自殺した後の死後の世界のことが気になっています。また、お釈迦様は死んだ者の死に方、死にぎわを問わないとは本当でしょうか?仏教の法典?について色々と調べてみて、お釈迦様が自殺したら地獄に落ちると言っていないことや、自殺を否定していないこと、それら全ては人間の善悪の価値感であることがわかったのですが、サイトや書籍によって若干のバラツキがあったので本職であるお坊様にお聞きしました。じゃないと何か未練のようなものが残りそうで… また、人間は死んだらどうしても輪廻転生をしなければならないのでしょうか?私は今まで生きてきて、もう生まれ変わるのはこりごりだ、無になるか世界をただ傍観するだけの存在になりたいと思いました。そういうものになる方法はあるのでしょうか? あとこれは個人的なことなのですが、人間は肉体を離れて霊や魂だけになったら性別や年を超えて姿を変えられるのでしょうか? 以上、よろしくお願いします。
先日も質問させて頂き複数の回答有難うございました。 彼が自殺でいなくなり7ヵ月が過ぎました。 彼が居なくなり…人は亡くなると本当に【無】になるのだと… 彼の後を追っても会えない事はなんとなく分かるような…最初は頑張って彼の為にも生きて行こうと思いました。でも…それは偽善の言葉で、本当は 意味も分からず残され、他人に責められ…それでも、 人って悲しい思いしても生きて行かなければいけないのでしょうか?? 病気や事故や老衰や自殺どんな亡くなり方でもそれが寿命ならば早く彼のように楽になり…無になりたいです。 もう自分でも理解出来ない事で人に責められる事に疲れました。 死んで無に本当になれるのなら親にだけ詫びて、彼のように楽になりたいです。
天国や地獄へ行く。生まれ変わって新たな命となる。 火葬なら幽霊になって、土葬ならゾンビになるとも聞きます。 死後の世界。きっと生きている限り分からぬ世界。 しかし、生きているからこそ、死への恐怖や不思議に囚われます。 知らないからこそ死への恐怖が拭えるのか。 それとも知ってしまう方が安心して死んでいけるのだろうか。 天国や地獄がもしあるのなら… またその世界で生きていかなくてはならないのか。 生まれ変わって新たな命となるのなら… 知らぬうちにまた同じ世界で苦しまなくてはならないのか。 この世界に生きるものとして。いつか死を迎えるものとして。 死と向き合うためにアドバイスお願いします。
このタイトルの質問は多くたくさんは拝見するのですが、少し私は考えが違うかもしれませんので、投稿させていただきます。長文御容赦ください。 私は死について考え出したのは小学6年生の時でした。 そのときは、死んでしまうともうこの世には帰ってこれないし、今楽しいと思うことはもう二度とできない。といったものでした。 そして、考え方は年々変化しました。 今は以下のことを考え、夜になると吐き気をもよおすこともあります。 ・死んだらどんな姿になるのか ・姿が変わっても親や妻、夫に会えるのか、また後から来る人にも会えるのか ・生まれ変わるというが、今実際前世何かだったという記憶も多分ありません… ・あの世でも老化ということがあるのか?あればどのくらい前の人まで会えるのか?なければ老けない姿でどうやって会いたい人を探すのか? ・なんといっても向こうでも働くのか?食べるのか?ずっと活動するのか? といったことがこれでも一部ですが、考えてしまいます… 誰も死に逢ったことはないし、わからないものです。 ですが、かといってこういうふうな捉え方をするなと言われてもできそうにはありません… ありがたきお言葉をお待ちしております……
以前と似たような内容ですみません。 死後の世界が気になって落ち着きません。 いろいろ質問があります。 ・諸行無常の言葉のとおり、この世もあの世もいつかは終わるのか? ・輪廻転生卒業後、自分の生まれの星に帰ると聞いたことがあるのですがそんなことあるんですか? ・神様は小学5年生という本に天国は地球と宇宙の間にあると書いてあったのですが宇宙が滅亡したら天国もなくなるのでしょうか?だとしたら魂は永遠の生命ではないですよね?
旦那は、子供の頃から虐待を受けたり、成人しても親の借金を背負うことになったりと、とにかく苦労人で「この世に神も仏もいないよ。だって、本当にいるならこんなに苦しむことになるはずない。死後の世界もない。死んだらおしまい」といつも言っています。 私は、神も仏も見たことはないけれど、目に見えない大きな何か、死後も輪廻転生もあるんじゃないかと思ってます。というか、あって欲しいと思ってます。 私は、旦那と死の先も一緒にいたいと思ってます。でも、旦那とは考えが違うので一緒にいることは出来ないのかな…?と不安になります。 藁にもすがる思いで神社仏閣に参拝する度に「旦那とずっと、死後も一緒にいられますように」と願ったり、棺桶に入れるための御朱印を二人分集めたりしてますが、旦那は手も合わせず、御朱印も「そんなもの要らないよ」と言われる始末です。 信じる人と信じない人、やっぱり逝く先は別れてしまうのでしょうか? 私の行為は、ただの自己満足の無駄な足掻きなのでしょうか?
自分は、親の死が怖く、ついついそのことばかり考えてしまいます。来せいでも会いたい人に会えますか?あと死後の世界はありますか?
何度もご質問して申し訳ありません。 タイトルの病(正しくは、身体表現障害)にて、2回全身脱力が起こり、倒れた後意識はあるものの、15分ほど力が入らず倒れていました。 主治医の分析にて、今回は体調変化により身体に出たが、私は言葉でも身体でも(夢や実体験でも)「死の体験」を繰り返し表現しているそうです。 そこでご質問ですが、仏教で「死の体験」或いは「死後の体験」、或いはその類いのものをできる何かってありますか? 宜しくお願い致します。
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
自殺未遂の後遺症で近いうちに死んでしまいます。 これはふとした気の迷いのせいで、この頃はネガティブになってたのか、どんどん悪い方に行き難聴の次はついには命さえあと少しという最悪の状況になってしまいました。 病は気からと難聴になったときふと思ってましたがなんとなく死にたいという前の私じゃ考えられないようなネガティブさにいつのまにか振り回されました。 視野が狭くなってて未来とかいろいろ考えられなくなってたし、いろんなものに無関心になってました。正気なときとネガティブなときがあるのです。 障害で仕事先が限られること、自分の能力に自信がないこと、楽しみがないことで内心絶望して自殺を試みたのだと思います。 自分の体で実験するくらいのノリで死のうとしてしまったんです。 現実に向き合うことさえできないような人間が死や死後の苦しみに耐えられる自信がありません。自殺した人間は基本的に大きな苦しみを追い続ける死後が怖いです。 私という人間の人生はあと少しで終わるし、また人間に生まれ変われるのか、もう極楽や天国へ行けないのか、もし地獄ならその長い苦しみに耐えられるか不安しかないです。 現実から逃げ続け、命の期限を勝手に設定してしまいました。散々死ぬ方法や確率以外にも自殺したらどうなるかもみたのに頭がはっきりしてなくてどう行動したらの結果がわかってなくて。死んだら自分が終わること理解できてませんでした。自分のメンタルが弱いばっかりに家族を悲しませることになるのは少し悲しいです。自分の人生があと少しで終わるのも怖いですがネガティブなループに気づけない限り難聴と違って避けられなかったことなのかもと、もう少し思い切ってサイクリングが早ければ違ってましたが。 死ぬときの苦しみも怖いし、自殺行為の末の死なので、死後どうなるか不安です。 あと体が動くうちにやっておいたほうがいいことのアドバイスが欲しいです。
2ヶ月前に父が亡くなりました。 自分が7歳のときに両親は離婚しております。 原因は父にありましたが、離婚後も家族で会ったりお出かけしたりしていたので、仲は良好でした。 当時はいつもまた一緒に暮らせないのかと、願っておりました。 大学に進学する際、近くに1人で住んでいた父の元で2人で暮らすことになりました。 嬉しかったのですが正直どう接したら良いのか分からず、戸惑い、距離を置いてしまいました。 しかし大学で馴染めず精神病にかかり、莫大な学費を父親が全て払ってくれたにも関わらず、僅か1年で中退しました。 その間もずっと、休学費用、生活費、病院費等全て父が負担してくれていました。 その後引っ越して一人暮らしするようになり、父と会う機会も少なくなりましたが、 父はいつも心配してくれていて、少なくない金額を振り込んでくれていました。 総額にしたら、結構な金額になると思います。 普通のサラリーマンだったのにです。 その父が1年半前くらいに家族で会った際 「癌が見つかった」と話しました。 私は心のどこかで「まだ大丈夫」「いつか治る」と思っていました。 或いは受け入れられなかったのかもしれません。 癌と聞いて、もっと会いに行ったり連絡をすれば良かったのに、 私はたまに 大丈夫?と連絡する程度で、特別なことはなにもしていませんでした。 そして数ヶ月前に複数箇所へ癌が転移。 2ヶ月前に亡くなりました。あっという間でした。 家族で最期を見届けることができたことは幸いでしたが、未だに後悔しかありません。 なぜもっと大学で頑張れなかったのか。 もっと仲良くしておけば良かった。 癌と分かってから、もっと会いに行けば良かった。 お金ばかりかけてしまって、謝りたい。 1番謝りたいことは、 父が亡くなったあとに知ったのですが、父は私が父のことを嫌っていると思っていたようなのです。 会って、その誤解を解きたいです。 葬儀の夜、父の遺品のネクタイで首を吊ったのですが、怖くて死ぬこともできませんでした。 そのとき、暑い夜だったのに異常に寒くなったので、もしかしたら父が傍にいたのかもしれません。 父に会いたいです。 会って今までありがとう、本当は大好きだったと伝えたいです。 父は、いまわたしの傍にいてくれているのでしょうか? まとまらず、長文で申し訳ありません。
私は生きる執着が強いがために地震や病気に過剰に反応してしまいます。生きたいと言うより死後、無になるのが怖いです。だからあの世の世界を信じたくて霊や死後の世界についての本を見てしまいます。この世が全てだとしたら事件や事故に巻き込まれて亡くなった人の死が理不尽でニュースを見るたび気が滅入ります。でも長生きしたが故に子供の死に直面することもあると考えると長生きが全てではない。死に方は重要ではないと思うようになりました。もともと生まれる前は無でしたからそこに帰るだけなのかなとも思います。生きているから感じる不安や恐怖ですが疲れてしまい、生まれてこなければよかったと小学生の頃から感じています。でも自死はしません。生まれてきてしまったのだから真っ当に生きるのみです。死後の世界もこの世にいる人に語れる訳がないし、否定も肯定もできません。私は白黒はっきりしないと気が済まないので、わからないことに恐怖を覚えます。なので普段あまり悩まないし、答えのないことで悩むことが多いです。生まれてきた意味だってない。ただ、この世は修行だと思うと、わからないことや曖昧なことはありのまま、曖昧なまま受け止められるようになることが課題なのかと思ったりもします。でも、この世でどんな風に生きていけばいいのかわかりません。家族が殺されても、地震が起こっても、戦争が始まっても、隕石が確実に落ちてきて地球が滅びるとわかっていても、動じることなく自分が死ぬまでひたすら淡々と生きるのが人生ですか?人の役に立とうが神様を信仰しようが殺されたり短命の人もいます。いいことをすればいい縁ができると思っていたけど、結局見返りを求めてしまっています。人生が修行なら、その中で楽しいことや嬉しいことを経験できることが有り難く幸せなことですよね。修行はつらく苦しいものだからそれが当たり前なのに、私は恵まれているし幸せです。それなのに過度に不安になったりこの世が全てだと思うと絶望的な気持ちになったりして、罰当たりだと思います。もっと人生を楽観的にというか、いつ死んでも後悔はないし真っ当に生きたと言えるようになりたいです。死後の世界があろうがなかろうがどうでもいい!今を生きる!こんな風に考えられるようになりたいです。この弱さとどう向き合えばいいでしょうか。
私は仏教について子供の時から興味があって仏教の専門学校に通ってます 本日地獄について教えてもらいました授業をきいてるなかで八大地獄と十王信仰についてならいました。 私はこの授業の中で八大地獄と十王信仰の8と10という数字がとても気になります この二つの数字にはなにか特別な意味があるのでしょうか?
前にも質問にご回答頂けたのに再び質問することが恐縮ですが、質問させていただきます。 死後自分はどうなるのかをずっと考えてしまい、ここしばらく心穏やかではない状態が続いています。 その中でもし死後の世界があるのであれば、出来る限り死後が良いものになるように私は努力をしたいと思いました。ですが、死後を良いものにするために何をすればいいのか、何を信じればいいのか分かりません。 この死後の問題に対して様々な宗教が答えを出していますが、言っていることは宗教によって異なります。(様々な宗教の説く死後の世界の様子を見てますます、死後が怖くなりました。) 仏教の中でも宗派によって死後の考え方は異なることが分かりました。 どの宗教の教えで考えても救われるような生き方をするのは不可能ではないかと思いました。 このような質問をすでに仏教を学ばれているお坊さんの方々にぶつけるのも申し訳なく思いますが、一体私は何を信じて、何をすればいいのでしょう。 正直なところ、もう何かを信じて楽になりたい気持ちもあります...
初めまして。 私は進学校に通っている高3です いろいろなことがあり、とてもつらく死にたいです。 いま、自殺しようかしまいか迷っています。 というのも、自殺をすると魂が汚れ、天国へも地獄へも行けず、永遠と無間地獄を彷徨うと書いてあったからです。 あまり死後の世界などは気にしない性分なのですが、いざとなると不安に駆られます。 そこで質問です。自殺をするとその後どうなるのですか? ただ身が朽ち果て土に返るだけなのでしょうか?
死への恐怖について。 こんにちわ現在中学3年生の男子です。 まだまだ人生経験が浅いのに対してこんな事を言うのもあれなんですが、、、 いずれ自分にも必ず訪れる「死」がとても怖いのです。 この恐怖については色々なタイプな恐怖があるそうですが、自分の場合は「自我の喪失」など「永遠の無」への恐怖です。 まだまだ何も分からないのですが本来仏教では浄土も輪廻も釈迦は無記と称していると耳にしたことがあります。 とは言ってもまだ何の証明もされていないので死後がある可能性も0%ではないと思います。 まだこのように思い今後の人生を生きていけたら良いのですが、 「何時か科学で死後は永遠の無だと証明されてしまったらどうしよう。もしそうなってしまったのなら僕はもう生きていけない。」 と思うことがあります。 この原因は自分自身にあります。 死が怖いと言って、心の中だけで留めておいたら良かったもののネットで色々(科学や哲学など)調べてしまったりしたので、余計こういった恐怖が煽られてしまったのかもしれません。 つまり簡潔にまとめると ・永遠の無、自我の消失への恐怖 ・いつか科学などで死後が永遠の無だと証明されてしまうかもしれない恐怖 ・生きる意味がみつからない です。 長い文章になってしまって大変申し訳ございません。 そして質問はどうしたらこの恐怖を取り除くことができますか?です。 ご回答よろしくお願い致します。
前にも似た様な質問を行いましたが、また、その時の恐怖が出てきました。 仏教では輪廻転生の教えがありますよね。死後に自分の行いや業によって六道のどれかに落ちるという。 前に仏教は今をどう生きるかを説いている、死後の事は分からないというお答えを貰いました。 だけど、折角お答えを貰ったのにまた生まれ変わりに対して恐怖が出てきたのです。 私はまだまだ自分の人生を生ききっていない二十代の小娘です。 だけど、来世を恐れ、来世を心配するという考えに取りつかれています。 来世が動物や虫になってしまったら、どうしよう。それで酷い目に会ったらどうしよう。怖い目にあったらどうしよう。 運よく人間に生まれ変わっても、今の様に平凡だけど幸せな環境のようば場所じゃなくてテレビいえ、私が知れないだけで想像も絶するような場所に生まれたらどうしよう。 もし、そこで酷い目に会ったらどうしよう、非人道的な扱いを受けたらどうしよう、誰かに殺されたらどうしよう。悪人になってしまったらどうしようという考えが頭の中をぐるぐると回り、自分が酷い目にあっている所まで想像してしまいます・・。 別にそんな目にあいたくないですし、本当に嫌です。 こんな事を考えても仕方ないし、今の心配をしろよですし、来世だから今の私の自我があるかどうかも分かりません。だけど、こんな目にあいたくないという気持ちが強く出ているのです。未来の私かもしれないという考えがあるのかもしません。 こんな目にあいたくない。こんな目に合う位なら死にたくない。 死後の地獄も嫌。死んでも自分が消えるのも嫌。 死んだらもう、この世に生まれ変わりたくない。人間にも動物にも虫にもなりたくない。死後の世界があるのならただ穏やかでありたい 嫌だ!嫌だ!嫌だ!とか心の中で叫んだり あれ?私はこんなに信心深い方だったけ?私は何の為に生まれたの? この世は魂の修行場だと聞いたけれど、そんなの誰が決めたんだ、苦しいのは一回きりで十分なのに、という考えが自分の中になってそれで体調が悪くなったり気分が沈み胃が荒れている状態です。 もしくは引きこもっているから、こんな事を考えてしまうのか、精神的にはおかしくなっているのでは・・と思います。 折角頂いたお答えもあるのにどうにかしたいけれど、またこんな調子になってしまい解決策が見出せない状態です・・。
なんで人は辛いことがあるのに生きていけるのでしょうか。その先にたとえ楽しいことがあったとしても、辛いことが1つでもあるなら生きたくないです。極度のめんどくさがりなのでしょうか。 さっさと死にたいのですが、私を一人で育ててくれた父が泣く姿を想像すると可哀想だ思います。まあその父の昔のネグレクトがこんな歪んだ性格にさせたのかもしれませんが。 めんどくさいです。夢もないし勉強はめんどくさいし夏は暑いし冬は寒い、それだけで自殺しちゃダメですか? 命は大切だとか与えられたものだとかそういうのも全く心に響かないし、死後の世界を見てみたい。ものすごく楽しい場所かもしれません。 特に悲しいことがあったわけじゃないけど、もうなんか生きられないです。
毎日死について考えてしまいます。 死にたいという考えではなく、いつか来る死について不安で不安でしょうがなく頭の中で色々と考えてしまいネットなどからそういう関連のサイトを調べすぎてもっと不安になってしまっています。今では自分でコントロールできなくなってしまいました。文章では書ききれないので箇条書きで今自分の頭の中にある考えを書きます。 ・テレビやネットでの年齢を見ると将来この歳になりたくないなと、絶対なるのにも関わらず考えてしまう。 ・いつかは死ぬとわかっていても死にたくないと思ってしまう。 ・死後の世界がどうなっているのか、自我意識はあるのか、仮に生まれ変わりがあったとして自分が自分じゃなくなるのではないかと思ってもし、死後の世界がなく何も感じられなかったらと思うと不安と焦りが出てしまう。 ・自分はなんなのか、この体は本当に自分なのかという疑問。 この4つでどうしようもなくなりネットなどで調べて安心しようとするも信じていいのかわからずこのループに陥ってしまっています。 この事を家族に相談をしても「暇だからそう考えるんだろ」と言われるだけで考えないようにしようとしていてもふと、考えてしまいまたループに陥ってしまい焦りや不安、そしてパニックになってしまいます。先の将来、死後の世界が判明するのではないかとネットで書かれていたのですが本当なのかどうか本当にあるのかそれとも無で何も感じられなくなるのか、4つの考えのループから抜け出すのにはどうすればいいのか、身体や私生活に影響が出るほど深刻な問題なので、是非ともお教え頂きたいです。
最近、お浄土にはたくさんの種類があると知りました。 私の家系は浄土真宗なので、阿弥陀様の極楽浄土に生まれ変わらせていただくことになると思います。 ということは、生前に阿弥陀如来様を信仰していた人と、死後に極楽浄土で再会できるということでしょうか? また、たとえば薬師如来様を御本尊として信仰している人が往生した場合、東方浄瑠璃浄土というお浄土に行きますよね? そうした場合、私はその人とは会えなくなってしまうのですか? 仏教初心者なので、どこか間違っていたら申し訳ありません。 いろんな宗派のお坊様から回答をいただけたらありがたく思います。 よろしくお願いいたします。