お世話になっております。六波羅蜜の忍辱と因果応報について、合わせてお聞きしたいことがあります。六波羅蜜の忍辱の修行は、人それぞれの解釈というか、正解があると思います。僕は忍辱は、自分の考えかたや、捉えかたを、変えることだとは思います。ですから、僕に自因自果、というか悪因悪果の報いが現象化してきた時に、「それ」をどう捉えるかということを、意識して変えようとするのですがうまくいかないです。どうしても瞬間的な怒りが湧いてきて、そのまま精神を持っていかれたりするからです。さらに言えば、悪果が理不尽なことであればあるほど、何か月も思い出すたびに相手やその出来事を恨んだりしてしまいます。これは、僕自身が因果応報を心の底から信じられないよう所為な、己の無知の所為なのかもしれないです。ということは、因果応報を心の底から信じられるように、自分の解釈を変えられたら怒りや恨みが抑えられるのかもしれません。このように、自分の信念を変えることが忍辱なんでしょうか。
こんにちは、お力添えをお願いします。 ネットで知り合った人が居るのですが、直接会ったことはありません。 その人は自身のことを悟りを開いた、ブッダ、神、なんでも出来る完璧などと良く表現します。 ネガティブな私の思想に対して生きやすくなるように色々教えて下さいます。 日頃から人をコントロールしてはいけない、尊重するように、差別思想は良くないよと言っています。君(私)のことも尊重するよと言っています。 ですが、私の思想に対しては否定ばかりしてきます。雑談のつもりで話した何気ない会話でさえも「欲まみれで感謝が足りない」と返されまして、共感共有出来ません。お相手の言っている感謝はその通りですし、全てに感謝する気持ちを私も忘れないようにしているつもりです。 尊重すると言いながら、私の価値観がお相手の価値観に添っていないとコントロールしてきます(ですがそれは私の錯覚だと言われます) そしてアドバイスの通りに思想を転換したり行動しないと、また否定されて甘えていると言われます。 私に対しては人をコントロールしてはいけない、尊重するようにと言う割にはお相手自身は私に対してコントロールしてきますし、尊重もしていないように感じます。それを素直に伝えると「反論するな、反省しろ感謝しろ」と言われてしまい対等な関係じゃないし、まるで教祖様と信者です。 お相手のお陰で仏教を勉強したいと思いましたし、人生を良くしていく教えをたくさん頂きました。 とても感謝しています。 ですが対等な関係を築けない上に、私が何を言ってもお相手は聞く耳を持ってくれないので一方的に連絡を取れないようにしてしまいました。 感謝を伝えてから終わりにしようかとも考えましたが、いつもの論調でコントロールされて平行線になりそうな気がしたので。 これこそ「感謝が足りない」と叱られそうですが、お相手に教えて頂いたことはこれからも大切にしていきたいです。 一方的に連絡を絶った私は恩義知らずの罰当たりでしょうか? お読み頂きありがとうございました。
尊敬してる人から、自分がこれからつけていく力は利他の心と言われました。 しかし、今ひとつピンときません。 何から始めれば良いのか、思いやりある言動とはなんでしょうか。 自利利他とはなんでしょうか。
菩提寺が浄土宗です。 菩提寺では南無阿弥陀仏を唱えますが、日蓮宗のお寺などを御参拝の時はどちらを唱えればよいのでしょうか。
よろしくお願いします。 わたしは数年前から物欲、特に洋服を買いたい欲を抑えられません。 家はあまり裕福ではなく学生時代は好きなものをあまり買えなかったかなと記憶していて、自分で働き給料を貰えるようになってから、残高が無くなるまで買ってしまうようになりました。特に暇さえあればネット通販で万単位を週に何回も購入してしまい、やめようやめようと思ってもまた見てしまいます。色々改善策をみていると、やはり見ないことが一番らしいのですが。買い物に出かけても、迷いはしますが結局買います。買って満足して着ることはあまりありません。そもそも洋服は好きなのでなかなかやめれません。他に趣味や楽しみを見つけたらいいのですが。漠然と自分に満足していないことを散財して穴埋めしようとしているのだとは思います。様々なことに満たされていなうと実感しています。 我慢というか、冷静になるにはどうしたら良いでしょうか。 駄文ですが、よろしくお願いします。
この度は、自分の質問を見ていただきありがとうございます。 自分は、高校二年生の男なんですが、タイトルにもあるように世間体を気にしすぎてパンクしそうです。なにをするにも、相手はどう見てるか?などを気にしすぎてヤバイです。自分には、悩みがあります。それは、部活を辞めたいことです。もう緩くして飽きました。ですが、世間体を気にしすぎて辞めれません。ひとつのことを突き詰めれ!みたいなことを人は言いますが、それは厳しい場合で自分の場合緩いのが嫌なので、これを続けたところでなにも得られないのは、はっきりわかってます。ですが、 人に部活頑張ってるか? とか言われた時に 辞めました って言って空気悪くなるの嫌だし、いじめとかで辞めたとかって思われるのも嫌です。 どうすればいいでしょうか? どんなことでもいいのでアドバイスお願いいたします。
以前よりお世話になっております。毎回真摯なご回答を頂き、本当にありがとうございます。 今回お聞きしたいことは、八聖道によって死の恐怖が消せるのかということです。以下、詳細な私の現状です。 私は「死んだ後自分がどうなるかわからないことへの恐怖」と、「自分と世界が存在している(五感で感じ取れる)ことの恐怖」を常に抱えています。 そこで仏教を自分なりに勉強した結果、四諦と八聖道を知りました。恐怖克服のため、ぜひ八聖道を実践しようと思いました。 現在は在家で修行がしたいと思っています。正思、正語、正業、正命、正精進、正念は、日常生活の中でなんとなく「これに気をつけて生活すべきなんだな」という具体的な実践が思いつきます(といっても、素人の浅知恵で、悪口を言わないなどの程度です。ここに関しても今後もっと勉強していきます)。 しかし、正見と正定は、瞑想(座禅)などを行なって会得するものだと拝見しました。 私は禅宗(臨済宗や曹洞宗など)の教えも好きなので、座禅を日常に取り入れたいと考えています。ですが、禅で有名な一休さんでさえ、「死にとうない」と言って死んでいったと聞き、正直とても怖くなりました。 座禅を含め、八聖道を実践していっても、死や存在の恐怖は克服できず、怯えたまま生きて死ぬしかないのか?と不安です。 hasunohaでは、座禅の中で悟りのような経験をされている方や、「実践を伴って初めて仏教がわかる」とご回答されている方をよくお見受けします。そのため、知識を学ぶだけではダメで、具体的な実践をして初めて、疑り深い私でも「仏教を知識だけでなく心で納得する」ことができるのだと考え、八聖道を実践しようと思いました。 長々とすみません。以上の流れから、 1.八聖道(座禅含む)を実践していったら、死と存在の恐怖を消すことができるのか? 2.もし出来ないなら、私は今後どうしていったら良いのか?(恐怖に苛まれるのは本当につらいので、なにか解決策があればご教示頂きたいです) の2点をお伺いしたいです。 また、私の現状の中でも、間違ってる行動や考えがありましたら、ご指摘頂ければと思います。 長文になってしまい申し訳ございません。お時間ある時で構いませんので、ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
生きる意味を見失っいます。 私は虐待を受け育ってきました。父親からの暴力、暴言、包丁で刺されたこともあります。父親はアル中で母親にも暴力をふるい入院したことも何度かあります。 最近まではこの状態が普通じゃないと理解すること難しかったように思います。 中学時代は父親に復讐を誓いました。どれだけ否定されようとこいつより社会的位置も収入も超えてやる、それだけで勉強を頑張りました。もちろん勉強の参考書に水をかけるような邪魔、学年で1位取ろうが褒められることもなく馬鹿にされ続けました。らが、その結果大学に行き、希望の業界に入社3年目になる時には会社での成績も上位、父親の収入2倍以上、社会的地位も超えたと、目標を達成出来たと自身の中で満足してしまったように思います。 その時から人生全ての目標を失い、自分は何のために生きてるのか分からなくなり鬱病が発病しました。薬で抑えても外に出ることも出来なくなり、自分の役目が終わったと希死念慮も出ました。会社も自主退職しました。 とにかく認められたかったという思い、そして今にして思えばずっと精神的に支配されてると思います、進行形で。 それから虐待を受け同じような経験を持つ女性と出会い付き合うことになり一緒に治療していきませんかという提案を受けそれに乗りました。治療に関しては過去の記憶を一つ一つ思い出して書き換えるというもので半年かけてやり切りました。 その間、トラウマを思い出して感情のコントロールも出来なくなったり父親から包丁で突きつけられ彼女が警察に通報し父親が殺人未遂で捕まり接見禁止になりました。 その後彼女からは鬱を原因に別れを切り出され私は拒絶されたように感じ周りに味方がいないように感じどんどん落ちていきました。 今はそれから数年が経ち業界大手に転職も果たしました。ですが生きる目標が分からない。ただただ死なないように生きているだけ。人は死という絶対的未来に進んでいくのに対しそこに意味を見出そうとする事で生きているように思います。意味を見出せなくなった時点で魂的には死んでるのだと。 生きることは修行であり魂を磨く為に輪廻転生を繰り返す等、宗教によって様々な捉え方はあると思います。 ほとんどの宗教でも大前提で自殺する事は悪である。しかし人によればこれは救済ではないのか?とにかく生きるとは何か本質を知りたいです。
私は30代前半から不妊治療をして4回流産しました。何箇所もの病院に通いました。その間親族の病気や近所問題、職場問題等ありとあらゆる難題が降りかかり精神的、金銭的にも大変で治療を諦め、問題を片付けつつも勉強や趣味、仕事に邁進してまいりました。ただ最近この問題が全てクリアになり、煩悩が削ぎ取られ何というか。人生が草原化してきたというか。人生が終盤に来た気がしてなりません。今私は40代ですが、歳を重ねるとこのような感じなのでしょうか。また治療を再開しようとも考えていますが明らかに以前の欲しい!という気持ちとも違って安らかな感覚です。何というか。周囲の方や主人とも感覚が自分だけ穏やかでどうしてかなと思います。これから周りの人とどのように接したらいいのでしょうか。
理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 以下、長文になりますがご了承願います↓ ・・・・ 自然界には大小様々な生き物がひしめいているだろう。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね?
前回「釈尊の悟りは神通力を得た結果?」を投稿しましたが、当たりのようです。 駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生の著書「釈尊の生涯」の「成道と三明六通」には「(前略) そして濾尽智通以外の五神通は、必ずしも仏教者だけでなく他の宗教家や鬼神狐狸の類に至るまでも、浅深の差はあっても、これも得ることが出来るとせられる」と書かれています。 三明六通の「六通」とは先ほどにに記述の「五神通」とあるように、「六神通」と考えることが出来ますので、「神通力」を得たと考えて差し支えないと思います。 古代インド社会では「輪廻転生」は常識であったそうですが、当時のインド宗教者は、互いに神通力を競い合ったと考えられます。 三明の最初の一明は「過去に関するすぐれた智慧の宿命通(宿命明)」となっていますから、釈尊だけでなく、それ以前の宗教者にもそこに到達して、「輪廻転生」が世間に広まったと考えられます。 余談ですが、阿含宗を創設した桐山靖雄師は、著書「輪廻する葦」のなかで、成仏法と称して、神通力を修練することを勧めたようです。私は読んでいませんので想像ですが、論理の「阿含経」ではなく実践法の「雑阿含経」を研究していたようです。
ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。
大切な大切な大好きな家族である猫が病気になってしまいました。 とても辛いです。 かわりたいです。 どうしてせっかく生まれてきたのに、年をとっていくのか。 どうしていずれ死ぬのに生まれてくるのか。 生まれてきてたくさんいいこともあるし楽しいこともあると思います。 でも、悲しいことや辛いこともたくさんあります。 なんで生きていくんでしょうか。 この世には人数制限があって、新しい命がこの世に誕生するためには、失われる命がないといけないのでしょうか。 愛猫がもしいなくなったら、生きていくかいがありません。 ただ、すぐ私も後を追ったら親が悲しむので、親と愛猫がいなくなったら私も後を追いたいです。 生きていくことは修行だというけれど、それなら死ねたら楽になるのでしょうか。 不健康なことをして緩やかに死んでいけたらと考えてしまいます。 頭で理解しようとしても、心が受け付けません。 悟りを開いたら悲しくなることはないのでしょうか? できることはなんでもしてあげたい。 私と命をわけっこして、同時に最後を迎えたい。 どうして私ではなく愛猫が辛い目にあわなくちやいけないのかわかりません。 試練ばかり与えるのは、神様や仏様が私のことを嫌っているからなのでしょうか。 それとも私が悪いことをして、その報いなのでしょうか。 かわりに私の命をささげれば、悪いことはなくなるのでしょう?
こんにちは。 私は憧れている人がいます。 その人みたいに なりたいなと思って 努力したりしますが、 おもうようにうまくいきません。 他の人の質問でうまくいかなくて 悩んでいる人に対して、 理想が高すぎ キラキラしすぎ、 と助言されてますが、 やっぱり、理想や夢なんて 諦めたほうがいいんでしょうか。 どこらへんで妥協したらいいのかわからないです。
潮干狩りとか釣りとか、それを生業にしてる人が殺生をするのは当然ですが、自分が遊びでやる事への罪悪感があります。 生命の維持のために他の命を奪う事は世の理です。しかし、第一次産業に携わる方々が、自分達消費者の代わりに殺生をしてくれているのに、その仕組みを超えて、わざわざ自分が快楽を得るために殺生を行うのは、単なるエゴであり、それは捕まえた生命に対し非常に失礼なのでは?と常々感じます。 実際、潮干狩りとか釣りをしている間は楽しいのが、その考えを裏付けるようで辛いです。 しかし、捕まえてしまった以上は、なるべく苦しまないように殺して、美味しく食べようと思います。それが、無駄な殺生をしてしまった自分が出来るせめてもの償いなのではないかと思います。 やはり、潮干狩りや釣りは悪いことなのでしょうか?
いとと申します!宜しくお願い致します 私は、他者に対する恋愛感情や性的感情が分かりません。 そのような恋愛観をアセクシャルと呼ぶそうです。 最近その言葉を知り、自認しました。 今までも人として好きになることはありましたが、恋人関係になる途端に嫌な気分になりました。 この言葉を知れて自分が何者であるかが分かり、安心しました。 しかし、自分自身がまだ理解して、認めることが出来ません。 恋愛観だけではないですが、自分自身を認めるためにはどうしたらいいでしょうか?
今までうまくいかない物事に怒り狂っておりましたが、最近になって全てがめんどくさくなり、また怒っても主張してもその場にそぐわなければ思う結果が得られないとわかりました。 なので他人と深く関わらず口論討論言い争いを一切したくないと考えております。 ただそうすると「無駄に損をして金を無くすぞ、世の中はズルしたもん勝ちなんだからもっと要領良く生きろ。仕事なんて頑張らなくて良い、上司へのゴマスリが一番だよ、そんな考えで生きてどうすんだ、せっかく大企業で正社員なんだぞ」など言われてしまいます。私はもうどれもやりたくありません。 あーあなたとは合いそうにないわあ、じゃあバイバイね。で済ませたいです。ただ世の中が・この年齢での生き方的に許されない気がしております。 馬鹿正直クソ真面目なんて何の得にもならないし、プラス怒りや他人に対してやってやろうみたいな気持ちが消えてしまい自分はどうしたら良いんだろうと不安になっています。 漠然とした内容で申し訳ありませんが、気が向きましたらお答えいただけますと幸いです。
私は昔からライバルがいる方が頑張りがきくタイプでした。受験勉強の時などは友人と点数を比べ合って競いあうことで、最後までモチベーションをキープすることができました。 しかし、仏教ではあまり他人と比べたり、競争心を持ったりすることは奨励されていないというイメージがあります。 たしかに他人と比較する事で、自分も他人も傷つける事がある、という事は私自身が身に染みております。 でも、他人と比較し競争心を持つことは人間の成長過程ではやはり必要な気がします。仏教では競争心の利点については認めていないのでしょうか?
八方塞がりで身体共に心がストレスでどうにかなりそうです。 これまで、それでも自分に御褒美を与えて乗り越えたり 楽しいと思うことを自分で探したり他のコラムや教訓めいたもの 偉人達の名言、お坊様達の悟りなど読み漁り気を紛らわし なんとか生きて来た部分もあります。 でももう数年もこんな状態だと自分でもおかしいと思います。 私はもっと幸せになってもいいのではないか 自分で自分を不幸にしてないかと思っても現実は上手くいかず ストレスを酷く感じるようになりました。 これ以上ないどん底を何度か体験し、どん底ならあとは這い上がるだけだと希望を持ち、自分はもっと幸せになってもいいのではないかと 周りを見て疑問を持つようになりました。 ネット:いい人もいるけど数えるくらいで悪意を向ける人も同数かそれ以上いると思っている。心当たりなく、勘違いを勝手にされ、発言も気をつけていたのに向けられる敵意に疲弊し希望も努力もズタズタにされ悔しい。自分に落ち度はなくても変な人に目をつけられやすい 仕事:年配者のモラハラパワハラに耐えながら最初は苦痛で私生活にも支障が起きてたがネットの件があり「あっちよりはましだ」ときつかった期間も乗り越えた。でも毎日がしんどくて辛い。時々叫びたくなったり泣きたくなったりする。周りは笑ってるのに自分だけが笑えず楽しいと思うことがない 家族:姉がどうしようもなく自殺を盾にして金銭を要求しているのを見るたびに死んでくれた方がましかもしれないと最初は引き留めてたのが呆れてしまって救いようがなく、姉のせいで睡眠障害に陥ってしまった。ギャンブル狂になった彼女を助けてあげてという人がいたら、その人が助けてあげて欲しい。むしり取られる一方の家族を見ると 真面目に生きてる人間が不真面目に生きてる人間によって不幸にされてるのが許せない 男性:怒鳴れば言うことを聞くと思ってる人が許せない。 偏見持ちの父を許してない部分がある それらと毎日付き合っていくうちに頑張ろうという気持ちも砕けて 全部やめてしまいたいどこか遠くに行きたい自分が先に死んだ方が もう苦しくないのではないかと思うけれど、それを許さない自分もいます。 美味しいもの食べて母をいっぱい喜ばせて猫と暮らして 幸せに平穏に暮らしたいだけなのですが 生きるって難しい。良いストレス発散ってありませんか 煙草は吸いません
初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。