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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2103件
2022/03/02

生老病死

 数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。  ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。  そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。  般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。  生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。  「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。  即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。  従って仏教の救いは死後にあることになります。  しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。  それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。  そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略

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辛いときにやること

八方塞がりで身体共に心がストレスでどうにかなりそうです。 これまで、それでも自分に御褒美を与えて乗り越えたり 楽しいと思うことを自分で探したり他のコラムや教訓めいたもの 偉人達の名言、お坊様達の悟りなど読み漁り気を紛らわし なんとか生きて来た部分もあります。 でももう数年もこんな状態だと自分でもおかしいと思います。 私はもっと幸せになってもいいのではないか 自分で自分を不幸にしてないかと思っても現実は上手くいかず ストレスを酷く感じるようになりました。 これ以上ないどん底を何度か体験し、どん底ならあとは這い上がるだけだと希望を持ち、自分はもっと幸せになってもいいのではないかと 周りを見て疑問を持つようになりました。 ネット:いい人もいるけど数えるくらいで悪意を向ける人も同数かそれ以上いると思っている。心当たりなく、勘違いを勝手にされ、発言も気をつけていたのに向けられる敵意に疲弊し希望も努力もズタズタにされ悔しい。自分に落ち度はなくても変な人に目をつけられやすい 仕事:年配者のモラハラパワハラに耐えながら最初は苦痛で私生活にも支障が起きてたがネットの件があり「あっちよりはましだ」ときつかった期間も乗り越えた。でも毎日がしんどくて辛い。時々叫びたくなったり泣きたくなったりする。周りは笑ってるのに自分だけが笑えず楽しいと思うことがない 家族:姉がどうしようもなく自殺を盾にして金銭を要求しているのを見るたびに死んでくれた方がましかもしれないと最初は引き留めてたのが呆れてしまって救いようがなく、姉のせいで睡眠障害に陥ってしまった。ギャンブル狂になった彼女を助けてあげてという人がいたら、その人が助けてあげて欲しい。むしり取られる一方の家族を見ると 真面目に生きてる人間が不真面目に生きてる人間によって不幸にされてるのが許せない 男性:怒鳴れば言うことを聞くと思ってる人が許せない。 偏見持ちの父を許してない部分がある それらと毎日付き合っていくうちに頑張ろうという気持ちも砕けて 全部やめてしまいたいどこか遠くに行きたい自分が先に死んだ方が もう苦しくないのではないかと思うけれど、それを許さない自分もいます。 美味しいもの食べて母をいっぱい喜ばせて猫と暮らして 幸せに平穏に暮らしたいだけなのですが 生きるって難しい。良いストレス発散ってありませんか 煙草は吸いません

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心が停止したとしか表現できない感覚

心についての相談だったのですがカテゴリに一致する項目がなかったので「その他」へ投稿することにしました。 六時間ほど前から「心が停止した」としか表現ができない不思議な感覚に見舞われています。 この正体とメカニズムがわかる方のご意見を伺いたいのです。 切っ掛けは私の(現時点での)人生最大の恩人であり、愛しい人でもあり、愛という確信は無いけれど愛のような感覚を学ばせてくれた尊敬する男性に、私があまりにも寄り掛かりすぎてしまい彼が自殺願望を抱くほどまで精神衰弱になってしまったため…、元気になってほしいあまりに「私にプロポーズしてくれた男性がいるの。あなたは何の心配なく私を強く押し返しても、私をキャッチしてくれる存在がいるんだよ」とまだ伝えるつもりではなかった話を彼に話してしまったんです。 私の話を聞いた途端に、彼の瞳にみるみる生気が甦ってくる様がありありと私には伝わりました。 嫌というほど…伝わってしまいました。 ふわりと嬉しい気持ちが込み上げてきました。 久々に瞳に光がある彼の顔に出会えたからです。 その彼とは無言で解散し、数分後には自分に異変が起きていました。 心だけが停止しているんです。 意識ははっきりしています。 落ち込んでもいません。 身体機能も正常で、冷静です。 ただ普通の冷静ではなく奇妙な冷静さではあります。 いつもの自分であれば、彼の反応に怒ったり泣いたりと何かしらの「心の波」が生じるんですが、波どころか心が扉を閉めてしまったかのように、何の反応も返さないのです。 波が立つ立たないの次元ではなく…、本当に表現が見つからず申し訳ないのですが 「心が停止」してしまいました。 今ならば目の前で鬼が斧を降り下ろしてきても恐怖しません。 だからといって死にたいわけでも死にたくないわけでもなく… 「無」というか「透明」というか… いえ、そこに「有る」んですけど「無い」んです。 初めての感覚すぎて本当に説明ができません。 脳の意識上でわかるのは「彼が元気になりそうでよかった」「両想いになりたいという私の希望は叶わない」「これ以上の我が儘はまた彼を不幸にする」の三点です。 ネット検索で「悟り?」かと勘違いしそうになりましたが、私は今、どうなっているんでしょうか?

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出家するということ

こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。

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身に覚えのない嫌がらせ

かなり長文ですが、どうぞよろしくお願いいたします。                                     これまで、泥棒と言われて急に解雇されたり、やってもないのに、患者さんをいじめて暴力を振るったと言われたり、親しかった友人に急に陰険だったんだねと言われたりいました。全く、身に覚えがありません。病院では、医師に、あんたは救急車を呼ぶな迷惑だと言われたり、婦人科に行けば、もう花は終わったなと言われたり、妊娠した時は、何も症状がなかったのに、子宮内容除去術をしないといけないと言われて、手足を白い布で縛られて、「この蛾の幼虫め!」と言われながら手術され、手術後は抗生物質も2日分しかもらえず、だらだら出血し病院に受診すると、子宮に綿球を4ついれられ、その一週間後に受診した時、超音波検査で子宮筋腫が4つ出来てると言われ、近くの踏切あるから自殺されたら困るからなあ、今度は産ませてやるよと言われました。今もたまに不正出血したりして、下腹部は押すと痛みがあります。それから、車で事故に遭わせられたりもしました。警察に電話すると、NHKのトラックで行きますと、ふざけて2回も同じことを言われました。自宅の周辺に他県のごみ袋が落ちていたり、留守にすると廊下は土足で歩いたように汚れていて生活用品が盗まれています。これは日常茶飯事です。聞こえるように「足をなくしてやる」と言われた日の夜に自転車も2台盗まれました。もっと酷いことをされた被害者や、お釈迦様のことを考えて、私も悟りの道を歩ませていただいているんだと思い、どんな状況でも忍耐と理性を失わないようにしてきました。 私に向けられたこのような身に覚えのない憎しみや怒りは、どのようにしたら清めてあげられますか? できればすべての人に、苦しみを取り除いてあげたいです。 お読みいただきありがとうございました。

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愛を気持ち悪いと思ってしまう

色々な映画や小説で純愛や恋について扱われますが、いつも不思議に感じます。 正直気持ち悪いなと思います。人間醜いものなのに美化して、悦に入ってるなと。愛する人と他の女性との違いはあるのか。一夫多妻制が当たり前の時代だったら、当然のように他の女性に興味を持つのではないか。そう思ってしまいます。 自分は女性を特別好きだと思ったことがありません。不純で最低ですが可愛いな、綺麗だな、やりたいなと常に女性を見るたびに思います。自意識が行き過ぎて少し話しかけられただけで自分のことが気になっているのでは?と色々な妄想をしてしまいます。 そんな女性を性的な目でしか見れない自分のことを気持ち悪いし、最低だと自覚しているので女性には自分から話しかける事はありません。というか、自意識が邪魔して話しかけられません。性的な目で見るなと言われても無理です。考えるより前に見てしまうので。 でも、それとは裏腹に日々性欲は増していき、どうにか女性と親しくなりたい、付き合いたいと思ってしまいます。このジレンマで悩まされています。 仏教では悟りを得るために性欲を抑制しますよね。どうにか性欲を抑える方法はないでしょうか。 これに加えて家族愛も気持ち悪いなと思います。出産とは自分が描いた理想的な家庭像をなぞるためのもので、幸せになるためのツール、エゴでしかないと思っています。産むも産まないも産む人の判断です。ペットショップで高額なペットを飼うのと一緒です。人間に遊ばれるためだけに交配させられ、生まれてきます。 自分が不登校になった時の親の反応を見てそう感じました。息子の感情を度外視して、世間体を気にするあたりです。親というのは息子が理想の優等生だった時と劣等生になった時でこうも対応が変わるのかと驚きました。 とはいえ、人間関係が嫌いなわけではなく、息が合う友人と話す時間は心地良いです。お互いに尊重し、お互い心地良い、でも少し互いに見下しあっているという引いた距離感も好きです。 仏教では愛についてどう考えているのでしょうか?また、人間関係(主に恋愛関係)においてどう考えていけばいいでしょうか?もしくは、性欲を抑える方法などあるのでしょうか?

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輪廻の主体

輪廻転生の事を考えると胸が痛くなります。何故仏教は命を一回限りとしないのでしょうか。 もちろん今ある生も今生限りのものですから人生が一回限りであることには変わりありません。 ただ殉教、殉死、心中等を遂げた歴史上の偉人の前世や来世が全く下らない物だったかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになります。 自分の運命や人生を全面的に肯定して死に切ったとしても、過去世や来世の全く違う人生によって矛盾をきたしたものになるとしたらどうでしょうか。 「七度生まれ変わって朝敵どもを皆殺にしたい」と言って自決した楠木正成が果たして貧民街の子供に生まれ変わる事は無いと誰が言えましょう。 彼は生まれ変わりを願いましたが、あくまで自分の人生を貫き通す意思であり、運命愛に過ぎません。 生涯不犯を誓って異国で命を落とした宣教師達の前世がどこかの売春婦であると考えただけで吐きそうになります。 もしそれで良いのならこの世での清貧、忠義や誠意も全く無意味なものとなりますから。 ただ輪廻思想が広大無辺な仏教の歴史の中で偉大な説法者達に受け継がれてきたものである事は否定できませんし、 私は至らぬ凡夫ゆえ仏教の各宗派の前提とする輪廻の教義まで仔細には存じ上げません。 仏教では、特に自性を認めない中観派では何が輪廻するとされているのでしょうか? 水車を廻す水や携帯を動かす電気のように、「私」ではない、「私」の生み出す執着そのものが輪廻するのでしょうか? 執着が輪廻するのであれば悟りを得た=執着を滅した釈迦が解脱に入られたと解釈できるように思えますが。

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2022/09/03

無欲すぎる

無欲すぎることに悩んでいる25歳社会人(8月末退職)です。 新卒で入社した会社を8月末で退職し、次の仕事を探している段階なのですが「やりたいこと」「働く上で興味があること」がなかなかでてこない状況で、自分について考えてみることにしました。   小学生のころから「おこづかいあげる」と言われても「いらない(今の私には必要ないから)」と言って断るので家族から驚かれるような子供でした。 また年頃の友達は「かわいくなりたい」「痩せたい」「メイクしたい」「おしゃれしたい」といった欲から自分磨きに励んだりしていましたが、私は友達のように熱心に自分に向き合う人間ではありませんでした。   私は他人のためなら頑張れたり行動したりできるタイプの人間でした。困っている人は助けたいし、私を頼ってくれた人には全力でこたえたいと思っています。究極の利他主義で友達からは「お人よしすぎる」「自分の利益を考えた方がいい」と言われる始末でした。   確かに、他人に時間を割きすぎて自分を顧みる時間がなく心身が疲れてしまったり、もう少し自分のことだけを考えてもよいのではないかと思うことが時々あります。でも誰かの為になっていることが巡り巡って自分の幸せにもなっていると思います。   長くなりましたが、なかなか自分のこと「だけ」を考えて損得感情をもったり、自分自身に興味や欲望の「矢印」が向いていないのではないかと思っています。 人間は煩悩が誰しもあり、その煩悩を取り去ることが悟りへの道だと思いますが、私はそぎ落としてもいないのに欲望の熱がほかの人より低いと感じます。年を重ねてそぎ落とされ悟るのであればよいと思いますが、25歳の段階でこの具合だとこれからの人生に彩りがなくなってしまうのではないかと感じます。   「お金を稼ぎたい」「キャリアアップしたい」「誰かのために働きたい」こう言った「欲」は良い欲だと個人的には思います。「欲」がないと指針がなく、熱もなく、前向きに頑張る原動力がなくなってしまうからです。   相談する相手が違うと言われればそうかもしれませんが... 欲を見出すにはどうしたらいいのでしょうか? それともこの無欲の状態は人として健全な状態なのでしょうか? 難しいことを聞いてしまって申し訳ありませんが、できるだけ多くの方のお考えやご意見をいただければ幸いです。 どうぞよろしくお願い致します。

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2024/09/27

現実と思い

こんにちは。 いつもお世話になっております。 先日、約2週間ほどタイとマレーシアに行ってきました。人生初の海外旅行です。渡航前にトラブルもありましたが、無事に体調も崩すことがなく日本に帰国することが出来ました。 タイに行った際、いろんな有名な寺院や博物館などに行き、お釈迦様の人生を学んだり、出家や悟りについて勉強したりしました。ある有名な寺院に行き、エメラルドグリーンに広がる屋根を見ながら坐禅を組んで眺めていました。すると、不思議と心のモヤモヤや悩みが一気に吸い込まれているようで、気づけばずっとボーッとしていました。 悩みとかがなぜかちっぽけに思えて、健康がどれだけ素晴らしいものか過去のことを思い出しました。昨年大怪我をしてしまい、毎日辛く、後悔と健康体ではない自分の体に苛立ちを感じました。でもまだ跡はあるけれど少しずつ治ってきた自分の体を見て、治る力があるということ、辛くても乗り越えることができたこと、この力があるっていうことは、怪我は健康状態でなくても、あるいみ私自身の体や心は健康だったのではないかと、坐禅を組みながら感じました。こんな気持ちになったのも初めてで、正直タイに行って、仏教に触れる度、不思議な気持ちになるというか、変な言い方になりますが、お釈迦様はいらっしゃるんだな、仏様は本当にいらっしゃるんだなと強く感じる場面が多くありました。その度にパワーをいただいたというか、僧侶の方にもご祈祷していただき、それ以来、気持ちが変わったといいますか、長旅で心も体も疲れているはずだけど、生きる力がたくさん漲った感じがします。この瞬間が本当に幸せに思え、旅行中何度も思いました。人生、様々なことがあるけれど、この旅行先での最高の幸せに出会うための備えって、健康であることなんだなと何度も感じました。 日本に帰国したあと、待っていたのは人間関係の悩み。生きる力は未だにたくさん漲り、むしろ挑戦したいことばかりでうずうずしています。だけど、友達に気を使うことが辛くて、朝も辛いなと呟きながら出発しました。 明日も会わなきゃ、大丈夫かな、何かあったのかな、ちゃんと話の輪に入れてるかな、常にある友達といると思います。 1人になると、なんでこんなこと思わなきゃいけないんだと我に返ってしんどいな、辛いなと嘆くばかりです。 こういうとき、どのような心構えで過ごしていけば良いのかと思います。

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2024/09/18

仏像が必要かわからなくなってしまいました

はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。 仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。 ①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。 それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。 ②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。 ③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。 仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。 仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか? 浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。 どうか宜しくお願いします。

有り難し有り難し 19
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猫のために死ねないと思うのは欲ですか?

先日こちらでお言葉を頂き、冷静になれ、自分を取り戻す事が出来ました。ありがとうございました。 色々と考える中で、以前 住職さんに頂いたお言葉で疑問に思った事がありますので教えて下さい。 二十歳の頃、四国八十八箇所を1人で回ってきました。その際にどこのお寺か覚えていませんが いつ死んでもいい様に生きなさい 死を恐れる生き方をしてはいけません というお言葉を頂きました。 アレをやってない、まだ生きたい、遊びたい、食べたい、こういう欲が死を恐れさせるから〜と言うお話でした。 ハッキリ言いますと 私は今死んでもいいです。 死にたいのではなく 今 突然交通事故に合って死んでしまっても人生に悔い無し、幸せでした。 もちろん死ななくてもいいです。 いずれ訪れるものなので仏様が決めた結果なら、どちらでも受け入れます。 と思う反面、飼っている猫がいます。 私が死んだら一人ぼっち 猫の面倒は誰が見るのだろう… など考えたら、今死んではいけない!と思ってしまいます。 これは欲になるのですか? そうなるならば、家族がいる人間は 『いつ死んでもいい』 と言う気持ちには一生なれないのでは無いでしょうか? どんなに考えても答えが出せませんでした。 教えて頂けませんでしょうか?

有り難し有り難し 7
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