これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?
初めまして。 男児と、女児を持つ母です。 妊娠後期、切迫早産といわれ実家に戻ったところ親族に恐喝されました。 従妹の結婚資金が足りないのでお前の父親の保険金から金を寄越せ、さもなくば何をするかわからない…代わりに婆さんの面倒はすべて私が見るし、以降この一家には関わらない!と脅され、私や子が殺されるのも嫌だと思い渡しました。 夫の賛同も得られたので、私が父親の保険金から貰った全額を渡しました。 しかし、叔母と血縁関係の無い母は大変不快だったようです。 よくよく聞くとこれ以外にも実家では金銭トラブルが多発していました。 叔母が祖父母の預貯金全て、土地の権利書も持ち出し、祖父が亡くなったあと財産分与は何の提示もなく「何もない」という言葉だけで説明もありません。細かいところを言えばもっとありますが多すぎるので割愛します。 全てにおいて金を払え、という態度です。 ただ、叔母は祖母の世話を長年行ってくれていて、ありがたく思っているところがあるのも事実です。面倒を見ていた認知症の祖父の死後、こちらの助力を申し出た際断られていますが… 母は積年の恨み辛みと今回の娘(私)への金品恐喝の件で大層な怒りとなったようで祖母や叔母の話を出すだけで不機嫌になり私の息子(母からは孫)にすら当たってしまうようになってしまいました。 母の心を安らげる教え等ありましたら教えていただきたく思います。 また、このことを考えると夜ねれなくなる私にも何か助言あればお願いしたいです。
先週祖父が亡くなりました。急な死で私自身精神的にやられてしまっています。信じられません。 祖父は私をとても可愛がってくれました。 私が初孫だったのでたくさんの愛を注いでもらいました。いつも優しく、孫の中で怒られたことの無いのは私だけでした。どんなときも、優しく笑ってくれました。 小さい頃は良く祖父の元へ遊びに行ったのですが、成長と共にだんだん疎遠になってしまいました。 そんな中での訃報だったので、もっと会いに行けば良かったとか、後悔ばかりしてしまいます。未だに祖父が生きている気がしてなりません。 今日明日と通夜と葬式ですが、祖父の死を受け入れられず、全然知らない、赤の他人の葬式に行くような気分です。 しかしふとした事で、祖父はもういないということを思い出してしまうと、授業中でも、電車に乗っていても涙が溢れてきてしまいます。 祖父は浄土真宗なので死後直ぐに仏様になりました。もう仏様になってしまったら会えません。 祖父の死をどう受けいれれば良いのでしょうか。たとえ時間がかかっても、受けいれて、乗り越えなければいけません。 自死すれば向こうの世界で祖父に会えるのでしょうか。 教えてください。
私の実家は神奈川県にあります。結婚を機に夫の職場のある茨城県に引っ越しました。夫と娘二人の四人家族で暮らしています。結婚して8年目になりますが茨城での生活になじめないでいます。生活のストレスのためか不眠症が何年も続いています。実家のある土地に帰りたいという思いが強くなり、子どもが大きくなる10年、15年後には老後の生活を実家のある土地で送りたいと願っています。 そんな折に、心のよりどころとなっていた父方の伯父が亡くなりました。伯父の死が予想以上に早く訪れたためか、果たして自分には好きな場所で余生を送る時間がもてるのか、不安になりました。そして、せめて死後は実家の菩提寺に入れれば安心だと思い至りました。 実家の菩提寺は浄土宗で、江戸時代からの先祖代々のお墓へは幼少のころから、祖父母のお墓には30年以上前からお墓参りに行き、いろいろな報告やお願いごとをしたり、感謝の気持ちを伝えたりして、思い入れがあります。実家の墓はいずれ弟が継ぐことになると思うのですが、弟が私の希望を聞き入れて実家のお墓に入れてくれるか分かりません。母が亡くなったときに自分に実家のお墓を継承させてもらうことはできないか、とも考えますが、自分で実家の菩提寺にお墓を購入するのが、確実ではないかとも思います。実家の菩提寺に入れてもらうには、どのような方法がありますか?誰にどのようなことを相談すればよいのでしょうか?
いつもお世話になっております。最近になって考えている事 なんですが、宗教とは、仏教とは一体何なんでしょうか? 釈尊曰く、 「行や祈りで障害や疾病が治癒すること、また事態が好転すること はない。精進努力、また常に学び続ける姿勢が肝要」 だそうです。 ですが昨今、経文の曲解等により霊感商法や洗脳ともとれる 行動や言動に出る者が数多く存在することもわかりました。 信徒では憑き物信仰と思い込み、護摩の最中に暴れたり奇声を 上げたりしてお坊さんからお咎めを受ける人がいたり、 蹴落とす目的か他の信徒さんを誹謗中傷、または異性の信徒に 境内で付きまとい行為をしたりなど、無法な輩もしばしば 見かけることがあります。 私たちはどうあるべき?また、仏教とは何なんでしょうか? 私は、とにかく暇だと余計なことを考えてしまって気分が悪く なるので様々な資格の勉強に手を出しています。 また、刑法や仏教とも縁が深いであろう人権がらみの法律を 勉強しています。(法燈明の教えによる) 基本、自分の体質の事は医師や行政のサポーターにのみ話し、 相談する事にしました。余計なトラブルを避けるためです。 死後のことは仏様に一任し、現世の修行としては常に学びの 姿勢を忘れず過ごすようにしています。 ご意見お待ちしております。よろしくお願いいたします。
たまたま仏教の起こりについて簡単に知る機会があり、葬式でよく読まれている身近なお経でもある、般若心経について興味が沸きました。 そこで、このお経が何を伝えようとしているのかインターネットで調べていたのですが、サイトによって解釈が微妙に異なる様で、本来の意味を理解出来たのか自信がありません。 以下が現時点での私の解釈となりますが、間違いがあればご指摘いただけませんでしょうか? •自分自身も、他人も、世界そのものも空(実体の無いもの)である •よって、苦しみや生、死も実在しないものであり、状態が移り変わる過程でしかない •そう考えれば、思い悩む必要など無い ※現時点でディティールまでの正確な理解は求めておらず、まず、ざっくりとした意味を理解したいと考えています もし上記の解釈が概ね合っていると仮定すると、葬式で読まれる般若心経は、故人に対してではなく、遺族に対して読まれているものなのでしょうか? オリジナルの仏教では死後の世界には言及していないと認識しており、故人に対して読まれるというのは違和感があり、上記の発想に至りました。 専門書等を読んでみようかと思いましたが、その道のプロであるお坊さんに聞くのが一番正確かと思い、質問させていただきました。 勉強不足な点は多々あるかと存じますが、可能であればご教示いただけると幸いです。
いつもお世話になっております。 先日、認知症の人に絡まれました。 無視して距離を取ったら、今度は 私のそばにいた少年に絡んでいま した。 その人は私の事を指さして何やら 捲し立てていて、少年は困り果てて いたので 「お兄ちゃん、その人無視しな!」 と伝えて逃がしました。 そこでふと考えたことが あります。 「知的障害の人が性犯罪 (邪婬)をした」 「認知症の老人が、同じ病室 の人を殺害した」 などの痛ましいニュースが 流れてきます。 先述したほか、 知的障害の方から怖い事を されたことがありますし、 私自身も、「悪い障害者と 同一視されたくない!」と 思うあまり、精神病院の最寄り 駅で患者とみられる人を捕まえ 暴言(悪口=あっく)を吐いて しまったことがあります。 彼らは、現世の司法の下では 「心神喪失者」と呼ばれ、 刑務所ではなく、刑務所とは 別の、専門の矯正施設へ送られ ます。 しかし、死後はどうなるの でしょうか? 仏様はどう見ている のでしょうか? 心神喪失とは、いわば 「やっていい事悪い事が 生まれつき(同然に)わから ない」 状態です。 彼ら彼女らは画一的に「殺生を したから」と地獄に堕ちて しまうのでしょうか。 それとも、阿弥陀様などの 仏様が迎えに来て、懺悔と 修行、つまり、やり直しの 機会を与えてくれるの でしょうか?
小学四年生の頃、引き取った初めてのペットのハムスターのことを虐待してしまいました。 知り合いの生物を研究している方から、逃げ出した実験用のハムスターと実験用のラットの間の子であろう子を引き取りました。 図鑑で泳げることを知り、夏休みの親がいなかったある日に、何を思ったのか自分はわざと洗面台で泳がせて沈ませたり、あの子たちには負担の大きいであろうドライヤーで乾かしたりしました。 当時の自分には悪意が全くありませんでした。 しかし直接的な原因は分かりませんが、その後その子の両脚の指が全て無くなりました、人間で言うとぐーの状態に近いです。 その時初めて、自分がやったことは虐待そのもので、自分がこの子にしてしまったことが原因でこの子は指を失ったんだろう。 そう思いました。 昔の自分に悪意がなかったにしろ、あの子の体と心に一生の傷を負わせてしまったことが許せません。 しかもあの子は優しくて、自分が虐待をした時も噛もうとしませんでした、噛む余裕すらなかったのかもしれませんが。 その虐待の後も自分に変わらず接していました。 自分はせめてもの罪滅ぼしに美味しいものを与えたり、最後までできる限りの手を尽くして彼を生き長らえさせようとしました。 死後は火葬し、家族の墓の近くに埋めました。 墓参りの際には線香と共に手を合わせています。 今あの子に謝っても、彼の恨みは消えませんし、あの世の彼に直接謝罪することもできません。 ラットを見て飼いたいと思いましたが、あの子のことを思い出して、自分には飼う資格なんかないだろうと、思い出してあの子に届かない謝罪を繰り返しながら泣くことしかできません。 自分はどうすればいいのでしょうか。
自分の今までの人生を振り返ると間違いなく死後は地獄行きだなと思う生き方をしてきました。動物を興味本位で飼い始め管理不足で殺してしまったり粗相をしたペットに暴言を吐いたりまた人付き合いで振り返るとなんであの時あんな態度をとってしまったんだろう、あんなことを言ってしまったんだろうと思うことばかり相手に対して口に出さずとも心の中で嫌なことを思ったり嘘をついたり傷つけることばかりでした。食べ物を粗末にもしてしまいました…私ほど嫌なダメな人間は他にいないと思う程酷い生き方をしてきました。私自身がこんなにダメな人間なのにも関わらず親身になって助けてくれる人が沢山いてくれてそのことを思うと感謝でいっぱいの反面こんなダメな奴助ける価値もないのにとか助けられる資格もないのにとか周りの人の神様のような優しさと自分のギャップで更に落ち込みます。きっとこんな素敵な人達は極楽浄土まっしぐらなんだろうなと思うし私みたいなダメ人間は地獄まっしぐらだなと思います。私自身今まで犯してきた罪はそう簡単に許されてはいけないものだと思うのですが自己中なのでできるなら極楽浄土に向かいたいと思ってしまいます。こんな救いようのない最低な人間でも極楽浄土に向かうことは出来るのでしょうか?罪を現世で償う方法はあるのでしょうか?
私の家は、所謂「本家」になり、私はその長男となります。 私の実家や、現在の私の住まいの近くには、先祖から続く墓があり、私は両親から「墓を守っていってほしい」と言われ続けてきました。 私は結婚しており、2人の娘(長女は中学生、次女は小学生)がいます。 私の正直な気持ちを申し上げますと、将来、長女又は次女が婿を迎え入れ、墓を継いでくれれば一番だと思っています。 しかし、このことについては、妻が反対しています。 墓を継ぐために子供たちの就職先等が縛られ、活躍の場が制限されるのは絶対に嫌だというのです。 私は、両親からの言いつけもあって、事なかれ主義的な気持ちで、娘に婿を迎えるのがベストと考えてきましたが、妻の言うこともよく理解できます。 昨今においては、女性天皇、女系天皇の問題をよく耳にします。私の家は、地方都市の中流家庭で、皇室に準えることができるような立派な家柄ではありませんが、この問題を我が家に置き換えてみますと、娘に婿を迎え入れて墓を引き継いでいっても、無意味なのかなという気持ちにもなってしまいます。 私は、このことに非常に頭を悩ませており、時々一人で墓参りに行っては、お墓に向かって謝っています。 そこで質問なのですが、墓じまいというのは、御先祖を思えば、絶対にやってはいけないことなのでしょうか? また、そうすることで、御先祖の怒りを買ってしまい、私は死後も御先祖に顔向けできない存在になってしまうのでしょうか?教えて下さい。お願いします。
精神科で闘病しており、生活保護をいただく予定です。こんな弱者のくせに、私には世界の救済と全ての霊魂の永遠の幸福という夢があります。自分が救われて永遠に幸福になることは大前提とし、それだけでよしとせずに全ての魂が幸せな世界です。大乗仏教的と言えるなら嬉しく、ゆえに死後は世界救済のお手伝いのために弥勒菩薩様やイエス様などの救世主の部下になりたいとさえ思います。 しかし地上での私は霊能力も超能力も無いので、ボランティアを趣味にしています。物理的な世界から見ればちっぽけな人間がボランティアをして生きたところで救われる人間の数などたかが知れており全ての人を救うなど到底無理なのですが、仏の世界から見れば私の生き方は世界の救済の役に立てるのだろうか、「世界の救済と自分を含めた全ての霊魂の永遠の幸福、そのためにその身を捧げる」という私の生き方を貫いた先に、本当に世界が救われみんなが永遠に幸福になれる未来はやってくるのだろうかと疑問に思い、登録させていただきました。 ご回答よろしくお願いいたします。
先日父が急逝しました。2日前までは普通だったのに、たった1日で意識がなくなりそのまま逝ってしまいました。この数日間で私自身の気持ちは整理できたつもりですが涙が出るし、まだ父は出張に行っているだけのような感覚がして、寂しくて悲しいです。 そして去年結婚したばかりの外国人の夫は私以上にショックを受けているようです。夫は父と最後に1週間前くらいに顔を合わせ、次に対面したのは父が病院で亡くなってからでした。夫は今まで1度も亡くなった人の体を見たことがなく、またあまりにも突然のことで大変な衝撃を受けたようです。 夫は、「もっともっとたくさん父と話したかった。あと10年、20年と時間があると思っていたのに…もっと日本語を勉強していればよかった」と悔やんでいます。 父も夫のことをとても気に入っていたようで、こっそり英語の参考書を読んで勉強していたようです。また外国人の息子が出来たことを写真を見せて自慢していたと、父の友人から聞きました。どれもこれも全て父の死後に知ったことです。そういった全てのことに対して、夫は涙を流して悔やんでいます。 夫の慰めになればと、夫と一緒に父の遺影の前に毎日ビールやお菓子をお供えしたりしていますが、やはり座ってひといきつくタイミングで呆然とし、涙を滲ませています。 そのような夫にかける言葉がわかりません。寄り添ってあげたいです。一緒に前に進んでいくために、どういうふうに考えたり行動したりすればいいか教えてください。
先日、父が亡くなりました。自死でした。 突然のことで心が追い付かず、悲しみに暮れる暇もなく手続きに追われています。 詳しい理由は分かりませんが、おそらく祖母の介護と父自身の病気、借金の返済等が重なり心身ともに疲れてしまっていたのだと思います。 前日には「心が疲れました」と同僚の方に送っていたそうです。 父はとても優しい人でした。とても辛かったはずなのに、私たち家族に心配をかけないよう、普通に接してくれていたことも心が痛いです。 借金が発覚したのは父の死後ですが、介護や病気は家族の問題でもあったと思います。もっと私たちが話を聞けていたら、父は今も生きていてくれていたのかもしれないと思うと涙が止まりません。 特に母と妹は第一発見者なので、もっと心が辛いと思います。 私はこれから一生、父に死という選択を取らせてしまったことを後悔しながら生きていくのだと思います。 借金はどうにかなりそうですが、それより心がとても苦しいです。 一度は父の後を追いたいという気持ちになりましたが、ここまで大事に育ててくれたことを思うととてもできませんでした。 苦しくても生きていきたいという気持ちはあります。 これからどうやって生きていけばいいのでしょうか。
小学生の時に病気で母を亡くしてから今年で10年になりました。 この10年間を振り返ると、楽しい事もありましたが辛いことも多かったなと思います。 例えば、年下の兄弟ばかりが可哀想だと心配されて、反対に私に対しては大して心配もされず母が亡くなってすぐに母の代わりに頑張るよう言われたり、父や親戚とも上手く付き合うことが出来ず心無い言葉を言われたりしました。 このような環境だったこともあり、私は家族や親戚に母の死を悲しんでいる所を見せたことがありません。というか、何故か母の死後何年かはあまり悲しさを感じませんでした。 その反動か、今になってずっと悲しいし寂しいです。これは母の死ももちろんそうですが、父や親戚から言われた言葉や態度に対してもです。 もう母の死から10年も経つのに未だに母に居て欲しかった、会いたいと思ってしまう事もあります。 私はここ半年間ずっと上に書いたような寂しさや悲しさからくよくよして過ごしてきました。 しかし、最近このままずっとこのままだとダメだ、このまま過去の事に囚われるよりも今や未来の充実のためにもっと前向きに過ごしたいと思えるようになりました。 その反面、母もいないし私の家族には同世代の人達のような何でも受け止めてくれるような温かかさも無いし、前を向けなくて当然だしそんなの無理なんだとも思ってしまいます。 私はどうすれば寂しさや悲しさを言い訳にせずに、前を向いて生きていけますか? どうすればいいのか分からなすぎて辛いです。 喝でも何でも良いので回答宜しくお願いします。
死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。
ハッキリ言うと 死にたいです。 自分には悪い性格というのがあって、我慢が出来ない 正直に本当のことを言ってしまう(相手にとって嫌なことでも) その性格が子供のころからず~と続いていて、あるとき ADHDという言葉を見かけて検索してみると 自分の悩んでいた問題がそれに当てはまることを知りました。 頭がいい訳でもなく、人とトラブルになりやすいです。 友達もハッキリ言うと自分の悪い性格のせいでいません 仕事をしていても 人との会話が苦手で問題ばかりで辞めてしまう どうしてもうまくいきません ハッキリ言って致命的なくらいに 人は自殺をすると罪という言葉が根強くあって死にたいという気持ちの反面 死ぬと地獄に落ちるのではと怖くてなかなか出来ないでいます。 自分は死後の世界について インターネットを利用して沢山調べました。 臨死体験、前世さまざまな事例について 今では人は死んでも魂というものがあると関心はしていますが今悩んでいる死にたい気持ち(自殺)がどうしても怖くて仕方ないです。 かといって自分の生まれ持った悩みは一生変えられません どうしたらいいのかという答えは間違いなくないでしょう 死んで人生をもう一度生まれ変わりでやり直したいのに どうしていいのかまったく分かりません 世の中を見てみると 戦争、貧困と不幸な人、そうでない人がいますが 動物の世界は喰うか喰われるかの命にかかわる世界 自分はそれを見ると、まだ不幸じゃないんだと思う時期もありました。 だけど自分の持つ悩みが自分を苦しめている現実からは逃げることは出来ません
4年前私は中絶をしました。 仕事で海外にいく、相手との関係の不和、また自分の行いも悪いなどの自分勝手な理由でしたが当時はそれしかない最善の方法と思い決めたことです。 当時は子供を殺したという意識が低く、何故もっと早く今のような気持ちにならなかったのかと思います。 現在妊娠中、過去の自分の過ちと弱さと愚かさに気づき日々悔いています。 中絶から4年の間、それしかなかったのだと思い生きてきたツケでしょう。 お腹の子が気づかせてくれました。 そんな理由で命を奪ったのかと、何度も時間が戻ればと悔いました。 どんなことがあっても産むべきだったと、子供を守るべきだったと思います。遅すぎますね。 恥ずかしながら死ぬことも考えましたが、お腹の子が引き止めてくれました。 今は産まれてくるこの子に愛情をありったけ注ぐこと、家族の為に尽くすことが償いかなと感じています。 日々の中で4年前の子と向き合う為に日記をつけています。見てくれているでしょうか? 死後子供に会うことができると伺いました。誰にもわからないと思いますが、もしそうなら生きる支えになります。 また、将来お腹の子に産まれてこなかった兄弟がいると伝えたいと思っています。なにも伝えないのはあまりにも可哀想な気がして、よくないことでしょうか? やってしまったことは取り返しがつきません。 まだまだ向き合い方がわかりませんが、もぅ泣かずに重い十字架を強さに変えていけるようにしたいです。 死んだ後、子供にあって頑張ったよと言える人生を送れるように。
はじめまして。 仕事の時も休日も毎日一緒にいた大切な恋人が、苦しむ事なく眠ったまま突然亡くなってから2ヶ月が過ぎました。 彼に心配かけないようにと毎日頑張っているのですが、彼がお守りと言って私にくれた指輪が未だに手離せません。 私は毎晩、彼の写真に向かって日々の出来事を色々と話しているのですが、彼は聞いてくれているのでしょうか? 不思議な話ですが、写真に向かって話していると彼の返事が時々心の中に浮かんできます。まるで会話してるかのような時もあります。 これは私の思い込みなのでしょうか? 私は死後の世界や生まれ変わりなどを信じているので、私に寿命がきたらあの世で彼に会える、会って彼に褒めてもらいたいからそれまでしっかり頑張る、と彼が亡くなって数日後に心に決めました。 生まれ変わってもまた出会って、出来なかった事を二人で出来たらいいねと写真に向かって話す事もあります。 私の想いが彼に届いてるといいなと思っていますが、想いが強すぎると良くないとも聞きます。 私はこのままでもいいのでしょうか? できれば彼のためになる事がしたいです。
はじめてお話させて頂きます 昨年の夏に二十歳の息子が事故で亡くなりました。 先日は一周忌と新盆の弔いを行いました。 現在の私は 息子の位牌や墓前では 息子が悲しまないように、心配しないように 笑顔でいることに努めています。 ですが、頭では理解していても 心は現実を受け止めきれていません。 休日は1日中涙が止まらない日もあります。 息子の事故当時一緒にいた友人達は 月に一度は家に来てくれて、他愛も無い話をして 帰っていきます。 息子を忘れないでいてくれることが とてもありがたく思えます。 その友人達や、私の会社の人、親戚以外で 息子の事故を知っている人には会いたくありません。 優しい言葉を頂いても、現実を突きつけられているようで 悲しくなります。 息子は、なぜ死ななければならなかったのでしょうか? 息子に会いたいです。 ただただ、息子に会いたいです。 この場でお話するのは間違いなのでしょうが・・・ 私は、死後の世界もその類の話も信じてます。 なので自殺をすると、息子と同じところに行けないと 思っているので自殺も出来ません。 今はただ、自分の寿命が尽きて 息子の所に行けるのを待つのみです。 優しい言葉も、明るい未来も要りません。 今でも、明日にでも息子に会いたいです。 皆様、まだ二十歳の息子は なぜ死ななければならなっかたのでしょうか? 会いたいです。
お久しぶりです。以前ご相談させていただいた者です。 有り難いお言葉に大変救われました。…が、この度今一度ご相談させていただいたのは、文頭にあります通り死ぬという選択肢しか考えられなくなったからです。 学校では将来のことを考えさせられる時期になり、職場では理不尽な嫌がらせを受け、家庭内では避けようのないストレスに押し潰されます。 自身の人嫌いは重々認知しております。それは時折激しい殺戮衝動に駆られたり、人間である自分に嫌悪感を抱き殺してしまいたくなるほどの酷く深いもので、他人はおろか、家族にすら理解されないものだと断言できます。 そのため周りは私がどれだけ人嫌いかを知らず、期待や責任、悪意を向けてきます。 人と接すると、日々心が死んでいきます。相手の顔色を伺い、相手の求める言葉をかける。そこに私の意思はなく、相手を満足させるためだけの笑顔を振り撒く。そうしてやり過ごしているうちに、殺戮衝動が芽生えるまでに心が死んでしまいました。 私にとって「人と接する」ということは、自分を殺していることなのだと気付いてしまいました。自分を犠牲にしなければ人と接することができないのです。 この苦しみから逃れるには、相手を殺すか自分が死ぬかしかない。いや、自分が死ぬしかないのです。 本当は逃げたいんです。学校や職場、家族や自分からでさえも。全部全部放り出して自由になりたいのです。 でも私が私である限り、私は私から逃れることができない。自分を苦しめるだけの自分から逃れることができない。それが私だから。 もう死ぬしかないのです。死後の世界でも自分は自分なので、本当の意味では解放されることなんてないのだろうけど、この世に存在していることが辛いです。もう頑張れない。もう何もかも疲れてしまいました。