ある日93歳の祖母が西国巡礼をお参りして、家族子供達においずるを何枚も用意したけれど子供達の方が先に亡くなって気がつけば自分のおいずるが手元に無くなってしまった。掛け軸もあと5カ寺ほど残っているけれど自分の足ではお参りに行けないと言っていたので、孫の私が代わりにお参りしてくると約束しました。 祖母の代わりに7月から一番札所にお参りし、月に1回西国巡礼に行っています。 以前、母に掛け軸は生きている間に全部完成させてはいけないと言われました。 亡くなってから観音様と残しておいた最後のお寺にお参りするから、次の世代の子が残しておいたお寺にお参りして掛け軸を完成させるのだと言われました。 祖母は早くに旦那さん(祖父)も亡くし、激動の時代を独りで頑張ってきました 老後元気とは言いませんが、孫やひ孫に囲まれての老後を楽しんで欲しいと思います。 93歳の高齢なので、自分の年齢と死を理解して、死んだ時の用意をしているようです。 掛け軸は完成させてもよいのか、母が言うように一カ寺残しておく方がよいのか、どちらがよいのでしょうか?? 私は完成させて、表装した掛け軸を祖母に見てもらいたい思いもあります。
現在高校生の者です。 自分には「逃げ癖」があります。 怖いと感じたり、何らかの失敗を犯してしまうと、すぐにあの手この手で逃げてしまうのです。 今回、学校の活動のグループ(イベントでダンスをする)の練習の場所を間違えてしまい、探し回る間に集合時間が過ぎてしまいました。 練習場所の扉から聞こえてくる掛け声や話し声に気圧され、入れないまま家へ帰ってしまいました。 途中廊下で足音が聞こえたら反射的に隠れたり、知り合いに会った際には嘘で誤魔化し、顔見知りに見られ、醜い有様でした。 帰宅中にも動機や汗や胃痛が収まらず、家でもずっと不安で何も手につかず、吐き気に襲われ、また逃げるように眠ろうにも眠れず、何も考えられない状態ながらもこちらのサイトを見つけるに至りました。 実は2年ほど前、中学3年生で受験生の身にあった自分は、プレッシャーやコンプレックスが積み重なって不登校が続いていました。 建物の目の前で逃げる、友人には平気で嘘をつき、家にいるのが怖すぎる状況......思い返せば思い返すほどに、今回の状況が「2年前の再来」だと感じます。結局勉強に手がつかないまま第一志望に落ちました。 それでも残りの中学生活と今までの高校生活を心から楽しんで歩んで来たにも関わらず、「何も治っていなかった」のです。2年前から。同じ、同じことがまた起きているんです。治ったと、もう強くなったと勘違いをしていました。何も治っていなかったのです。今ここにいる俺はあの頃の俺から一歩たりとも成長できていないのです。 2年前、不登校中に苦しみ抜いた経験、結局なにも得るものがなかった後悔、希死念慮と自殺願望に追われ自傷行為と自殺未遂を繰り返した記憶。フラッシュバックしてくるのです。 もしかして、またあの日々を過ごすのか?せっかくの沢山の友達も先輩も得られた地位や信頼、すべて消えて、あの地獄の果てに虚しさ「だけ」残る日々が始まってしまうのではないか。 今回の遅刻は「引き金」だったのではないか 文字を打つだけで、恐怖が自身の指を震えさせます。高鳴る鼓動と荒い息遣いを感じながら、ベッドから動くことすらできません。 どうすればこの逃げ癖から救われるのですか?どうすればいいのですか?どうしてあの時俺は練習室のドアを開けなかったのですか? お願いします、助けてください。辛いです。お願いします。お願いします。
重度のPTSDを抱えて無職、 ご相談したいのはそんな私の今後についてです。 子供のころから家族全員から暴力を含む虐待、ネグレクト、 学校ではいじめ、また詐欺や性的虐待等、数限りなく受けてきました。 普通の家庭の暮らしはしたことがありません。 現在も友達と呼べる人もおらず、この歳まで恋愛経験もありません。 虐待が子供のころからひど過ぎて、大人になってもしばらく病識がないくらいでした。 足掛け10年以上精神科にかかりましたが悪化の一途でした。 本来精神病というタイプではないらしく、 複数の医師にかかって出た診断は同じで、まずは 『環境が全面的に悪すぎる』ため、 『遠くに逃げて家族と縁を切る』ということでした。 現在持病のある母と同居していますが、 私にはどうしても親を捨てることが出来ません。 俗にいう毒親で本当は距離を取ったほうがいいのは判っています。 複数の兄弟がいるのですが、仲が悪いうえに諸々あり地獄のような様相で、一人にするのに不安があります。 またこれはおいおい別の質問を立てさせていただこうと思っているのですが、 私自身『霊能力』のようなものがあり、自死を選ぶことが出来ません。 頼れる人もおらず、人を好きになったこともなく、 やりたいことも好きなことも判らなくなってしまいました。 この歳になってもただ毎日を無為に過ごしています。 自殺もできない、もうどうしたらいいのかわかりません。 家族を捨ててもいいのでしょうか。 もし私が居ないことで何かあったらと思うと心が凍ります。 仮に家を出ても、私は一人で生きていく自信が全くなく、 独立したところで誰かに迷惑をかけてしまうだけでなにもできないのではないかという不安もあり、混乱しています。
生き物の本来の姿とは、闘争と弱肉強食です。自分を存続させるために他者を食らい攻撃するのが生き物です。日本においてはこの80年が奇跡のようなものでしかなかったと、昨今の国際情勢が物語っています。 枯渇する資源を巡って奪い合いの世界では、力による現状変更が正当化される時代に逆戻りしてしまいました。いつどこで世界規模の軍事衝突が発生してもおかしくない、どこで核兵器が使われてもおかしくない世界になってしまいました。 しかし、私はこの仮初の平和に固執してしまいます。この命が終わった後に、またこの争いの世界に生み出されると考えると恐ろしくてなりません。しかし極楽浄土が現世に存在せず、私の命などといったものは脳味噌をはじめとした身体の生体反応でしかないという事実の上では、どうあがいてもこの絶望的な結論から逃れられず、狂いそうになります。 戦争に巻き込まれて無残に死ぬのは、これまで家畜や虫などを殺してきた報いなのかもしれませんが、どうしても受け入れることが難しいです。これはいけないことでしょうか。これまでの罪の報いとして受け入れなければならないのでしょうか。 今の国際情勢のすべてが、人間としての限界、人類史の終わりに向かって真っすぐ進んでいるとしか思えません。欲望を剝き出しにする権力者が己の行いを反省する頃には、この地球は焦土と化しています。今の国際情勢を見ていると、10年後、5年後があるとはとても思えません。少し調べれば、もうすべてが破滅に向かっていることがわかります。それに対し希望や問題の解決策が存在せず、希望と絶望を天秤にかければ大きく絶望に傾きます。 「平和とは、戦争と戦争の間の期間だ」という言葉があります。そして今、その通りの時代になっています。そして、人間は地球のすべてを破壊してしまえるほどの兵器を手にしています。身勝手な理論で戦争をしている国があります。生き物には元来いたわりや慈悲などというものは備わっておらず、あるのは自己保存のための闘争本能です。そして死んだあともまたこの世界の脳味噌、生体反応の何かが自分として存在してしまいます。つまり、私達は無残な死から逃れられません。それが恐ろしいのです。 「耐えきれなければちゃんと死ねる」かもしれませんが、死ねないまま生きてしまう可能性もあり、また、死に至る痛み苦しみは避けられません。これを恐れるのは良くないことですか?
祖父が先日自殺しました。病死した祖母に会いたかったのだと思います。 亡くなった時に祖父が着ていた服のポケットに祖母の写真がたくさん入っており、遺書にも「これで祖母のところに行けます」と書いていたそうです。 祖母の49日が終わるまで決行すると決めていたのでしょう、遺言書の作成や身の回りの整理や手続きを知らない間に済ませていました。カレンダーに書いていた命日以降の予定にもバツ印をつけており、亡くなった時間も祖母の死亡時刻と同じ(推定時刻にはなりますが)で発見されるまでもがき苦しんだ跡もなく両手に握りこぶしを作っていたそうです。 死んで祖母に会う覚悟を決めていたのかもしれません。 祖母の遺骨は祖父の49日と同時に納骨することになり2人の遺骨を並べているのですが、それを見て「祖父はこうしてほしかったのかもしれない」と私は思っています。 祖母に会えるなら死ぬのも怖くなかったのでしょう。 それでも、1人淡々と準備を進めている祖父の姿を想像すると苦しいです。最近手術したばかりで成功し助かった命でした。健康に人一倍気を使っていましたし、もっと長生きすると思っていました。 一番不安なのは、祖母に会えているかどうかです。自殺すると、地獄に落ちる、死んだ瞬間の苦しみが永遠に続くとよく聞くため、祖父が向こうの世界で穏やかに過ごせているか心配です。 祖父が亡くなった日、父が夢で祖父と祖母が手を繋いで歩き父の方を向いて笑っており、今まで亡くなった親族が全員出てきたそうです。「会えたよ」というメッセージだったのでしょうか。 そしてこれから私はどのような気持ちで過ごしていけば良いのか分かりません。
北朝鮮情勢が緊迫し、アメリカが日本海に空母を送り込んだあたりから「自分は近いうち死んでしまうのではないか?」と思うようになってしまいました。 戦争に対する恐怖感は、ここで他の方の質問の回答を見てだいぶ無くなりましたが、(といっても北朝鮮に加え中国や韓国も怖いですが) 最近、調べ物をしてたら「死海文書によると2018年に人類滅亡」とか、今年とそれ以降の人類滅亡に関する予言とか、そういった予言の記事を偶然発見し見てしまい、最近はそっちの方に恐怖感を抱いています。 ノストラダムスの予言の後に生まれたので、ノストラダムスに関してはあまり知りませんが、2012年のマヤ文明の予言にはすごくビビっていた記憶があります。 そういった記事を見てしまったおかげで、頭の中で終末の時の感じとかを想像してしまったりして怯えたり、「今すぐ世界の終わりが来たらどうしよう」などといったことを四六時中考えてしまったりするようになって体調がさらに悪化し、この間主治医に相談して精神安定剤もまた飲み始めましたが、それでもこの胸の気持ち悪さは治りません。主治医の先生には環境が変わって気が張ってるのかな?って言われましたが、そうでもない気もします。 「まだ見たい景色や、やりたい事も沢山あるのに、若いうちに死にたくない!そういった予言怖いわ!そんな全人類が一斉に死ぬなら戦争で死んだ方がまだマシ!だけど戦争も怖い!」って思うのと、今までの人生ろくなことがなかった自分の母親の人生についに光が射し始めているというのに、こんな予言に振り回されたり恐怖感を持ち体調を思いっきり崩したりして母親を振り回している自分が恥ずかしいです。 一日でも長く生き延びるために、この負のスパイラルから抜け出したいです。 長文乱文失礼しました。
以前も相談に乗っていただき、ありがとうございました。 私には、若くして自死してしまった弟がいます。 もう10年程になりますが、その間に幸せなことに私にも家族ができました。 今現在、私の実家にて私の親、私の家族(夫と子供たち)が同居をしていますが、どうもその家が、夫や子供にとってあまり良くないようです。 夫は霊感が強く、そのような影響を受けやすい体質のようなのですが、私の弟が成仏できずに家でさまよってしまっていて、あまり良くないものになってしまっている、そのせいで自分たちに良くない影響があると言っています。 実際に家にいるときに急に体調を崩したり、しんどそうにしています。子供も家があまり好きでないようで、誰かに見られている気がして怖い、帰りたくないと言います。 実は親の意向でまだ弟の納骨が済んでおらず、お骨がずっと家にあります。 それもいけないのでしょうか? また、我が家は何故か子供が若くして亡くなることの多い一族で、とても悪い因縁があると言われたことがあり、因縁切りもしたことがあるのですが、もしかしたらまだそういうおかしなものが家に憑いているのかなと、とても心配です。 私としては、たったひとりの弟を亡くして一生癒えない傷がある上に、その弟が悪いものになってしまったと聞いて本当に辛いです。 辛いですが、私の家族がそのせいでつらい思いをしたり悪影響が出てしまうのは、なんとしても避けたいです。 そのようなことは本当にあるのでしょうか? 弟だとしても因縁だとしても、悪いものの影響を受けずに生きていくにはどうしたら良いのでしょうか? 弟がさまよってしまっているとしたら、どうしてあげたら良いですか? うまくまとまらず、読みづらい文で大変申し訳ありません。 どうぞよろしくお願いします。
初めてお世話になります。 私は動物(虫や貝、ミジンコなども)が好きで、彼らの命は例外なく尊く、人間と同様に重いものだと考えています。 しかし、子供の頃はその重さを分かっていませんでした。 小学校2〜3年生くらいの頃、同級生と一緒に通学路の途中にあったアリの巣を潰そうとしたり、アリに残酷なことをして命を奪ってしまいました。 自分のした事を考えると胸がズキリと痛み、とても後悔しています。 一時は「自分は幸せになってはいけないのではないか」、「地獄に落ちるのではないか」という考えが頭を巡り、何をしていても心が苦しい状態でした。 ある時ネットで、 「幼少期に虫を死なせてしまうことは、命や死についての理解につながる」 という記事を見つけました。 確かに自分が命を尊く思えるようになったのは、過去のそうした経験が影響していることは否定できません。 人間が罪深い生き物であることを受け入れることは出来ましたが、それでもやはり虫達への罪悪感があり、本当に申し訳ない気持ちです…。 今は無益な殺生は当然として、蚊やゴキブリといった虫達も殺めずに、可能なら外に逃してあげるようにしています(害虫の駆除はやむを得ないのかもしれせんが、出来る限り殺生を避けたいので…)。 食事も間接的な殺生と聞きますので、いつも感謝を忘れないようにと自分に言い聞かせています。 長くなってしまいましたが、私が相談させていただきたいことは罪の懺悔についてです。 最近になって「懺悔文」というお経を知り、これを唱えたり、命を奪ってしまった全ての生き物達へ謝罪を込めて、ご冥福をお祈りをしているのですが、 年月が経過した今でも、この気持ちは神様を通じて虫達の御霊へと届いているでしょうか? そのことがどうにも心につかえています。 何卒、お言葉をいただけましたら幸いです。
こんにちは。 私は「真面目に生きるのがアホくさいし、早く死にたい。もう努力したくない。美しさを失ってババアなんかになりたくない」と考えています。 かと言って自殺はしません。人間は、簡単に死ねないと分かっているからです。12階から飛び降りて、車椅子生活になり、さらに生き地獄化した人を知っているからです。 これまで懸命に生きてきました。家庭環境や学校生活に恵まれませんでしたが、「賢い大学に行けば道は開ける」と信じ、加えて、家族から「学費の安い、家から通える大学に合格してくれれば、もう金の心配はさせない」と言われたため、大嫌いな勉強にも女を捨てて取り組みました。 しかし現実は厳しく、約束を果たしても親から金銭を要求される日々、いじめや毒親育ちの後遺症で、人付き合いも苦痛に感じてしまいます。せっかくの大学生活も楽しくありません。 「それなら親元を離れて一人暮らしをすればいい。あなたより辛い環境で育った子はザラにいる」と説教されますが、一人暮らしなんてどれだけお金がかかるか。簡単に言うなと思います。 幸い私は「顔が可愛い」と言われるため、これからは男の人のお相手をする仕事で、お金を貯めようかと考えています。 真面目に就活するのもアホくさくなりました。どうして、ありのままの自分を偽って、思ってもいない志望動機を作り笑顔で述べてまで、労働する権利を得なければならないのか。どうせ福利厚生なんか嘘ばっかりで、大概がブラック企業のくせに。 もう努力するの疲れました。でも、「私はどうせ怖がりだし、夜のお店でなんて働けない」と分かっています。少しでも就活のやる気が出るように、渇を入れていただけませんか?
私はカルト宗教や怪しいスピリチュアルではありません。 私は悩みの多い人生を送ってきました。 精神疾患によって思春期がなくなりました。中学と高校はほとんど通院生活でした。 治療を受けているときも、何もできずに悔しかったし、友達がみんな当たり前のように生活できているのに私は病気があってできませんでした。 特に悔しかったのは、行きたかった高校に入学できたのに、転校してしまって通信制高校に通う羽目になったことです。 大学に入学したときも、病の症状でまともに勉強ができませんでした。 手汗、動悸が止まらないのです。 そうこうしているうちに、大学生活が終わり、社会人1年目の年齢の時に障害者手帳が出ました。 虚しいし、なんのために生まれてきたんだろうって思います。 働きたいのですが、お母さんはダメ!と言います。 運転免許センターに免許の更新に行ったときも、個別に呼び出しされて、病名を話せと言われました。 一生懸命にアルバイトしていたのに、怠けていると思われて指をさして「メモも取らない!」と決めつけて、怒鳴られたこともあります。 辛いことだらけの人生です。 私は、もし仏様がいらっしゃるなら、来世は健康な女子に生まれたい、そして大学は美術大学に行きたいと伝えたいです。 仏教の話を教えてください。 つらくて打ちのめされそうな毎日です。
設定の都合上10代となっていますが、今年で20歳になりました。 自分は小さい頃から頑固で我が強い性格もあってから、協調性が無いのか、幼い頃から周囲から孤立したり、また小学校中学校と酷いいじめに遭っていました。周りの大人はまったく助けてくれませんでした。そのおかげか性格はより捻くれてしまい、高校卒業し1人立ちした今も友達と呼べる人は少ないです。 虐めてきた人間の事を思い出す度に殺してやろうか、いっそそいつらを殺して心中してやろうかと何度も考えました。中学の頃に3回自殺未遂をしたこともありますが、今となっては昔のことなどどうしようも無い、と思いながら生きています。 しかしここ数ヶ月、自分の人生が何なのか、全く分からないのです。 昔からの趣味である音楽や映画、オートバイ等も最近はそれらにも楽しさなんかを全く見出せません。 このまま過ごしていても恋人も出来ず死ぬだろうし、仮に今後家族が出来て人並みの人生を送れたとしても最後、人間は死んでしまいます。 結局行き着く先は死です。 それまで仕事や人間関係に悩みながら、辛いことに耐えながら生きていく必要はないんではないでしょうか。 親孝行するにも、いい歳こいて詐欺まがいのスピリチュアルカウンセラーにのめり込み、自己中でワガママで、年金暮らしの祖父母に金を無心する母はとても面倒見ようとも思いません。姉は賢く人間の出来た人格者なので、僕が面倒を見るとか言うまでもありません。 せめて世話になった祖父母の死に顔を見るまでは生きようと考えています。 仏教では自殺者は地獄に落ちると聞きましたが、僕は死んでからも辛い思いをしないといけないのでしょうか。 生きるの疲れました。
生きる事は人それぞれですよね、自分の夢のために結婚した相手と一緒に暮らして生きたいとか色々ありますよね。 私にはそれがありません、そもそも生きるってことはなんでしょうか。今の私にはそれが一番辛く苦しいことです。家族のために生きようとか大切な人と一緒にすごそうだとかそんな気にはなれません。なぜこうなったのか、そう考えるときっかけは就職をしたことでした。ですが上司からパワハラや会社の労働負担が大きいかったのかヘルニアを発症し鬱病も併用し結局仕事を辞めてしまいました。 そして日々死にたいと思いながら過ごすようになりました。死んだ後何も感じない何も考えない、そんなことを思うと死ぬって事は意外と素敵なことではないかと考えるようになりました。 私の考えは仏様や神様から与えられた命を粗末にしてることは重々承知しております。また残られた家族や大切な人を裏切ることになります。ですがそのことを考慮しても私は死にたいと考えてしまうようになってきました。 生きるってなんでしょうか?
私は今水商売と普通の仕事をしています。水商売を辞めたいのですがお昼の仕事だけで生活するのは不可能な状況です。水商売をしていても余裕な生活ではなく貯金ができなくて将来の為の貯蓄がまったくできていません。水商売をしていてももう頑張れないのです。水商売をするようになって男性が嫌いになりました。ですが、今の私にはそこで働くことしかできないしそうでないと生活ができません。 そして、年金引き上げとかそのような話を聞くと将来不安しかないのです。税金などを支払っていると結局手元に残るお金は少なく、なんの為に生きているんだろうと思います。私はすごく心配性で、人生100年時代と言われている今、きっと年金だけでは生きていけないから貯蓄をしないといけない、でも今の生活に必死で貯蓄なんてできない。こんなに働いているのに・・・とこれからの人生になんの希望もありません。こんなにしんどい思いをしてまでなんで生きていかないといけないんだろうと思います。生き地獄のような感じです。周りの友達は結婚や出産ブームで幸せそうで、私が心配性というのもあるのですが、なんで私だけこんなに悩みや苦労がつきないんだろうと負のオーラが自分からでていてそこからまた負をよんでいる気がします。 また、結婚して子供を産んでも、その子供が大人になったとき日本の経済はきっと今よりも悪くなっているだろうし、AIの進化で今ある仕事がなくなって、(例えば事務とかスーパーのレジなど)仕事で求められることは今よりハイレベルなるんじゃないかと勝手に思っています。私ですら今生きていくのがしんどいのに、これからの子供達はもっと大変だろうなと思うと、子供は好きだし欲しいとは思いますが、だからこそ私みたいにしんどい思いをさせたくないし産まない方が子供の為のような気がしています。 私はどうやって生きていけばいいのでしょう今もこれからも。
死にたい、漠然と思うことがあります。 大切な人たちのために生きなければと思いますが、死にたいと思うことがあります。 介護職へ復帰して、やり甲斐を感じながら仕事をしてきました。 コロナの影響で面会制限があったり、慰問も受け入れができず、入所者にもストレスは溜まります。不穏な方々に対応しながら、地域のためにと奔走する毎日。 加えて著しい人員不足。 コロナ禍で、海外からの技能実習生やEPAの派遣が止まってしまい、募集をかけても人材は確保できず…ギリギリの人数で業務をこなす日々。徘徊や帰宅願望にも対応しながら笑顔で必死に対応しつつ、今の場所で必死に、生きています。 最近めまいや吐き気がくることがあります。数年前に経験した地獄が、頭をよぎります。あの時の自分には戻りたくありません。 どんな厳しい現場でも乗り越える強いメンタルでいたいのに、どうして私はこんなに弱いんだろう、と嫌になります。 プライベートでは… 以前トラブルになったご近所さんからは、空き地の管理や放棄地周辺の整備について、チクチク言われます。休みもままならない状況で、何とか整備を頑張っていますが、心が壊れそうになります。 今この難局を乗り越えたら、楽になれるのかな。 心が辛いと、色々見えなくなる。 もっと強く優しく生きたいのに、思うようにいかない日々。 死にたい、そうつぶやく日が増えました。実行に移す前に、自分をたて直さなければ、と思います。 みんな大変な状況の中頑張ってるのに、弱い自分が大嫌いです。
つい最近 「hasunoha」 をみつけて登録したものです。 早速ですが、 仏教では自殺を悪いことだとは言わないのでしょうか。 自分の肉体の生命を自分の意志で終わらせることを自殺であると定義したとき、仏教では、自殺はとがめられる行為ではないのでしょうか。 私は、キリスト教徒ではありませんが、自殺はしてはいけないとする意見に賛成するものですので、たとえば意識を失うほどの肉体の苦痛が私のところにやってきたとしても、その苦痛に忍耐するつもりで生きています。 そもそも、釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。 ご教示お願いいたします。
私は数年前に大好きな両親を亡くしました。 それからコロナ禍になりましたが、有難いことに仕事は忙しくさせてもらっています。ただ、友人と会う機会もなければ恋人もいなく、出会う機会もございません。 兄弟がいますが皆恋人がいて幸せそうです。それは私にとって嬉しいことなのですが、本音は孤独感で押し潰されそうです。 最近、好きだった職場も環境が変わっていまい、人間関係もいまいち上手くいっていません。それに加えとても忙しくて寝る時間も休む時間も少なく、気が狂ってしまう日があります。そんなとき両親が支えてくれていたのを思い出しては泣いて、の繰り返しです。 昔から自分を追い詰めてしまうことが多く、苦しさのあまりそれを他人に当たってしまうこともありました。ただ、両親を亡くしてからは自分も性格が穏やかになり、人に当たらなくなりました。弱音も吐かず、人一倍努力してきたつもりです。 でもどうして報われないのでしょう。仕事を頑張っても、恋人をつくる努力をしても、何も変わりません。頑張っていないからだ、まだ未熟なんだと言い聞かせますが、それに苦しむ日々の繰り返しでもうおかしくなってしまいそうです。 両親の死を経験し、生きていることの幸せに感謝する日々を送っていますが、どうしても周りがキラキラしているのを羨む自分がいます。 友人に相談したことがありますが、時には逃げ出したらいいと言われました。 その勇気も大事だとは思いますが、その勇気もありません。逃げ出す=だめな自分というイメージになりまた苦しむ予感がするからです。 惨めなのは分かっていますが、相談する相手もいなくここに書かせていただきました。
数年前亡くなった祖母の死亡届を見つけてしまいました。 祖父が亡くなった1年後に祖母が亡くなりました。 当時死因は聞かされていませんでした。心不全か何かだと思っていておじいちゃんのところに行けてよかったねと思っていたのですが、死因が自殺でした。 それを知ってからずっとモヤモヤしてしまって夜眠れません。 親がどんな気持ちだったか想像すると本当に辛いし 自殺に対する、偏見がすごくあったのでとてもショックで、恐怖を感じてしまいます。 自殺したひとは天国へ行けないんですよね、てことは祖母はまだ祖父に会えていないということですか… 死後の世界ってあるのでしょうか? どうすれば気持ちを落ち着かせることができるでしょうか
以前よりお世話になっています。 ニックネームを変更しました。 家族が他界してから毎日お務め、花、茶水、お供えと自分なりに供養してきました。 これまで5人のお坊様とお世話になりました。(実際にお会いした) それぞれ個人的な考えや思い、派の違いにより仕方がないことかも知れません、違うところが言動にあります。1人のお坊様は色々な勉強を幅広くされたのか、お話はとても立派なのですが、そのお言葉を自ら覆す行動をします。 細かい内容は言えませんが、色々と矛盾を感じ、お寺に伺いにくい状態になり、別のお坊様にも法事に来ていただけない状況です。 今年の法事は菩提寺の住職が他県から来ていただき、なんとか両親、先祖の供養ができました。 仏教とは、御坊さんとは、供養とは…何が本当なのか分からなくなり、段々と仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。 最近は若い方も気軽にお寺の門をくぐれルように、お寺カフェや座禅、説法、写経や癒しを求めてお寺巡り、朱印本など流行りつつあり、高野山1300年のPRもよく見かけます。お寺や神社巡りが趣味と言う若い方々もいます。 一方、無信仰だから、山や海に散骨する方、墓仕舞いして樹木葬等、普通に家代々のお墓に入る人も減っているとか。と言うことは檀家さんも減ると言うことですね。 大変失礼ですが、葬式坊主なる葬式業者数社と契約?して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました。 5人のお坊様のうち4人にとって私は檀家でなく、業者の紹介やあるお寺の催しで出会っただけで、特に大きな収入源にもならず、どうでも良いのかも知れませんし、中には若いお坊様もいますが、頭でっかちの知識先行型なのかもしれません。 これも私の受け取り方一つなのかもしれません、お坊様に対するイメージが固まっていて、そのイメージと違うから違和感なのかもしれません。 当然、お坊様も人間、修行の身であり完全完璧でないことはわかります。ただ法事で頂いたお経は本当に、亡き家族のためになっているのか、六道の話を伺いましたが、畜生界、地獄に落ちていないか、毎日、お務めすることで両親、先祖のためになっているのか疑問が沸きます。 それまでは完全に仏教を信じ、お務め、供養が仏となった家族のためと信じきっていました。 今は半信半疑、これから供養を続けていく自信が無くなりました。
いつもありがたいお言葉に感謝しています 娘が今年3月に首吊り自殺をして 半年が過ぎました 始めは死んでしまった事が受け止められず 今はもう娘と2度と会えない事 娘と話が出来ない事 ごはんも食べれない事 笑い合えない事 実感してしまい毎日が悲しみで 泣かないでいれる日がありません 死んだほうが苦しくないけれど まだ家族がいるので 出来ません 一生娘のいない人生が続くと思うと… 生き甲斐が無くなり… 同じような思いを抱えてる方も多いと思いますが みなさん耐えてるんですよね 娘は夢でさえ会えません 来てくれないです いつも長文ですみません
長年彼氏だと思っていた人がいましまが、私は浮気相手でした 2人の不幸を願ってしまいます 社会的にさっさと死ねと思ってしまい辛いです そもそもが間違っていますが不倫です DV気質、恋愛に蛋白かと思っていたら彼女にはとても優しく、甘い恋愛を楽しんでいるようです(不倫なので蛋白な付き合いは仕方ないと思ってたしそうあるべきと思ってました) 友達になることを提案しましたが、彼は0か100しか選べないといいます しかも、誰が見ても明らかなのに彼女は元カノで友達といいはります(毎月1回以上温泉旅行など) 初恋だったせいもあり、しがみついているのでしょうが100を選んでしまいました ブチギレて荷物を全部彼の職場に持っていった手前、迷惑をかけたという負い目もあります(車で往復5回くらい…カメラにも写っていたそうです) 別れれば1番簡単だし正しいと思いますが0になるのが怖いです 荷物にはご家族の宝物や借金しても捨てきれなかった彼の宝物もあります 死にかけた時に職場まで飛んでって救急に運んだのも私ですが、反省せず元気に2人で暴飲暴食してます 美味しいところだけ食べる2人に、バレなければ楽しさしかない2人にイライラします ご家族いるのにそんなにお金も時間も優しさも使うのも理解できません それと同時に自分には得られなかったという嫉妬もあります 彼女との時間を作るために、わたしが雑用押し付けられ、物置etc.に利用されていただけなのもよくわかりました 一緒に居ても彼はとてもわかりやすく楽しそうにLINEしてるし、私の休みを避けてデートしまくってるのがばればれで嫌味しか出てきません とりあえず今は冷静に分かれる方法を画策して、実行に移し始めているところです 2人の幸せを願いたい(たぶんあのDVは彼女じゃなければ扱えないでしょう…)ですが、社会的に死んで欲しいのが本音で、わたしが写真などなどバラせばすぐに叶うのですが、誰も幸せにしないので我慢してます 写真などの証拠も、いつかご家族が使いたいかもと保存したままです 2人の不幸を願う自分に疲れました 読み返しても怨みつらみしか書いてないですね 2人に囚われない時間が欲しいです そのためなら死も1つと何度も思ってしまいます 1番辛いのはわたしじゃないのは分かってます 友達になりたかったです