今日、祖父の姉の葬式がありました。 離れたところに住んでおり最後に会ってから10年近く経っていますが、小さい頃遊んでもらってお世話になった人なので、最後の機会だと思い向かいました。 棺に花を入れる時や火葬では涙が出そうになりましたが、悲しいよりも、もらい泣き、雰囲気につられているだけだと思いました。 ところが葬式が終わり、帰ってきてから夜。 もし自分の子供が死んでしまったら… もし夫が死んでしまったら… と考えると涙が止まりません。 事故、事件など最悪の可能性を想像してしまいます。 少しですが、自分も死んだらどうなる?と子供みたいな事を考えてしまいます。 1度考え出すと止まらず心がぐちゃぐちゃです。 葬式に行かなければよかったとすら思います。 こんなに心がボロボロになるなら、もっと近い人の死で自分がどうなってしまうか怖いのです。 その人がいなくなって悲しいのに加え、お見送りをした後も、こんなにも怯えなくてはならないのでしょうか。 こう考えてしまうのは普通ですか? 亡くなった人だけの事を考えないのは薄情ですか? 検索しても、近しい人の死後のメンタルを労る記述があっても、私とは違い相談できるのがここしかありませんでした。 今後あるであろう死の度、これではとても心が持たないと思い どう思えば前向きに見送ることができるのか、 大きすぎる不安を感じなくていいのか 教えていただきたいです。
私はうつ病を患っています。 今まで私は物事に対して終わりがあるから頑張るのかなと思っていました。結果があるから、目標というゴールのようなものがあるからこそ、人は生きていくんだと思っていました。 しかし、死について考えるとどんどん苦しくなります。人には色んな考え方があって死後の世界がないという人もいれば、あるという人もいます。私はどちらでもないというか、どちらを思っても自由だと思っています。 ただ、わからないものに対してすごく恐怖心を抱いてしまいます。もしかするとこうなるかもしれないと考えると苦しいです。死んだ後ももしずっと続くなら、おわりがないのかと考えるとすごく怖いです。みなさんはどのようにお考えですか?答えがあるものだとは思っていませんが、考えをお聞きしたいです。
初めまして。 私は現在独身で実家に暮らしている非正規雇用の者です。 私には定期的に悩んでしまうことがあります。 それが「自分が正社員ではない」ということについてです。 私は非正規雇用であることを良かったと思う時と、悪かったと思ってしまう時があります。 良かったと思うのは、非正規雇用で時間の融通が利くからこそ、親類のそばに長くいることができている。ということです。 その一方、悪かったと思うのが、ニュースなどで「貧困女子」「孤独死」「正社員でなければだめだ」などという単語が目につくたびに、ギクリとしてしまうことです。 そういう時に頭をもたげ、今の自分を否定し始めるのが「正社員になれれば、もう少し生きやすくなるのでは」という想像です。 そこで慌てて転職情報を見てみたりもするのですが、色々なことを考え始めると、正社員になればすべてがうまくいく保証などどこにも無いことに気付きます。 知り合いには正社員として働いた挙句鬱になり、解雇され、引きこもりになり……という暮らしをしている方もいるので、そういった可能性も脳裏をよぎります。 また、正社員として入ったのはよかったけれど、倒産してしまった。という話もありふれたものです。 それであれば、今の仕事を続ける方が良いのでは。と、思いもするのです。 そういったことを堂々巡りで考えていると、もう生きる上でなにが正しくてなにが間違いで、どうあるのが一番なのか。とわからなくなってしまいます。 今は家族がいることで安心感もあり、非正規雇用である利点として時間の融通をきかせた生活をし、親類といることに喜びを覚えていますが、いずれは独りになる身です。 恋人はいますが共に暮らせる確約はありません。 仮に暮らせたとしても、死ぬまで別れないとも限りません。 餓死、孤独死、病死、事故死、自分の命がどう終わるかすら、そもそもわからないことなんだということを考えると、今抱いている不安は考えても仕方のないものにも思えてきます。 こういった取り留めの無い悩みや不安に向き合い、受け入れ、肯定的に目の前の道をしっかりと歩むにはどういう見方を心がければ良いのでしょうか。
10代、20代の時は「今」を生きていたので死について深く考えてきませんでしたし、死ぬことは怖くありませんでした。 しかし、身近な人が亡くなるにつれて死後について考えてしまうようになりました。 大事な人はいずれ死にますし、いつか会いたいと思っていた人もいつの間にか死んでしまいます。 子供の頃の友達、近所のおばさん、世話になった先生、みんなに昔の姿で会うことはできませんし、次会ったとしても当時のように話はできないと思うと苦しくなるのです。過去には絶対に戻れないこと、死はせまってきていることを実感していく感覚。 この感じはみんなにもあるのでしょうか? また、お坊さんに対して愚問だとは思いますが死んだ後人はどうなると思いますか? 個人的な意見をお聞きしたいです。 ①輪廻転生 ②天国、地獄 ③同じ人生を繰り返す ④無 ⑤その他 私の今の考えとしては希望も含めて③だと思います。 長文をお読みいただきありがとうございました。 皆様のご意見をお聞かせください。
自分の死を見つめると生きる気力がなくなります。かといって、自死したいわけでもない。。 何か生きるアドバイスを頂けるとありがたいです。 情けない質問で申し訳ありません。
昨年、実父が癌で亡くなりました。 父の死に際は、末期癌患者の臨終によくある(?)「身の置き所がない」状態で亡くなりました。葬儀の際に父の友人に「顔が変わってしまって」と絶句されました。 生きている間も苦労の人生だっただけに、安らかに逝くことが出来なかったのが悔やまれてなりません。 なぜ父は最期まで苦しまなければならなかったのでしょうか? また、父の肉体的な痛みを思えば、1日でも2日でも早く逝かせてあげられなかったのかと自分を責めてしまいます。 父の苦しみはどう解釈すれば良いのでしょうか? 病気の進行、術後の容態悪化で仕方ないと考えるしかないのでしょうか?
日ごろからの疑問と心配ごとです。 地域によって違いはあると思いますが 人の歴史が深まるにつれて『お墓』の存在は増える一方。 私の住む地域では、先祖代々のお墓に兄弟、親戚、、、隔たりなく入る。 と言うのもありますが。 それは例外として、いわゆる「本家」でない家族は新しくお墓を構えるという認識があります。 最近では、ロッカールームのようなお墓もあるようですが。。。 日本と言う広くはない土地に、これからもお墓は増えて行くのでしょうか? だからと言ってでは無いですが、私は骨になったら散骨を希望しようと思っています。 お墓は故人、祖先の存在を示し、崇拝する為に必要とは思いますが、 仏壇や、位牌があるだけではだめなのでしょうか?
実家や親類一族、妻の一族においても、難病や精神疾患、突然死や離職が多く、恐れがあります。 少し覗いてみれば、どの家庭にもあることかも知れませんが、やはり気にせざるを得ません。 何を持って縁とするかは分かりませんが、実家の墓に他人の墓石があり、なぜか父親に問うた所、先祖が世話になったそうで、非業の死を遂げたものの無縁仏にするわけにいかず置いているそうです。戦中戦後の話のようです。 父親は詳しい話は知らず、また子の言うことを聞き入れはしないので、何とかせよと言うても、変わりはありません。 一族の話と縁も縁もないことかも知れませんが、ご助言を賜りますようお願いいたします。
怒りやその他の感情はどうでもいいと思えるようになりました。 今までの全てを許すこともでき、体は軽くなりました。 ですが、急に消えてしまいたくなるのです。 嫌なことは当然沢山あります。 それでも人生はそれで仕方ないのです。そのような考えもできるようになりました。 急に沸き上がる消えたいという思いは受け止めても満足してくれないのです。 人生に目標はなく、楽しいこともありません。 生きていても死んでいても変わらない人生ならどちらでもいいと私は思うのです。 ただ一つ痛みという恐怖には打ち勝つことができず、死という選択肢は除外されてしまいます。 恐怖だけに支配されて生きるのは辛い。 しかし、恐怖を乗り越えれば死が待っています。 もうつまらないのです。 痛みがいらない消失という選択をしたいだけなのに。 もう何もいらない。消えたいだけ。 とにかく消えたいのです。わけがわからなく消えてしまいたいのです。 誰かの話を聞くのも辛いのです。
突然失礼致します。 昨年の1月、乳がんの手術を受け未だ闘病中です。そんな中、同年の7月に肺ガンで母が他界しました。母の肺ガンは4年前に手術をし快方に向かっていたのですが、転移をしなくなりました。亡くなる前の約2ヶ月自宅にて介護をし看取りました。漠然であるのですがその時死と言うものを意識していました。ですが昨年の12月にわたしの骨転移が見つかり、本当の意味で死が身近に感じる毎日です。主治医は今すぐ死に直結するものではないとおっしゃって頂けましたが…やはり余命を意識せざるおえません。 やはり私はバチが当たったのでしょう…もっと母との時間を大切にしていればと後悔するばかりです。 今とても辛いです。どうなるものでもない事も重々承知しております。 ただ…少しで良いので救いの言葉を頂ければと…何卒よろしくお願い致します。
痛みを伴う難病とわかった後、希少ガン。リンパ転移宣告。高齢なので治療は出来ない。父には癌のことを知らさぬまま亡くなっていきました。亡くなって半年近くになりますが、初盆を終えて、日毎に闘病中にあった事が思い出され、あの時の選択はこれでよかったのかと思い出され精神的にしんどく、不眠と食欲不振。なかなか病院との話し合いがうまく出来ず、もやもやしていました。母弟夫婦、私夫婦で話し合いましたが、弟は母が決めるのが一番。母は痛い思いをしてほしくない。身内の者も、いまさら?など意見が分かれ、病気について、もっと向き合おうと思った矢先、急変し帰らぬ人となった辛かった経緯がありました。 過剰に病気を恐れてしまったのか、高齢の母をもっとサポートしてやれば良かったのか、母より父と性格があっていた私だけに、この気持ちがずっと四六時中頭から離れません。生前、父はいつも悔い無い日々を過ごしていましたので、病気になる寸前までは後悔が無い日々を送っていたと思います。私も一緒にゴルフをしたり旅行もしました。ただ、最期がこんな残念な事になり、この先、私だけ幸せに暮らしていいのかと思うと、胸が苦しくなります。家族も想いが違うので、話す事もできません。こんな私に何か教えをいただければと思います。
個人の行いは社会の行いに通じる、逆も然り自殺の原因は苦しみがほぼだろう、詳しい原因はそれぞれだが、周りが与える影響が、その人の行いを左右するのは事実であろう。 故に他の人の自死は大小あれ社会全体に影響を与える(水滴と水槽の理論)ので我々は自殺者をなるべく減らす様に行動しなければならない。自死が増える→社会が病む→苦しみが増える→自死が増えるのループこのループの最初は社会が病むかもしれない。 とはいえ、実際に追い詰められている人は周りの事など考える余裕などないであろう。よってその様な場合は理論構築よりも寄り添いや共感で心の余裕をつくる必要がある。 以下、理論構築精神的に余裕のある時に参照 ケース1 自分なんか 何らかのの理由で自己肯定感が低下した場合、これは方っておくとなぜ自分だけ→恨みに変化する。 原因となる自己肯定感の低下を解決できればいいがそれが不可能なケースも存在するはず。自分の価値観を変える、若しくは多角的な視点を持つ必要がある。恐らく実物的な苦しみは消えないが生きがいは生まれる事になるので恨みには発展しにくく自死まで考え辛くなる可能性がある ケース2 環境による攻撃等 この場合は自身が疲弊していくため特に正常な判断がし辛くなるのでは。一番はその環境から離れる事だかそういう訳にもいかないパターンも存在するであろう。この場合は自分自身と周りから距離を取り休息が必要になるだろう。何もかも疲れたは限界のサインなのですぐ自分を危険から守れる安全な場所を探すべきなのだろう。動けるうちにどれだけ安全な場所を探し回復できるかが鍵になりそうだ。 ケース3 理想への解離 このケースは自分が思い描いていた理想とのギャップに苦しみケース1と同じように自己肯定感の低下に繋がる。いろいろな状態が考えられるが手っ取り早い解決法は今に満足する事であると考える。今この瞬間をマイナスではなくスタートと考えてこれから進めばいいし進めず後退しても意外とどうにでもなる(社会保障等を使うなど)と気楽に考えるのもありかもしれない。仮に未来への絶望があったとしても今スタートラインに立てているので(少なくとも死んでいない)この状態から自分にとってプラスになる可能性の行動をすればすぐに今より好転。 ケース4 恋愛関係の悩み よくわからん がアイツの意見なんですがどうなんでしょう 長くてすみません
初めまして。 私の父は61歳です。 現在一人暮らしの父は、どうやら自分で死ぬ時期を決めているようなのです(数年以内のようです。)。 理由は二つ。 一つめは、介護状態になったとき、子どもに迷惑をかけたくないから。 二つめは、生きる期限を決めた方が、金銭面で苦労することなく、楽しく生きることができるから。 というものです。 「そういうわけだから、俺の心配をするな。ある日突然いなくなるから。迷惑はかけない。」と言います。 父の言い分は理解できないものでもありません。長生きすることが幸せだとは限らないと、私もよく考えるからです。私だって死にたくなるときはあります。 ただ、それを子どもである私に伝える意味が分からないのです。 父の決意が本気だとしたら、私は父の言葉をどう受け入れればよいのでしょうか。 自分で死ぬ時期を決めるということに対して、反対すべきなのか、そのつもりで心構えをすべきなのか。 自分の親に「自死宣言」をされ、心穏やかにはいられませんし、正直憤りさえ感じます。 今まで散々心の虐待を受けた挙げ句、自死宣言。いつまで私の心を傷つけるんだろう?とも思ってしまいます。 まとまりのない文になってしまいましたが、回答をいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。
死ぬと苦しいでしょうか、楽になるでしょうか、その人の生き方次第でしょうか?
ホスピス入院を申込みいたしました。 肺癌です。多くの病気を抱え放射線で一つの肺癌は消滅しました。 以後、リンパ節に転移が見つかりました。最初の照射で呼吸が苦しくなり、今後の放射線で肺炎を引き起こす確率が高く、治療によって逆に「死」んでしまうと・・・・。 治療を断念 ホスピスで余生を過ごすことになりました。 現在、相当な鬱に入ってしまいました。 家族は無く独居老人です。身の回りの整理と共に、行政書士に 成年後見人と遺言状作成手続きを依頼いたしました。 現在マンションで暮らしています。ホスピス順番待ちが恐怖です。 ホスピスに入って、周りに人が居る環境になれば 落ち着くものと思っています。 いざ 自分の死となると落ち着きがなくなり、考える事も入院準備も 自分一人では出来ません。
大学1年、男です。 自分は孤独だと感じています。 決して友達が居ないわけではなく集団の中では明るく振る舞う方です。 でも、八方美人の性格があり、いざ「誰と仲良い?」と訊かれると答えられなくなります。 また、その友達にはそれぞれ別の友達が居る訳で、自分が居なくなっても変わらない、今すぐにでも死にたい、そう思っています。 とにかく生きていたくないです。周りの幸せに自分は関与していないと心から思います。 こういった孤独感や不幸感に対処するにはどうしたら良いでしょうか?
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。
同僚が自ら命を絶ちました。苦しみを抱えながらも精一杯明るく過ごしていたため、私達は呆然としています。 自ら死を選んだ人は、その後も苦しみ続ける、ということをhasunohaで拝見しました。 でも、現世で苦しみ、あの世でも苦しむのなら、同僚は永遠に救われないことになります。 私達にできることは、ありませんか。同僚があの世で笑って安らかに過ごして欲しいです。
はじめまして。あのちと申します。 昔から死に対する恐怖が強くありましたが、最近は「最終的には死んでしまうのに、なぜ生きているんだろう?」や、 「今やってることも、持っているものも、勉強や趣味も死ぬのだから意味がないのでは?」 と考えるようになってしまいました。 この先どうやって生きていけばいいのでしょうか? よろしくお願いいたします。
先日、祖父が亡くなりました。 去年の夏頃に祖母が亡くなり、死後の世界について漠然と考えていたのですが、今回の祖父の死でより具体的に考えるようになりました。 死期は自分で分かるものなのか、死んだら魂はどうなるのかなど、色々知りたいと思っています。 ぜひ教えてください!