いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。
救急車のお話、確かに午前中、載せました。実際のお坊さんに直接、載せた救急車のお話をしたら、馬鹿馬鹿しい、と言われてしまったので自信がなくなり書き換えました。 昨日から、ハスノハでの、いろいろな「死」にまつわる問い、命のやり取りを拝見致しました。読んだからこそ救急車の話を載せました。 私が今、生きているのは、どなたかがハスノハに辛いことをお坊さんにご相談された勇気があったから、私は大事な事を思い出した。頑張ろう!と思えたから。 「死」にまつわる投稿の中に救急車の掲載をすれば誰かの「生きる希望」に少しでもなるのでは、と思ったから。「あなたが必要なんです」と言いたいから。 だけど、鼻で笑うほど馬鹿馬鹿しいんですか? 消えそうな命の炎を小さな手で、勇気で繋ぐ事は尊いと思うの。私は消防でそう教えられたから。
はじめまして。私は音楽が大好きで、ラルクが1番好きなアーティストです。 ふと、お坊さんでもパンクやロックを聴いて、ヘドバンしたりするのかな?と思い、質問致しました。 キリスト教徒の方は、宗教色の強い音楽を聴いたり、礼拝のときにも歌ったりすることが多いですが、日本のお坊さんも宗教歌を聴かれますか? それとも、私のように大衆音楽を聴きますか? ご回答お待ちしています。
最近、死後の世界について考えるようになりました。 小学生の頃、戦争に興味があり(※好きなわけではない)色々と調べていました。 そして、死について知りたくなりました。 相談その1自分は死後の世界があって欲しいです。でも、確かかどうかは誰にもわからないので怖いです。気持ちを和らげる一言をください。 相談その2自分は死について深く考えていますが、他の周りの人はあまり考えないのですか?また、お坊さんでも死は怖いですか?
どうして安楽死はあまり認められないのですか? そりゃ生きれるに越した事はありませんが、死を選ぶ人はもうどうしようもなく生きるのが辛い‥疲れた人だと思います。 無理に生かして、その人が犯罪に走ったりするよりかはよっぽど良いと思います。安楽死施設みたいなのが出来たら良いと考えています。 お金さえ積めば、誰でも自由に生涯にピリオドをうつことができる素晴らしいものになると考えています。反対する人って、どういった理由で反対するのでしょうか? 高齢者も変に長く行き過ぎて認知症とかになる恐怖もなく、自由に安らかな終わりを迎える事が出来て良いとは思うのですが…。 幸せな人は、自由に生きれば良いし、そうじゃない人は自由に死ぬ事ができるなんて、とても素晴らしい事だと思います。 お坊さんはどう思いますか?
お坊さんは絶望感に苛まれた事はございますか? 死んでしまおうと思われた事はございますか? そんな時、どのように乗り越えられたのでしょうか? お忙しいなか大変恐縮ですが、ご回答をよろしくお願い致します。
他人から誹謗中傷を受けすぎて他人を信じることが出来なくなった。見た目をとやかく言われるために中身を磨くなど何をやっても無駄だという心理状況になった。自分に自信をなくした事で本音を言うこともなくなりひたすら低姿勢で了承しかしない毎日をもう5年過ごしている。自己主張も容姿を伴わないと他人に受け入れられないと思っている。生きているこの世界も他人も変えられない。何をしても嘲笑の対象にされるくらいなら 黙っていよう。他人の意見に合わせようと思って過ごしてきた。でもいつまでたっても根っ子が折れてくれない。完全失望を望んでも心が抵抗する。諦めてくれよ。もう逃げ場は無いし誰も守ってくれない。秘密を打ち明けても誰かに漏らすんだ、皆んな。だからここに書き込んだ。いくらお坊さんでも救済できませんよね?望むことは安楽な死です。そしたらこの世に産んだ親を恨むことも周囲の好奇の目もなくなるでしょ?書き込んだからどうだということは無いんです。ただお坊さんに聴いてもらってこの醜い心を蔑んでほしい。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
在り来りな質問です。お許しください。 私は毎晩床についていると、ふと、自分の死について考えます。分かるはずもないのに、あーだこーだ考え恐怖で眠れなくなります。 私自身一度も心霊現象のような霊的体験はした事がなく、魂の存在を信じたくても信じきれません。 私の母方の祖母や母が歳をとり、時折見せる老いて弱々しい一面を見ると怖くなります。いつかは自分も死ぬと。 死ぬのは怖いです。永遠に生きれたらと何度願ったか分かりません。どの様に考えたら、死への恐怖は和らぐでしょうか? そしてお坊さんの皆さんは、どの様に死を考えていらっしゃいますか? 是非私に教えてください。
このサイトに出会い、死のことを考える(死の恐怖を考える)のを少しずつですがやめることができた者です。 お坊さんのありがたいお言葉をいただき、今を全力で生きることに集中しています。 ただ、一つもやもやしたものがあります。 子供を産むことです。(男なので産むは適当ではないかもしれませんが便宜上) 近い将来、結婚する予定であり、これまでは漠然と子供も欲しいなあなんて思っていました。 ただ、改めて死のことなどを考えた時、自分の子供にその恐怖や苦しみを与えることになるのだと気づき、子供を産むことは酷いことではないかと思い始めました。 仮に子供が死というものを考えず、前向きに人生を過ごしてくれたとしても、最後は辛く悲しい死という結末を迎えます。 いつか死ぬ存在を自らが産み出すのは、恐ろしいことではないか、そう感じて仕方がありません。 極論、人類繁栄の放棄につながるので危険な考えだとは思うのですが、やはり個人という存在に目を向けた時、上記の考えが捨てられません。何かよい発想の転換はないでしょうか。
お坊さんの皆さんは、人生を、日々を、どのようなモチベーションで生きていますか? 死ぬことは怖いですか? 私は、思います。世の中や人はとても儚いものだと。その儚さを、どう前向きにとらえればいいよいでしょうか。 命の終わり方は、いろいろあって、 自分もいつかはなくなるんだと。 時々不安になります。私は、リタイアせずにゴールまでいきることができるのか。 私は、シャボン玉くらい心が脆いです。 だから、生と死が隣り合わせのこの世界でこんな自分はこのままやっていけるのだうか。 私の周りの友達のように、生きることに関してあまり重度には考えず、無関心で無意識に生きて、勉強に集中したい。 考え過ぎだよ。 暇なんだね。 悩むことは悪いことじゃない。 みんなそうだよ。 その言葉に私は少なからず傷ついてきました。 私の考えてることは間違ってるのか。悪いことなのか。 事実から論理立てて考えて出した私の考えは、そう簡単には覆せないと心では思ってます。例えば、生まれてこなければよかったとか。(理由を話せば長くなるので)でも、誰か、私を覆す人がいないかなと探してます。めんどくさいですよね、こんな人。 そういう自分が嫌なんです。 このままではさらにエスカレートしていってしまいます。 いつか、悩んで泣いた時間が役に立つときが来ればいいなと思っていますが、それはまだ先の話で、とりあえず今、何かがずっと辛いんです。 生き方、道標を教えてください。
度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
こんばんは。(・ω・)ノ あるローカルニュースでターミナルケアを専門にやっている臨床宗教師というお坊さん達が新しく取り始めた試みを前から気になって観てました。(^ω^) 京都のある病院と連携してお坊さん達が末期癌のターミナルケアをしてはる方々の特集は別の番組で観て知ってますが、その方々と臨床宗教師というお坊さん達は別の人達なのかとそもそも臨床宗教師というものを知りたいのでよろしくお願いします。m(_ _)m 京都の龍谷大学という仏教の大学にその臨床宗教師を育成するコースがあるみたいですが、hasunohaの御僧侶の方々で臨床宗教師に詳しい方がおられましたら教えて頂けたら幸いです。(・ω・)ノ お坊さん達が末期癌やターミナルケアを必要としてはる方に死についてホスピスで旅立ちを安らかに迎える取り組みは前から気になって私は良い取り組みだと共感している人間なので、臨床宗教師というお坊さん達にも関心があるので、質問させて頂きましたので、よろしくお願いします。m(_ _)m
以前もお聞きしましたが、再度おききします 死を望み選ぶ事はいけない事ですか? 私は、障害の為にヘルパーに助けてもらいながらの生活。私がコロナ感染して死ぬのは、私にとっては喜ばしいと願っています。ただ同居の母が高齢なので気をつけて(というところには達してませんが)いました。しかし、もうヘルパーとも母とも接点を持ちたくない。それにより必然的に外出など出来ません。通院もできません。ひとりで、見えない聞こえない話せない状態になりたいのです。死にたいのです。コロナ疲れなんてものではありません。大きな大きな希死念慮がやってきました。 自殺がいけないと言うのなら、コロナ感染でいいです。とても苦しいコロナ感染肺炎。でも死はどんな形でも、苦しく辛いものです。簡単には死ねません…死ねませんでした。 死を自ら選ぶ、そんな人生の終わり方も望んだ者には良いと思いませんか。 自殺願望に襲われるお坊さんは、いらっしゃいませんか?
初めまして。中学3年生、受験生です。 勉強、入学、就職と進んで行っても、 結局「死」にたどり着くと思うと脱力感がぬけません。 動物たちを見ていても 別の魂に生まれ変わるのだと信じられないのです。 日々どんなふうに過ごしてゆけばいいのでしょうか。
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
以前よりお世話になっております。 私は死の恐怖と、それに伴う宇宙や自分の存在などといった説明のつかないものに対しての恐怖が異常に強く、困っています。 「今生きている幸せな世界(自分)はいつか終わる」「そして二度と戻らない」と思うことが頻繁にあり、その度に発狂したり、自分を殴ったりしてしまいます。 そのため、この強すぎる恐怖への対応策を探しており、hasunohaを利用させて頂きながら様々な角度から死について考えています。 しかし、死について考えるだけでも恐怖に襲われ、精神状態が極めて悪化してしまうのです。上記のような状態になってしまいます。 死について考えるのをやめると、日常の快適さは保たれます。ただ幸せで、よく食べてよく眠れます。 でも、それは問題を先送りにしているだけではないかとも思います。死ぬ間際になって、恐怖に溺れて発狂している自分を思うと、今のうちから解決へ努力すべきなのではないか、と思います。 これについて、どうやってバランスを取っていけば良いのでしょうか?お坊さん方のお考えをお聞かせ頂きたいです。 また、以前の質問で、仏教の教義を理解しても「受け入れる」事ができていないと教えて頂き、まさにその通りだと思いました。 死に限らず、「強い恐怖を伴う現実を、受け入れる」のは、どうしたらできるのでしょうか? 漠然とした質問で申し訳ございません。ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。
先日喧嘩した友人のことが許せず、怒りが収まりません。 いろいろと準備が必要な約束をしていたのですが、彼氏を優先され前日の夜にドタキャンされました。それに私が怒ったことに対して友人も怒り、喧嘩になりました。 約束というものの重さや人間関係の優先度に差があることは理解していますが、とても楽しみにしていたし、最近仕事で昇進し疲れ切っていたこともあって、どうしても彼女のことが許せませんでした。 なんとか気力を振り絞ってこちらが悲しかったことも伝えようとしましたが、友人は自分は何が悪いのかわからない、あなた(私)の対応がショックだ、と自分のことばかりで、私がその友人を許せない以上、関係は続けられないのだなという結論になりました。 10年以上の付き合いのある親友だったので、約束を軽く扱われたこと、悲しかったことを伝えてもこちらを一方的に責めてくる姿勢、関係性を保つ努力を彼女がしなかったことが悲しく、怒りがおさまりません。 私は価値観の違う人を必要以上に認めないと指摘されました。わかっていて10代の頃から自分を変えようとしてきましたが、いい加減疲れてきました。 親友を許せない自分を責める気持ちも強くありますが、許せるように変わろうとすることにも疲れてしまって心の行き場がありません。 自分も親友も許せない私はどうしたら良いでしょうか。ご回答お待ちしております。
相談を見て下さり、ありがとうございます。久しぶりに質問失礼します。 私は両親が離婚していて今は義父と実母、弟と犬2匹と暮らしています。 また実の両親は7年前に離婚・別居しており、1年前に今の義父と再婚しております。 私と弟は成り行きで母に着いてきてくれたのですが義父と再婚するまでは小さなアパートで貧しいながらも女手一つで育ててもらいました。義父と再婚してからは義父が新しく建てた家で暮らさせてもらっています。義父と母には感謝しかありません。 また実父も離婚した原因(不倫と聞いています)の張本人ではあるものの、親子の縁は切る事が出来ずたまにパソコンの操作などを教えて貰いに行っております。また、実父の父親(私の祖父)には特に可愛がってもらっていたのでそういう面でも親しくしています。それに加えて父方の実家がかなり続いているらしく(自慢になりますが私で12代目らしいです)墓を守らなければならないのですが、それを私が途絶えさせるのも罪悪感でいっぱいです。 まぁこんな感じで幸せに暮らせればよかったんですが、私も大学生になり将来のことを考えなければならなくなってきたのですが実父、実母、義父の3人の介護や仕送りのような補助などのことを考えるととても不安になります。 それに、わたしにもし子供が出来た時、実父側と実母・義父側のどちらにつくかを選ばなくてはならないかと思います。実母・義父を選べば実父側の今までを潰すことになりますし、実父を選べば実母や義父を裏切ることになってしまいます。今も生きている父方の祖母、母方の祖父母に相談してもお互い、自分の方を選んで欲しいということになってしまいます。 私は弱気ですしこんな事で悩んでしまうのですが、弟にはこんなに心苦しい重荷を課せたくありません。 長文になってしまい、申し訳ないのですが、お坊さん方からの「第三者」として、そして「仏教視点」でのアドバイスや心構えを教えて頂きたいです。