こんばんは。 いつもお世話になっております。 自分は、頭もさほど良くなく、仕事も時短勤務でもいっぱいいっぱいなのですが、何か社会に役立つことをしたいなと思ってきました。 自分は海が好きということだけは間違いなさそうなので、何か海に関わることをきっかけにしたいなと思っております。 ハスノハのお坊様は、ハスノハ以外でも社会問題に対して様々な活動をされている印象を持っております。 何か社会問題に対しての関わりかたや、無理せずこういう事に意識をしたほうが良いよなどありましたら、御教授頂けますと、幸いです。
先日、駅のホームで視聴覚障害の方がいて電車の車両と車両の間に進んでいたので大丈夫ですか?と声をかけて少し誘導したら、その方に、やめろと腕を叩かれてしまいました。横に娘がいて私が叩かれたことにショックを受けてどうしてママが叩かれなきゃいけないの?ひどいと言ってしばらく無言でした。私も混乱しましたが娘の表情を見ると切ないのと私はいけない事をしたのかと悲しくなりました。まだ気持ちがモヤモヤしています。どう切り替えたら良いのでしょうか?
台風15号、19号により各地に大きな被害が出ました。 自身の命を奪われてしまった方、身内や知り合いの命が奪われてしまった方、命は助かっても衣食住が困難になってしまった方、様々な状況に置かれその気持ちを思うと言葉になりません。 こんな時一番手っ取り早いのは寄付かと思いますが、なにか寄付という形以外に私にできることはあるのか考えています。 仕事の関係でボランティアに行くこともできませんし、日頃からできる私なりの行動ないし考えなどどうしたら良いのでしょうか?
先日の夜中、用事帰りに国道を運転していたら前を走っていた2tトラックが猫を轢きました。 僕の車とそのトラックの車間は狭かったのですが、猫がゴロゴロと回って道の真ん中に倒れる光景がゆっくりに見えて、今でも頭の中に残っています。 僕は動物が大好きで、昔の仕事で外回りしている時などに首輪をつけた犬が一人で交通量の多い大通りをさまよってるのを見たら仕事を中断して飼い主が見つかるまで抱っこして2時間でも探したり、夜中コンビニで友達と溜まってる時に野良猫がお腹を空かせて歩いてるところを見たらそのコンビニでキャットフードと牛乳を買ってあげたり、とにかく動物が大好きなんです。 そんなんで普段車に轢かれた猫の死体を見るのもかわいそうで心が痛みます。もし轢かれてるところを見たら自分なら絶対助けるのに、といつも思ってました。 でも、その日、目の前で猫が轢かれたのに、僕は助けませんでした。 後ろに車がいたので急に止まるのも危ないんじゃないか、これはさすがに死んでしまったんじゃないか、など一瞬のうちにそんなことが頭をよぎり、咄嗟に車を止めて降りて生死を確認しに行く、という行動が取れませんでした。 それからずっとその時のことが頭から離れません。猫が転がったということは轢かれたというより跳ねられたんだろう、ということはあの時はまだ生きてたんだ、じゃどうしてあの時すぐにおれは車を止めて降りて助けに行ってやらなかったんだ、と、後悔と、自分に対する怒りがおさまりません。 普段から動物が大好きで、いざ動物が目の前で轢かれたらおれなら絶対助けるのに、といつも思っていたのに、いざその場に出くわして僕は車を停めて降りて行くことができませんでした。 夜中とはいえ車通りの多い国道、ここで停めて降りたら危ないんじゃないか、など余計なことばかり考えてしまったんだと思います。 正直、あの時はまだ生きていたはずです。 あの時すぐに降りて、夜中もやってる病院が30分圏内にあったのでそこに急いで連れて行けば助かったと思います。 それができなかった、それをしなかった自分が本当に許せないです。 絶対助けるなんて思ってても所詮自分は口だけでいざ行動に移せなかった大馬鹿野郎です。 次こそは、もしまだ猫が目の前で轢かれるようなことがあったら次こそは、と心に誓ってますが、自分が許せないです。 こういう時はどうすればいいんでしょうか。
初めて相談させて頂きます。 内容はタイトルの通りなのです。私は誕生日が、震災と同じ、3月11日です。誕生日が同じ日というだけで、もうこれまで散々非難されてきました。 友人、知人からは、「不吉、呪われてる、一生祝われない」と言われ、転職面接でも、履歴書の誕生日を見て、「ご愁傷様」ですと言われたり、嫌な顔をされたりしました。信じられないですが、全て実話です。 なぜこんなことを言われないといけないのでしょうか?? 私の誕生日は昭和です。震災とは全く関係の無い日です。この全く関係のない人間に対して、誕生日が3月11日というだけで、なぜここまでの苦しみを与えられなければいけないのでしょうか?関係のない人に被害を与え、被災者に対しては、支援だの復興だの上っ面で言っているのですよね? この日本人の頭の悪さや、民度の低さ、恐ろしい国民性に心から呆れ疲れています。 私は自分の誕生日を堂々と言ってはいけないのですか? 私は先日の台風には、せっせと募金していますが、震災に関しては、一度も支援したことがありません。3.11だの非難され、とっとと忘れ去られたらいいと思っているからです。 もはや、3.11という呼称をやめて欲しいとマスコミに手紙を送るべきでしょうか?次非難されたら、人権侵害で訴えるべきでしょうか? 本当に堪えられません。 是非意見をお聞かせください。
この度の台風で被害に遭われた方々に心よりお悔やみを申し上げます。 私は地震や台風、自然災害が怖いです。 もちろん、怖くない人なんて居ないと思いますが、人一倍怖いです。 怖すぎて東日本大震災の後は海外に留学していました。 日本に住んでいる以上、災害とは付き合っていかなくてはいけない事は分かっています。でも、オリンピック中に地震が起きたら、今回みたいな台風が来たら、海外から日本に来る人が居なくなってしまって日本の経済がダメになってしまうのではないか。 災害がばかりで日本に住めなくなってしまうんじゃないか。 動物達も被害にあっているのを見ると心が痛くなってしまいます。 どう不安と向き合っていけば良いのでしょうか?
私は虐待被害当事者です。 でも生き延びて、良い方に助けられてきました。 そして前からずっと、他の被害当事者を探してきました。 でも出会えません。 出会えたらやりたいことがあります。 それは、虐待被害当事者がもっと生きやすくなるような社会にすることです。 たとえば、居場所づくりや被害当事者への行政支援、相談しやすい体制にすることなどです。 でも、ブログで訴えても、実際にたとえばオレンジリボン運動へ参加しても、そういった被害者には巡り合えませんでした。 なぜなのでしょうか。 他の被害者は、「つらい、苦しい」というだけです。 その原因が、社会にあるとは考えない。 でも、私たち当事者が声を上げないと、いつまでたっても苦しいだけなのです。 どうしたら、もっと当事者が声を上げれるようになるのでしょうか?
仏教の歴史の中では、かつて障害者の方を「前世の行いが悪かった結果だ」と差別されていた事がありましたが、これは何故なのでしょうか? また、“福子思想”というものと存在していますが、これはいつ頃生まれたものなのでしょうか? そして、身体的障害、知的障害・精神的障害を持つ方が信仰対象として崇める方もいますが、何故そういった特徴を持つ方を信仰する心理に至るのでしょうか?
加速する時代について行けません 金銭の電子化、必要としないアナログ、紙媒体、SNSで代えのきく人間関係等、目まぐるしくてとてもじゃないけどついていけません 生きてるだけで辛く寂しくて頭がおかしくなりそうです いつか一人取り残されるであろう未来が怖くてしからありません もういっそ、自己の存在を消したいと思うほど、怖いです
こんにちは。 色々と、仏教を学ばさせて頂いています。 ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。 自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。 しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか? テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。 児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。 災害で一夜にして家族全員を失った者。 世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。 もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。 Happyな事は、滅多にニュースになりません。 悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを 居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。 私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。 人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。 仏教者失格だな、と自分で思います。 悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか? 悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか? 抽象的な質問ですいません。
人は死んだらどうなりますか? 私は何年も死にたいと思いながら、今までなんとなく生きてきました。 死にたいと言いつつも、それなりに楽しいこともあって、でも、スイッチが入ると死ぬ事しか考えられなくなるといった感じでした。 今年の初めに、全て自業自得なのですが、とても辛いことがありました。 それからは、今までよりも死ぬことについて考えています。 苦しい今より少しでも楽になれるのなら、死にたいと思ってしまいます。 死んだら人はどうなるのでしょうか? 死ぬことはいけないことですか?
こんにちは。私は今まで恥や失敗を恐れて学校は休み、高校は中退してバカ高校に編入するし、なにかを続ける意思のない者です。 資格も職歴もありません、格差が広がる世の中で生き残れそうにありません。 終身雇用なんてのも崩壊してますが、世間は転職している人に冷たいです(自分の転職理由は下らないもの) 学びきれずに卒業して、何も得ることなく若さを無駄にしてることが怖いのです。 今の仕事を辞めて、近場で働きながら 副業で稼いでまた、都会に行きたいなと思うのですが、その頃自分は何歳なのだろう、年取ったらおしまいです。 自分がなにしたいかわかりません 世の中甘くないよと思考停止気味でいってる人をみますが、自分は何をしてるんでしょうか?? というか金くれない会社に務めて続けてる人は嫌にならないのでしょうか。 大学生とか羨ましいです、 若さを無駄にしたくない、会社に時間を捧げたくないという気持ちが強すぎるのでしょうか? 仕事に飽きて転職、好奇心があるとも言えますが能力ないとゴミではないですか
以前、不倫の過去について相談させて頂き、 あれから自分なりに答えを導き出し 生きてきました。 その節はありがとうございました。 さて、今回ですが 最近SNS上で不倫被害者の方を見る機会が多くなり、 その度に自分がした事と重なって 胸が痛むのですが たまに不倫相手を晒してる人を見ます。 気持ちはわかります。 不倫相手への憎い気持ちを表に出せない分、晒して貶すことで 気持ちを落ち着かせると言いますか、発散するにはそれしか方法がないのかなと… でも不特定多数に晒したら名誉毀損という犯罪になるじゃないですか。 被害者なのに 被害者でないように見えてしまうと言いますか… そういう人達は 仏教ではどう映るのでしょうか。 やはり不倫した方が悪いので その人たちがしてることは 仕方なしみたいな感じになるのでしょうか?? 私の考えとしては 確かに不倫の被害者で それは報われるべきだと思います。 でも晒して罵倒とか、死ねとか 消えろとか言ってるのは被害者でも 違うのではないかと思います。 仏教の観点、お坊さん個人の観点からどのように思うのか教えて欲しいです。
アマゾンの森林火災が深刻な領域に達していると聞きました。遠い地の出来事ではありますが、彼の地を愛する方々の心中を想うと痛ましい限りです。 現在も、狩猟や採集によって生計を立てている人達が数多くアマゾンで暮らしているそうですが、皆さん私がぬくぬくと育ってきた環境よりも遥かに苛酷な生活を送っているようです。動物や他民族による襲撃などの脅威は私には想像もつきません。 仏教には不殺生戒という決まりがあるそうですね。文字のまま読むと、私の目にはなんとなく「誰も殺しちゃ駄目!」という意味のように見えました。 不殺生戒とはどのような決まりなのでしょうか。 もし、本当に「殺生、ダメ、絶対」という決まりなのであれば世界中の狩猟民族が困り果てると思います。(まあ仏教には異なる考えを攻撃的に批判する印象も躍起となって布教する印象もありませんが…不殺生戒がどのようなものかとは関係なく的外れな考えかもしれないとは内心思っています。)
現実を近づけていくひとつの理想と目標として「すべての存在が永遠に幸せである」という「永遠の幸せ」が挙げられると思います。そこでは、その時を幸せと感じながら、より多くの幸せを求めることができるとします。 また、それは「悪」も苦しまず幸せであり、必要に応じて「善」に変わるべきだという考えも含めます。 それを社会のルールとして適応するとしたら、罪や罰は、できるだけ皆が幸せであるという治安状態を維持する為に必要な最小限であるべきだと考えます。 一方、すべての存在は一定の基準の基に裁かれたり、幸せや苦しみの程度が制限されたり運命づけられるべきという考え方もあります。しばしば、そこでは「悪」は苦しめられ、時には消滅されるべき、すべての人は定められた以上の幸せは求めるべきではない、より幸せになってはいけない、とされるのかもしれません。 さらには、ルール(人がどう扱われ、裁かれるのか)の内容は、幸せや愛に基づくものではなく、勝手気ままに決めるという考え方もあると思います。 こうした状況に直面して、仏教は「永遠の幸せ」にどのような価値があると考えますか? あるいはもっと良い理想や目標がございますでしょうか? 他の二つの考え方との比較などを交えてご回答頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。
男が嫌いです だから絶滅しないかなあと思っています 不愉快 そこで仏教ですよ 仏教を盾にすれば人を傷付けても逃げ道があるのね よくわかりました
煽り運転や、年寄りの暴走運転と令和になってからも色々と理不尽な出来事が起きています。勿論加害者に非があり弁明の余地もないのですが、全く関係ない他人が匿名性の陰に隠れてめちゃくちゃに加害者を叩く行為はどうなのかと思ってしまいます。 大きな事件に限らず、芸能人が子供に作ったご飯の盛り付け方をSNS上で叩いたり、ネットの質問等を出来るサイトにて相談をしている人をこてんぱんに叩いたりしている人達を見ると、人間としてもう来るところまで来てししまってるなあというか、不平不満やらいろんな負の感情が渦巻いて飽和状態という感じがします。 そう感じるのは少数派ですか?あんなに沢山の人が叩いているとなると、もうその辺を歩いてる人3人に1人くらいはそういう行為を裏でしていると思ってしまいます。仏教的には、と言いますか僧侶の方々はどう考えますか?