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「世の中・自然」を含む問答(Q&A)一覧

目の前で猫が轢かれました。

先日の夜中、用事帰りに国道を運転していたら前を走っていた2tトラックが猫を轢きました。 僕の車とそのトラックの車間は狭かったのですが、猫がゴロゴロと回って道の真ん中に倒れる光景がゆっくりに見えて、今でも頭の中に残っています。 僕は動物が大好きで、昔の仕事で外回りしている時などに首輪をつけた犬が一人で交通量の多い大通りをさまよってるのを見たら仕事を中断して飼い主が見つかるまで抱っこして2時間でも探したり、夜中コンビニで友達と溜まってる時に野良猫がお腹を空かせて歩いてるところを見たらそのコンビニでキャットフードと牛乳を買ってあげたり、とにかく動物が大好きなんです。 そんなんで普段車に轢かれた猫の死体を見るのもかわいそうで心が痛みます。もし轢かれてるところを見たら自分なら絶対助けるのに、といつも思ってました。 でも、その日、目の前で猫が轢かれたのに、僕は助けませんでした。 後ろに車がいたので急に止まるのも危ないんじゃないか、これはさすがに死んでしまったんじゃないか、など一瞬のうちにそんなことが頭をよぎり、咄嗟に車を止めて降りて生死を確認しに行く、という行動が取れませんでした。 それからずっとその時のことが頭から離れません。猫が転がったということは轢かれたというより跳ねられたんだろう、ということはあの時はまだ生きてたんだ、じゃどうしてあの時すぐにおれは車を止めて降りて助けに行ってやらなかったんだ、と、後悔と、自分に対する怒りがおさまりません。 普段から動物が大好きで、いざ動物が目の前で轢かれたらおれなら絶対助けるのに、といつも思っていたのに、いざその場に出くわして僕は車を停めて降りて行くことができませんでした。 夜中とはいえ車通りの多い国道、ここで停めて降りたら危ないんじゃないか、など余計なことばかり考えてしまったんだと思います。 正直、あの時はまだ生きていたはずです。 あの時すぐに降りて、夜中もやってる病院が30分圏内にあったのでそこに急いで連れて行けば助かったと思います。 それができなかった、それをしなかった自分が本当に許せないです。 絶対助けるなんて思ってても所詮自分は口だけでいざ行動に移せなかった大馬鹿野郎です。 次こそは、もしまだ猫が目の前で轢かれるようなことがあったら次こそは、と心に誓ってますが、自分が許せないです。 こういう時はどうすればいいんでしょうか。

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誕生日が3.11という非難に堪えられない

初めて相談させて頂きます。 内容はタイトルの通りなのです。私は誕生日が、震災と同じ、3月11日です。誕生日が同じ日というだけで、もうこれまで散々非難されてきました。 友人、知人からは、「不吉、呪われてる、一生祝われない」と言われ、転職面接でも、履歴書の誕生日を見て、「ご愁傷様」ですと言われたり、嫌な顔をされたりしました。信じられないですが、全て実話です。 なぜこんなことを言われないといけないのでしょうか?? 私の誕生日は昭和です。震災とは全く関係の無い日です。この全く関係のない人間に対して、誕生日が3月11日というだけで、なぜここまでの苦しみを与えられなければいけないのでしょうか?関係のない人に被害を与え、被災者に対しては、支援だの復興だの上っ面で言っているのですよね? この日本人の頭の悪さや、民度の低さ、恐ろしい国民性に心から呆れ疲れています。 私は自分の誕生日を堂々と言ってはいけないのですか? 私は先日の台風には、せっせと募金していますが、震災に関しては、一度も支援したことがありません。3.11だの非難され、とっとと忘れ去られたらいいと思っているからです。 もはや、3.11という呼称をやめて欲しいとマスコミに手紙を送るべきでしょうか?次非難されたら、人権侵害で訴えるべきでしょうか? 本当に堪えられません。 是非意見をお聞かせください。

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悟りを開くと、余計苦しみが増しませんか?

こんにちは。 色々と、仏教を学ばさせて頂いています。 ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。 自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。 しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか? テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。 児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。 災害で一夜にして家族全員を失った者。 世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。 もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。 Happyな事は、滅多にニュースになりません。 悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを 居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。 私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。 人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。 仏教者失格だな、と自分で思います。 悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか? 悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか? 抽象的な質問ですいません。

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「永遠の幸せ」の価値

現実を近づけていくひとつの理想と目標として「すべての存在が永遠に幸せである」という「永遠の幸せ」が挙げられると思います。そこでは、その時を幸せと感じながら、より多くの幸せを求めることができるとします。 また、それは「悪」も苦しまず幸せであり、必要に応じて「善」に変わるべきだという考えも含めます。 それを社会のルールとして適応するとしたら、罪や罰は、できるだけ皆が幸せであるという治安状態を維持する為に必要な最小限であるべきだと考えます。 一方、すべての存在は一定の基準の基に裁かれたり、幸せや苦しみの程度が制限されたり運命づけられるべきという考え方もあります。しばしば、そこでは「悪」は苦しめられ、時には消滅されるべき、すべての人は定められた以上の幸せは求めるべきではない、より幸せになってはいけない、とされるのかもしれません。 さらには、ルール(人がどう扱われ、裁かれるのか)の内容は、幸せや愛に基づくものではなく、勝手気ままに決めるという考え方もあると思います。 こうした状況に直面して、仏教は「永遠の幸せ」にどのような価値があると考えますか? あるいはもっと良い理想や目標がございますでしょうか? 他の二つの考え方との比較などを交えてご回答頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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