hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「私 お経 」
検索結果: 2726件

生きていてもむなしい

生きていても全然楽しいことがないような気がします。 子どもも生まれて、これからの生活を考えると貯金もしないといけない。生活にすぐに困るわけではありませんが裕福では決してありません。子どもはもう一人ほしい気持ちもあるのですが、夫の年齢が高いこともあり、教育費や老後のことを考えると不安もあります。 自分の楽しみのためにお金を使うことに常に罪悪感があり、何をしても楽しめません。 若いときは遊びに行ったり旅行に行ったり、ほしいものもたくさんあったりして、もっと楽しいことがあったような気がします。 学生時代の友達や同世代の親戚は皆、いい会社に入って経済的にも余裕があり、私もそういう道に進めばよかった、と思ってしまいます。 そうでなければ収入の高い人と結婚すればよかった、どうして結婚するときにそういう風に考えなかったんだろう、とどんどん後悔してしまいます。 経済的なことだけではなく、どんなことでも楽しめない、後悔することばかりです。 振り返るとこの10年ほど、就職した会社についてもあとから後悔、付き合っていた人と別れたときもしばらくしてから後悔しつづけ、自分の選択のすべてに後悔しています。それも私がうまくできないからなんだな、と思って苦しいです。 実家の両親とは不仲ではないものの、なんでも話せる仲ではありません。友達の多い人に憧れますが実際には友達も少なく、自分にはなにか欠陥があるのかと思っています。 夫に対しても最近はイライラしてけんかばかり、これから何十年も楽しく暮らせる自信がありません。 夫ともけんかをして、実家もそれほど居心地はよくなく、友達もいない、私の居場所はどこにもないような気がします。 子どもはかわいい反面、遊んでいるときなどにふと「一体何をしているんだろう」と、むなしい気持ちになります。 子どもも私に似たら学校でうまくやっていけないかもしれないし、成長していい関係になれるかもわからない。 私は何をやってもうまくいかない気がします。 この、何をしてもずっと続く生きづらさのようなものからどうにか逃れたいです。でもどうすればいいのかわかりません。

有り難し有り難し 33
回答数回答 1

周りとのズレを感じる

私は、自分が変なのではないかという考えに長年囚われています。 幼少期から、自分の考え方や行動が周りと少し違うという事には気づいていました。それゆえ意識して周囲と同調するように装い、なんとか人間関係を築くことはできてましたが、それでも孤立しがちでありました。 そして成長するにつれ、周囲とのズレが違和感として大きくなっていきました。まるで他の人はスクリーンに映し出された映像で、声もスピーカーから流れているような、生きたものと実感できないような感覚を覚えました。 幸か不幸か、頭は良かったので、私は傍目には順調に人生を進んできました。 しかし私はいくら難しい問題が解けようとも、普通の人がいとも簡単にできることがどうしてもできないのです。 どうやって親友ができるのか、恋人ができるのか、娯楽を楽しめるのか、分からないのです。 私は、家族も含めて浅い人間関係しか持っていません。友達とは休日一緒に遊ぶようなことはしません。恋人を作ろうとしても、何をしたらいいのか分からず、結局体だけの関係になってしまいます。 周りの人が夢中になっていることに全く興味を持てません。 発達障害や統合失調症を疑いましたが、そうではありませんでした。 ただ単純に『変な人』なのです。よく言えばミステリアスな人。 けれど、その『変』なせいで、人間関係を深められないのです。少しでも私の心の内を見せようとすると、皆逃げていくのです。  いつかきっと私を好きになってくれる人が現れて、幸せというものが得られるのだろう、と昔は漠然と考えていました。 けれどもやはり周りとのズレを感じる日々。焦り、なんとか努力しようとするも、その努力がチグハグでずれている。 この先1人でも稼いでいける自信はある。しかし何のために?誰のために? 自分の生きている実感が乏しい。 要点を得ない相談で申し訳ありません。ただ、私は普通になりたいのです。周りができることを普通にできるようになりたいのです。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

子犬を死なせてしまいました

子犬の名前はるいといいます。可愛くて、とっても元気な男の子で、まだ生まれて間もない子犬でした。彼氏の部屋で飼っていたのですがとてもとても可愛がっていました。 彼氏とドライブにるいを連れていきました。散歩をさせてやろうとリードをつけて。少し買い物に行こうということになったので車にるいを置いて15分程お店に入りました。なんでもっともっとるいのことを考えてやらなかったんだろう、と悔やんでも悔やみきれません。車に戻った時にはもうるいは動いていませんでした。リードが引っかかり、小さなるいの身体は椅子の背もたれから宙に浮いていました。きっと彼氏のことが大好きだったので僕も連れて行って!と飛び跳ねていたんだろうと思います。慌てて首輪を外しましたが、るいは泡を吹いて心臓も動いていませんでした。もう手遅れだろうとは分かっていましたが、急いで動物病院へ。突然の訪問でしたが、獣医師さんも救命措置をしてくださいました。 しかし、もう瞳孔も開いて心肺停止だということで、るいを抱っこして車に戻りました。 彼氏は泣き崩れながら家族に報告をしました。私はるいを抱き抱えながらどうすることも出来ず、ただただ泣いていました。 なんでもっとるいのことを考えてやらなかったんだろう、なんで車に残して行ってしまったんだろう、なんでリードをつけたままにしたんだろう、なんでなんでと後悔でいっぱいです。あんなに可愛い子だったのに、まだまだ生きられた命だったのに、天国に行ってしまった。るいには苦しくて寂しくて最後にそんな思いをさせてしまった。 本当に辛くて悲しくて苦しいです。涙が止まりません。でも、もっと辛いのは彼氏だと思います。今は自分の気持ちの整理もつかず、気の利く一言もかけられません。飼い主としても、彼女としても最低です。1番悲しいのはるいだよね。ごめんね、るい。 どうしたら気持ちの整理がつくのでしょうか。長々とすみません。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

正しいことと間違っていることとは?

私の両親に、最近、「本を信用するなよ」と言われます。どういう考えでいっているのか分かりませんが、信用するしないではないと思います。ある状況では正解でも、ある状況では不正解になることがあります。 本との関わり方については、親には説明しました。 多くの人が、 本=教科書=知識を身に付ける というふうに考えているのかなと思います。 本はあくまでも、著者や組織の「考え」を述べたもの。何も考えず鵜呑みにすれば、それは怪しい新興宗教になってしまいます。軸をもって主体的に考えることが大切だと思います。 本を尊重し、主体的になって考えることが、自分の新たな人格を形成することになるのだと思います。そのためには、判断のセンサーとなる「感性」と生体が情報を受けとる「五感」を鍛えることが重要だと自分の経験から感じています。 日本人は、宗教というと否定的な考えが多いかなと感じます。「イスラム教は怖い」と言われていますが、「本当なのか?」と思って、大学の教養課程のとき、イスラム世界の講義を取りました。教え自体は、その地域で生きていく知恵だと思いました。宗教が悪いということではなく、間違った解釈のもと、間違った行動をすることが問題だと考えています。それは、どの宗教や国、会社、組織にもいることです。 「宗教」は、「大学の研究」と何も変わらないという考えに至りました。言葉を表面的にしか捉えていないことが原因かと思いました。立体的、空間的に捉えることが大切だと思いました。 自分で判断し、実行したことについては、自信を持てるようになりました。実は判断するって難しいことだなと思っています。だからといって、自分で判断することを逃げてはいけないなと思います。それでは、AIかそれ以下になってしまいます。相手(人や物など、世の中の全て)に対して尊重し、学びを見いだしていけたらなと思います。

有り難し有り難し 26
回答数回答 2

勝手に想像して苦しくなってしまう

こんにちは。よろしくお願いします。 私には悪癖があり、それは「他人の苦しみを勝手に想像して自分で苦しんでしまう」ということです。 感受性が強いと言えば聞こえはいいのですが、やっていることはほぼ自傷と変わらないと思います。SNSで流れてくる特定の人種への差別発言、過剰反応なデマを流す人間の言葉、セクシャルマイノリティ等への暴言など、そういったものに勝手に憤慨してしまうのです。 私が軽度の障がい者(目には見えないものです)なので尚更かもしれません。こういった考え方をやめられたらいいのですが、脳は勝手にその事を考えてしまい、なかなかやめることができません。あまりに疲れてしまい、死にたさでいっぱいになったこともあります。 そして先日、私の上司の差別発言を聞いてしまいました。その上司は私を気にかけ親切にしてくださり、とても尊敬していました。 その尊敬していた相手からごく自然に出た差別発言に私はショックを受けました。私が軽度の障がい者だと知っていて雇用してくださった方なのでなおさらです。 そのことが本当にショックで、つらい気持ちでいっぱいです。私もいつか差別されるのか、あるいはもう既に陰でされているのか、そういった事被害者意識のような事を考えてしまいます。 どうしたらこういった考えを抑えられるでしょうか。ご教授お願い致します。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

人は変わることができるのでしょうか。

実感を感じたいです。 何を見ても、心から感動することがなく、いつも頭で判断して動いている感覚があります。 何故か怒りだけ感じることはできるのに、それ以外の感情は作りもののように感じます。普通に生活をしていて笑ったり泣いたりしますが、同時に自分に向けて演技をしているような気持ちになります。 夢を見ている時にだけ、心から喜んだり、悲しんだりできるので、目が覚めるとがっかりし、目覚めなけれよかったという気分になります。 実感を得たいというこの欲のために、いろんな場所に出かけたり、人とあったり恋愛もどきをしたり、旅をしたり、本を読んだり、スポーツをしたり、芸術に触れたり、ものを作ったり、ただ何もしないでいたりと、試行錯誤してみましたが、それでも心が動かない自分にゆっくりと失望しました。いまは欠落人間の私は、結婚や子供を持つことも諦めたほうが良いと考え、かといって残りの人生の長さに虚しさを感じずにはいられないです。他人のために時間を使おうと、余暇にボランティアとかもやっています。それでも虚しさは埋まらないです。 私に信仰があればなと強く思う時もありますが、神や仏を信じることすら、頭でっかちの自分には無理なのかなと諦め、残された生の時間が恐ろしく、かといって死ぬことも恐ろしく(試したけどできませんでした)、毎日を宙に浮いたまま過ごしています。 寿命が尽きるまで、私はこのままなのでしょうか。

有り難し有り難し 25
回答数回答 3

ヌミノース体験について

私は、今スペインの大学院で、宗教学について学んでおります。 お恥ずかしい事に、日本に住んでいるときはあまり仏教について考えた事がなかったのですが、今自分が海外にいる事で、改めて日本が仏教国であり、数々の素晴らしい文化、そしてそれにともなう言語・思想等を生み出してきたという事に気付きました。 そこで、今仏教について、スペインで本格的に研究しているのですが、どうしてもスペインにある仏教に関する本ではわからない事がございまして、ぜひお坊さんたちに答えて頂きたい質問がございます。 ドイツの宗教学者であるルドルフ・オットーが、「ヌミノース」という言葉で表している、言葉では言い表す事のできない他者では経験不可能な不思議体験・神秘体験(?)が一体どのようなものであるのかを、教えて頂きたいのです。 恐らく日本語で表すと、『見性体験』というものだと思います。ルドルフ・オットーも「聖なるもの」という著書の中で、この経験の内容に関しては体験者の唇は固く閉ざされると言っておりますが、仏教を研究している以上、私はどうしてもこの体験がどのような物なのかが知りたいのです。 もし言葉で深く説明できないのであれば、本当にキーワードだけでも良いので、どのようなものなのかを教えて頂きたいです。 難しい質問かもしれませんが、どうぞ宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 60
回答数回答 4

祖母のことが憎いです。

私の父方の祖母について御相談があります。 家は別々ですが同じ敷地内にあり、廊下でつながってるので簡単に行き来出来る状態なのでほぼ同居状態です。 母が3年前に病気で亡くなり、遺品整理時、日記帳を見つけました。そこには『義母が言ったことは一生傷、忘れない』、『祖母とお墓を別にしてほしい』と書かれていました。 何を言われたかは書かれていませんでした。 母は病気であることを父、私、弟、母方の祖母、母の姉弟にしか話していませんでした。 父方の祖母には亡くなるまで何も言わず隠していました。 理由は祖母が騒いで親戚、近所の人にあることないこと話してしまう為。 母の葬儀が終わり、すぐに、『お母さんに預けてあったお金はどうした?返せ』と… 今?言う話?母が亡くなったことよりお金のこと?と思い…不信感を持ち始めました。 お金は祖父が亡くなった時に葬儀、法事などですべて使いきっています。祖母に渡すと使ってしまうために叔母に預かっていました。 思えば母が亡くなった時、泣きもせず、母が自分(祖母)に病気のことを言わなかったことを根に持っていて会うたびに嫌味言を言い、高齢だからという理由で通夜、葬儀にも出ずにいた祖母。当たり前のように1周忌、3回忌も参加していません。 自分のことが1番で、他人のことを平気で傷つける人なんだと…私は祖母を嫌いになりました。 私にとって“母”は尊敬する人であり、目標にしてる母親でした。 いまだに母を亡くしたことはショックで、生きていることが辛いと思うことが多々あります。 母が亡くなり、毎日のように母に対する嫌味を聞かされ…最初は何も言わずグっと我慢していましたが、私に対しても祖母は『散々面倒見てやったのにかわいくない、憎たらしい』など言うことが増え… まだ私のことなら我慢出来ましたが、亡くなってまで母を傷つけるのかと私もついに頭に来てしまい…『お母さんのこともこうやって傷つけて、長い間ストレスを与え続けて、最後は病気にした、おまえが殺したんだ』と…言ってしまいました。 ドアに付いてるガラスが割れるんじゃないのか?と思うぐらいまでドンドン叩かれ、大声で『居ねえのか、開けろ』と叫ばれ…私の子供はその音でびっくりして泣き出します。 もう毎日がストレスでおかしくなってしまいそうです。 祖母はこれからも自分の言いたいことだけを言って傷つけます。私はどうしたら…

有り難し有り難し 43
回答数回答 1

父の死を受け止めたいです

長い相談で申し訳ありません。 父が昨年の年末に亡くなりました。 父は可愛がっていた犬が亡くなり、その後ペットロスが酷くなり、鬱になりました。 また、鬱のため、弱った足腰を急に使った為に、腰骨を折り、身動きできなくなり、趣味だった射撃も鬱になってからは減りましたが、全くできなくなりそのまま亡くなりました。 私は犬が亡くなってからすぐに妊娠し、出産し、また、子供は産まれてすぐ入院し、病気が見つかった為、実家の問題には全然無関心でした。 子供の身体が元気になって、心に余裕ができたときに父の病気が酷くなっている事を知り、父が鬱で辛い時、話ができる時だけ電話で話をするようになりました。 しかし、鬱の人とお話するのはとても大変で、突き放すような事も言ったこともありました。 父は家で母と姉と暮らしていましたが、父の性格が子供のように我が儘で自分勝手なところがあり、そのせいで最後まで鬱病に関して理解をえられることがありませんでした。 そのことにとても苦しんでいました。 父はそれでもとても頑張り屋で、自殺はせず亡くなりました。 父が亡くなってみて、父の存在の大きさを痛感し、後悔が拭えません。 今になって、買っていた鬱病の本を読み初めて、こうしていればもっと父の気持ちを楽にすることができたかも、とか。 また、心理学の本を読んだとき、私は父を助けると言って、ただ、救世主気取りになり、家族の「特別な存在」になりたかっただけなのだと理解しました。 父は電話代が高くなるから…と言って、電話をかけてることが減っていました。 もしかしたら、私が中途半端に父を助けたいと思ったことで、父に酷いことを言っていたと思っています…というか自覚しております。 今ごろ気づいても仕方ないのですし、自分を責めても仕方ないにせよ、それでも自分を追い込んでしまいます。 父は最後まで鬱で、死ぬときは辛くなかったのでしょうか? 最後は幸せだったのでしょうか? 死んで楽になったのでしょうか? どう父の最後を受けとめていけばいいのでしょうか? 思いのまま書いてしまった為に、まとめきれずに申し訳ありません。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1