ご供養の仕方について質問です。 私はとある新興宗教に以前入っておりました。 今は経済的に厳しいことや、菩提寺のお坊さんの助言もあり、脱退しましたが、過去帳というものを作ったので日めくりにして、毎日般若心経を読んで、お線香をあげています。今年は月命日という習慣があるんだと知り、月命日にはお墓参りをしようと目標をたてたのですが、母が倒れたショックと、家を売却した環境の変化に耐えきれず入院してしまい、お彼岸にも行けなかったので、先月やっと退院してお墓参りできました。以前はお墓が歩いていける距離でしたが自転車で2時間以上かかるので休みにしか行けなくなってしまったので彼岸とお盆と新年には行こうと思いますが、命日や月命日は行けたら行くので良いんでしょうか。それとはまた別なんですが、うちの仏壇は造花が飾られていてまえから気になってはいたのですが、やっぱり生花のほうが良いのではないかと。言っても、生花はお金がかかるからダメだと親がいうので。 仏教を通して、座禅や写経や読経やお地蔵様のお掃除など作務を行ってきましたが、遠くなってしまっては。よく分からない文章になってしまいましたが、宗教嫌いな人は沢山いるけど、私は仏教が大好きです。仏様が墓参りしろと言ったんじゃないことは知ってますが、お墓参りというのはしたほうが良いと私は思ってますが、宗教はいけないことなんでしょうか。
宗教・宗派を超えて、聖職者・宗教指導者は異口同音に「人を赦せ」といいますよね。 私も、ここで別件で質問させていただいた際、御回答いただいた師から、やはり加害者を赦すようにと御指導いただきました。 理論上・理屈上、理解できますし、私に御指導していただいた師の御指導道理に努力します。 しかし・・・・・ ふと思いました。 犯罪・不正・いじめ・暴力・嫌がらせとかをやったヤカラを赦した際、これらのヤカラが、自身が課外をやった被害者から赦されたことによって、自分のやった悪行を自覚し、悔い改め、反省し、更生するのであれば、赦し甲斐があり、赦す意義があるというものでしょうが、反省もすることなく、まだ悪行を続けている場合は、いったいどうなんでしょうか? 仏陀は、赦しを受けても悪行を続けるガンダダ(『クモの糸」に登場する悪人」)みたいなヤカラを、どう御覧になっているのでしょうか? 以前別件で相談させていただいた、私に三年間にわたって嫌がらせ・侮辱し続けたヤカラは、いまだに私に対して一切謝罪・弁解・弁明も30年経ってもしてきませんが。 私の件はさておき、赦してやった者が、悪行を続けているということを、僧侶の師の各位は、仏教的・宗教家的見地から、いかがご覧になられているのでしょうか?
今の現状について私なりに答えを出してみました。家族の新興宗教のせいだと思ってきましたが、私が仏教に興味を持ったのもその新興宗教に対する対策がきっかけでした。 全ては仏縁なのかな。そう思えるようになりました。すべてを否定する。それでは新興宗教と一緒ではないかと。仏教を勉強してきて思えるようになりました。 以前、hasunoha様で浄土真宗から日蓮宗への改宗を考えているということで相談して、その縁で近くの日蓮宗のお寺に行き法話などを聞かせていただいております。 改宗や墓じまいなどの未来のことで暗くなって急がなきゃと焦ってしまっていた自分を見つめ直せました。hasunohaのお坊さま方、ありがとうございます。 前置きが長くなり申し訳ありません。ようやくここで質問に入らせていただきます。私は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を同時に信仰しているというような状況になっているのですが、この状況は問題ないのでしょうか? 日蓮聖人は南無阿弥陀仏を唱えると地獄に落ちると仰られており、親鸞聖人は念仏をして地獄に落ちても後悔はないと仰られたと歎異抄にありますが、 日蓮聖人や親鸞聖人は今の私の信仰の有り様にどう思われているのかなと思い、不安というか、こんな不安定な信仰をしている人間でいいのかなと思ってしまいます。以上まとまりのない文章ですが、お坊さま型のご意見お伺いさせていただきたいです。
一度、悩み相談させていただきましたが‥。また再度、です。今、夫と離婚したほうがいいのかと悩んでいます。義父母がきつい性格で、自己中心的、複雑な家庭環境で共にそんなに幸せな家庭で育っていないせいか、口から出る言葉がすごくきつかったり表情や態度も、きつかったり嫌な態度をよく、私はされてきました。義母はとある宗教に熱心で、私にも勧めてきます。家族みんなで、信仰しているので、私も結婚当初から、気はすすまないものの教会へ行くなど、ある程度付き合っていました 。しかし、義母は、子離れが全くできず友達も趣味もなく、自分の身内ともそんなに仲が良いわけでもなくて、宗教にどっぷりとゆう感じなのです 。生活の中に、いつも義母と宗教がまとわりついてくるとゆう感じで、うんざりしています。また、義母と相性の悪い私は、そのことで、夫ともよく喧嘩になり、離婚しようかと夫に言われてしまい‥これから話をするつもりですが‥私自身も離婚は度々考えたので、決断する時なのかなとも思ったり、でも義母にかき乱されて離婚って悔しすぎるなとも思っています。何かにつけて義母のかたばかり持って、私の思いに寄り添うことのない夫にも腹がたちますが‥。一度2人で暮らしてみて、それでもダメなら離婚も本当に考えてもいいのかもしれないですが‥今のまま離婚って、私は嫌なのです。自分の気持ち整理して決断しないととは思いますが‥夫からもきつくあたられ、義母とも心が通わずで、とても孤独になっています 。何か良いアドバイスよろしくお願いいたします 。
前回「釈尊の悟りは神通力を得た結果?」を投稿しましたが、当たりのようです。 駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生の著書「釈尊の生涯」の「成道と三明六通」には「(前略) そして濾尽智通以外の五神通は、必ずしも仏教者だけでなく他の宗教家や鬼神狐狸の類に至るまでも、浅深の差はあっても、これも得ることが出来るとせられる」と書かれています。 三明六通の「六通」とは先ほどにに記述の「五神通」とあるように、「六神通」と考えることが出来ますので、「神通力」を得たと考えて差し支えないと思います。 古代インド社会では「輪廻転生」は常識であったそうですが、当時のインド宗教者は、互いに神通力を競い合ったと考えられます。 三明の最初の一明は「過去に関するすぐれた智慧の宿命通(宿命明)」となっていますから、釈尊だけでなく、それ以前の宗教者にもそこに到達して、「輪廻転生」が世間に広まったと考えられます。 余談ですが、阿含宗を創設した桐山靖雄師は、著書「輪廻する葦」のなかで、成仏法と称して、神通力を修練することを勧めたようです。私は読んでいませんので想像ですが、論理の「阿含経」ではなく実践法の「雑阿含経」を研究していたようです。
現在、13歳の者です。 5ヶ月ほど前に私はyoutubeのニュース動画を観ました。その動画は、「ヨーロッパのある国で、学校での授業中に教師が、ある宗教の風刺画を見せたことによって、その場に当時居た生徒に後日、殺害された」というものでした。 それに対して、私は「風刺画を見せた教師にも非があるんじゃないか?殺されても仕方なかったのでは?」というコメントをしました。5ヶ月前なので詳しくは覚えていませんが、こんな内容でした。(そのコメントは私がyoutubeのアカウント削除を数日前にしたので、数日前には無くなっていますが、今までは残っていました。) なぜ私がこんなコメントをしたのかというと、その動画のコメント欄で、そのある宗教がとても悪く言われていたことからでした。私の偽善的な考えで「許せない」といい気持ちが沸いたからということもあったと思います。 その動画では事件のことしか言われてませんでしたが、よくよく調べてみると、その教師はとても良い人だったこと、しっかりと宗教への配慮をして授業を行っていたことを今になって知りました。 私はその事件のことを調べもせず、小さな視点からしか見てない状態なのに、亡くなられた方を否定するような意見を書き込み、誹謗中傷してしまったことを後悔しています。 人を傷つけた罪とはどうやって接していけばいいのでしょうか? 今からでも私にできることはありますか?
毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。
今年の夏に娘が自死しました。 4ヶ月がたち、なかなか起きられず泣き暮らしていたのが、少しずつですが毎日暮らせるようになってきました。 納骨のときのご供養について、お聞きしたいです。 うちは、お墓がなくお寺とのお付き合いがない家でした。私の両親は、宗教で嫌な思いをしているので無宗教、主人の実家はキリスト教です。実家は親戚との付き合いを断っていたこと、主人の実家とも疎遠ということもあります。 葬儀も、音楽葬で行いました。娘が亡くなってから樹木葬でお墓を作り、先日出来上がったと連絡がありました。心の整理がつかないのとまだおうちに置いておきたいこともあり、一周忌に納骨を考えています。 亡くなったのが九州だったため、こちら関西とは勝手が違い、骨拾いもご家族でしてください、こちらは一切口出しできませんと言われ、訳がわからないまま納めて連れて帰ってきたしだいです。 こんな感じの、なんとなくの供養でちゃんと成仏できているのか、娘が望んだ空の上でちゃんと幸せになっているのかが、今の気がかりです。 檀家さんでもなく、お寺とのお付き合いがないので、納骨のときだけお経をあげて頂きたいとお願いすることは、できるのでしょうか?私は、祖父母の家があったそばにあるお寺に、娘が亡くなるまでは何か不安なことがあると手を合わせに行っていました。無宗教で見送って罰当たりかなと今は行けていません。 常識はずれな質問で、本当に申し訳ありません。ただただ娘の幸せをずっと願っていたいです。これから先どのように供養していけばいいでしょうか。 長くなってすみません。どうぞよろしくお願いいたします。
菩提寺を変えずに、菩提寺とは違う宗派の信徒に正式なる方法はあるんでしょうか ※現在の菩提寺の宗派も、信徒になろうと考えている宗派も、分派や新興宗教等ではなく十三宗派に含まれるところです。
最近話題の清水富美加さんが出家した宗教団体では「守護霊インタビュー」「霊言」という本を出しているみたいですが、お坊さんたちは「守護霊」「霊言」について、どのように考えているのでしょうか。そもそも「守護霊」「霊言」というものはあるのでしょうか。
世間では犯罪者、加害者、受刑者には厳しい目が向けられます。 お坊さんもそうなんですか。 上記の様な人間は問答無用で死ねと思いますか。 刑務所では宗教が更生の手段となってるとのことですが
お墓参りなどの時に、すうっとしたすっきり感があるときとない時の違いは何でしょうか?今まで、ほかの場所で、すうっとしたところは、神社の二か所と新興宗教のところです。すうっとした感じになるのは, 何が起こった事、または、何の現象なのでしょうか?お坊様はそんな感じを感じたことありませんでしょうか?
私は宗教宗派に縛られるのが苦手です。 無限なるこの大宇宙の如く、真理の大海を自由無碍に飛びまわりたいのです。 これは罪 でしょうか❓ (個人的には高野山真言宗で家系の宗派は、浄土真宗本願寺派です。改宗するつもりは、ありません。)
仏教ほど、多様性があって、宇宙にも明るい宗教は他にないと個人的に思います。だから、宇宙人が仏教を信仰してもおかしくないはずです。お坊さんの自由で面白い意見を聞きたいです。
私は、手相の占いをしてもらったときに、親指の第一関節に仏眼相がありとくしゅなちからと、御先祖さまに見守ってくださっているといわれました。今まで、金縛りはあったことありましたが、霊などいちとも見たことないです。何の能力があるのか?わかりません。
はじめまして。ずっと考えていて、解らなくて、考えることを放棄していた事について相談があります。 私の家は、某新興宗教団体の信者で、小さい頃から「南無妙法蓮華経」という題目を、私自身も大切にして生きてきました。 私の両親も、熱心な信者でしたが、 正直なところ、この私の人生35年を振り返っても、本当に家族全員つらいことばかりでした。 そしてついに、4年前、両親は立て続けに自死をしてしまいました。 元々わたしは、ハタチの頃から、この宗教から離れていたのですが、 この事があり、神も仏も信じられなくなりました。 神も仏も存在しない。存在していたら、あんなに熱心に祈っていた両親がこうなってしまうわけがない。 でも私は、解らないのです。 偽のご本尊に題目を唱えていたから 私たち一家は、こんなことになってしまったのか。 でも、私の両親が、死ぬまで信じて(?)祈ってきたご本尊だから、このご本尊に題目を唱えて、追善供養をすることが、両親が一番に望む事なんじゃないか。 もし、本当に死後の世界があったら、両親は自死してしまったから成仏できないんじゃないだろうか。 このご本尊に供養の題目を送り続けて大丈夫なんだろうか。 だから、わからないから 何も考えたくないんです。 結果的に、科学的に考えた方が、 気が楽だから 死んだら、無。終わり。 両親は、救われなかった。 つまり最初から、神も仏も、いない。 そう考えた方が、一番心が楽なんです。 でも、やっぱり矛盾してて 心のどこかで、両親とこれからも、 死ぬまで一緒に生きていきたい。 私を見守っていてほしい。 すごくさみしい。会いたい。 だから、家には仏壇があり、たまにお香を焚いたり、手を合わせたりしています。 お墓参りも行きます。 まとまりのない文章になってしまいましたが、 わたしは、もし死後の世界があるのなら、両親が安らかであってほしい。そのために、私は今のご本尊に祈り続けてもいいのでしょうか。
結婚して1年半経ちました。 結婚式の際に義母とモメました。 原因は ①義両親は創価学会の為、チャペルでの挙式は辞めてと。 私達2人の挙式に口を出してきた事に腹を立てました。私は浄土宗ですが、だからと言って教会で挙げたくないとは一切思いません。なぜならイベントだからです。 主人は無宗教だからチャペルも神前式も嫌だと。 私は義母に口を出されたことが未だに忘れられなく、これまた許せません。 だって義母が主役ではないからです。 ②結婚後、義両親を自宅に招きました。 私は13時の約束でしたので昼時ですし、ランチを用意していました。ところが来たのは11時半、そして来るなりお昼食べてきたと。 そして挙げ句の果てにお中元の時期でしたので、私の両親にお中元代わりに渡しといてと言われる始末。1ヶ月遅れで持参。あまりにも身勝手すぎて主人から直接配送してもらうようお願いしました。 こんな身勝手な義母に付き合うのは懲り懲りですが、どうしたらよろしいでしょうか。 ご指導ください。
初めまして、クラウディアと申します。 私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。 実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。 私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。 目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。 例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、 そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか? そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。
父は次男で最近は、親戚とも疎遠になっってきています。私もバツイチで子供もいないので将来のことも考え永代供養納骨堂を契約しました。 永代供養は宗旨・宗派を問わないとの事ですが、供養に関しての読経は真言宗とのことです。私の父の実家(本家)臨済宗です。こう言う場合、お葬式は臨済宗・真言宗どちたにするべきでしょうか? 永代供養のお寺(高徳院)にお聞きしたところ、改宗しても問題ないとのことですし改宗した方が良いのでしょうか
私の母は子供の頃に説法をよく聞かされたため、生きること自体が修行で、嫌なことも沢山あるが正しい行いをしていれば、神様・仏様は見ていてくれている。 きっと悪い人間にはバチが当たるから、日頃から清い人間であるよう、心がけなさい。 辛いことは神様・仏様が与えた試練だから我慢しない。 と、よく言われます。 このような場で言うのも大変申し訳ありませんが、私は無宗教で神様・仏様も全く信じていないため、そうは思わず、私が職場などで嫌な事があったときに少しでも愚痴を言うと、必ずその話が出るため、最近はそういう相談はしないようにしています。 よく神様・仏様は見ていると言いますが、結局は要領の良い人が得をし、要領の悪い人間が損をする世の中だと思っています。 実際に職場でも働かず大半を悪口ばかり言って過ごしている人間の方が、待遇や周りの評価なども良い状態(立ち回りが上手い)ですし、真面目にやっている人間は評価されず…いじめだってただ他人と少し違うだけでターゲットにされ、結局罪のない方が自ら命を絶ち、いじめていた人間達がのこのこと生きている。そんな世の中です。 理不尽な事ばかりなので、仮に神様・仏様は居たとして、絶対に見てないでしょって思ってしまっているのが現状です。 大変失礼な質問かも知れませんが、お坊さんから見て神様・仏様とは一体何でしょうか?