初歩的な質問かもしれませんが、仏教では欲をなくそうとしますが何故欲はだめなのでしょうか? 欲を満たす幸せも結構いいものだと思うのですが この教えがいまいち納得できないので詳しく教えて説いてください。
はじめまして。 暑さの厳しい日が続いておりますね。近頃、私の住む家の近くで風鈴を吊したお宅があるようです。 もちろん夏場に風鈴を吊す、夏の風物詩とも言える行為そのものに文句をつける気は毛頭ございません。 しかしこの吊されている風鈴というのが風鈴・オブ・ザ・風鈴とも思える素晴らしい風鈴でして、 強風の日はチリーンチリリリーンチリーン!!と元気よく、 いま風吹いた?というそよ風にすらチリーン…チリリーン…と健気に反応して見事な音色を辺りに響かせるのです。 風鈴としての役割を果たそうとするその懸命さには目を見張るばかり。 けれども修行の足りない私は、絶え間なく鳴り響く甲高い音に「ああ今日もうるせーな」と思ってしまうのです。 これで風鈴を吊しているお宅が分かっていれば直接出向いて交渉する事も考えるのですが、 場所がちょっとした音も反響するそこそこ閑静な住宅地、いまだどのお宅で鳴っているのか判然としません。 度々外出のついでに風鈴を探してはみるものの、件の風鈴を見つけ出すより先に 付近の窓辺をジロジロ見て回る不審者の噂が出てしまいそうで、もしそんな事になれば近隣の皆様の心痛となること必至です。 風鈴の音を心静かに受け入れるか、気にせずいられたら良いのですが、 いかんせん一度気になると鳴る度に「今日も鳴ってる…」と思えて仕方ありません。 7月に入ってまだ1週間、これからも風鈴は立派に己の役目を果たす事と思います。 この夏、私は風鈴の音色とどう向き合い、過ごして行くべきでしょうか。 何かアドバイスがございましたら、ぜひとも宜しくお願い致します。
初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
自分は霊魂の存在を信じています。自分は科学的な合理主義者ですが、そうであるがゆえに霊魂の存在を逆説的に傍証してしまっている具体例を知っているため、かえって霊魂の存在を信じるようになりました。 それはそれとして自分はどうしようもなく他者とコミュニケーションがとれない状況・環境にいるため、できるだけ早めに自殺しておきたいのです。これはもう結構どうしようもない状況で救いはありません。ですから自殺した場合、できる限りこの世に未練等を残して霊魂のような形で留まるようなことにならないようにしたいのです。このまま生きていてもますます他者に対する(主にマイナスの)執着が強まりそうですし生きていて楽しいと思ったことはほぼありません。むしろ悪事を為して日本人に対してせいせいするくらいです。ゆえにどういう心構えで死ねばできるだけ霊魂として現世に残った時にすぐに消滅できるのか、その方法を知りたいです。思うに大昔の仏教修行者も悟りを得るとか輪廻から解脱するとかそういう虚妄に思える話は別にしても少なくとも個としての霊魂はすぐに消滅したように思え、楽に消えることができたと思うのです。 自分は生きる気力もなければ他力本願も望めません。ゆえに今すぐ消えて楽になりたいのですがどういう心構えで死ねばよろしいでしょうか?手前勝手な相談をして申し訳ありません、どうかよろしくお願いします。しかしほとほと人生に疲れているのです。少子化にかかわらず10代の自殺者の数が増えているようですが、今なら彼らの気持ちが深くよくわかる気がしています。能天気に生きられる大人とは全く違う別の思考というか、悪い意味での才能というか、その内面を理解できたような気がしています。
先日、千日回峰行を2回も行われた酒井雄哉さんの「一日一生」という本を読みました。とても読みやすく、酒井さんがこれまでの人生や行を通して学ばれた人生におけるものの考え方や、日常の小さな幸せに気づかせてくださる本でした。 ところで、千日回峰行のようなきつい修行は止めるなら死ぬ、というルールがあるみたいですね。このような感情を持ってはいけないのかもしれませんが、なんだか馬鹿馬鹿しい、と思ってしまいました。 『毎日毎日仏様にお祈りし、行をすることで、いったい世の中の何の役に立つのか?』と疑問に思いました。 千日間毎日山の中をぐるぐる回ってお祈りしても、今あらゆることで困っている人々が助かるわけじゃないですよね? お坊さん方に失礼なことを言っているのは分かっています。ただ純粋に疑問に思ったので質問してみました。
この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。 仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。 しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。 仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。 他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。 仏陀の仰る通りだと思います。 人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。 そして手に入れた物はいつか失います。 失うと悲しみます。 しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは 極端なニヒリズムに感じます。 仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。
亡くなった悪友は51歳という若さで単独事故で亡くなりました。 「関係性」 相手には家庭もあり、愛人も数人居るような元気な方でした。愛人ではないが、時間が合えば出かけたり体の関係もあり遊んだりしていた仲でした。 私が再婚して連絡回数が減り1年に3回程になっていた。 何故か久々に連絡を取りたくなりめ連絡先したが返事が無くて、共通の友人に連絡とりたいと話しして伝えておくね!と翌日亡くなりました。 「デジャブ」 そして葬式準備していたら、ふと自分が喪服を着る自分の夢を思い出した。 この姿、手に持っているもの同じでした。この断片的な夢は数カ月前見た夢で何か記憶に残る動物が出ており、目が冷めた後夢占いで調べたので記憶にかすかに残ってました。 その夢占いには、「試練、大切な人が亡くなる」と言う書いてありましたがそんな事あるはずないとスルーした事がありました。 この出来事が気になり調べていたら ここの仏教の教えをしることになり楽になりましたが、仏教の教えではあり得ないが 私の様な出来事があると、この人の運命は決まっていたんじゃないかと思いました。 私が経験したデジャブのような事は 「なぜ、ひとも特定して事故死する事を見れなかったんだ、」など悔みました。 だか、ここの悟りを読んで 私に対して「試練」がくるよと教えててくれただけでもありがたいと思えるようになりました。 「疑問」 この出来事はデジャブと言うのか、守護霊さんか何かが教えてくれたのでしょうか? この方は、亡くなる運命が決まっていたんじゃないかと思えましたがどう思われますか?
この世界が嫌いで嫌いでしょうがないです。 私はこの世界の苦しみを毎日毎日受けています、 しかもそれが誰かから受け入れられる事もなく私は誰1人悩み相談せず宮沢賢治の雨にも負けずのような生き方をしています。 毎日、理論物理学を勉強して本気でセルンに協力してミニブラックホールなどで宇宙や遺伝子がなくならないかなと考えたりするほどです。 この宇宙や生物の仕組みが神秘的とは反対でクソほど汚らしいものにしか思えないのです。 この世界を作った何かはおそらく最悪な存在です。 このクソ世界から逃れるには解脱しかないと言われてますが、その解脱は、なんとくだらない仏教の何かを追求しないといけないそうです。 しかもそれはある所では踊りで、ある所では念仏で、ある所では修行とかで笑ってしまいます。 それって仏教の悟りは客観的なゴールがないということではないか!? しかも悟るには時間かけないといけないし、仏教を理解できる知能が必要。 輪廻転生のルールを作った奴って意味不明じゃない? 悟れねえよ、人生苦しんでる時にどう仏教の追求すんだよ、どう修行とかするんだよ。ふざけんなよ。 私は仏教の矛盾に対して質問しましたが、"万人は信仰の自由がある"と言われました。 という事は結局は、仏教はみんなに取っての客観的な答えがあるものではないということですよね。キリスト教を信じてる人はゴッドを信じていて仏教の人は別の概念を信じていてそれは結局相対的でこの世界の後の世界は誰も説明できないという証拠ですよね。 結局解脱する方法はきちんと仏教を勉強できる恵まれた人、知能が高い人、仏教系の子息に生まれた人、時間が取れる人、人生に苦しんでない人という多大な時間を取らないといけません。 それならやはり解脱できない不幸な人間は自殺しかないのではと思います。 このクソルールを作った世界のゴッドだかアッラーだか宇宙だか何だか知らんがクソ制約を個人にてるくせにクソみたいに恵まれた人しか得れないシステムを作るゴミが設計してる。 さあどうすればいいのだ? 恵まれない奴はどうすれば解脱できる? どうこの苦しみをコントロールできる? それが輪廻転生のゴールと言われたら誰もゴールできねえし満足するわけねえだろ全知全能とは思えんしクソだろ。
私の悩みは同性を好きになってる自分がいるかもしれないということです。 最近体を鍛えるためジムに通っています。そこで憧れや勉強するためによく男性を見ています。 通う前までは男性には一切興味がなかったんですが、最近では、普段から男性を目で追いかけている自分がいます。 これぐらいならまだよかったんですが、この前女性の方と夜の営みをしようとしたら、体をみてもほとんど興奮しなく萎えてしまいました。 こんな自分にショックすぎて、いろんな欲がなくなった気がします。 女性に興奮する昔の自分を取り戻すためには、どういう心構えでいればいいんでしょうか?? よろしくお願いいたします。
すみません、文章をまとめるのが苦手なのと、心の整理が付いていないので、文章がぐちゃぐちゃになるかもしれません。 私は、幼いころからいじめにあってきました、そのためか疲れたりすると自傷感情があふれ出てしまいます。 学生時代に窓か飛び出して頭から庭石にだいぶしたいと思ったこともありました。 仕事で失敗した帰り道川沿いの道を通りながらハンドルを川の方に回せば川に落下できるなと思ったこともあります。 幸い友だちや両親の顔そして、いつか素敵な人と出会えるかもしれないと思って思いとどまってきましたし、リストカットにも走らないで押さえてきました。 そして、こんな思いをする子どもを一人でもを少なくしたいと思い、ボランティア活動をしておりました。 親御さんから「ありがとう」と言われるといじめられて冷たい言葉が多かった反動か、うれしくなるのですが。 その反面自分がいじめられていた時にボランティアさんに会いたかったと言う願望を自分がやることで心を埋めている自分気が付きます。 さてこうしていると、人のためにがんば幸せを感じる一方で、時として、自分自身が救済されたい願望が心の中で暴れだします。 他の人が笑顔になって幸せを感じているはずなのに、私自身が甘えて励ましてほしいと思うことが出てきてしまいます。 いじめられていたころ、いつの日か恋をするかもしれないと自分を励まして来たけど、恋など夢また夢と言う状況も拍車をかけている気がします この気持ちをどのように受け入れていけばいいでしょうか
ぎんりんと申します。よろしくお願いいたします。 仏教の本を読むと、涅槃とは、精神が何物によっても動かされず、無常の世において常に自らの心を安らかに保てる状態だとあります。 という事は、涅槃に至った仏は、家族や親友が亡くなっても、悲しみに打ちひしがれず、とても楽しい事があっても、人々と喜びを分かち合うことは無いのでしょうか。 私のような凡夫から見ると、なんだかとても寂しいなぁと思ってしまいます。 仏陀は、世の人々を皆この境地へと引き上げることを使命として自らに課されたそうですが、何事への愛執も無ければ、人々は子供を作らないだろうし、文化も芸術も何も生まれないはずです。 仏陀のご意志が達成され、皆が悟りを得た世の中になれば、無味乾燥な世の中になり、やがては人類は姿を消してしまうように思うのですが、仏陀はそれもまた良しとされていたのでしょうか。 仏教を少し齧った者が初めに通るような疑問で恐縮ですが、どうかご教授頂けますと幸甚に存じます。
こんにちは、いつもご回答参考にさせて頂いております。 私はタイトルにもある通り、プライドがかなり高く負けず嫌いで、人から否定されたり変に思われたり、できない奴だとか思われるのが怖くて、いつも人の視線や顔色を伺ってしまいます。また、少しでも強い口調で言われたりすると責められてると感じてしまいビクビクしてしまいます。 プライドも高く、失敗をなかなか認められなかったり、恥をかくのが嫌で足がすくんでしまうこともよくあります。 上記のことがいつも頭の中の半分以上を占めていて、集中力や注意力が散漫になってしまい、今やってること、やらなければいけないこと、また、仕事に集中出来なくてミスを連発してしまい、とても悪循環で、こんな自分のことがほとほと嫌になります。 そんな自分を変えたくて、人となるべく関わる仕事にしようとおもって選んだ仕事なのに、ちっとも変われない自分がいます。 人にどう思われるか、人からの評価を気にしないで、自分を守るためだけの無駄なプライドを捨てて、もっと人のために生きるにはどうしたらいいか教えてください。
お世話になっております。六波羅蜜の忍辱と因果応報について、合わせてお聞きしたいことがあります。六波羅蜜の忍辱の修行は、人それぞれの解釈というか、正解があると思います。僕は忍辱は、自分の考えかたや、捉えかたを、変えることだとは思います。ですから、僕に自因自果、というか悪因悪果の報いが現象化してきた時に、「それ」をどう捉えるかということを、意識して変えようとするのですがうまくいかないです。どうしても瞬間的な怒りが湧いてきて、そのまま精神を持っていかれたりするからです。さらに言えば、悪果が理不尽なことであればあるほど、何か月も思い出すたびに相手やその出来事を恨んだりしてしまいます。これは、僕自身が因果応報を心の底から信じられないよう所為な、己の無知の所為なのかもしれないです。ということは、因果応報を心の底から信じられるように、自分の解釈を変えられたら怒りや恨みが抑えられるのかもしれません。このように、自分の信念を変えることが忍辱なんでしょうか。
お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。
菩提寺が浄土宗です。 菩提寺では南無阿弥陀仏を唱えますが、日蓮宗のお寺などを御参拝の時はどちらを唱えればよいのでしょうか。
尊敬してる人から、自分がこれからつけていく力は利他の心と言われました。 しかし、今ひとつピンときません。 何から始めれば良いのか、思いやりある言動とはなんでしょうか。 自利利他とはなんでしょうか。
こんにちは、お力添えをお願いします。 ネットで知り合った人が居るのですが、直接会ったことはありません。 その人は自身のことを悟りを開いた、ブッダ、神、なんでも出来る完璧などと良く表現します。 ネガティブな私の思想に対して生きやすくなるように色々教えて下さいます。 日頃から人をコントロールしてはいけない、尊重するように、差別思想は良くないよと言っています。君(私)のことも尊重するよと言っています。 ですが、私の思想に対しては否定ばかりしてきます。雑談のつもりで話した何気ない会話でさえも「欲まみれで感謝が足りない」と返されまして、共感共有出来ません。お相手の言っている感謝はその通りですし、全てに感謝する気持ちを私も忘れないようにしているつもりです。 尊重すると言いながら、私の価値観がお相手の価値観に添っていないとコントロールしてきます(ですがそれは私の錯覚だと言われます) そしてアドバイスの通りに思想を転換したり行動しないと、また否定されて甘えていると言われます。 私に対しては人をコントロールしてはいけない、尊重するようにと言う割にはお相手自身は私に対してコントロールしてきますし、尊重もしていないように感じます。それを素直に伝えると「反論するな、反省しろ感謝しろ」と言われてしまい対等な関係じゃないし、まるで教祖様と信者です。 お相手のお陰で仏教を勉強したいと思いましたし、人生を良くしていく教えをたくさん頂きました。 とても感謝しています。 ですが対等な関係を築けない上に、私が何を言ってもお相手は聞く耳を持ってくれないので一方的に連絡を取れないようにしてしまいました。 感謝を伝えてから終わりにしようかとも考えましたが、いつもの論調でコントロールされて平行線になりそうな気がしたので。 これこそ「感謝が足りない」と叱られそうですが、お相手に教えて頂いたことはこれからも大切にしていきたいです。 一方的に連絡を絶った私は恩義知らずの罰当たりでしょうか? お読み頂きありがとうございました。
生きる意味を見失っいます。 私は虐待を受け育ってきました。父親からの暴力、暴言、包丁で刺されたこともあります。父親はアル中で母親にも暴力をふるい入院したことも何度かあります。 最近まではこの状態が普通じゃないと理解すること難しかったように思います。 中学時代は父親に復讐を誓いました。どれだけ否定されようとこいつより社会的位置も収入も超えてやる、それだけで勉強を頑張りました。もちろん勉強の参考書に水をかけるような邪魔、学年で1位取ろうが褒められることもなく馬鹿にされ続けました。らが、その結果大学に行き、希望の業界に入社3年目になる時には会社での成績も上位、父親の収入2倍以上、社会的地位も超えたと、目標を達成出来たと自身の中で満足してしまったように思います。 その時から人生全ての目標を失い、自分は何のために生きてるのか分からなくなり鬱病が発病しました。薬で抑えても外に出ることも出来なくなり、自分の役目が終わったと希死念慮も出ました。会社も自主退職しました。 とにかく認められたかったという思い、そして今にして思えばずっと精神的に支配されてると思います、進行形で。 それから虐待を受け同じような経験を持つ女性と出会い付き合うことになり一緒に治療していきませんかという提案を受けそれに乗りました。治療に関しては過去の記憶を一つ一つ思い出して書き換えるというもので半年かけてやり切りました。 その間、トラウマを思い出して感情のコントロールも出来なくなったり父親から包丁で突きつけられ彼女が警察に通報し父親が殺人未遂で捕まり接見禁止になりました。 その後彼女からは鬱を原因に別れを切り出され私は拒絶されたように感じ周りに味方がいないように感じどんどん落ちていきました。 今はそれから数年が経ち業界大手に転職も果たしました。ですが生きる目標が分からない。ただただ死なないように生きているだけ。人は死という絶対的未来に進んでいくのに対しそこに意味を見出そうとする事で生きているように思います。意味を見出せなくなった時点で魂的には死んでるのだと。 生きることは修行であり魂を磨く為に輪廻転生を繰り返す等、宗教によって様々な捉え方はあると思います。 ほとんどの宗教でも大前提で自殺する事は悪である。しかし人によればこれは救済ではないのか?とにかく生きるとは何か本質を知りたいです。
よろしくお願いします。 わたしは数年前から物欲、特に洋服を買いたい欲を抑えられません。 家はあまり裕福ではなく学生時代は好きなものをあまり買えなかったかなと記憶していて、自分で働き給料を貰えるようになってから、残高が無くなるまで買ってしまうようになりました。特に暇さえあればネット通販で万単位を週に何回も購入してしまい、やめようやめようと思ってもまた見てしまいます。色々改善策をみていると、やはり見ないことが一番らしいのですが。買い物に出かけても、迷いはしますが結局買います。買って満足して着ることはあまりありません。そもそも洋服は好きなのでなかなかやめれません。他に趣味や楽しみを見つけたらいいのですが。漠然と自分に満足していないことを散財して穴埋めしようとしているのだとは思います。様々なことに満たされていなうと実感しています。 我慢というか、冷静になるにはどうしたら良いでしょうか。 駄文ですが、よろしくお願いします。