はじめまして。 私は30歳で結婚しましたが、なかなか授かれず。悩んだ末、受診しましたら婦人科系の疾患が見つかり、即手術となりました。そのため妊娠しづらい身体になりました。 その後、不妊治療も受けましたが、授かれず。精神的にも、経済的にも限界を感じ。3年で治療を諦めました。 もう40歳になり、子供を産む可能性もほとんどなくなりました。 ですが、いまだに納得がいかないというか、諦めきれません。 子供を産めた人と、私はどう違うんだろう?子供を持ってはいけない人間なんだろうか、と思います。 ネットなどを見ると、子供を産めない女性には価値がない、生きている資格がないと書いてあることが多々あります。 若いうちに産まなかった自己責任だとも。 ですが、高齢出産と言われる前に結婚したにも関わらず、私は授かれませんでした。 いろんな事情があるのに、なぜ、そんなことを言われるんでしょう。 悲しいです。 最近、自分の人生になんの意味も見出だせず、自殺も考えるようになりました。
お坊さんは幽霊や霊魂が見えたりするのでしょうか?もし見えてしまったらどうしたらいいですか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。