父を亡くし、先日四十九日の法要を終えましたが、四十九日の法要を行った日は亡くなってから四十六日目であり、本当の四十九日の日ではありませんでした。そこで、 ①父はどのタイミングであの世(極楽浄土?)を目指すのでしょうか。 ②お供えなどは本当の四十九日まで行った方がよいのでしょうか。 ③お供えや話しかけたりするのは本当の四十九日が過ぎてもして良いものなのでしょうか。
現在理系の研究室に所属している学生です。 最近は就職活動や研究に追われていたため、精神的に疲れてしまいました。 様々な理由から研究も就職活動も同時に進める必要があり、自分は並列して物事を進めるのが苦手だったため非常に苦労しました。 周りの方々に相談しても直接的な問題の解決にはつながらず、結局は自分の力で何とかしてきました。 その後、精神的にはかなり疲弊していましたが、なんとか内定を頂き、就職活動を終えようと考えていました。 しかし自分の就職先に関して教授や両親、企業の方の意見が合わず、自分自身の考えも冷静さを失ってしまい、何も信じられなくなりました。 これらの問題も恐らくどうにかなると信じています。 しかし、困難を乗り越えても、何度乗り越えても、新たな困難にぶつかり、そのたびに疲弊します。 困難を乗り越えることで成長してるのかもしれませんが、辛いことばかりの人生を生き続ける意味が分からず、苦痛ばかりの人生は非効率的に感じます。 明確な生きる目的がなければ心が折れそうです。 生きる目的とは何なのでしょうか。 もしくは生きる目的を見つけるにはどうしたらよいのでしょうか。 よろしければご回答をお願いいたします。
16年精神疾患で苦しんでいる息子がいます。あまりの苦しみを癒すために、お経を詠み、墓参りも欠かさず、とにかく普通の暮らしができるようになればと祈り続けていますが、一向に良くならず外に出れば体調が優れなくなり、絶望的な日々を送っております。 こんなに祈っても、参拝しても良くならないのは見離されているからでしょうか。 神仏とは本当に存在しているのですか?親として答えるすべもなく、疲れ果ててしまいました。現在は私が扶養していますが定年も近くなり、あとは心中する覚悟でおります。寺も神社も信用できません。
昔の恋人が亡くなりました。彼は一年以上前から闘病生活を送っていたそうですが、その間、私は何も知らずに過ごして参りました。 恋人とは6年前に3ヶ月程しかお付き合いできませんでしたが、私の理想通りの素敵な方でした。 お別れしてからも何度か会いましたが、私の至らない態度が恋人を不快にさせてしまい、最後に送った3年前のメールは返事をもらえませんでした。 現在は新しい恋人と出会えて幸せですが、昔の恋人にもう一度だけ会いたいと毎日思っておりました。同時に、願っていればいつか会えるとも思っておりました。 ところが、昨日亡くなったという報せを聞き、もう会えないと思うと心が乱れてどうして良いのか分からなくなります。 泣いて心を落ち着かせようとしましたが、体の底から泣くことができません。 どうすれば昔の恋人の安らかな眠りをお祈りする心になれますか、お導き下さい。
おはようございます。以前、仕事の事で相談して頂いたのですが、個人病院で看護助手の仕事をしてたのですが、どうしても仕事覚えが悪く、仕事を辞めてしまいました。どうしても看護助手の仕事をしたいと思い、大学病院の看護助手の仕事を見つけ、6月29日~仕事へ行っています。私は少しでも嫌な事があると、逃げ癖があり、これまで何十回もの転職を繰り返しました。まだ慣れてないっていうのもあるのですが、仕事が出来ないと決めつけ、辞めたくなっています。これ以上、逃げては行けないと分かっているのですが、もう、どうすればいいか自分でも分かりません。自分が情けないです。
過去の後悔が消えずにずっとその事を考えてしまうのですがどうしたら気持ち切り替えれるでしょうか? 24歳くらいの時からアプリで婚活をはじめたのですが 当時はすぐに見つかると思ってたのにそれから4年経っても相手が見つからない今 パートナーを見つけるのて大変なことなんだなと痛感し どうしてもっと早く始めなかったのかと 最近後悔しています。 大学生の時は片思いをしており結局実らなかったので、 無駄な片思いしてる時間あったらアプリで婚活しておけば良かったな20歳から24歳の貴重な4年間を無駄にしてしまったなとその事に対する後悔が消えないのですがどうしたら良いでしょうか? そう思っても時間は戻ってこないので仕方ないし、早く婚活始めたところで今頃本当に結婚出来てたのか分からないので考えても仕方ないと頭では理解してるのですが、気持ちの面では 貴重な4年間を無駄にしてしまったという後悔でずっとモヤモヤしてしまい苦しんでます。 どうしたら、この苦しみから解放されるでしょうか?
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
よろしくお願いいたします。 少しタイトルとは異なりますが。 お坊さんに聞いてみたい事があります。当たり前に心では理解していますが、理論的には解らないことがあります。 人は他の動物の命をいただいて生きています。動物でも植物でも人は他の命を自分に取り込んで生かされていただけている。と理解しています。 では、人が人を殺してしまう行為はなぜ悪だと言えるのでしょうか。憎悪のままに人の命をを手にかける事は当然いけない事だと解ります。では、それが人が生きていくこと。つまりは人が人を食すためだとしたらそれは魚や牛の命をいただくことと同等の正統的行為になるのでしょうか。 戦時中や遭難時など、緊急避難的な状況なら解りますが、それが今私たちの周りにある日常での出来事だとしたらどうお考えになられますか。 改めて申し上げますが、感覚的にそれは大罪であり、禁忌である事は解っております。 世の中には生まれながらに、なぜ人を傷つける事がいけないことであると理解できない脳を持って生れてしまう人間、学術的にいわゆる「サイコパス」という人間がおり、時に恐怖な事件を起こしますが、そのような方が上記のような質問をされた場合、どう説明されますか。 私も人の命の尊さを知る上で、言葉としても理解しておきたいと思います。 よろしくお願いいたします。
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
30歳を過ぎだ頃から体調不良が続いています。一つの病気がようやく治ったと思ったら、また別の病気が発覚します。 どれも日常生活に支障がある病気ですが見た目には健康なので周りの人達との関わりに悩む事もあるし、どうしても、そんなに悪い事をしてきた覚えはないのに何で次々に病気になってしまうのかなぁと落ち込みます。悪気のない励ましのつもりでしょうが、病は気から等の言葉をかけていただく事にも疲れました。 心が疲れた時に気持ちを切り替えられる良い方法はないかと相談しました。