こんばんは。はじめまして。 今年の1月15日に大切な我が子を亡くしました。 あの子は私にとって大切な大切な家族でした。 なのに、あの子が生きている時はあの子が今生きていること、朝はおはよう、 夜はおやすみを言える事が当たり前になってしまい、あの子の気持ちを考えることもほとんど無く、何事も自分優先、あの子たちの事は後回しになってしまっていました。 就職で実家を離れてから一人暮らしになり、仕事から帰ってきたらすぐに出かけ、夜遅くになる事も何度もありました。 去年の11月頃から体調を崩し、良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。 体調が悪くなったら懸命に看護し、悪い間は生きた心地がしないほど心配で心配でたまりませんでした。 なので前日体調が悪そうな様子に気付いた時も、また良くなってくれると心から願っていましたし信じていましたが、それは叶わず翌日の18時58分頃息を引き取りました。 あの子が亡くなってなぜ病院に連れて行かなかったのか、なぜ今までこれで大丈夫だったから今回も大丈夫なんて思ってしまったのか、それ以前になぜ正しい知識をもっと学ぼうとしなかったのか、自分で自分が憎くてたまりません 私の保温不足が原因でした。 14日の昼、お昼休みに家に帰ったとき、元気そうで室温も高かったので、寒暖差がいけないと思いケージ内のヒーターを消して仕事に戻りました。 その後仕事から帰宅し、ただいまーと挨拶し、あの子が元気そうなのをチラッと確認しただけで、自分はお腹が空いたからとお菓子を食べたり祖母に電話をしたりして、あの子がまた体調悪そうにしている事に気づいたのが2時間後くらいでした。 あの子は寒さに耐えながら必死に生きてくれていましたが限界だったのだと思います。 どうしようもない後悔、毎日毎日後悔しています。 私が殺してしまったも同然。私が殺してしまったんです。 なぜ罪のないあの子が死に、大罪をおかした私が今この世に生きているのか、あの子は懸命に生きようとしてくれたのに。 明日で49日を迎えますが、後悔と懺悔、自責の念でいっぱいです。 死んであの子の元にいき、心から謝りたいです。 私にこの世で生きていく資格はないと思いますが 支えてくれている家族や今生きているペット達の為にもこの世で償いながら生きて行かなければならないという事もわかっています。 ですがどう償えばいいのか分かりません。
頑張ったけど、幸せになれない。 死にたいです。
こんにちは。 もうすぐ3歳になる息子の母親です。 私は妊娠当時、摂食障害(過食嘔吐)という神経症を患っていたことから、ほとんど栄養が取れず、妊娠前から4キロしか体重を増やすことができませんでした。 そのため、息子は2100グラムという低出生体重児として生まれてしまいました。 母体の栄養不足による低出生体重児は、将来、糖尿病や心筋梗塞などの成人病を患く確率が通常よりかなり高いとのことです。 このことを知ってから、毎日毎日後悔と申し訳なさでいっぱいいの気持ちです。 私が摂食障害を直せなかったばっかりに、息子の将来に悪影響を与えてしまったことが頭から離れません。お腹の中で、さぞや空腹だっただろうなと考えると、自分が虐待をしていたようにも思えてきます。 今、私の方の症状は落ち着いていますが、自分ばかりが健康になっていることにも申し訳なさでいっぱいです。 将来の成人病を防ぎたいとの思いから、子供の食事にも必要以上に神経質になってしまいます。そのせいで夫婦げんかにさえなります。 この先、この罪悪感とどのように折り合いをつけてゆけばよいでしょうか。 ご教示いただければ幸いです。
先月、みぞおちが痛く検査した結果、すい臓ガンステージ4と診断されました。 来年の桜は見られないと聞いてます。 今は胃の辺りに違和感はありますが、とても元気です。来週治療方法を決めなくてはなりません。 入院して抗がん剤の点滴をするか、入院せず抗がん剤の薬をのむか、病院での治療をせず、代替療法にするか。 今いろいろ調べて勉強中です。 私は自分の免疫力と治癒力を信じて、少しでも元気な姿でこどもたちと過ごしたいと思っています。 どうなるかわからない不安もあり、悩んでいます。 よろしくお願いします。
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。