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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 悟り 」
検索結果: 1816件

三縁の慈悲

おはようございます。先日、慈悲について教えていただいた者です。あの時初めて聞いた仏教の慈悲の種類 - 衆生縁、法縁、無所縁の慈悲について、ずっと考えていました。これでちゃんと理解できたか(勘違いしていないか)、よかったらお暇な時に教えてください。あれこれ訊いてごめんなさい。 衆生縁の慈悲 - 自分の身の回りの人への慈悲、友達への思いやりとかでしょうか。 法縁の慈悲 - わからないです…ご説明お願いします。できれば今回3つの慈悲を一緒に理解したいんです。 無所縁(無縁?)の慈悲 - 対象がないと言われているところがわかりにくいのだけど、縁がないということは全然知らない人に対する慈悲、相手を選ばなくて無償で無限という意味でしょうか。これが仏様の慈悲かなと思います。 ハスノハで初めて仏教を知ったのは先月、仏教は神に奇跡を祈ったりするものではなくて苦しみを減らす考え方を学ぶものなのかな、と何となくわかってきました。少し前まで私は大きな大仏の神様がいて仏教徒の人達はその神様に祈っていると思っていましたが、この世に生きているうちに法則に気づいた人(お釈迦さま)が説いた教えが仏教だったのですね。それなら菩薩とか如来と呼ばれている神様達は何だろうとか、もっと知りたい欲求が出て来て煩悩が増えてしまった気もするけれど、仏教を知ることができてよかったと思います。

有り難し有り難し 29
回答数回答 2
2023/12/05

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2025/03/15

祖母の供養と生の終わりに向けて

 こんにちは。先日父方の祖母が亡くなったことに関わって、質問をさせていただきたいと思います。  祖母は晩年の10年ほどを施設で過ごしていましたが、環境の変化や、コロナ禍で面会が極端に制限されたことなどから、最期はほぼ寝たきりとなり、認知症が進んで言葉を交わすこともできなくなっていました。  ただ、歩けない・話せないといったことは、祖母がゆっくり時間をかけて生まれた頃の姿へ還っていくさまを見せられているようでもあり、最期まで一生懸命生きるということを教えられたようにも思っています。  祖母は昔かたぎというような人でもあり、元気だった頃には嫁姑関係の諍いが原因で、私の母親などは随分辛い思いをしたようです。そうした祖母に反発を覚えたこともありました。  しかし孫の私に対する祖母の接し方はとても優しいもので、可愛がってもらった思い出が多いのも確かです。それと同時に、「もっと話がしたかった。」「もっと一緒に出かけたり、食事に行ったりしたかった。」「身体の自由がきかなくなっていくことを、祖母自身はどう感じていたのか。もっとしてあげられることはなかったのか。」といった反省や後悔も続々と生まれました。祖母は殆ど家から外に出ない人でもありました。  誰しもが考えることかもしれませんが、亡くなった人に対して、生前に自分ができなかったことの反省や後悔がない人は少ないのではないかと思います。私は、その反省や後悔の上に立って、今生きている人たちに対して同じ思いは持つまいとしているのですが、それでも将来的にそれがゼロになるとは思えません。  また、お葬式の後、祖母のお骨を骨壺に収め、初七日法要を勤めるまでの場に立ち会いましたが、滞りなくお骨上げができる形で最期を迎えられる人は、この世の中に何人いるのだろうとも思いました。  祖母は祖母なりに、懸命に自分の人生を生きていたと思うのですが、自分も同じように最期を迎えられるだろうかと思うと、迂遠な道のりに気が遠くなります。  生前は感謝とともに葛藤も抱いていた祖母を、これからどう供養してあげたらよいだろう。翻って自分自身が最期を迎える時、これまで出会った人たちに対する反省や後悔にどう向き合えばよいのだろう。いずれ迎える生の終わりに、どう心構えをするべきか。…まとまりなく申し訳ありませんが、こうしたことにアドバイスがいただければ有難く存じます。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

物事の捉え方が歪み、生きるのが辛いです、

ここ最近、ひどく物事の捉え方が歪んでいて何もかもに対する嫌悪感や恨みのような感覚が拭えず苦しんでいます。   会社や生活はなにか大きく困って事もないのですが、漠然と自分の存在や毎日生きていること自体に嫌悪感や嫌気がさして早く死にたいとすら思っています。   街や電車にいる全く知らない人を見れば心の中で罵り、インターネットの人の言葉を見れば気持ち悪さを感じ、なにか政治的に訴えてる人を見ると「人生が上手く行ってないのをすり替えて怒ってる」と嫌悪感を感じます。 あまりにこの感覚が強くなると、目の前の人に暴力を振るいたいと思ったり、何かに火をつけて燃やしてやりたいと強烈な攻撃心が出てきますが、「そんなことは絶対にいけない」と抑え込んでいます。   優しい話を見てもプロモーションなどなにか裏があるように感じたり、偽善や薄っぺらい話だと感じで気持ち悪くなります。   なにかに迫られてるような常に見られていて間違いを犯すと攻撃されそうな感覚があり、自分の好きなこともあまりする気がなくなっています。 (この状態がかなり長く続いているので、好きなものもよくわからなくなっていますが…)   家族や身内には絶対に相談できず、昔暴力や脅しで黙らせられるような経験ばかりで不信感があり、相談したところで相手が己の主張を押し通すばかりで話をまともに聞かずマウントを取られてサンドバッグにされるか、相手が説教したい気持ちを汲んで接待するように気を使うかです。   心療内科に相談したこともありますが、話を聞いてもらえなかった経験ばかりなので不信感があり、もう相談できないと思っています。   漠然と八方塞がりのような強烈な閉塞感があり、もう生きているのが辛いです。誰も私の話を聞かないだろうと、物事を進められる気力もありません。どうしたら以前のように元気に素直になれるでしょうか。   漠然としていますが本当に辛いです。 よろしくお願いします。  

有り難し有り難し 14
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心から人を恨んでいます。どうしたら許すことができますか?

私には12歳離れた弟がいます。 弟とは異父きょうだいです。 弟の父親は、薬物で何度も捕まったり、お酒を飲んでは家で暴れて物を壊したりしていました。 根は優しくて良い人でした。 私がどんなに酷いことを言っても怒らず、お酒を飲んで暴れても、母や私を傷つけることはありませんでした。 しかし私は、それでもその人のことを恨んでいました。今も恨んでいます。 その人が今もどこかで日常を笑って過ごしているんだと思うと、怒りで涙が出てきます。 理由は、弟の妊娠や再婚を母が私に報告してくれなかったこと。自分達は傷つけられはしなくても、暴れている姿はとても恐怖で、今でも大きな物音や扉を激しくノックする音がトラウマだということ。薬物所持を通報出来なかった罪悪感。 だから私は、計画的に、その人と母親を離婚させてしまいました。その時、弟はまだ1歳にもなっていませんでした。 まだ小学生だった私は、弟の父親が写っている写真を、全て捨ててしまいました。 なので弟は、父親の顔さえ知りません。 母の意向で、弟には「父親は死んだ」と、伝えてあります。 弟は私と正反対の性格で、私には言えないようなことを言うことができます。 私には出来ないことが出来ます。 私は小さい頃に母親から育児放棄をされていたので、きちんと愛されている弟に嫉妬しています。 同時に、理解し合うことができなくて、話す度に怒りをおぼえます。 支離滅裂な上に長くなりまして申し訳ありません。 そんな過去があり、私は何度も、まだ母と弟の父親が離婚する前、母と弟とその父親を殺そうとしたことがあります。 弟の首を絞めようとしたり、睡眠薬を飲ませて刺そうとしたり…… もう離婚して、母と弟と3人で暮らし始めて7年ほどになります。 未だに弟の父親と、弟への恨みが消えません。弟の父親の住所も知っています。いつ殺してしまうか分かりません。 こんなにも人を恨んでいる自分が、1番大嫌いで、ずっと苦しいままです。 他にも家庭の苦しい事情は絶えません。 これ以上耐えられません。 でもまずは、どうしたら弟の父親、および弟への恨みや罪悪感を無くすことができますでしょうか? こんなこと誰にも言うことができません。 ご回答をお待ちしております。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 89
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※回答急ぎません※イマドキ感を教えてください

うまい題名を思いつけませんでした。 東京の最近まで起きていた(都知事の)一連の騒動について思うことがあります。 確かに不適切な税金の使い方だったのでしょう。 ですが選挙をした場合の費用と、国民に見張られながらあとの2年弱をあの方に任せるのとでは、大きな費用の差があると思います。 (給料要らないからやらせてくれって言ってましたよね) 今回の騒動は、どうにもメディアに踊らされた感が拭えないです。 知事が「やってない」と言われていた福祉の問題についても、日本が滅べという傍で公園を保育施設にする問題では「近隣住民の利便性」を訴える方たちがいましたよね。 (どっちも確実に必要なものです。) 関西でもいくつかの幼稚園・保育園を統合し、巨大な子ども園にする計画が反対されていました。 私はこれに「どっちなんだ」と言いたくなるのです。 個人の都合の押しつけ合いになっていて、結局は「その程度の問題」なのか?と思ってしまうのです。 「その程度の問題」で辞任したにしても、お金の問題で辞任したにしても、この流れには違和感を感じてしまいました。 メディアに対する責任を問いたいわけではありません。 売れるものを作るのが商人の仕事だと思うからです。 買っているのは私たちです。 今の私たちはワンピース一枚買うことには相当な吟味を重ねても、こういった動きには、お祭り騒ぎにのせられるだけになってしまっていると感じています。 自分の頭で先々の事を考えられなくなっているのは、最近地震が多いせいでしょうか? ちょっと恐慌状態なのかな?と思います。 お坊さま方は「今」についてどうお感じでしょうか。 お時間のできた時にお答えいただければ幸いです。 ※知事の話は強くイマドキ感を感じたという例であり、お返事内容に絡める必要はありません。

有り難し有り難し 40
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仏の道を選ぶ事は今からだと遅いですか?

現在、父の会社で働かせてもらってます。 祖父が創業した小さな会社ですが、後継者不在という事から、近い将来会社をたたむという事も視野に入れておかなくてはいけないと思います。 父は70代ですが、今のところ全くその事を考えている様子はなく、この先どうするかさえも考えていないようです。 自分が死んだ時に会社をたたんで欲しい…そんな印象が今のところあります。 本当はそれでは困るのですが… もし会社が無くなったら、仏様に仕えたいという道を選びたいと思っているのですが、40代からのスタートは無謀でしょうか? お寺運営の保育園に通ったり、お寺に貢献していた祖父に連れられ、行事参加や墓参り・法要にも頻繁に参加していましたので、幼い頃から仏教には親しみがあり、仏様への関わりは歳を重ねてからも多少あります。 ただ、仏教関係の学校は出ていないため、専門的な知識や資格は一切持っていません。 昨年、死ぬまでに必ず訪れたいお寺を訪れた際、安堵感と共に、心がグッと引きこまれるものがあって… 何と言いますか、言葉に表せない思いで涙が出ました。 これが仏様に仕えたいという思いを強くさせたのだと思います。 僧になるまでは大変困難な道を歩まなければいけない事は存じております。 やはりお寺関係者や若いうちから経験を積まないと僧になる事は厳しいのでしょうか? 甘い考えとお叱りを受けそうですが、ご回答いただけるとありがたいです。 どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 38
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不謹慎な事を思ってしまう

私は、死後の世界(地獄)に行く事が怖くなり、仏教に巡り合いました。 しかし、私は、昔から疑心暗鬼に なってしまう性格なので、仏教の教えにも疑いを示すことが、度々ありました。 そこからなのか、私は、神仏の皆様に、大変心無い言葉を思い浮かべたり、素晴らしい「南無阿弥陀仏」を罵倒するような事をおもったり、神社などに行くと、爆発が起こるような不謹慎極まりない、 残酷な妄想をしてしまいます。 もちろん、失礼な事をしてしまった自覚はあるので、思い浮かべたら、仏壇や、神棚に向かって懺悔をして、前を向こうとするのですが、その懺悔をした後でも、思い浮かべてしまったりして抑え込めないようになりました。 もちろん辞めたくて、自分にこれ以上したら地獄に落ちるぞと、言い聞かせているのですが、ふとした時に思い浮かべてしまいます。 毎日毎日同じような罪を犯してしまう自分は、愚かで、自分に甘すぎるといつも思います。 もうこうなってしまったので、 確実に地獄に落ちてしまうことを 考えると、日常生活どころでは、 なくなりました。 いつもこんな自分の心に落胆し、 絶望しています。 こんな私は、助かるのでしょうか? どうすれば、こんな心を制御できるのでしょうか? 大変烏滸がましいですが、こんな私に助言を頂けないでしょうか?

有り難し有り難し 29
回答数回答 2