私は以前、日蓮宗のお坊さんとお付き合いをしていました。 彼の人柄に惹かれて仲良くなり、 あとで彼がお坊さんであることを知りました。 お坊さんであるということに抵抗や偏見などはなかったのですが 私は日蓮宗ではないので、知識がまったくなく 日蓮宗のお坊さんが日頃どんなことをしているのか、 どんな生活をしているのかさっぱり分かりませんでした。 彼も優しい人だったので自分の辛いことや大変なことは あまり私には話しませんでした。 お付き合いをすることになってからも 遠距離だったためなかなか会うこともできず 当時私は土日休みの普通の会社員で 休みも合わずで会えない悲しさなどをぶつけてしまい すれ違いもよくありました。 そんななか、彼が荒行にいくことになり 別れることになりました。 そんななかでも彼は優しく 修行が終わればまた会おうと話してくれました。 いま今も彼を想い続けており どうしてもっと理解しようとしなかったんだと悔やんでいます。 彼のことは人としても好きで尊敬しているので たとえ元の恋人関係に戻れなくても また仲良くなりたいと思っています。 来月彼が修行を終えて帰ってきます。 私はどのように声をかければいいんでしょうか? 疲れているからそっとしておいた方がいいのでしょうか? またお坊さんから見て、 女性にはどのように支えてほしいと感じますか? 教えていただけると幸いです。
今回も、よろしくお願いしますm(_ _)m 今回の相談は私自身の未熟さが生んでしまった過ちについてです。 今、誰の子供かわからない子を妊娠してしまったようです。 近日中に病院できちんと検査をしない事には断定は出来ませんが。 お金の為に始めた風俗業ですが まさかこんな事になるとは思いませんでした。 中に出されてはいないので 本当に低い確率での妊娠疑惑だったのですが、市販の検査薬でばっちり陽性判定。 彼氏との子供だと確証が持てれば このまま産んで育てたい!という、思考になると思うのですが、誰の子供かもわからない子を私は愛せません。 全部、自分の非が招いた結果だと思いますが、こんなに簡単に命を見殺しに出来てしまう私は、非情な人間なのでしょうか? 何かお言葉を頂けたら幸いです。
昨年10月七週目で流産してしまいました。結婚6年目で授かったので、かなりショックでした。流産ごから、あまり体調が優れず、最近では、子供を授かることにすこし怖いと思ってしまっています。何か前世と関係しているのでしょうか。水子供養はさせていただきました。後今年姉夫婦にこどもが授かりました。私の代わりにそちらにいったのかな?偶然でしょうか?うれしい半分、なかなか心から喜べていない自分がいます。心の問題でしょうか?
お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。
22歳、戸籍上は女です。 小学2年生からスカートが履けません。 からかわれたとか、そういう記憶はありません。 ただある日、突然、スカートを履く自分に違和感を覚え、それ以来ほとんど履けなくなりました。 タンスの中の多くを捨てることになり、親をとても困惑させたことを覚えています。 制服は、毎朝にらめっこをしてから、脛の辺りまでの長いものを履いていました。 高校にはスラックスがありましたが、親が「似合わない」と言って買ってもらうことが叶いませんでした。とても辛かったです。 大学の謝恩会で着るドレスも、スカート風のパンツドレスでさえ何だか気持ち悪くて着られませんでした。 ただ、高校から役者をしているのですが、役としてならスカートを履くことができます。 自分であって自分でないからだとは思います。そのまま外に出ろ、と言われたらそれはできないです。 最近は、それがしがらみとなっていて苦しいです。 お店でスカートを見つけて、「可愛いな」「履きたいな」と思っても、躊躇ってしまうし、手に取ると胸がすごく苦しくなります。 友達が「きっと似合うよ」と言ってくれても、否定することになるのが悲しいです。 できることなら、スカートを履けるようになりたいです。 どのように考えれば解決できるでしょうか? もしできなかったら、この気持ちとどう折り合いをつければいいのでしょうか?
こんにちは。はじめまして。 私は某地方国公立大を卒業後、某旧帝国大学の院を出て現在大手の企業に勤めています。 現在はIT系の部署で働いており、仕事をする中で、色んな人が喜ぶシステム(まさにhasunohaはそんなシステムだと思います。)を作りたいと願い転職活動を始めました。 転職活動中に知ったとあるIT系ベンチャー企業が、社会の役に立つシステムを作っていると知り、面接を受けて採用されました。数年はその会社でお世話になりながらITのスキルを磨き、さらにステップアップをしてより広範に人の役に立つシステムを作っていこうと考えています。 しかし初めての転職、大手からベンチャーと不安に押し潰されそうです。 収入面、初めての業務内容、会社が潰れないか、老後の資金は貯まるのか…などなど。 何人もの友人に相談した結果、人一倍不安を抱えやすい性格だと知りました。不眠症でもあります。 また、私には結婚を約束した同棲中の彼女がいます。彼女と協力してこの先の人生を渡っていこうと考えています。 彼女は私が不眠症だということも知っております。彼女を心配させないためにも不安症と向き合い、できれば克服し、不眠症を治したいです。 座禅から派生したマインドフルネスを実践していますが、煩悩(特に不安)が多く、うまく集中できません。 仏教の考えにも共感することが多く、もっと学んで煩悩と向き合いたいのですが例えば空という考えはこの世には実体と呼ぶべきものがないと言うのならば私の彼女に対する愛情や信頼はどう解釈すれば良いのでしょうか。煩悩をなくせば愛情を感じなくなるかもと思い悩んでいます。 長くなりましたので質問を要約します。 1. 住職(敬称が違っていたら申し訳ないです)の方々は不安を感じないのでしょうか。例えば住職になることに対して不安を覚えたりしないのでしょうか。もしあればどう向き合っていますか。 2. 社会の役に立ちたい、愛する彼女と協力して人生を歩んでいきたい反面、(路頭に迷わせたくないというような杞憂にも感じる)大きな不安とどう向き合えば良いでしょうか。 3. マインドフルネスを行なっていますがどうすれば煩悩と向き合えますか。 4. 不安と向き合う時に仏教の教えをどう活用すれば良いですか。 5. 不安にはプライドに高さも関係してると考えていますが、プライドとの向き合い方をご教示下さい。
はじめまして。 私は30歳で結婚しましたが、なかなか授かれず。悩んだ末、受診しましたら婦人科系の疾患が見つかり、即手術となりました。そのため妊娠しづらい身体になりました。 その後、不妊治療も受けましたが、授かれず。精神的にも、経済的にも限界を感じ。3年で治療を諦めました。 もう40歳になり、子供を産む可能性もほとんどなくなりました。 ですが、いまだに納得がいかないというか、諦めきれません。 子供を産めた人と、私はどう違うんだろう?子供を持ってはいけない人間なんだろうか、と思います。 ネットなどを見ると、子供を産めない女性には価値がない、生きている資格がないと書いてあることが多々あります。 若いうちに産まなかった自己責任だとも。 ですが、高齢出産と言われる前に結婚したにも関わらず、私は授かれませんでした。 いろんな事情があるのに、なぜ、そんなことを言われるんでしょう。 悲しいです。 最近、自分の人生になんの意味も見出だせず、自殺も考えるようになりました。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。