設備管理の仕事をしてると、つい考えてしまう事です。 ポンプ、モーター、配管、電磁弁、ボイラー・・・等 毎日接してると何となく愛着みたいなものも湧いてくるし、 「所詮は機械だから」とも思えてくるし。 20代のころ、工場の中にびっしり張り巡らされてる 配管を見て、「まるで生き物みたいだ」と感心した事もあります。 虫や植物など、生物全般には仏性や魂はある、と考えるのが仏教の 基本的な姿勢だと思うのですが、(間違ってたらごめんなさい) では完全な人工物たる機械にも仏性、あるいは魂みたいなものが あるの・・・? お坊様方はどのようにお考えでしょうか?
こんばんは。女子高校生です。 気持ちの変化が激しく、とことん凹む日・怒りっぽい日・機嫌のいい日などがはっきり自覚できます。一日の中でさえも、ささいな一言で涙が止まらなくなったり、憂鬱になったり、かっと怒りが湧くのを感じたりします。もともとプライドが高く、自分のウィークポイントやコンプレックスを突かれるとそのようになるようです。 その性質を自覚し恥じており、「他人におおらかに・冷静に」を目指してきました。幼いころに比べたら今はずっとましですし、家の外では、優しい性格だと思われているかもしれません。友人にも恵まれました。 しかし、コンプレックスが話に出るとやはりだめなのです。 たとえば母が何気なく(しっかりしたいい人です)幼いころの私のわがままな言動について思い出話をします。 すると、笑って一緒に懐かしもうとしても、笑顔が引きつってしまうのです。その場では「その節はゴメンねー、ほんとありがと!」と言えても、あとでどこか心わだかまりを感じ、兄(気弱ですが優しい人です)と自分の性格を比較して落ち込んだりします。 また、ある日母を怒らせたとき「私の嫌いな人に似ないで」と言われました。父や父の家族のことです。 母は子供に平等な人なのでそのことを言ったのはそれきりです。母も疲れていた日だったし、そもそも私がだらしないから悪いんです。その言葉自体は本当にとるにたらず、むしろ尤もなことであり、それ以来いつもは忘れています。 しかし落ち込んだ時や失敗したと思った時、急に蘇り涙が出ます。いつにもまして「母は娘を愛してくれるけど、私という人間は嫌いだろう」と思い、鏡を見れば自分の顔が父にそっくりで消えたくなります。 これを書いている今も、意味もなく泣いています。泣き虫な甘えた自分も含め、気持ちをコントロールできるようになりたいです。 どうすればいいでしょうか?アドバイスお願いします。
なぜ、罪のない人間がひどい虐待を受けたり、見ず知らずの通り魔に刺されたり、災害に巻き込まれて亡くなったりしなくてはならないのでしょうか? 自らの努力ではどうにもならない苦境時にこそ、救うべき立場にあると思うのですが。 ですから、神や仏を信ずることができません。
お坊さんたちはお釈迦様の教えが 全て正しいものだと思いますか? あまり詳しいわけではないのですが 仏教はかなり女性蔑視的な 宗教のように思えます。 世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。 この一節を知った時 私は女性ですし、 お釈迦様がこんなことを言うのかと かなりショックでした。 変成男子なんて言葉もありますよね。 仏教の専門家とも言える お坊さんたちはどう考えているのか 気になります。
私が仏教の入門書で最初に目にしたのは「仏教の目的は輪廻転生からの解脱である」ということでした。 外国の仏教では輪廻転生が信じられていますが、日本の仏教ではその話は殆どおこなわれていません。 その理由を知りたいです。死に対する最も重要な事項だからです。
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。
今はただ、ただ、死にたいです。 先のことは何も考えられません。 明けない夜はない、止まない雨はないと言いますが、私の心はいつも土砂降りで、暗闇の中にいます。 家族は、「おまえの居場所は、家だ」と言ってくれますが、私の居場所はありません。 妹たちの姿を見ただけで、吐き気がするのです。 他の人と関わりたくない、自分の存在をこの世から一日も早く抹消したいのです。 どうしたらよいでしょうか。 教えてください。よろしくお願いします。
私たちはなぜ存在しているのでしょうか。もっと言うと、この世界はなぜ存在しているのでしょうか。「無」ではいけない理由が分かれば教えてください。 中には、私たちのいるこの世界は魂の修行と言う方もいます。 そもそも、何のために魂は作られて、未完成だからと修行を強いられているのでしょうか。修行の先の目的が分かりません。 よりよい力を身につけて世の中の辛い悲しみを抱えた魂を救うために修行しているのでしょうか。 それならなおさら魂がある意味が分かりません。最終的にどこに行きついたらよいのでしょうか。もっというと、意図して私たちの魂が存在するなら、世界が「無」ではない意味を教えてください。全てが「無」ならいけないのでしょうか。 時間も、空間も、何もかもが「無」ではない理由です。 それとも、目的とか関係なしに魂というのがなんかの拍子に偶然世界にできてしまったから精一杯生きるんでしょうか。それなら解りますが、意図があるなら教えてください。 よろしくお願いいたします。 このあたりの事は仏教とは関係ないのでしょうか。
小学生の時に隣の男の子を虐めていました。 男の子はおとなしくとても勉強のできる子でした。 私はクラスでも目立たず勉強も苦手でした。 男の子には口でも意地悪を言ったのかもしれませんが、その辺りは全く覚えていません。 ただ覚えているのは、私が男の子の右ももを何度もつねった事により、痣になり男の子のお母さんが気が付きビックリされて、先生から私の母親と男の子とその母親、勿論私も含めて謝罪と話し合いの場が有ったのを覚えています。 その時は私も反省をしたんだと思いますが、とにかくその頃の私は性格が歪んでいたのか、それからも補導されたりもしました。 その度に母親が呼び出されていましたが、今思うとどうしてあんなに悪い事ばっかりをやっていたのでしょうか。 とにかく心が暗かったように思います。 隣の席の男の子の自宅はもう有りませんが、もし会う事が出来れば心から謝罪したいと思っています。 テレビで子供の頃にいじめられたのが原因で、社会生活や人間関係が上手くいかず辛い思いをしてる人達の番組がよく特集されています。 そのような番組を観る度に心が締め付けられる気持ちになります。 私は虐めの加害者の立場なのですが、過去に人を傷つけた事に対して深い闇を抱えて生きてきました。 勿論 自業自得なので仕方ないのですが、この年齢になっても上手く人と関われないのは、そういう闇があるからだと常に思っています。 社会人になってからは不器用ながらも人と関わりながら何とか生きてきましたが、年齢が重なる事に闇への想いが深くなって来る事がとても苦しいのです。 自己肯定が異常に低いのもそれが原因でなったのか、それとも低いから虐めや悪い事ばっかりをしたのか私にはよくわかりません。 これから生きて行く上で、何かお言葉がいただければありがたいと思います。 よろしくお願いします。
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
中3女子です。 自殺を考えています。 色んなことに疲れてしまいました。何でこんなにも病んでしまったのか、自分でも分かりません。 原因等を考えてみても、「私の人格のせい」この結論に辿り着きます。 自傷行為もしています。 親にバレてしまった時 「お前がそんなに人間性が低いとは思ってなかった」「失望した」「お前が苦労していないからそんな事ができる」「贅沢」 と言われてしまいましたし、顔を叩かれました。他のどの大人よりも信頼出来るはずの親にそんな事されるとは思っていませんでした。 でも、死ぬときはちゃんと感謝の言葉を遺すつもりです。 私が自殺しても成仏出来ないでしょうか 神様、仏様は無宗教の人でも異教徒でも愛してくださいますか? 私は神様や仏様にも見捨てられてしまっているのでしょうか
(質問:ブッダの教えの追記) (https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47023?page=1)より ここに書かれている内容は、本当に正しい事なのですか?
2年前から精神病を患う彼について、ご相談いたします。 会社で上司と折が合わず、2年前に会社を退職し、 その後、突然倒れ意識不明でICUに入院していましたが、回復し今は病院に通いながら療養しています。本人からは、検査をしても倒れた原因ははっきりわからず、体調が良い時は外に出かけられますが、悪い時には一切の連絡がなくなります。 そのような繰り返しで、私も見守り続けて3年目になります。 毎日顔を合わせるのであれば、彼の様子がわかるので私も安心できるのですが、ずっと遠距離恋愛のため、見えないなかで、待ち続ける日々です。 現在も、11月の季節の変わり目で体調が良くないと連絡がありそれから、一切の返事がありません。 私も、会社までの通勤が片道2時間かかるため、日々の生活にクタクタで精神的にもキツイなと感じてきました。 願望成就の本に書かれてるような、未来の生活を楽しくイメージなんてする余裕もなく毎日いっぱいいっぱい1日を過ごし、休日は体を休めるだけで終わるような日々です。 どうか、私のこの心をお救いいただけませんでしょうか?よろしくお願いいたします。
どこにも属せないのが悩みです。 自分の居場所とか自分で作るのはわかってます。 一生懸命頑張って作っても、さいごは仲間に入れない感じでうまくいかないです。 虚しいです。 何かに属している人ってうらやましいなって思います。 凄く自分がダメなんだっていう思いが消えなくて、 最近はどうしたらうまくいくんだろうじゃなくて、早くこのよを終わりにしたいと思ってしまいます。 この思いから乗り越えられなくて悩んでいます 。
では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて 涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。
もともと、あまり寝つきのよい方ではないのですが、最近特に寝付けません。 お坊さんはすぐに寝れたりするのでしょうか。寝つきが悪いときはありますか?そのときは何をしていますか?
ものすごく残念なお話を聞いたので、質問させてください。 とある外国人観光客の方が、日本のお寺に立ち寄って軒先を借りて休んでいたら、その寺の奥さんに警察に通報されてしまったというものです。 わたしは、この話を聞いて日本の仏教って何なんだろう、と真剣に考えました。軒先で休む人を、不審者として通報する、そんなお寺に誰が救いを求めたいですか? わたしはすべての元凶は、お寺の坊主さんが普通に結婚し、もはやお寺が宗教施設ではなく、「本堂がくっついた家に暮らす一般家庭」に成り下がっているせいと思えてなりません。 そりゃあ、普通の家の奥さんで自宅に子供もいたら、知らない人が勝手に軒先辺りに徘徊していたら怖いですよ。 だから、先のような宗教施設としては信じがたい通報のようなことも起こってしまうのだと納得ができます。 わたしは、正直日本の仏教に将来はないと思っています。 妻帯し、魚肉を平気で食らい、ブランド服や高級車に乗ることも是とする、そんな人に神聖さなど微塵も感じません。 一般家庭になってしまった寺院へは、気軽に脚を運んで苦しさを吐露しようなどと、私は絶対に思えません。 軒先で休む人を通報する、そんな寺がこの先も増えるのでしょうか。 寺が一般家庭であることを、お寺の当事者のみなさんはどう思われているのですか? 日本人の仏教離れの一員が、お坊さんの俗世化にあるとは思われませんか?
お願い致します。 仏教では「人生は修行」と、キリスト教では「耐えられない苦難は与えない」と言います。しかし世界には過酷な悲惨な状況下に於いて命を落とす人達が多くいます。赤ん坊や幼い子供であっても容赦のない状況があります。修行でも 耐えられる苦難でも無く 生まれてきた意味さえ見つからないと思うしか無いような。 長い間の疑問です。お教えいただきたくよろしくお願い致します。