最近「希死念慮」という言葉を知って、まさに自分が思っていたことだと思いました。 自ら命を絶ちたいとまでは思いませんが、何のために生きているかわからないと思って毎日過ごしています。 趣味はありますが、生きているからやるのであって、趣味があるから長生きしたいとは思いません。 なぜ希死念慮があるのか、自分なりに考えた結果、肉体的に少しずつ衰えはじめていること、配偶者や子どもがいないので張り合いがないこと、「早く逝きたい」が口癖の祖母の存在の3点によるものと考えました。 一度希死念慮があることを知り合いに言って自殺願望と勘違いされたので、それ以降は誰にも話せず、もちろん家族にも話せず一人で悶々としています。終わりが見えずに苦しくなって、最近は残りの寿命を15年と仮定して人生について考えるようにしています。 昨日、母代わりだった祖母が老衰で亡くなりました。91歳まで生きました。そこで改めて希死念慮について考えているうちにこちらのサイトを見つけました。 私のような考え方はおかしいでしょうか。またどうしたら長生きしたいと思えるようになるのでしょうか?
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
死についてお聞きします。 今年も、いろんな方がお亡くなりになりました。 高齢の方が天寿をまっとうするのは、幸せなことだと思います。 一方で、若者や、事件、事故に巻き込まれて亡くなってしまう人がいます。 死はどうして不平等なのでしょうか? 自分は、いつ死ぬのでしょうか? 教えてください。
なぜ動物の安楽死は許されるのに人間の安楽死は許されないのですか? 私は死にたいので安楽死できる動物が羨ましいです…
母の自殺から数ヶ月が経ちました。 四十九日を終え緊張の糸が切れたのか、うつ病が悪化してしまいました。 自責・不安・焦り・虚しさに毎日襲われます。気晴らしに…と好きなことをしても、楽しくありません。 また、母の自殺をフラッシュバックしてしまうため、"母が自殺した日"を何度も何度も追体験してしまいます。つらいです。 服薬治療も含め、できることは全てやっています。 でも、3年経った今も改善しません。それどころか悪化したので、「元気になりたい」という気持ちが湧いてこなくなりました。 以前は「元気になる」という目標がありましたが、今はそんなことを思えるほどの気力がありません。ただただ、生きるのに疲れました。自殺未遂をするほどには。 ただ、窓の外をぼんやり眺めながら遺書の内容や死ぬことを考えていると、心が落ち着くのです。 虚しさや不安を忘れ、「死んだら母のところに行けるかもしれない」と希望も湧いてきます。 以前こちらで相談したとき、【先に往かれた親しい方々やご先祖様がお母様をあたたかく優しくお迎えなさって下さいます。】と回答をいただいきました。 ふとそれを思い出し、「わたしが死んだら母が迎えてくれる、死んだら母に会えるんだ」と嬉しくなりました。 嬉しいなんて気持ち、久々に湧きました。だから、ホッとしたのかもしれません。 「死」を考えることで心が穏やかになるなんて、おかしいでしょうか。 また、心身共に疲れ果て気力がなくても、自分に鞭打って生きなければいけないのでしょうか。 わかりません。教えてください。
ハスノハのお坊様のご協力もあり、死への恐怖は少しずつ和らいできました。 ですが死について考え始める前より、一日が短く感じられてしまったり、平均寿命を基準にあと何年で死んでしまうのかふと考えてしまったり、僕は長男なので兄弟の中で一番早く死んでしまうんだと思い度々心が辛くなります。それから死について意識しないようにするにはどうしたらいいか教えて下さい。
母は、どうして自ら命を絶ったのでしょうか 例えば人間関係とかお金の問題とか、そういう具体的な理由ではなくて… どんな困難にもへこたれない人もいる中、母はどうして死を選んだのでしょう 強くて優しい母だったのに 私は希死念慮があるので… 死にたい気持ちはわかるのです 自死は、理由ではなく衝動的なものだとも思います だけど 母にあてはめるのはとても難しいというか… 「まさか」としか言いようがなくて… 母は私に希死念慮があるのを知っていたから、 少なからず私が引っ張ってしまったのかもしれない ただ、本当に言えるのは 母はそんなに弱い人じゃなかったから 悩みの理由 ではなくて 死を選んだ理由 が知りたい 100%わからなくてもいい(わかるわけもないのですが…) そこへ向かってしまう気持ちに、皆様の意見によって近づけたら少し救われるような気がします 本当にうまく言えないのですが… 私の抱く「希死念慮」とは違う気がして 理解できなくて 苦しいのです…
父親やハスノハのお坊様のご協力もあり死への不安が消えつつありますが、いまだにふと死についてかんがえてしまいます。 このふとした瞬間に死について考えないようにするにはどうしたらいいですか。 回答よろしくお願いします。
私の恋人には希死念慮があります。 私は前向きな人間ではないですが、死をとても恐れているので死にたいと思うことはありません。死にたくないから生きてる、といったような人間です。辛い事があっても、もう嫌だ、と思っても死ぬのは怖い。希死念慮を持つ人の気持ちが理解出来ないんです。 だからといって恋人の考えを否定したくありませんが、もちろん恋人に自死を選んで欲しいとも思いません。なので結果的に否定することになってしまいます。そんな私の言動が恋人をさらに追い込んでいないか心配になります。 前に芸能人の方が自死を選んだニュースが流れたときに、恋人は羨ましいと言っていました。でも、私の存在があるから、私を置いて行けないから、とも言ってくれました。でも、少し前には私を置いて行くことばかり考えているとも言っていました。 そんな中、今日入った悲しいニュース。ニュースになった方の事も、考えると凄く苦しいですが、そのニュースを起きてから知ることになる恋人のことが心配で怖いです。また、前のように気持ちが引っ張られてしまいそうになるんではないか、と。 恋人に対してどう接すれば良いんでしょうか。希死念慮のある人への接し方に正解はありますか?
キリスト教では、人は禁断の果実を食べた罰でエデンの園から追い出され荒野をさまよって労働して生きるようになった。そして死んだら、神の国で永遠の安寧を得ることになるという。仏教ではなぜかこの世は穢土、娑婆世界、苦しみに耐えないと生きていけない場所だという。浄土宗では亡くなる時は冥途ではなく、極楽浄土からお迎えがくるという。ならば、希死願望は否定できないと思いますが、希死願望は否定できますか?人の死は神仏の判断によると思っています。自殺は神仏に逆らうことで、地獄に落ちると思うので私はしませんが。
お世話になっています 皆様の質問と回答を参考にさせてもらっています 自分について考えてみたのですが私は子供の頃から死恐怖症なのかもしれません 子供の頃から死を連想させる物が苦手で避けてきました お葬式や法事だけでなく歴史の授業や空や海も死を感じさせるせいか嫌いでした 知り合いに赤ちゃんが産まれたと言われた時ですら嫌な気持ちになりました 子供の頃から色々な物が怖かったです 時間が経つ事そのものが怖いです 若い頃は嫌な気持ちになっても音楽や映画など好きな事して何とか若さで誤魔化せていたのですが、最近は今まで好きだった趣味などにも興味が無くなってきて誤魔化せなくなってきました 何を見聞きしても頭の中が嫌な気持ちや恐怖心でいっぱいになってしまい生活しているだけで疲れます 孤独感も感じます こんな自分を変えて死恐怖症を克服したいです 穏やかに歳を取って死にたいです どうすれば良いと思いますか よろしくお願いいたします
私には、夫、長女15歳、二女10歳の家族がいます。 2ヶ月前の中学卒業式の前日に長女が朝方トイレで倒れており運ばれてから半日で亡くなってしまいました。 肝臓に悪性腫瘍があり、破裂したことが原因でした。症状が出にくいのでわからなかったでしょう、とのことですが、気が狂いそうな葬儀を終え、日にちがたつと自分を責め、してやりたいこともたくさんありすぎて後悔をし、寂しくて会いたくて、最後のすがた、笑顔の娘、抱きついて来る娘、母さんて聞きたくて、思い出しては辛くて仕方ありません。 二女は泣くのは見たくないようですし、私がつい買いものしても、これ姉ちゃんなら欲しがるねと言ったりすると姉ちゃん姉ちゃん言わないでといいます。 二女もあの悪夢のような日は号泣しておりました。 私は15年間夢を見ていたんじゃないかとぽっかり穴があいたままです。 パートも再開しており外ではまだ大丈夫なのですが 思い出しては苦しくなります。 夫の誕生日に産まれ、私の誕生日に亡くなったのも何か意味があるのでしょうか?二女の為にも長女の為にも気持ちをどう思って生きていくのがいいのかアドバイスをいただけたらありがたいです。 宜しくお願い致します。
若い頃から精神疾患に罹患しており、死が怖く精神不安定で、頓服が欠かせません。 死恐怖症(タナトフォビア)なのでしょうか? いずれ訪れる自分の死、妻の死、身内の死に怯えています。 また、妻に先立たれて、一人ぼっちになってしまったら、生きていけないだろうと絶望してしまいます。 目の前にある死体に対しても恐怖を感じてしまうでしょう。 精神が弱いので、きっと、妻の死を前にすると、失神するほどのショックを受けると思います。入院が必要になるかもしれません。 死に対する恐怖を克服するにはどうしたら良いのでしょうか? ご教示ください。
私はつい最近、自分の会社の社長が亡くなりました。 その事で、今酷く落ち込んでいます。社長が倒れたのが私の目の前の事でした。私一人しかいなかったので動揺しましたし、倒れる1分前まで普通に会話をしていたのであまりにもショックが大きすぎて中々気持ちの整理が出来ず困っています。 倒れた時の顔や最初は息をしていたのにそれが止まった時の事や救急隊が心臓マッサージをしている所がフラッシュバックのように思い出され、とても苦しいです。私がもっと異変に気付いていたらとか、出来た事があったんじゃないか?とか考えてしまいます。 その反面、その場にいなかった従業員を恨めしく思ったり(目の前で私の様に見てないから)。どうしたらこの心の苦しみを楽に出来るでしょうか?
以前こちらで相談したのですが、最近になってまた死が怖くなってきました。 もちろん、自分の死もですが親の死や友達の死も怖いです。 考えても無駄と言うのはわかりますが、不安で仕方がないのです。 ネットで調べて見ても、臨死体験と言って、死後は無と言ってる人と天国があると言ってる人もいてどっちかわかりませんし、死後の世界は考えにくいらしいし、どうすればいいかわかりません。 親が死ぬのが怖い、友達も、いつかできる彼女なども死ぬのが怖い、もちろん自分も。 どうすれば良いでしょうか?死後の世界は架空の世界でしょうか?それを考えると色々なことを楽しめず、朝食を吐いてしまったり、どうすればいいですか?お坊さんは怖くないのですか教えてください。お願いします。 後、死後の世界があったらおじいちゃんとおばあちゃんだらけじゃないですか?しかも、僕は死んだら親を求めるけど僕の親はおばあちゃんを求めて、おばあちゃんはひいばあちゃんを求めてってなりませんか?考えすぎでしょうか?
おはようございます。変な時間にすみません。眠れなくて、ここで相談させていただきたいと思いました。 お坊様方は、死の恐怖をどのように克服なさいますか?というのは現実的でない質問かもしれませんが、お坊様方の死の恐怖に対する考えを教えていただけると幸いです。 実は数日前に妹のお腹に腫瘍が見つかって、まだ良性か悪性かわからないけれど本人は悪性だとか末期だとか思いこんでパニックになっているんです。 例えばですが「こう考えれば死が怖くなくなるってお坊さんが言っていたよ」とか彼女に言っても全く効き目がないと思います。今は何を言っても聞かない状態で、背中をさすったり手を握ったりするくらいしかできることがありません。 それに、私も仏教の本を読んだり色々考えたりしてみたけれど、やっぱり自分が死ぬことを考えたら怖いものは怖いと認めるしかないし、結局死の恐怖を克服するなんてそれこそ仏になるまで無理なのではないかなと思います。 話がまとまらなくてすみません。完璧な解決法でなくてもいいんです。とにかく何か教えてください。お願いします。
こんばんは。お世話になります。 私には2人子どもがいます。今日は上の子(4歳)の子について、ちょっと助言を頂きたく… 一昨日の話なんですが、よく覚えて無いんですが上の子と寝る前に「死ぬこと」について話す流れになり… 私は「みんな最後はおじいちゃんやおばあちゃんになって、お空のお星様になるんだよ。」 「ママも◯◯くんが大人になって、おばあちゃんになったらいつかはお星様になるんだよ。でもママは◯◯くんが大きくなって、もう1人でも大丈夫って思えるまでは頑張って一緒にいるからね」みたいなことを話したような気がします。 すると昨日、寝る前になり急にワンワン泣き出し「ママがお月様になっちゃうの嫌だ~!みんなみんな居なくなるの嫌だ~(>_<)ぼく寂しい!!」と。 よくよく話を聞いたら一昨日の話を覚えていて、私や旦那、下の子や祖母と離れたくないと訴えてきました。 「大丈夫、ママはそんなに簡単にお星様にはならないから。それに今から◯◯くんがだんだん大きくなっていくとママ以外にももっとお友達やお嫁さん、大切な人がたくさん増えていくよ。だから寂しくなんかないよ。◯◯くんがもうママがいなくても平気だな、大丈夫だなって思えるまではずっとそばにいるからね」と話しました。 私的には何気なく話した話題だったのですが、涙をボロボロ流しながら長いこと泣いていたのでショックすぎたのかなと不安になり… ちょうど私が喘息にかかり、ここ2~3日ずっと咳をしてキツそうにしていたのもあるのかな…初めて「大丈夫?」と心配そうに背中をさすってくれました。 結構繊細な性格なので、またこのことを思い出したりするかもしれません。 もう少し大きくなって「死ぬ」ことが理解出来るまで流しておいても大丈夫なものかどうなのか… アドバイスをお願いします。
数年前、従兄弟が39歳で病死しました。私の歳になると友人の中にはご両親を亡くした友人もいます。今日も通夜に行ってきました。身内の死が耐えられないです。何もしたくなくなります。死とはいずれ来るものかもしれませんが耐えられなく おかしくなりそうです。前向きになれるのでしょうか。
父が亡くなってから一年経ちました。 退職を数週間後に控えた父は会社で倒れ、そのまま亡くなりました。何の兆候もなく当日朝も普段通りに出勤したと母に聞きました。急性心筋梗塞だったことが後で分かりました。 今までずっと働いて育ててくれてありがとう、と伝えるつもりでした。 伝えたかった。妹と退職祝いの企画を楽しみにしていました。 退職後の人生を楽しみにしていた父を思うと胸が詰まり、むなしくなります。 ただただ無念で、今、父がいたら・・・と考えると涙が溢れそうになります。同時に今までぼんやりとしていた「死」が急に身近なものになり怖くなりました。 なかなか、父の死を受け入れることができずに一年が過ぎてしまいました。 苦しくて悲しくてこちらを訪れました。
以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。