先日、私たち夫婦で大切にしていた猫を安楽死させました。 慢性腎不全の末期であり、発作を起こし苦しみもがいている状態が続いた為です(治る見込みは医学的にはありません)。 勿論、獣医の先生から「このような選択肢もあります」とお話していただいたのですが、獣医の先生のご助言を盾に自分を守ることは間違いだと思います。 私が安楽死を選んでも選ばなくても、猫は先に亡くなったと思います、けれど私の心には少なからず「もう見ているのがつらい」という弱い心があったことも分かっています。 私は猫を胸に抱き、猫の心臓が止まる瞬間を感じました。 「許してね、許してね、お疲れ様」と泣き叫びながらの瞬間でした。 今回、私たちの大切な猫に、様々なことを教わりました。 人間(特に私です)とは傲慢であり、なんと勝手な生き物であるか。 それなのに、私たちの猫は怒ったりしないのです。 生きている頃から、そうでした。 私たちを頼ってくれていました。 こちらでお坊さまに、聴いていただきたかったのだと思います。 猫の心臓が止まった時、私は確かに「救われたい」と感じ、罪深いと痛感しました。 心から懺悔し、猫の死を無駄にしないよう、私にお坊さまのお言葉をいただけませんでしょうか。 できることならば、猫に許して欲しい。 そしていつかまた、家族三人で暮らしたい。 猫に苦しみの少ない場所でゆっくり休んでいて欲しい。 毎日、お線香をお供えし、手を合わせています。 どうか、喝も含め、お坊さまのお言葉をいただけたらと思っています。 宜しくお願い致します。
先日、祖父が亡くなりました。今、忌中の期間です。 その前後の日々の精神的ショックと親戚問題から自分では抱えきれないストレスが溜まり、祖父の冥福を祈りつつも自分自身が耐えらない恐怖や不安に教われてお酒(嗜む程度)や自慰をしてしまいそうになってしまいそうになります。 忌中の期間はやはり死を受け入れ、修行として人様に迷惑を掛けない程度でも慎むべきなのでしょうか?
3月に猫が亡くなりました。 はじめて飼った猫です。 わたしが生まれてすぐに、父が保護した子です。 かわいくて大好きでした。 大切な家族でした。 去年、癌になり手術をしました。 そして、今年再発して亡くなりました。 人生ではじめて死を経験しました。 余りにもあっけなく逝ってしまいました。 心の整理がつきません。 もっと もっと 一緒にいたかったです。 辛い時も癒してくれました。 どうしたら、受け入れる事が出来ますか? 教えてください。
前回自死してしまった娘のことでご相談したのですが、 とある僧侶の方から自殺した者はすぐに仏様の元へ行くことはできないと考えている。なぜなら辛くとも最後まで精一杯生き抜いた人と途中で諦めた人が評価が同じではないからと言われました。 私はそうは思えません。 自死する人はみな心の病が原因だと思うのです。普通の精神状態であれば誰が自ら死を選ぶでしょう。諦めたのではない、それしかもう選択肢が無かったのだと思います。 心の病も身体的な病も同じものではないのですか。 また闘病されて亡くなった方でも生前に悪行ばかり行った方もいるでしょう。それでも自死してしまった人間がすぐには行けない極楽へ行けるのですか? 娘は苦しみ抜いて自ら死を選んでしまいました。 精神科へ通院入院もしていましたしカウンセリングへも通いました。それでも病は少しも良くはならなかったのです。 これも立派な闘病だと思います。 娘は生前、抗ガン剤治療で髪を失った方の為に長い時をかけて髪を伸ばしヘアドネーションへ32センチもの毛髪を寄付しました。 免許証の裏面の臓器提供の欄にサインしてあったのを知っていたので、死後に角膜提供もしました。 子供の頃から人の悪口を言ったり無責任な噂話をするのも嫌いな子でした。 親バカかもしれないですが、こんな心の美しい子が自死してしまったからと言って、生きるのを諦めたから生から逃げたから、病死の人と違うからすぐに極楽へは行けないというのは本当に哀しく気持ちの持っていきようがありません。 その僧侶の方は残された私どもの行い次第で娘は成仏するのだと言われました。私達が娘のために功徳を積むのは当然と考えますが、 だからと言ってそれをしなければ娘が成仏できないとは考えられません。娘の人生は短かったかもしれないけれど、立派に生きたと思います。 残されたものが功徳を積まなければ成仏できないのであれば天涯孤独で自死してしまった人はどうすればいいのですか。 自死を選んでしまった人間は本当にすぐには極楽に行けないのでしょうか。 私の前回の質問への回答を読まれてしまった同じような自死遺族の方々もショックを受けられるのではないかと心を痛めております。 自死を容認できないからと言ってわざわざ自殺と言う言葉を使う僧侶の方は回答なさらないでください。
私25歳、妹23歳、両親64歳です。 社会人で一人暮らしを初めて両親の有難さに気づきました。 長年の不妊治療の後産まれた私は何の取り柄もなく、今までの迷惑と心配をかけてきた申し訳なさもいっぱいで、日々両親の健康と幸せを願うばかりです。 実家に帰るたびに、両親の白髪の多さや縮んだ背丈など、老いに気づく場面が多くなりました。ぱっと思い浮かぶ両親の姿は、背が高くて見た目も声も若い昔の姿です。ランニングが趣味だった父も「すぐ疲れる」と外出が少なくなりました。「私が死んだら食器あげるわ」「次元号変わるときはもう生きてないわ」と笑顔で話す両親の会話でも泣きそうになります。そうやって老いて死に近づいていく状態をみるのが辛いです。 昨年祖母が亡くなりました。身内の死は初めてです。 今でも祖母に会いたいと一人で泣くこともあり、祖母も祖母の家もなくなって悲しく寂しいです。 恥ずかしながら、祖母の死で改めて家族の大切さや感謝を感じました。 祖母が亡くなってこんなに悲しいなら両親が亡くなる時、受け止められる覚悟はできるのか?もし結婚して自分の家庭を持っても両親のいない長い人生を生きないといけないのか?と思ってしまいます。 「誰も死んでほしくない。健康のままずっと生きてほしい」と子供みたいに、大切な人が死ぬという現実から逃げたい気持ちでいっぱいです。 命に終わりがあるのはわかってますが、家族の死にどう向き合って立ち直ればいいかわかりませんし、受け止められる覚悟ができません。 両親が死んだらきっと悲しみで気が狂うだろうから自殺したい。でも大好きな妹のことを思うと自殺もできません。 また、介護施設で認知症の方の対応をしていたのを思い出し、両親が認知症になって私や妹ものことを忘れたら…という怖い気持ちもあります。 どうやって大切な人の死を受け入れて乗り越えたらいいのでしょうか。
昨年、実父が癌で亡くなりました。 父の死に際は、末期癌患者の臨終によくある(?)「身の置き所がない」状態で亡くなりました。葬儀の際に父の友人に「顔が変わってしまって」と絶句されました。 生きている間も苦労の人生だっただけに、安らかに逝くことが出来なかったのが悔やまれてなりません。 なぜ父は最期まで苦しまなければならなかったのでしょうか? また、父の肉体的な痛みを思えば、1日でも2日でも早く逝かせてあげられなかったのかと自分を責めてしまいます。 父の苦しみはどう解釈すれば良いのでしょうか? 病気の進行、術後の容態悪化で仕方ないと考えるしかないのでしょうか?
日ごろからの疑問と心配ごとです。 地域によって違いはあると思いますが 人の歴史が深まるにつれて『お墓』の存在は増える一方。 私の住む地域では、先祖代々のお墓に兄弟、親戚、、、隔たりなく入る。 と言うのもありますが。 それは例外として、いわゆる「本家」でない家族は新しくお墓を構えるという認識があります。 最近では、ロッカールームのようなお墓もあるようですが。。。 日本と言う広くはない土地に、これからもお墓は増えて行くのでしょうか? だからと言ってでは無いですが、私は骨になったら散骨を希望しようと思っています。 お墓は故人、祖先の存在を示し、崇拝する為に必要とは思いますが、 仏壇や、位牌があるだけではだめなのでしょうか?
現在、アルコール依存症と双極性障害を患っております。そのせいか最近は、ずっと希死念慮があります。 どうすればこの囚われから解放されるでしょうか。 ごかいとうして頂けましたらありがたく存じます。 何卒宜しくお願い申し上げます。
痛みを伴う難病とわかった後、希少ガン。リンパ転移宣告。高齢なので治療は出来ない。父には癌のことを知らさぬまま亡くなっていきました。亡くなって半年近くになりますが、初盆を終えて、日毎に闘病中にあった事が思い出され、あの時の選択はこれでよかったのかと思い出され精神的にしんどく、不眠と食欲不振。なかなか病院との話し合いがうまく出来ず、もやもやしていました。母弟夫婦、私夫婦で話し合いましたが、弟は母が決めるのが一番。母は痛い思いをしてほしくない。身内の者も、いまさら?など意見が分かれ、病気について、もっと向き合おうと思った矢先、急変し帰らぬ人となった辛かった経緯がありました。 過剰に病気を恐れてしまったのか、高齢の母をもっとサポートしてやれば良かったのか、母より父と性格があっていた私だけに、この気持ちがずっと四六時中頭から離れません。生前、父はいつも悔い無い日々を過ごしていましたので、病気になる寸前までは後悔が無い日々を送っていたと思います。私も一緒にゴルフをしたり旅行もしました。ただ、最期がこんな残念な事になり、この先、私だけ幸せに暮らしていいのかと思うと、胸が苦しくなります。家族も想いが違うので、話す事もできません。こんな私に何か教えをいただければと思います。
1年前、四年飼っていたねこを突然死で亡くしました。 仕事から帰ると息絶えていました。 朝までは元気だったのに。 未だに亡くなったことを受け入れられません。 一人で逝かせてしまったこと、 異変に気づけなかったこと、まだまだ若いのに助けてあげられなかったことなど、後悔しかないです。 どんな気持ちで受け止めたらいいか、アドバイスを頂けないでしょうか。
昨年2月、癌との闘いを頑張っていた母が逝ってしました。 母を愛していたので……哀しく、もっと何かを…何かを…の後悔ばかりを考える日々を過ごしていたところ その約半年後の8月、兄が自らの意思で逝ってしまいました。 母の死は余命宣告を受けていましたので、その時の覚悟は少しは出来ていましたが 兄の死は想像すらしておらず、まして自らの意志で…強い意志で逝ってしまうなんて本当に考えてもいなかったのです。 現在も哀しみと向き合う事が出来ず、後悔ばかりです。 兄の死を知る3~4日程前、首から背中にかけ、急な激痛におそわれ その痛みは兄の死を知ると共に治まりました。 今想えば、母が知らせていたのだと想えてならないのです。 何故、私はその身体の異変を変だと想わなかったのか… 何故、二人きりの兄妹なのに電話をかけ『何か変わったことはない?』 と、兄を気遣わなかったのか… 兄が心の病と闘っていたことも知っていたのに 何故私は兄へ連絡を取らなかったのか… 兄も私を愛していたし、私も兄を愛していたし なのに、何故…何故 私は兄の逝く道をとめられなかったのか… どんな想いでいたのか…何を見ていたのか…何を感じていたのか… どんな気持ちで一人逝ってしまったのか… 考えれば考えるほど胸が張り裂けそうで… 穏やかに笑みさえ浮かべて眠る兄の顔に 兄の意志なのだから 兄の意志を尊重しよう 穏やかに過ごせるところを探して逝ったのだから 兄の意志だから…と、 何度も何度も自分に言い聞かせてはいるのですが あの時、私が気づいてあげていられていれば 何かが変わったのかもしれなかったのに… でも、気づかなかった事が兄の為にはよかったのか… 想いが右往左往して混乱しています。 私が想いすぎると兄は母のもとへいけませんか? 母には逢えたのでしょうか… きちんと三途の川を渡らせてもらえたのでしょうか… この世で苦しみ哀しんだのだから あちらでは苦しみませんよね? 私は 兄の母の傍へいきたいです 何故私をおいて逝ってしまったのか… 私を連れて行ってほしいのです 文章が定まらず申し訳ございません。 お坊様…愛する母の死、愛する兄の死 その哀しみと向き合うことが出来ません… 受け入れる事が出来ません。 私に出来る事があったはずなのに… 何も出来なかった己が辛いです。
私はうつ病を患っています。 今まで私は物事に対して終わりがあるから頑張るのかなと思っていました。結果があるから、目標というゴールのようなものがあるからこそ、人は生きていくんだと思っていました。 しかし、死について考えるとどんどん苦しくなります。人には色んな考え方があって死後の世界がないという人もいれば、あるという人もいます。私はどちらでもないというか、どちらを思っても自由だと思っています。 ただ、わからないものに対してすごく恐怖心を抱いてしまいます。もしかするとこうなるかもしれないと考えると苦しいです。死んだ後ももしずっと続くなら、おわりがないのかと考えるとすごく怖いです。みなさんはどのようにお考えですか?答えがあるものだとは思っていませんが、考えをお聞きしたいです。
今日、祖父の姉の葬式がありました。 離れたところに住んでおり最後に会ってから10年近く経っていますが、小さい頃遊んでもらってお世話になった人なので、最後の機会だと思い向かいました。 棺に花を入れる時や火葬では涙が出そうになりましたが、悲しいよりも、もらい泣き、雰囲気につられているだけだと思いました。 ところが葬式が終わり、帰ってきてから夜。 もし自分の子供が死んでしまったら… もし夫が死んでしまったら… と考えると涙が止まりません。 事故、事件など最悪の可能性を想像してしまいます。 少しですが、自分も死んだらどうなる?と子供みたいな事を考えてしまいます。 1度考え出すと止まらず心がぐちゃぐちゃです。 葬式に行かなければよかったとすら思います。 こんなに心がボロボロになるなら、もっと近い人の死で自分がどうなってしまうか怖いのです。 その人がいなくなって悲しいのに加え、お見送りをした後も、こんなにも怯えなくてはならないのでしょうか。 こう考えてしまうのは普通ですか? 亡くなった人だけの事を考えないのは薄情ですか? 検索しても、近しい人の死後のメンタルを労る記述があっても、私とは違い相談できるのがここしかありませんでした。 今後あるであろう死の度、これではとても心が持たないと思い どう思えば前向きに見送ることができるのか、 大きすぎる不安を感じなくていいのか 教えていただきたいです。
初めまして。 私は現在独身で実家に暮らしている非正規雇用の者です。 私には定期的に悩んでしまうことがあります。 それが「自分が正社員ではない」ということについてです。 私は非正規雇用であることを良かったと思う時と、悪かったと思ってしまう時があります。 良かったと思うのは、非正規雇用で時間の融通が利くからこそ、親類のそばに長くいることができている。ということです。 その一方、悪かったと思うのが、ニュースなどで「貧困女子」「孤独死」「正社員でなければだめだ」などという単語が目につくたびに、ギクリとしてしまうことです。 そういう時に頭をもたげ、今の自分を否定し始めるのが「正社員になれれば、もう少し生きやすくなるのでは」という想像です。 そこで慌てて転職情報を見てみたりもするのですが、色々なことを考え始めると、正社員になればすべてがうまくいく保証などどこにも無いことに気付きます。 知り合いには正社員として働いた挙句鬱になり、解雇され、引きこもりになり……という暮らしをしている方もいるので、そういった可能性も脳裏をよぎります。 また、正社員として入ったのはよかったけれど、倒産してしまった。という話もありふれたものです。 それであれば、今の仕事を続ける方が良いのでは。と、思いもするのです。 そういったことを堂々巡りで考えていると、もう生きる上でなにが正しくてなにが間違いで、どうあるのが一番なのか。とわからなくなってしまいます。 今は家族がいることで安心感もあり、非正規雇用である利点として時間の融通をきかせた生活をし、親類といることに喜びを覚えていますが、いずれは独りになる身です。 恋人はいますが共に暮らせる確約はありません。 仮に暮らせたとしても、死ぬまで別れないとも限りません。 餓死、孤独死、病死、事故死、自分の命がどう終わるかすら、そもそもわからないことなんだということを考えると、今抱いている不安は考えても仕方のないものにも思えてきます。 こういった取り留めの無い悩みや不安に向き合い、受け入れ、肯定的に目の前の道をしっかりと歩むにはどういう見方を心がければ良いのでしょうか。
10代、20代の時は「今」を生きていたので死について深く考えてきませんでしたし、死ぬことは怖くありませんでした。 しかし、身近な人が亡くなるにつれて死後について考えてしまうようになりました。 大事な人はいずれ死にますし、いつか会いたいと思っていた人もいつの間にか死んでしまいます。 子供の頃の友達、近所のおばさん、世話になった先生、みんなに昔の姿で会うことはできませんし、次会ったとしても当時のように話はできないと思うと苦しくなるのです。過去には絶対に戻れないこと、死はせまってきていることを実感していく感覚。 この感じはみんなにもあるのでしょうか? また、お坊さんに対して愚問だとは思いますが死んだ後人はどうなると思いますか? 個人的な意見をお聞きしたいです。 ①輪廻転生 ②天国、地獄 ③同じ人生を繰り返す ④無 ⑤その他 私の今の考えとしては希望も含めて③だと思います。 長文をお読みいただきありがとうございました。 皆様のご意見をお聞かせください。
死ぬと苦しいでしょうか、楽になるでしょうか、その人の生き方次第でしょうか?
自分の死を見つめると生きる気力がなくなります。かといって、自死したいわけでもない。。 何か生きるアドバイスを頂けるとありがたいです。 情けない質問で申し訳ありません。
実家や親類一族、妻の一族においても、難病や精神疾患、突然死や離職が多く、恐れがあります。 少し覗いてみれば、どの家庭にもあることかも知れませんが、やはり気にせざるを得ません。 何を持って縁とするかは分かりませんが、実家の墓に他人の墓石があり、なぜか父親に問うた所、先祖が世話になったそうで、非業の死を遂げたものの無縁仏にするわけにいかず置いているそうです。戦中戦後の話のようです。 父親は詳しい話は知らず、また子の言うことを聞き入れはしないので、何とかせよと言うても、変わりはありません。 一族の話と縁も縁もないことかも知れませんが、ご助言を賜りますようお願いいたします。
怒りやその他の感情はどうでもいいと思えるようになりました。 今までの全てを許すこともでき、体は軽くなりました。 ですが、急に消えてしまいたくなるのです。 嫌なことは当然沢山あります。 それでも人生はそれで仕方ないのです。そのような考えもできるようになりました。 急に沸き上がる消えたいという思いは受け止めても満足してくれないのです。 人生に目標はなく、楽しいこともありません。 生きていても死んでいても変わらない人生ならどちらでもいいと私は思うのです。 ただ一つ痛みという恐怖には打ち勝つことができず、死という選択肢は除外されてしまいます。 恐怖だけに支配されて生きるのは辛い。 しかし、恐怖を乗り越えれば死が待っています。 もうつまらないのです。 痛みがいらない消失という選択をしたいだけなのに。 もう何もいらない。消えたいだけ。 とにかく消えたいのです。わけがわからなく消えてしまいたいのです。 誰かの話を聞くのも辛いのです。
突然失礼致します。 昨年の1月、乳がんの手術を受け未だ闘病中です。そんな中、同年の7月に肺ガンで母が他界しました。母の肺ガンは4年前に手術をし快方に向かっていたのですが、転移をしなくなりました。亡くなる前の約2ヶ月自宅にて介護をし看取りました。漠然であるのですがその時死と言うものを意識していました。ですが昨年の12月にわたしの骨転移が見つかり、本当の意味で死が身近に感じる毎日です。主治医は今すぐ死に直結するものではないとおっしゃって頂けましたが…やはり余命を意識せざるおえません。 やはり私はバチが当たったのでしょう…もっと母との時間を大切にしていればと後悔するばかりです。 今とても辛いです。どうなるものでもない事も重々承知しております。 ただ…少しで良いので救いの言葉を頂ければと…何卒よろしくお願い致します。