① 日本人に根付くステレオタイプの宗教倫理観といえば、やはり「現世で善いカルマを積んで死後にいいところへ行き、やがて解脱する」だと思います。これはバラモン教やヒンドゥー教のようにも思えますが、このスタンスを基礎としている宗派はどこでしょうか。とてもシンプルゆえに子供の道徳教育にも有効で、信心もしやすいと思います。「○宗」とかでなく「大乗仏教」という括りでみんな当て嵌まっていそうではありますが…。 ② 永遠の幸福はあるでしょうか? この質問を日蓮正宗のお坊さんへお話したら、「物事には必ずそれを妨げる逆風のような働きがあり、何をするにしても程度の差こそあれど必ず苦難は待ち受けているから、永遠の平安は無い。しかし、その「苦難に耐えてダメージを受けずに済む心」は手に入れることができる」というお話をしていただき、私はその心があれば永遠に幸福になるという夢を叶えられるのではないかと思いました。そのお坊さんが言うには、やはり日蓮正宗なので南無妙法蓮華経のお題目でその心を手に入れることができると仰っしゃられておりました。これについて皆様の意見や、ほかに苦難で傷つかない心を手に入れる方法を教えていただきたいです。 ③ 仏教には「運の良さ」はあるでしょうか? これは仏教を信仰してギャンブル運を上げるとかそういうのではなく、「運命を変える力」です。信仰しようがしまいが運の流れ=運命を変える力が無ければ、人類も動物も全ての生涯はみんな最初から「運命」というレールに敷かれた出来レースであり、人間の自由意志や選択や信仰に価値が無くなると私は思っているので、「運命を変える」「人生に転機をもたらす」などの意味で、運(人生の風向き)を変えてくれる力は仏教にはあるでしょうか。宗派なども教えていただきたいです。ちなみに、日蓮正宗のお坊さんはやはり「その方法はズバリ、うちに入信して南無妙法蓮華経を唱えること。阿弥陀如来を信仰してもあの方はあの世しか管轄していないから人生は変わらない、日蓮なら変わる」と熱弁されていましたが、これについてはあくまで例ということで否定や肯定などの意思はありません。 長くなり申し訳ありません。これを読んでくださった優しいあなたへ、ありがとうございました。私は永遠に善人でありたいです
四年前に父を病気で亡くしました。 元々色々な病を抱えておりましたが 急激に悪くなり、入院した当日に余命宣告をされました。 入院してから2ヶ月で父は亡くなりました。 その間、母と交代で毎日病院に通っていましたが一度だけ自分の娯楽を優先してしまい顔を出さなかった日があり今だに後悔をしております。 当時私以外の家族が今にも壊れてしまいそうで、私自身は父の事に関して常に気張った状態でいた為か、亡くなってから1.2年経ってから急激な不安や悲しみに襲われることが多く。 感情のぶつけ方が分かりません。 一瞬でもいい、ほんの数秒だけでも会いたくてたまりません。 2年前に結婚し、式を挙げた際にも父と腕を組んで歩くことも出来ず、孫を見せてあげることもできず、 私が出来ないことが当たり前にできる他人を妬むことも多々あります。 又、母が外国人で身の回りの事や自立が一切できておらず 今同居をしているのですが、母への嫌な感情も父の死後から出てきてしまい 父を恨むような気持ちを持ってしまったり たくさんの感情が入り混じり、普通じゃない怒り方で旦那なやつ当たってしまう事や、子供に優しく接する余裕もなくなり、もう父の居なくなった世界が苦しいです。 父が居たら、、と考えてしまう日々です。 入院するまではたくさん迷惑をかけてしまって居たので、 入院中は出来ることを精一杯しましたが後悔は消えません。 悲しみも薄れるどころか、 増していきます。 死に感しても深く考えてしまい、とても怖くなります。 気持ちを消化する方法はありますでしょうか。 どうか宜しくお願い致します。
いつも有難う御座います。 つい先日、父の四十九日法要を、お寺で行いました。その翌日、仏具屋さんから帰って来た母が「四十九日が済んだら、線香は朝と夜の2回で良いと言われた」と言っていました。私は父の死後、一つ一つの挨拶ごとに線香をあげて、挨拶していたショックでした。「遂に仏さんになって、本当に遠くに行ってしまったのか」と実感しました。 別に「絶対に朝と夜以外に線香をあげてはいけない」と言う禁止では無いとは思います。然し、改めて言われると、「何でダメなの?」って思ってしまいます。 四十九日が終わり、又強い悲しみ、苦しみがあります。それは父の葬儀の時とは違う、それ以上の苦しみ悲しみがあり、涙が出てきます。 まだ入院前、家で介護を受けていた時に、ずっと自分の甥っ子や姪っ子の名前を呼び続けていました。当時私は、「ほら、又始まった」としか思いませんでした。然し今考えると、父は自分が長くない事が判り、「死ぬ前に会いたい」との思いで、ずっと呼び続けていたんじゃ無いか?と思います。何故甥っ子や姪っ子に「顔見せてあげて」と、連絡して上げなかったんだろうと、父の最後の願いを聞いて上げられなかった事が情けなく、悔しく、父に申し訳ない気持ちです。葬儀では全員揃いましたが、実際父が観ていたかどうか判りません。 きっと父は怒り狂っていると思います。今更悔やんでも父は帰って来ませんし、私の「ゴメンね」の声も届きません。凄く苦しいです。自分が情けなく、申し訳ないです。 この気持ちを、どう整理したら良いか判らず、困っています。
否定ばかりで少しでも気に入らなければ家族に当たり散らす母親との付き合い方についてお尋ねします。今は実家暮らしですが、諸々が状況整い次第一人暮らしをする予定です。 今まで自由な選択肢を与えてきたと言いながら、実際には好きな物や興味の対象は悉く否定されてきました。直接的に否定することもあれば、気に入らない旨示唆しこちらの意欲を削いできます。話さなければいいのですが、嬉しかったことや悩み等伝えたくなりつい話してしまいます。不機嫌になった母は当たり散らす際、嬉しかったことにはケチをつけて水を差し、悩みや悲しかったことは嬉々として攻撃材料にしてきます。こちらが正論を言えば物を投げ壊し、私が嫌なことや気にしていることをニヤニヤしながら叫び、話になりません。威嚇するかのように嫌な態度を取り続け、悉く不快な気持ちにさせてきます。物にも気持ちがあると聞きますが、これらの全ての行いを天から見ていて神様はちゃんと罰を与えるのでしょうか。 最近は部屋に篭る等して物理的距離をとっていますが、存在を感じる度に動悸と吐き気がします。父親に相談したことがありますが、事なかれ主義のため全く頼りにならず最早相談することさえ諦めました。 長年攻撃の対象は私だけでなく父にも及び、朗らかで楽しい雰囲気になったことはほぼありません。父親の悪口や自身の不幸を長々愚痴られ、少しでも正論を言うと狂ったように叫ばれてきました。 こんな人に自分の大事な人生を邪魔されたくないので、心の中で存在を消して嫌な気持ちに支配されないよう努力していますが、精神的にきつくしんどいです。自分の人生を憎い人に支配されるのも癪で、自分の幸せのために時間を使いたいと思っているのについ憎しみでいっぱいになってしまいます。不幸を願っても潜在意識的にはこちらに跳ね返るとの話を聞き、やめようとしましたが、なぜこれだけ嫌な思いをさせられておきながらこちらが更に不幸な目に遭うのか理解できません。このように周りの人を攻撃し、不快にして苦しめた人は死後嫌な思いをしてくれるのでしょうか。 幸い私には外の世界で友達も大事な人もいます。母親を可哀想な人と思って内心蔑んでも不快な思いをさせてくる母親を心の中で消すことはなかなか難しいです。 もうどのように対処したらいいのか分からず限界です。心の持ちようや考えの転換の仕方をお教え下さい。助けて下さい。
昨年年明け間近に父が他界しました。 死因は不明です。 6年ほど前に父のアルコール依存症から来るDVで離婚してます。 その後精神科に入院し二、三年後に退院できるようになり以前アルコール依存だった人たちの集まりにも参加していたようです。 しばらくしてから私と母に会うようになり父の気持ちが"またみんなと一緒に暮らしたい"気持ちになったようで母に伝えたのですが母はもう同じ思いをしたくなかったらしく断り続けていました。 そして、大晦日に母と父は一緒に家で年明けをしたそうで、1月1日の日に父は自分の家に帰ったようで着いた途端寂しくなったのと一緒に暮らせないことが原因なのか母に『睡眠薬を2週間分飲んだ』との電話が入ったらしく母は『その場で吐きなさい』と言ったみたいですがそのようなことはせずそこで会話は終わったらしく、その次の日に母から『お父さん自殺しようとしたよ』と言われ私が『電話する』と言ったら母が『昔から構って欲しくてそういうことを言う人なの無視して』と言うので電話はせず5日経ち母が父からの連絡が全く来ないことに異変を感じ役所の方に安否確認をお願いするよう電話を入れたらしく役所の方が家に行ったところ亡くなってしまっていたそうです。死後2日でした。 司法解剖の結果も自殺の欄にチェックが入っておらず死因が未だに不明です。 悔しいです。せめて成人式の振袖姿は見てほしかったです。出来るのなら昔みたいにまた話したいです。私はお父さんっ子でしたので姿だけでもいいからみたいです。 可能なのでしょうか。
何度かここへこさせていただいています。 恋人を付き合いだして間も無く亡くしてから4か月が過ぎました。一緒に撮った写真もなく、本当に一緒に居るようになってからは3ヶ月という短い間でしたがあんなに一緒に居たのに、いつも彼を思うとき顔だけが何故かはっきりと出てこない。。どうして。 ハスノハ様で御釈迦様は「人を心のよりどころにしてはいけない」と言われたと拝見した時にも、私なりに理解できたのですが、どうにも寂しくて悲しくて不安で会いたい、話したい、彼を感じたくてどうしようもなくて。 仕事もうまく行かず。 全て自我であり煩悩で私欲でしかないとも反省もします。 以前からも興味もあって仏教や死後の事の物やスピリチュアル?の物を読んで自分に言い聞かせたり、落ち着かせようとしています。 目を閉じて彼を思う時彼は私の中に居てくれてるってよく書かれてて、お浄土で会えるとも言われていたり、来世でまた会えるかもしれないとか、どうしても今は本当には信じきれなくて。辛いです、こんなにむごい縁を私は本当に自分で生まれる前に決めたんでしょうか。 先月あたまに彼の弟さんが、彼が亡くなる半月くらい前に亡くなった、彼のお母さんと彼のお墓を霊園に立てました。先月も今月も会いにいきましたが、14日の月命日にはいつも行こうと思います。お仏壇も無いので、知り合いが写した彼の写真と少しだけの彼の私物を置いて、お茶とお水をおいています。 お金がたまったらお墓に書いてある彼の法名で、位牌を作りたいと思っているんですが可能なのでしょうか?おそらく浄土真宗なので、彼の弟さんは何処のお寺に行かれてるのかは知らないので、自分で浄土真宗のお寺さんを探して相談にいってもいいのでしょうか? 読んで下さった方々、本当にありがとうございます。長文になり申し訳ありません。
私、自分が生まれてしばらくしてから父が婿養子に入ったので姓が子供の頃に変わっています。で、母方の家の祭祀継承者としてお墓も仏壇もあって、そこに問題はないのですが、父方の家が近く叔父の死で途絶える予定です。そうなると、父の実家のお墓とお位牌はどうなるの?と気づきました。叔父は離婚しており、これまた名字の違う子供は居るのですが、叔父個人はともかく叔父の実家のことなんか知らん、というまあ今どきの人です。どうも位牌なんかはポイして、墓は放置しそうです。お墓は寺内墓地なので強制撤去されると私達がお参りで困るからちゃんと永代供養墓に移しましょうよと話すつもりですが、問題はお位牌です。 姓は変わってても自分にとって祖父母やもっと前のご先祖のものです。適当に捨てるぐらいならうちで祀るからくれ、と言いたいのは山々なんですが、「じゃああげるよ」と言われたとして、母方の家の仏壇に一緒に置いていいものなんでしょうか?実は自分自身も結婚の予定がないため、死後に叔父と同じ問題を抱えそうです。嫁に行った姉妹に自分の家の位牌を頼んでいいんでしょうか? というか、世のみなさんは家が自分で末代になりそうな場合、どうしてるんでしょうか?私の場合、父方も母方も、姉妹の嫁ぎ先も偶然全部同じ曹洞宗です。だから、宗旨が矛盾する的な理由で駄目ってことは多分ないと思うんですが、「家」を単位とする仏壇や祭祀で、複数の「家」をまたいでよいものかどうなのか、教えてください。うちの話は独立した位牌の場合ですが、繰り出し位牌や過去帳の場合についても、家を混ぜていいものなのか解説願えますでしょうか?
つたない文章ですがご容赦ください。 30代女です。子供はいません。同じく30代の夫の死を受け入れられないでいます。 長く付き合って、この人しかいないと思って、でもすぐには結婚できなくて、色々あってやっと入籍出来た矢先、数週間で夫は亡くなりました。 進行性の早い癌であちこちに転移していて入院した頃には手遅れで・・・。 「誰のものにもならないでほしい。」そう言い遺して亡くなりました。 「ああすれば良かった。こうすれば良かった。」「もっと早く病院に連れていってあげていれば。」そんなことばかり考えて日々なにもする気が起きず、泣いてばかりです。 彼の事を思い出す物を見れば涙が溢れ、出掛けても彼と一緒に来たかったと泣き、TVを見ても何をしていても何もしていなくても思い出して辛いです。 母と二人暮らしなので死ぬわけにはいかないと頭のなかではわかっているのですが、日々、死ぬことばかりを考えてしまいます。 大好きだった人の死があまりにも辛すぎて耐えられそうにありません。 どうすればいいのでしょうか。 我慢するしか無いのでしょうか。 死ねば彼に会えるのでしょうか。 自ら死を望めば例え病気で死んでも自殺になりますか? 皆は言います。 「彼はあなたが死ぬことを望んでいない。」と。 確かにそうかもしれません。毎日「愛してるよ。」「大好きだよ。」と言ってくれていた彼が私の死を望まないことはわかっています。でも私は辛いのです。彼の気持ちどうこうではなく、私が辛いのです。その言葉を聞くと「我慢しなさい。」と言われているようで結局それしかないのかと・・・。 時間が解決してくれると言う人もいました。 では、時間が解決してくれなかったら?ずっと苦しく辛いままだったら? 死ぬことを考えない日はありません。 自殺をすれば彼と同じところに行けないと言う人もいました。 でもそれは一つの考え方であって死後の世界は誰にもわからないのではないでしょうか。 気持ちを押さえる術がわかりません。 ネガティブなことしか思い浮かびません。 どうしたらいいのでしょうか。 この苦しみから解放されたい。
小学生2年生の娘が 死ぬことに対して恐怖を抱いているようです。また、生きてるのかということについても考えて、不安になっている様子です。 思い返すとここ数年で ペット(熱帯魚)が死んでしまったり、娘にとっての曽祖母が亡くなったり、死について考える事は何回かあったのですが、曽祖母は娘自身は会ったこともほとんどない近しい関係ではなかったので、それほどショックを受けるような感じではなかったです。 それでも、人が亡くなったらお葬式をして、お骨になるという事は少しショッキングだったのかもしれません。 私はいつ死ぬの? 死んだらどうなるの? 私は本当に生きてるの? 「まだ死なないから大丈夫だよ。 あなたが死ぬのは、ひいおばあちゃんぐらいの年齢になってからだと思うよ。」 「たくさんいい事をすると天国に行けるみたいだよ。」 などとも話してみたりもしましたが、なかなか不安は解消されないみたいです。 明日死んじゃうかもしれないと泣き始めることもあります。 生きてることについては うまく説明もできず 「自分が生きてるのかを今考えられてるってことはあなたが生きてるってことなんだよ。」と 「我思う故に我あり」のような事を伝えてみたりしても、小学生には、まだ上手く伝わりません。 死への恐怖 死後の話 生きてること どのように話してあげればいいでしょうか?
数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。 ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。 そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。 般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。 生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。 「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。 即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。 従って仏教の救いは死後にあることになります。 しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。 それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。 そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略
コロナで仕事が無くなり、何もしないまま6月も中旬。 3ヶ月半無駄に過ごしました。 転職サイトを見ても、経験も資格も無いため、選べる立場ではないですが、本当に仕事が無く、今後の生きる道に絶望を感じています。 この鬱々とした感情が良くないのかと 自己啓発本 鬱克服本 投資本 不動産経営本 成功者のYouTube見たり 簿記検定3級の受講テキストなど 見たり読んだりしましたが、 勉強は全然出来ないし 本はポジティブでないと人は離れていくとあり、あぁだめだポジティブにならないと...とさらに自己嫌悪になり 自己肯定感をあげるのも大変難しく 今までの自分の性格の糞さを目の当たりにし 今すぐ死にたいです。 生きていられないなんで生きてるんだろう今すぐ死にたいんです本当に。 4月5月、何もしておらず死にたかったので 今月から短期のバイトを初めたり カフェのバイトも初めましたが 死にたい気持ちが一向に収まりません。 散歩しても 運動しても ポジティブになれません。 周りが働いてたり、子育てしたり本当に生きててすごいと思う。 生きるって凄いです。私にはもう無理です。 毎日 毎日、自殺募集や死にたい人を検索しては共感しています。 本当に死にたいです。 死にたいんです。 皆どうやっていきてるの本当にすごい。 最近、左下腹部を押すとしこりがあるのが分かりました。 これがガンか何かで、余命1ヶ月であってくれと心から願っています。 現時点ではお金に困っていません。 生活にも困っていません。 自分の無知無能無力さ、夢や目標もなく、ゴールが無いから船を何処に進めたらいいのか分からず、ループに陥り、死ぬしかない、と考えます。 近所に祖母と母が住んでおり、私のこの思いは伝えております。私のせいで、最近二人ともあまり元気が無いように思います。 周りに迷惑をかけ、生産性もなく生きている私は本当に死ぬべきだし、死にたいです。 簡単に死ねず、生きるも地獄、死ぬも地獄。 八方塞がりです。しんどい。楽になりたい。 皆様、この気持ちはどうやって乗り越えるのですか。周りに助けを求めても、気を遣わせてしまい申し訳ない気持ちになり、一時的なやりとりで気が紛れますがすぐ死にたい気持ちで溢れます。 苦しいし辛いです。 他力本願でごめんなさい。 どうかどうか楽になりたい。
昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。 私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。 といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。 例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。 ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。 私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。 そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。 ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。 思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。 長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。 今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。 そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。
夫が、心臓病で1人自宅で亡くなり、発見が遅れ、義父が見つけた時は硬直していました。 3年前から通学の都合で、夫と息子、娘と私で100キロ別に離れて暮らし、違う学校に通学でした。 義父が小さな建設会社を経営し、夫は長男で建築士。義父は78歳になっても代を譲らず、父子の会話、意思の疎通、相談などせず、ライバルとして別々に仕事をし合っていました。夫は1人パソコン、携帯の中だけで仕事をしていました。仕事はできました。 夫は、家族に気に入らないと電話に出ず、出て行く、嘘つき、約束を守らないので、当日〝また嫌がらせ?〟と家族皆思いながら、家を訪ねたり、電話をかけていました。でも義母が、夫はよく閉じこもる、と話した時、義父に頼んで家のチェーンを壊してもらいました。閉じこもった事などなかったからです。 喪主は私ですが、義父母が取り仕切り、遺体搬送先、遺骨、位牌も義父母宅。葬儀には650人参列していただきました。 49日後、夫のカード支払いで明細を確認中、ラブホテル、口紅、ブランドバッグ、借入150万の記載があり慌てました。 それを見た長男が、3年前から不倫のラインを読んでいた事、昨年に兄妹に話していた事、次男が夫に話していた事を言いました。 携帯のラインは卑猥で、子どもの希望で義父に話しました。それまで私はずっと自分を責めていました。 春から一緒に住む予定でした。取り乱していると、長男は〝死んで償ったんだから〟と私を慰め、夫に性格が似ている次男は〝カス、クズ、存在無〟と、一晩中大音量で携帯ゲーム。娘は気持ち悪いと無表情。 亡くなる前日、夫は体調が悪く会社を休み、娘に約束の携帯を届けにきました。私は夫の頰に手をやり〝顔色悪いね。お互い50代だから頑張ろう〟といいました。黙って頷きました。その夜娘の携帯が不具合で、娘達はラインで23時半まで夫と連絡。それきり。 3年前良ポリープを取り、昨年ヘルニアで激痛、入院を拒み家族に内緒で整体で治し、死後、過去の健康診断結果では重度の糖尿病。確かに足が壊死していました。 不倫相手は2人。三年前から保健師、半年前からネットの人。死亡の5日後に保健師と会う約束。 生まれてきてくれてありがとうが家族の合言葉。 愛があるから4人産みました。 夫の心身に何があったのか、私達に何を残したのか知りたいです。 皆傷付いております。
以前にも相談させていただきました。 5年前に親友を自殺で亡くし、今も毎日思い出し、祈りますが、もう思い悩むことはありません。 私のせいで死なせたかもしれないし、私のお陰で5年前までは生きていられたのかもしれない。どちらが真実か(もしくはどちらも真実か)は、亡くなった親友にしか分からないことなので、私は「もしまた彼女に会えたときに好きになってもらえる私でいよう」と前向きに生きています。 前回も「死んだ人と話せると言う人が理解できない」という相談をさせていただきました。 その際に、言う方は言うだけで責任はないのでスルーしたらいい。親友が私に伝えたいことがあるときは直接私に伝えに来てくれるという回答をいただき、その言葉を信じて過ごしていました。 しかし件の友人は未だに「親友さんと話したよ」「もう成仏するから安心してねって言ってたよ」「ずっと三十日月のそばにいたけど声が届かなくて悲しかったって言ってたよ」「私は霊能力を身に付けるヒーリング(?)を受けたから信じて」「三十日月が私の言葉を信じてくれないから、親友さんが悲しんでるよ」「一番可哀想なのは親友さんだよ」と伝えてきます。 友人をやめて連絡手段を絶っても、いろんな方法を使ってコンタクトを取ってきて、聞いてもいないのに私の親友の今現在の話をします。 私はもう誰にも触れられたくありません。 それは友人にもきちんと伝えましたし、私は霊が視えないから、そういう話は聞きたくないともはっきり伝えました。 でもやめてくれません。 スルーすればいいんだと、頭では分かっています。 もし親友が私に伝えたいことがあるなら、直接会いに来てくれることも信じています。 でも「一番可哀想なのは親友さんだよ」という言葉が予想外に私を傷付け、悩ませています。 私が霊と話せると言う人を信じないせいで、親友は悲しんでるのか?もし本当にそうなら私は悪いことをしているのかもしれない…と思い悩んでいます。 霊と話せると言う人が、心の底から「自分は霊と話せる」と信じていることも理解しています。 本気で信じているからこそ、応対に困っています。 私が聞いてもいない、今現在の親友のことを(最近成仏したとは言っていましたが)、私の不安を煽るように伝えてくる友人との付き合い方を教えてください。 よろしくお願いします。
先日祖母が亡くなりました。 三親等内で初めて看取った家族でした。小さい頃から毎日家に来てお風呂に入れてくれたり、公園に散歩に連れて行ってくれたり、アルバムを見るのが好きな私に何度も1枚1枚説明してくれたり、お札でお年玉をもらうと親に回収されるから小銭でほしいと小さい頃に頼んだら成人しても小銭で1万円分くれたり、たくさん思い出があって私も大好きな人でした。 急に亡くなってしまいましたが、お見舞いに行くことは出来てお話もできて気持ちの整理が着いた状態で見送れたと思います。 でも今もふと、祖母が極楽へ行ったらどのような姿で過ごすのか考えてしまいます。亡くなった時の姿でいるのでしょうか?そうであれば私が年老いて亡くなったら私だと気づいて貰えないかもしれません。それとも自分がいたいと思う姿でいるのでしょうか?そうであればきっと私が知ってるよりも若い頃の姿になる祖母に私が気づけないかもしれません。 そのようなことを考えると、私が今死ねれば祖母に確実に気づいてもらえるのにな、とも思ってしまいます。 どのように解釈すればいいのかお教え頂きたいです。
昨日は育児放棄をしていた母に代わり長い間私と4歳下の仲の良くない妹の面倒をずっと見てくれていた、大好きな祖母の通夜で、従姉妹と共に祖母と最後の夜を過ごしました。 最初は私を含め従姉妹達全員が寝心地の悪い敷布団と硬い枕、そしてガンガンに冷やされた部屋とは対象的に蒸し暑い布団の中でなかなか眠りにつく事が出来ずにいたようでした。加えて私は一人暮らしをしており、家が近くはなく頻繁には行けないものの何度か医療ミスで危篤状態に陥っていた祖母のお見舞いに行っており、深夜に仲の悪い母から祖母の訃報を聞いて涙ながらに寝ようとしたものの全く眠れず、部屋の電気を何故か消す事が怖いという有様で、寝不足で疲れておりました。 昨晩もまた他の従姉妹と共に眠りにつこうとすると、虫の知らせでしょうか、7%の後遺症という話を聞かされていただけの筈の祖母から手術の前日に泣きながら「あんたの事しか考えていない。かずらの事が心残りだ。これが最後になるかもしれないから、頑張りなさいよ」といった支離滅裂な電話があり、この時は私はB型作業所で知り合った友人兼同僚が部屋に遊びに来ていた為にただ頷く事しか出来ませんでした。2人が帰った後に改めて電話をした際はこちらのタイミングが悪く、かけ直すと言われました。しかし電話を待っている間に、障害のせいで強い睡魔に襲われ意識が朦朧とした状態に私は陥り、祖母からの電話には辛うじて出れましたがまともな会話が出来ず「おやすみ」とお互い言い合った事が祖母との最後のやり取りとなりました。 その事に関して後悔はないのですが、やはり彼女を喪った悲しみが大き過ぎて気付けばまた横になり涙をこぼしていました…気付けば私は浅い眠りに落ちていたようでした。 強く輝く黄色い光が出てくる夢でした。その光を見た時に不思議と飛び出したくなるような、とてつもない興奮と力が漲ってきて、ハッと目を覚ますと一時的なものかもしれませんが心がスッキリとした状態でした。 これは祖母がいつまでも泣き続ける私を励ましてくれたのでしょうか? ちなみに私は祖母から金銭面での支援を受けておりました。また祖母は亡くなるまで嫉妬妄想という痴呆症の症状を発症しており、異変に気付いた私が動こうとしない周りの代わりに祖母を病院へ連れて行った事があります。祖母はその事について今も何か思っていますか?死後、その事に気付けていますでしょうか?
こんばんは。僕は仏教を学んでいる者(迷走中)です。 僕は真宗を中心としていままで学んできましたが、最近では曹洞宗や黄檗宗、臨済宗など禅宗にも興味を持っています。 そこで大きな疑問が湧きました。悟り(真宗では覚り)についてです。 悟りは超訳すると、「煩悩が消えて物事をあるがまま観ることができる境地(無分別智)」ですよね。 曹洞宗の道元禅師は、正法眼蔵に「唯仏与仏」という言葉を残していますが、意味は「悟りの境地は仏にしか分からず、人間には分からないものだ」と理解しています。 僕が間違っていなければですが、道元禅師は悟り(一体どんな意味の悟りなのか定かではありませんが)の境地に至った人だと理解しています。黄檗宗の隠元も悟ったと理解しています。 真宗では「煩悩具足」と言われ、「人間は煩悩そのもの。煩悩は消えない」という前提で説かれています。ですが、真宗でも「覚り」という表現をする。 人間には悟りを開けない。これは、結構理屈で考えても分かりますよね。煩悩は消えないし、誰でも人間の本性(自己中心性)は無くならない。 歴史上では、仏陀(ゴータマ)が悟りに到達したみたいですが、仏陀に関してはそもそも人間ではなく仏なので悟ることができたのではないかと思います。 ところが、人間である道元や隠元、良寛など悟りに到達した人物が存在するみたいです。 これはどういうことでしょうか?いわゆる「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」に到達したということですか? しかし、基本的には煩悩が消えた状態の悟りを目指すべきですよね。だからこそ、浄土系の仏教では死後の成仏に救いを求めるはずです。 仏教の目的とも言える「悟り」に到達できないという問題は、仏教の存在意義も問われる問題だと思います。 仏陀の悟りと禅宗や真宗などの悟り(覚り)とは、どう違うのか分かりやすく回答していただけると有難いです。
ご無沙汰しております。 悩みというほどではありませんが、モヤモヤするので質問させていただきます。 まず、前提として、人間として生きている間に、できるだけいいこと(徳を積む?)をしなければならないと思います。学問を積んで本質を追求し気づいたことを伝えたり、ボランティアをして何かの役に立ったりすることが大事だと考えました。引きこもったり、ニートになったりしていても、何も考えたり感じたりしていないわけではなく、どうにかしたいともがいているはずで、その課題を解決した自分なりの答えを他の人に伝えることが大事だと気づきました。 しかし、絶対に自ら命を絶ってはならないということもないのではないかとも思っています。 なぜ、人は自殺したり、餓死(自殺に近いもの)したりしてはいけないのでしょうか? これには、いろいろな状況があると思います。 (1)本当にお金がなく、食費や水道代が払えず、餓死する場合、公的な機関などから門前払いを受け、誰にも気づかれず、死んでいった場合。 亡くなった人の選択肢として、コンビニやスーパーの物を盗み、生きるという選択肢もあったはずです。(窃盗犯という前科はつきますが)。その人は法を犯さない範囲で、できる限りの手は尽くしたでしょうし、周りの人も役割は果たしたでしょう。そこから社会の人が学べば、いい方向へ変わっていくはずですが、批判するだけして代案を考えないのは無責任のような気がします。 「悲しい」と嘆くのではなく、修行の末に亡くなったと捉え、学びに変えていくことが大切ではと思います。 (2)認知症や脳疾患のため、おかしくなった時を恐れて自殺してしまう場合。 (3)治る見込みのない病気(末期ガン)で、一切の飲食を絶った場合。 (2)も(3)も、周りに迷惑をかけないという思いからです。 生きることができるなら、負のもの(借金やネガティブ感情)を残さず、いいものを残すよう努力することが大事だと思います。自分自身の遺体をどう処理してほしいか伝え、そのための費用まで用意できると、責任ある人生を全うできるかなと思います。 うまく表現できず、申し訳ありません。 どのように死ぬかと考え、残された人への影響を心理面や費用面など分析することは、どう生きるかに繋がることだと思います。 死後も、しばらくは他人に影響を与え続けるので、生き方は大事だと思います。
将来を誓い合った彼が他界しました。 彼は既婚者であり、不倫関係でした。 これから彼は離婚に踏み出してくれるところでした。 遠距離であること、遺された彼のご家族のことを考え、葬儀の参列を見合わせました。 変わりに、葬儀当日は自宅近くのお寺で葬儀の日時に手を合わせ彼のご冥福をお祈りしました。 自宅には祖母と祖父の仏壇があり、毎日お線香をあげて手を合わせておりますが、彼が亡くなってからは、朝だけ彼の写真も置かせてもらい、お線香をあげてお参りをしています。 仏壇は、その家の仏が降りてくるものと考えますと、朝の一時であっても彼の写真を置き、手を合わせることは不自然なことでしょうか。 事情もあり、彼のお墓参りにも行けません。 でも、毎日彼のことを思い手を合わせ、彼の供養をしたいのです。 不倫が、仏教において地獄に行く不徳の行いであることと知り、少しでも彼が救われるように、毎日祈りを捧げたいのです。 唱えられるのは「南無阿弥陀仏」のみですが。 写真やお花を飾り、お線香をあげられるように簡易的な仏壇を作りたいと思っています。 家の中に他人の仏壇を置くことは、良くないのでしょうか。 もし、避けた方が良い場合は、別の方法など教えていただけると幸甚です。 不倫が悪いことは重々承知でしたが、欲望のままにというよりは、お互いに魂が惹かれ合う唯一無二の存在でした。 彼に現世では二度と会えないことを感じるたびに、どうしようもない虚無感、後を追いたくなる苦しみもあります。 自死しては死後も彼に会えなくなるとの文面を読んだことがありましたので、自分の生を生き抜くつもりですが、早く早く彼に会いたいと切に願います。 心の支えであり、魂の片割れでした。 長くなりましたが、他人である彼の仏壇を、簡易的にしても自宅に置くことは良くないのでしょうか。 ご教授のほど、よろしくお願いいたします。
40代、無職、独身、天涯孤独(両親は母親はがんで病死、父親は借金苦で自殺)彼氏も友達もおりません。 学生時代もいじめられて孤独、会社も仕事もできずくびになって以来 引きこもりです。 どこをどうひっくり返しても、幸せだって思えた瞬間もありませんし 体験も皆無です。 無理に幸せと思おうとして生きてきましたがもう ネタ切れです。幸せは考え方次第、ともいいますが本当に、全く ないんです。もし死んだとしても、(孤独死か餓死でしょう、全く相談できる人も理解者もいませんので、たった独りの自分だけの力でどこまでできるかわからないので)悲しんでくれる人もおりません。 この辺信じてもらえないことが多いですけど、本当です!! 餓死=自殺扱いですよね? このサイトで必ず自殺者は地獄へ行く訳で ないというのを読んで少し心が軽くなりましたが、私でも大丈夫でしょうか、、、。必ず地獄送りでないのなら、精一杯できることやって みようかなという気持ちになってきました。 死ぬこと自体は全く怖くないし、この世に未練もありません。 ただ死んだ後まで、もう苦しみたくないだけなのです。 生まれ変わることにも抵抗ありません。 今の自分が消えてくれるなら万々歳ですから。