できないのも辛いです。どのような心持ちで人生を送ればよいのでしょうか。
仏教は面白い。 インドから北周りに来日した文化ですが、 その途中で、様々な宗派がありますよね。 ○○仏教とか、○○教とか。 あ、日蓮大聖人を正当と見ている学会もそうですか。 私の名前は、数ある仏教の中でも密教に由来します。 「強く、賢くあれ」という願いが込められたものです。 「弘」の字が含まれていますから。 名前負けしないような生活を送りたいと思っています。 公開しても私自身はかまわないのですが……やめておきます。 何をもって強くありたいのかがよくわかりませんが、少なくとも1分野で力をつけたい、強くなりたいと思っております。 何をもって賢くありたいかは、よく分かっています。私の外見、すごく賢く見えるそうです。なので、目標は「自分の外見に負けないくらい」です。 賢さは表情に出るので、終わりのない戦いになるでしょう。それは百も承知です。 内向的、と言えば聞こえは良いですが、心療内科で「うつ傾向」と診断されています。 だから、することがない時はひたすら何かしらについて考えております。 自分自身の弱さは勿論、自分を取り巻く社会のことも。 さて、自分の姿勢は曲げないつもりでいますし、曲げるのも難しいのですが、ふと、疑問に思ったことがあります。 ・神仏習合前の仏教において創世記とは、ガウタマ・シッダールタ王子を出家に導いた四苦でしょうか。 ・王子が悟りを開く直前に悪魔の囁きがあった、とありますが、仏教における悪魔とは何でしょうか。 不躾ではありますが、よろしくお願いいたします。
キリスト教であれば、プロテスタント、カトリック、どの宗派にしても教会に行くと毎週、聖書講座はあり、また信者、洗礼を受けていない私には分かりにくいですが、ミサや礼拝に参加し、教えて貰うことはできます。 仏教を学びたい場合は、どのように門戸を開いたらいいのでしょうか。
とにかく死にたいのです。 精根尽き果てました。
初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。
はじめまして。 娘が重度障害で持病も複数抱えてること、私自身も幼少気に現在の土地に引っ越して以来、あらゆるイジメやハラスメントに遭い続けてきたこと、両親からの精神的虐待で双極性障害などの精神疾患を発症して長いこと寛解の見通しが立たず、先が見えないのは誰のせいでもないとわかっているのに、 友人知人はてには親戚の子が健常者でトントン拍子に進路につけたという話を聞いたり、また自分自身も双極性障害と慢性の甲状腺疾患で娘と併せて月に何軒もの医療機関を回っていて働きたくても働けないことにも負い目を感じない日は無いことからの反動か、日ごろは「よそはよそ、うちはうち」と抑えることができているのに、嫉妬心を表面化させてしまい周りと摩擦を起こしては人が離れていっては後悔と自己嫌悪を繰り返しています。 このたびは、とあるミュージシャンのライブがきっかけで仲良くなった人たちが多くの公演会場に行けるのを羨むあまりに、結果的に傷つけてしまいました。 そんな自分が嫌で、妻や母親としても社会人としても失格ならば、せめて出家して仏様の役に立ちたいのですが、あるサイトで調べたところ現代の尼さまは大卒で英検など外国語の心得があること等々ハイスペックであることが条件だそうで、田舎のすごく偏差値の低い、これまた在学中は不良だらけで荒れていたなかで校舎の片隅で縮こまっていた私としては、社会にも出られず出家もできず人生詰んでしまっています。 このような役立たずは、自殺しかなすすべが無いのでしょうか?教えてください。
明けましておめでとうございます。 昨年は色々とありがとうございました。 新年になり、ふと思い出したことがあるので二つ質問です。 一つ目はある私の大嫌いなパンクな僧侶が、 『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし』 という歌を残して、正月に京の街をシャレコウベを持って『ご用心なさい』と言って練り歩いたという逸話があります。 最初は、死に近づいてるのだから有難がるなよ、髑髏のような死体になるから気を付けなさい、という意味かと思っておりました。 しかし最近は、『寂滅為楽の涅槃に近づいた。めでたいな。でもまだ涅槃への道は遠い、めでたくないな(浮かれてはいられないな)。用心してしっかり行かないと』 と考えるようになりました。皆様の解釈はいかがでしょうか。 (死や死に向かっていく事に対してはめでたいも、めでたくもないのですが) 二つ目は、婆子焼庵という公案です。 内容は以下転載です。 『ある老婆が、一人の修行僧のために草庵を建て、 衣食住の一切を世話をして20年が過ぎた。 そこで「そろそろ いいか」と、娘を世話する ことにした。すると 修行僧は「枯れた木が 寒い岩に立つように、私の心は燃えない」と 言って、娘の誘いをはねのけた。 娘からその報告を聞いた老婆は「20年も世話 してきて、まだ こんな生臭さか!」と怒り、 修行僧を追い出し、庵も焼き払ってしまった。 さて「婆さんの真意はいかに」というもの』 私なら、何故私を気に入ったかを聞いて顔や身体です、とか言われたら返事を翌日まで保留にして、そのまま旅に出ます。 性根や内面が気に入った、とか言われたら、一緒に出家しようと誘います。 片方が顔や身体を気に入って、もう片方の人が内面とか言われたら内面が良いと言ってきた人を出家に誘って、庵を出ていきます。 皆様はどんな解釈や回答になりますか? (作麼生・説破の使い方が違うのはお許しください)
田舎にあるお寺の娘です。 現在、父が住職をしていますが、現在跡継ぎ問題に直面しています。 うちは三姉妹で、両親は、いままでも私たち姉妹に寺を継ぐよう強く言ったことはなく、今回、両親が高齢になってきていることもあり、このタイミングでと思い、私から今後のお寺について相談?した際にも、「わたしたちが幸せになるのが一番だから」と、寺を閉じることも視野に入れて考えているようです。ですが、やはり話をしていると祖父母や代々寺を守ってきたご先祖様に申し訳ない、悲しいという気持ちも汲み取れます。お寺を閉じるという選択は、私にとっても心苦しいものでもあります。ですが、自分自身が出家して尼僧になり、後を継ぐという覚悟も決まっているわけではありません。。 ちなみに次女は結婚して家を出ており、長女は何度かお見合いもしましたがいままでは良いご縁がありませんでした。わたしは現在、一般の方と5年ほどお付き合いしており結婚も視野に入れていますが、私以外に望みがなく、私がお寺の後継者の方とご縁があれば、お別れすることも考えています。 現在の選択肢としては、 1.姉妹の誰かがうちのお寺を継いでくれるどなたかと結婚する 2.姉妹の誰かが出家し継ぐ 3.お寺を終う 上記のいずれかなのかと思います。 跡継ぎ紹介システムなど、検索してみましたが、よくわからず。。 また、父が言うにはうちのお寺は過疎地域にあり、経済的にもここを継ぎたいという人を見つけるのは難しいだろうと。。 確かにお寺だけでは収入は十分ではなく両親は他の仕事もしています。しかしお寺自体は歴史もあり、このまま閉じてしまうのは悲しいです。今後お寺を続けていくにしても、なにかお寺自体も盛り上げていく新しいやり方が必要なのかなと思います。 似たような境遇の方のお話や、跡継ぎ問題、過疎地域にあるお寺の存続問題など関してなにかアドバイスのある方がいらっしゃれば、お答えいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
たびたび何度も申し訳ありません。 次々とやってくる試練を乗り越える事が出来ません。 今の時代、死ぬ事すら出来ません。 身体、社会的問題、人間関係。 頑張りも限界です。 乗り越えられません。 世間から離れ、静かに「生きて」いくためにはどうすれば良いのでしょうか。 お寺などに行くと、一時、心がら楽になります。 楽そうに見える。と言っているのではありません。 沢山の事がありすぎて抱えきれません。 静かに、心惑わされず、丁寧に生きて生きたいです。 仏の道に進みたい そう考えるようになりました。 病気の身体でも仏門を目指す事は出来ますか。 どうすれば良いのでしょうか。
同じような悩みはたくさん寄せられていますし、わざわざ質問するのもどうかと思ったのですが、アカウント登録してしまいました。 自分はとにかく面倒くさがりです。 この世で起こっている出来事は絵物語のようです。 わざわざ苦労してまで生き続けるのはやはりナンセンスです。 断食や息止めも試しましたが長く続きません。 いっそ不食者になりたいです。 断食のコツも知りたいです。 片付けも遺書も中途半端になってしまいました。 人とかかわるのもやめれたらいいんですが、そこまで徹底できていません。 創作が好きではありますが、同じようなことがぐるぐると巻き起こっている世界でわざわざ物語やら何やらを創造するのもな……と虚無感が起こります。何か物凄い情熱でもあればよかったのかも、と考えましたが、あったらあったで気分が悪そうです。 前のめりだったときに出家しようかとお坊さんに問い合わせたことがありましたが、実際の差別だとかの話を聞いてやっぱり違うと思いました。 生かされているだとか感謝の気持ちが大事とはよく聞きますし、そんな心構えの方がまともなんでしょうが、私は自分の意思と関係なくなんかよくわからないままに生まれさせられたのだと思います。もし生まれる前の世界があるとすれば私は生まれたくないと言ってどこかに隠れるはずだからです。 どうにかして今生ですべてを断ち切れたらいいなと思います。 この世からきれいに消えれたら幸せです。 生きながら無の境地に達するとどうなるんですかね。 どんな仕事でももくもくとこなすのでしょうか。 はたまた大勢の人を救うような活動でもするんでしょうか。 心境を述べているだけですが、何かコメントをいただけると参考になります。