先日は、悩みに答えて頂きありがとうございました。 今回 息子への接し方についてお答え頂けたら幸いです。 私には、9歳6歳の二人の息子がいます。 長男は、今は反抗期に入ったのか私の言う事は、全くきいてくれません。そればかりか、うるせー!だまれ!ママなんか消えろ!死ね!うざい!などと酷い言葉を吐きます。 私がガミガミ言い過ぎてしまう事もあるかもしれません。二人の息子は主人が仕事で居ない日は天国なのか 戦いゴッコを始め 夜でも ドタバタ騒ぐため、近所迷惑だからと 叱り 注意をしますが、馬耳東風 馬の耳に念仏 そんな、息子に手を挙げてしまう事もしばしば。 しかし、息子は、そんなの全く どこふく風 私の言葉など 少しも届きません。 主人の言う事は、ちゃんと聞きます。 なので、主人から注意をしてもらおうとしますが 子供の躾は母親の仕事だろ。 自分でなんとかしろ。 と言われてしまいます。 おまえの言葉には、刺があるから、余計反発するんだ。 だから、もっとしっかりやれ。と言われ 確かに、子供に 苛々させられ 子供を傷つけてしまう事を 言ってしまいった事もあり その度に 後悔 寝顔に謝る しかし、翌日はまた繰り返す。 そんな、自分は母親失格だ。こんな私に育てられて 息子は幸せなのか?私をふかく恨むのではないか? もっと愛してあげたい。愛している気持ちをわかって欲しい 気持ちと、息子に苛々する気持ちが錯誤してしまい 結果 怒りが勝ってしまい 息子を怒鳴ってしまう。こんな大声出したくない こんなキツい言葉言いたくない 反発し、生意気な口を聞 少も言う事を聞かない息子に 結局 怒り 手が出てしまう。 怒るではなく叱る。私のしている事は怒り。 ただ苛々したストレスを息子に発散しているだけなのは わかっています。 息子に今後 どう接すべきなのでしょうか? 悪ふざけをすり息子 汚い言葉 特に死ね!と言う息子をどうに、諭したらいいのでしょうか?叱り方は? 長文ですみません。良いアドバイスお願いします。
お世話になってます。 約三年前に投稿した自分の質問履歴を見返してみたところ、3年前も不幸せで、現在も同様に幸せではないです。100点満点を目指しているわけではありませんが、永遠に幸せになれない人というのは実際に存在していて、私がその一人なのではと感じています。 2 また、先日車に轢かれそうになる出来事がありました。幸いにも無傷でしたが、向こうの信号無視が原因でした。これについて、私の日頃の行いが悪いのでこのような事が起こるのでしょうか。仏教的な見解があれば教えていただきたいです。ちなみに、車に轢かれずに生きていることが既に幸せといった意見は理解していますので、その点はお控えいただけると助かります。厚かましくてすみません。 3番目に(盛りだくさんですみません) 虫(ハエ)がいたので殺しました しぶとく、殺すのに時間がかかりました でもふと虫も殺されないように必死に逃げたのかなとしみじみに感じました。 これまでも殺したことはありますが(みなさん生きてればありすよね)命を考えたときに 命を終わらせてしまい(私が)申し訳なく思います。仏教的に教えて頂きたいです。 我ながら3番目の質問は難しい質問ですみません軽めで大丈夫です。(1、2メインで)
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。