お世話になります。 今すぐに死にたい、ということではないのですが、 私は、かねてから「自殺してはいけない理由」が分かりません。 遺族や他人に迷惑をかけるから、というのは理解できます。 しかし、生きているほうが周りに迷惑をかけてしまう者もあると思うのです。 私は同性愛者で、家族や伴侶はおらず、 将来、いわゆる無縁死や孤独死を迎えるのは、 ほぼ間違いないと考えています。 交通事故に遭うなどすれば別ですが、 そうそう都合よく、ぽっくりとは死ねないでしょうから、 体力が衰え、あるいは何かしら病を患うようになった頃からは、 例えば地域の民生委員や、市の高齢福祉課などに、 多少なりとお世話になってしまうでしょう。 そのような方々の手を煩わせ、 また、一般の方々が収めた税金を費やすべき価値が、 私の死にあろうはずが無いのです。 さらに、私は低所得者で、蓄えもございません。 つまり、死を迎える年齢の頃には、 金は無いわ身寄りは無いわ、 ただただ扱いづらいだけの年寄りになるのは、目に見えています。 これで認知症を患おうものなら、さらに厄介な存在となるでしょう。 だから、まだ体や頭が動くうちに、 無価値な自分自身に、落とし前をつけたいと考えてきました。 こちらの相談サイトで、 自殺を肯定するアドバイスなど頂けないのだろうと思います。 では、こんなクズでも生きていかねばならない理由を、 私に教えて頂けますでしょうか。 宜しくお願いします。
私は、いつも頭の中に家族がいつ死んでもおかしくないと考えており、死ぬかもしれない死ぬかもしれないと強迫観念が回っています。特に次男の食事を作る時、洗剤の洗い残しで毒になり、次男を死なせてしまうのではないか?火に近づけたセーターを次男の部屋にしまう時、セーターが後から燃え出して、次男の部屋が火事になってしまうのではないか?と、本当にばかばかしいことばかり心配してしまいます。長男にはそれほどないのですが、死のことを心配しているのは同じです。どうしたら、この苦しみから逃れることができるのでしょうか?よろしくお願いいたします。
介護の職場について早13年…。 こういう仕事ですので、 終末期や急変等で亡くなる方を 看取る事があります。 自分は、他の職員からすると、 看取ってきた回数は多いほうだと感じています。 今月に入って、夜勤中に 急変の方がお一人、終末期の方をお二人看取ってきました。まれにみる多さだと感じています。 自分としては、人が亡くなる事は悲しい事ですが、最期の時、家族でもない自分を選んで頂いたと感謝しています。 先日、亡くなった方を見送り、職員が出勤して来た際に「また◯◯君の夜勤の時?」と数人から言われ、とてもショックを受けてしまいました。 あたかも、自分が夜勤の時に、不幸な事が起きていると言われてるようで…。 人が亡くなる事って、そんなに悪い事でしょうか? よろしければ、お聞かせ下さい。 宜しくお願いします。
この前、臓器移植に関する資料を貰い、家族と考えてみました。 私は死ぬのが怖いです。なので、脳死でもそれを死とは考えられないし、親がそんな状況になっても絶対に死んだとは認めないし、できる限りの延命治療をすると思います。 しかし、臓器移植を待つ方の立場になって考えてみると、それはもう死んでいるのに等しいから、脳死状態でしか手に入らない心臓なんかを譲ってほしいと考えてしまいます。 どっちの立場に立って考えるのもつらくて、頭がいっぱいになってそれ以上考えることができません。死にたくないから、誰かの心臓として生き続けるのもいいし、もしかしたら脳死から回復するかもしれない万一の可能性を信じて、心臓が止まるまで待つのもいい。自分がどうしたらいいのか分かりません。 なんか、脳死とか、死についての捉え方を変えたら自分が納得できる選択肢を選べるのでしょうか。 仏教ではどう死や脳死について捉えているのか、教えてください。
人は死んだらどうなるのでしょうか? 私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??
小学校高学年ぐらいから毎日何度か死にたくなります。 今は特に1日に何度も死にたくなります。 でも、何か理由をつけて(飛び降りるところや首を吊るところが家の近くだと家族に迷惑がかかる等)死なない軟弱な自分もいます。 しかしながら毎日こんな沈んだ気持ちでなぜ生きながらえなくてはいけないのか。 なぜ寿命を自分では決められないのか。 難病でも生きたくて仕方ない人もいるし、生きたかったのに事故や災難に見舞われて突然無念の死を迎えてしまう人もいる。 なんの不足がなくても死にたいと思って自殺する人もいる。 なぜ自分の意思で寿命は決められないのでしょうか。
主人の寿命について相談させてください。 主人は以前、占い師に 「39歳で過労死する」と言われたそうです。 そのため、本人も義両親も 「39歳で死ぬから」と私に言ってきます。 義両親には マイホームを建てる話をした時に 「この子39歳で死ぬけど、家のローンが支払える額の保険には入ってるから」と 言われました。 思い込むと良くないと思い、 「そんな事はない、長生きしてくれないと困るよ」 と主人には言ってはいるのですが。 39歳で死なない、と言うのは私くらいで 義両親も本人も39歳で死ぬと言ってきます。 はじめは半信半疑でしたが義両親、主人に言われ不安になってきました。 運命は変えれる、占いが全てではないと私は思ってます。 何か主人が納得出来るような説明はありますか??
私の祖母は、昨年の今頃、家で転んでしまい、足の骨を折ったきり寝たきりで入院しています。もう一年以上、入院生活を送る祖母はもともとボケていましたが、今やほとんどなにもわからなくなってしまいました。そんな祖母ですが、お見舞いに顔を出すと、ここから出してくれ助けてくれと最近言うようになりました。 たとえボケているとはいえ、やはり入院しつづけるのは辛い精神状態の様です。今では鼻から栄養入れている状態で、たぶんこのまま家には帰れないと思いながらも大丈夫だからここにいて休んでねと声をかけるのはとても辛いです。 それを見ていたら生きるってこんなに辛いんだなぁと思いました。死ぬ事も辛く怖い事ですが、生き続けることもまた辛いのではないでしょうか。なんだか生きることも死ぬこともすごく怖いような気がしてしまい、私自身もなんとも言えぬ恐怖感を感じるようになってしまいました。祖母になんと声をかけてあげると良いか、死と生きることへの恐怖の乗り越え方などアドバイスしていただければ幸いです。
昨日、父親に死について質問してみたら、死んだら無になると返ってきました。 僕は、死んだら無になることは誰にも変えられないと思い仕方ないと思いましたが、永眠と言う言葉について不安をいだきました。 死んだら何も考えられなくなり子孫のようすを見たり先に亡くなった親しい人と再会したりできるのでしょうか。 とても不安です。何回も質問していますが、回答よろしくお願いします。
約一年前に、主人の母がうつ病で自ら命を絶ってしまいました。 その頃、私自身は妊娠8ヶ月でした。 義理の母は、もともとは社交的で明るく前向きな性格でした。 亡くなる3ヶ月程前から『肩や腰が痛いから外出も出来なくて』と聞いていたので、なかなか実家に遊びに行けない状態でした。 義理の母の性格上、とても世間体を気にする人だったので、うつ病だったと聞いたのは亡くなる2ヶ月前でした。 私自身の父親がうつ病の経験があり、自殺の心配があるというところまでいきながらも、なんとか復活したので、すぐに病院などを紹介すると義理の父に伝えたのですが、『あんまり騒ぐと余計本人が気にするから。通院もしてるし大丈夫』との返答で、定期的に連絡は入れていましたが、それ以上はふれられませんでした。 亡くなる二週間前に『こっちに遊びにくる?』と以前の明るい声で電話があり、会いにいくと、以前のように子供を可愛がってくれ、産まれてくる子を楽しみにしてくれていました。 しかし、二週間後に自宅で夜中に服毒自殺をしてしまいました。後に聞いたところ、義理父に『死にたい』と漏らしていたそうです。 主人の家族はとても仲が良く、義理母を中心に笑いの耐えないごくごく普通の家族でした。 以前に義理母が大病をした際も、義理父と義理兄、兄嫁、主人、私と連携し、支えて乗り越えました。そのぐらい仲の良い家族でした。 義理母の死から一年が経ち、残った家族で支え合いながら、前向きに日々を過ごしているのですが、どうしても拭い去れない気持ちがあります。 一つは、なぜ仲の良い大切な家族がいたのに、残して独りでいってしまったのか。あれだけ孫が産まれることを楽しみにしてくれていたのに、それを待たずいってしまったのかと怒りの気持ちです。思ってはいけないのかもしれませんが、どうしても許せなくなってしまいます。 もう一つは、もう少し何かすべきだったんじゃないか、断られてももっと踏み込んで行ってたら何か違っていたんじゃないかという大きな後悔です。 自分自身の父親の経験があったのに、なぜもっと対応ができなかったのかと、悲しむ主人をみる度に後悔をしています。 どう、気持ちを処理していけばいいのでしょうか?
少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。
正直な所、私が殺してしまったようなものです。 幼い頃から犬が欲しくて、小学生の頃にようやく飼うことができました。 犬がシニアになった頃から大きな病気をいくつも患うようになり、この子の為になるように勉強し、動物病院に勤めました。 犬の体調が悪い時は同伴出勤し、入院した時も長く一緒にいられるように8時に出勤・22時過ぎに帰宅したり、特別に医療機器を持ち帰り自宅でも治療をしておりました。 ですが、勤務先でなくかかりつけ病院で大手術を受け見た目が大きく変わった為、職場の方に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、その後同伴出勤することはなくなりました。 1番苦しいのはこの子なのに、向き合うのが嫌で家に帰るのが辛くなり、夜遅くまで帰らなかった時期もありました。 ある日の朝、犬の食欲が無く体調が悪そうだったのですが、仕事から帰宅後の様子次第でかかりつけ病院へ行こう考えておりました。 深刻さは理解しておりましたが、今までも何度かあったしきっと大丈夫だと思い出勤しました。 この時に職場の人の目を気にせず同伴出勤するべきだったと後悔しています。 まもなく定時になるという頃に、家から職場に連絡が入り、犬が亡くなっていたと知らされました。 家族は仕事や学校でしたので、犬は最後の瞬間もひとりでした。 家には粗相の跡があり、体も汚れ食餌もできていない状態。 孤独で苦痛に耐えていたのかと思うと苦しい気持ちになります。 家族が帰宅し犬を見つけた時、最後の力を振り絞ったのか、一声だけ鳴いたとのことです。 私は連絡を受けた後直ぐに帰宅しましたが、最後の瞬間に立ち会うことはできませんでした。 死後硬直しかけている少し温かい感触を覚えています。 やりたいことを全て楽しんでから後を追おうと考えていましたが、来年も花火を見たいなど欲が出てしまい、後を追うことをやめ数年が経ちました。 ここまて長々と書き連ねましたが、結局は「私はこれだけ頑張った」とアピールしたいだけ。 誰かに「あなたのせいじゃない」と言って欲しいだけなのかと思います。 最愛の愛犬を殺しておいて、自分だけ救われたいだけです。 犬の死にどう向き合い、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのが正解なのでしょうか。 いつか、また犬を飼うことは許されるのでしょうか。 貴重な時間を割き、最後までお読み下さいましてありがとうございました。
いつもお世話になっております。 先日もご相談させていただいたのですが、相変わらずしてもいない不倫や男遊びをしている、とご近所で噂されて死にたいと思うようになりました。一生懸命真面目に生きてきたのにこの仕打ちです。神様は私に針のむしろをご用意されたのだな、と思うと生まれてこない方が良かったと思うと同時に、自死したらこの苦行から逃れられると考えてしまいます。自死すればもうやさしい夫やかわいい子どもに会えない事はわかっています。善かれとおもって行動しても裏目にでます。 昨年秋までは幸せに暮らしていました。そういう運命なのでしょうか。諦めるほかないのでしょうか。自死すれば魂はどこへいくのでしょうか。
タイトルの通り私はよく自分が生きる意味について考えています。 日々の生活が楽しくないわけではありませんが、学生の頃から漠然と長生きするつもりもないし、30代あたりで死ねたらいいなと考えていました。 それを友達に話すと「早すぎじゃない!?」と言われました。逆になぜそんなに長く生きたいのか私には不思議で仕方なかったです。 というのも自分は死に対しての恐怖が周りの人たちよりも比較的に少ないのかなと思います。自分の体を傷つけるのにもなんの抵抗もありません。 嫌なことがあったり苦しいことがあっても『まぁ、いいやもうすぐ死ぬし』と思うと楽になれます。 ですがもし自分の家族が死んでしまったらと考えるととてつもない恐怖心に襲われます。 自分に対しての死にだけ不思議と恐怖がわきませんし、むしろ早く死にたいとも思っています。 何か感情が欠如しているのかとおもいました。 生きる意味について何か納得ができる答えがないかネットで検索をしても皆似たような答ばかりで納得できませんでした。 どうして人は生きていかなければならないのか。なぜ長く生きていくことが美徳とされているのか。早く死にたいと思うのはおかしいことなのでしょうか。 分かりにくい文で申し訳ございませんが、お返事お待ちしています。
恐縮ですが、ご意見を頂けたら幸いです。 拒食症を患い、入院含めて7年この病と闘ってきました。一時期は50キロ代まで体重も回復しましたが、この2年でまた10キロ近く減らしてしまいました。さらに、睡眠障害で1日4時間くらいしか寝られず、心身が苦しいです。 頭では治らなきゃと分かっているのに、何故か食べ物を捨てたり、減らしたりしてしまいます。 家族にも死を仄めかしたり、きつくあたってしまいます。でも、死ぬことが出来ずにいます。 こんな厄介者の自分は生きていても役に立たない、死んだほうが家族にとっても、世の中にとっても有益なんだと、治ること、生きることを諦めて、死をゆっくりとでも受け入れたい、そう思いました。 いつ死ぬのかは分かりませんが、治ること、生きることを諦めてもいいでしょうか。 もう、考えることに疲れました。
愛する人を亡くしました。 進行の早い病気で、でも希望を捨てたくなかったので、治療がうまくいく前提でしか話をしていませんでしたが、結局は…。 こんなことになるなら、もっと彼に対する感謝の気持ちを伝えたかったという後悔の思いばかりです。 私は、魂とか輪廻転生というようなことを信じています。 人は亡くなった後、49日までは魂がこの世にいるのですよね。だとしたら彼の魂は家族のところにいるのでしょうか? 私は彼の家族ではありません。 彼は天国に行けるでしょうか。 家族を大切にしている人でしたが裏切っていたことには変わりないので、それは“悪いこと”であり、天国には行けないのでしょうか…。 また、愛する人の死を“乗り越える”とはどういうことなのでしょうか。 彼が亡くなって以来、頭ではわかっているものの、気持ちがついていけません。それでも私は普通の生活を送るしかなく、自分は何をしているのだろうという気持ちになったりして、どうしたらいいのかわかりません。
もうずっと長い間、現実感がありません。この文字を打っている手も、その文字を見ている目も全て私だということはわかっています。 でもどうしても生きているという実感がありません。 ただただ死にたいと考えてしまいます。 友人とは毎日LINEで話して月に一回遊び、家族とも仲が良く、なんの不満もありません。とても楽しい日々を過ごしています。 もちろん、友人も家族も深く愛しています。 でも今ここで死ねというなら私は死ねます。 実行力があるのが私の取り柄だと思っています。ビルから飛び降りるなんて事もできます。ハッタリではありません。 今は、ただ生きているだけです。 まだ死んでいないだけです。 それに対してあまり後悔はありません。 友人を、家族を愛しています。 でも今死んだとしても微塵も後悔がありません。 死が私を、私の体を解放してくれる、死ねば楽になれる、そういう風に感じます。 死に対して夢を見ているなどという訳ではありません。 私はなぜ、現実感を感じられないのでしょうか、死にたいと思ってしまうのでしょうか。 なぜなのでしょうか。 誰か教えてください。
生きる事は人それぞれですよね、自分の夢のために結婚した相手と一緒に暮らして生きたいとか色々ありますよね。 私にはそれがありません、そもそも生きるってことはなんでしょうか。今の私にはそれが一番辛く苦しいことです。家族のために生きようとか大切な人と一緒にすごそうだとかそんな気にはなれません。なぜこうなったのか、そう考えるときっかけは就職をしたことでした。ですが上司からパワハラや会社の労働負担が大きいかったのかヘルニアを発症し鬱病も併用し結局仕事を辞めてしまいました。 そして日々死にたいと思いながら過ごすようになりました。死んだ後何も感じない何も考えない、そんなことを思うと死ぬって事は意外と素敵なことではないかと考えるようになりました。 私の考えは仏様や神様から与えられた命を粗末にしてることは重々承知しております。また残られた家族や大切な人を裏切ることになります。ですがそのことを考慮しても私は死にたいと考えてしまうようになってきました。 生きるってなんでしょうか?
遠方の家族が危篤状態です。会いにいった方がいいのかもしれませんが、死が目前の人と会うのが怖く、また帰省して沈んでいる他の家族と過ごすのも辛いと思ってしまいます。 自分の心を守るためには遠くから安らかに過ごせることを祈っていた方がいいと思います。こんなことを考える自分が最低だと思いながら、かなり気持ちが滅入っています。どうしたらいいのかわかりません。
私は幼稚園の時からただ漠然と死にたいと願っています。今までは本当にただ漠然とした願いでしたが最近になり、うたた寝をするような穏やかな死を望むようになってきました。 ただこんな願いは家族には到底打ち明けることはできませんし、万が一打ち明けたとしても怒られるだけです。怒られないにしろ、まだろくに人生歩んでないからそんなことが言えるんだといわれて終わることでしょう。 私は死というもの事態避けようのない終着点であり、そこまで悲観するものではないと思っているため、余計にそう願っているのでしょうが、皆様方は死についてどのように思われていますか?