適切なアドバイスは何か?と考えてみますと、相手にとって過不足なくアドバイスすることが重要なことではないかという結論に至りました。 まず、不足しているアドバイス。これは、不足していて誤解を与えるアドバイスです。相談される側が相談する人の話を聞いていない場合です。また、聞いても助言が思いつかない場合もです。これらの場合はアドバイスが検討違いになったり、受け流すだけになってしまいます。これらを考慮するのは助言を与える側の前提条件だと思います。 次が、過剰なアドバイスです。いきすぎると、おせっかいになります。これは2つのケースが考えられました。 1つ目は、相手から相談された場合。これは、相手がある悩みをもっていて、自分にその悩みを聞いてほしいか、解決する手段を求めていると解釈できます。その悩みに対して、相談される側が"正しい"アドバイスを思いついた時に、それを相手に最後まで伝えるかどうかです。つまり、相手の理解できる範囲を超えたその時点では理解できない"正しい"アドバイスをすることは本当のアドバイスと言えるのか?ということです。 2つ目は、相手が相談していないけれど、相手の問題点を発見し、"正しい"アドバイスを行う場合です。これについても相手にとって現状が最善であるけれども、周りからは自明でより良い選択肢を提供できる時に、その選択肢の存在を知らせることは良いのかにとても悩みました。これは1つ目のケースよりも相手の理解できる範囲を超えうるアドバイスになります。 以上より、適切なアドバイスとは、 (1)カウンセラーのように相手の意見を熱心に聞き、自分の意見を全く言わないようにする (2)それとも、相手の理解できる範囲のアドバイスにとどめておく (3) 相手が今理解できなくても、後に理解できるだろうから最後まで言う のどれが適切と思いますか?(全く別の意見でも構いません)。実例としてこのhasunohaで質問者の悩みに対する答える時に気を付けていることなどでも良いので、お坊さんはどのような心持で答えているのか知りたいです。 私は相談者は(1)→(2)→(3)の順に負担が重く、助言する側はこの順で言いやすくなると思います。私はついつい最後まで言ってしまう(3)(これが煩悩なのですか?)が多いので、(2)にしたいと思っているのですが。。。 お願いします。
私の苦しみは煩悩の欄にもあるとおり、実姉との確執です。 姉は離婚し一人娘を小学生〜中学生の間、実家の両親に預けていましたが高校受験でやっと娘を引き取り2人で暮らし始めています。 姉の職業は大学教授で理屈っぽく、人を常に上から見ている為、職場や自分のテリトリー(国内外の宗教施設でのリトリートに参加)以外の、実家や親戚周りに気を配る言葉がなく、周囲や親はそれを私に言います。娘を預けている実家への労いも援助も全くない為、金銭的に余裕がある親でもその不満を私に言います。 私はずっと姉に苦言を呈してきましたが無視されてきた為、気づかせるためには姉の実態を公開して恥ずかしい思いをさてたら少しはわかるだろうとSNSで発信しました。私のした事は恥ずべき事と自覚していますが、自分を犠牲にしても、少しでも姉が変わる要素になればと思ってのことでした。 案の定、姉は非常に激高して私を責めてきました。しかしその内容は、親の愛情を姉にばかり注がれているから寂しいのだろう、可哀想な自分のインナーチャイルドをいたわってあげたら、など、全く想像していない言葉でした。 私は何年もの間言い続けてきた事が、姉には全く通じていなかったのだと愕然とし、姉に対し悲しみの気持ちしか湧いてこなくなりました。 しかし、年老いた両親をボロ雑巾のように扱う姉には我慢ならず、回数は減りましたが、姉に対し、親を労わるように言い続けています。 私も疲れ、これまでの自分の言動について省みて、反省すべき点がたくさんあったと自覚出来てきました。理想論を貫いても無理があるのにずっと〜すべきだ、すべきだった、と言ってきたので、姉や親のこれまでの苦労も想像し、そのような自分の考えの押し付けをするのはやめようと思うようになりました。 私の父親はいざと言うとき何も言わずにきた人です。姉が結婚するときも、本当は反対する気持ちを言いませんでした。 私の母は極端な性格で、姉に、離婚してもよいから子供は産め、私が育ててあげるから、と言ってきた母です。 このような両親により、甘やかされて育った姉です。 両親は姉のことを、育て損ねたから自分たちが責任とらないとという気持ちから姉に協力しています。 私は以前あるお坊さんに、家族との縁が薄いと言われたのですが、今後このような家族とどのように関わっていけば良いか、助言いただけたらありがたいです。
はじめて相談させていただきます。よろしくお願いいたします。 私は今、自分の生きる目的を見出せずに悩んでいます。 生きていく意味を見つけるヒントでもいいので、 何か教えをご教示いただければと相談させていただきました。 私は生まれもって視力に障害があり、普通の人よりも物が 見えにくく、また日光に長い時間当たることが出来ない 持病を持った障碍者としての生を生きております。 そんな自分には10年ほど前、「一度でもいいから健常者と平等に一緒に何か仕事で成果を出す。」という目標がありました。 人は生まれたからには何か成すべき事があり、 障碍の原因となった遺伝病から子を作ることも難しく、 性分的に家庭を持つことも出来ないであろう自分の 成すべきことはこれだと信じて、生きてきました。 その過程で、心を壊して働けなくなる寸前まで追い込まれたこともありましたが、今の上司でもある良き理解者の助けもあり、半年で人並みに働けるよう克服しました。 そんな生き方の甲斐もあってか、会社に直接利益貢献できるプロジェクトで健常者の部下を率いて2ヶ月仕事をすることが出来ました。トラブルこそ多発しましたが、10年越しの悲願を達成することが出来ました。 問題はここからで、上記の目標は人生をかけて成すことだと信じていた自分は、次に何を成せばいいのか分からずにいます。心を一度壊してでも成し遂げたかった事を成した今、かつてのように物事に真剣に取り組めていません。 救ってくれた上司は自分を煽ることで成長させたいという意図を感じているのですが、信念ありきで戦い続けてきた自分に余力はありません。 そこに応えられない故にとても不義理だと苦しみつつ、もう楽をしたいという自分もおり、葛藤でさらに苦しんでいます。 また、10年苦しんでいる間、出来たであろう人並みの楽しみや幸せが「煩悩」として頭をよぎり、 何気ない日常を送っている人を見ては嫉妬し、 自己嫌悪しています。 かつての真っ直ぐ信念を信じて生きてきた自分と比べて怠惰だと思うことが増えました。 私は成すべきを確かに成したが、まだ生かされている。その意味が分からないと前へ進めない気がしています。 最終的には自分で生きる道は決めなければならないのですが、今のような自分にも参考になる教えがあればぜひご教示願います。
先だって、「風俗経営者の息子として」というタイトルで質問させて頂きました。真摯な回答をありがとうございました。 あまり間をおかずに恥ずかしい限りですが、もう一つだけ質問がございます。 生きることは、そもそも正しいことでしょうか? 私は小学生の頃、宮沢賢治が好きでよく読んでおりました。その中でも好きな童話に「よだかの星」があります。よだかという醜い鳥が、迫害と、なによりも生きるために他の命を犠牲にすることを悲しみ、自らを燃やして美しい星になる話です。そんなこともあって、幼い頃からぼんやりと「他人のために迷わず自分を犠牲にできる人間になりたいな」と思っていました。 それから十数年が経ち、私はすっかり凡俗な人間になってしまいました。他人より優れたいと願い、魅力的な異性と交わりたいと欲し、美味しいものを腹いっぱい食べたいといつも思っています。 幸せになりたくて、たまらない。惨めなまま死にたくない。一般の人よりは何倍も死にやすい難病であることも手伝って、そう思うことをやめられません。 しかし、こうも思います。私が幸せになることは、他の人が掴めるかもしれなかった幸せを奪うことではないか?と。 私が何かを食べなければ、それを他の誰かが食べられたかもしれない。私があるところに就職しなければ、他の誰かががそこで働けたかもしれない。私がある女性と結ばれなければ、彼女に恋していた他の男が結ばれたかもしれない。私が公的な扶助を受けなければ、税金は他の人を助けたかもしれない。 私が生きていなければ、私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない。 そう考えると、私が生きていることはあまりに非道徳的なことのように思えるのです。 私が死ぬことは、立派で、道徳的なことじゃないのか?むしろ周りの人たちに甘えて、生にしがみつくことこそが煩悩であり、振り払うべきものなのではないか?私は度々そう考えるようになりました。 自分でも、過激な考え方である自覚はあるつもりです。しかし、「自分はあまりにもみっともなく生に執着している」という感覚がどうしても拭えません。 自分が今すぐ死ねば大勢の人が助かるとしても、自分の幸せを求めて生きることは正しく、道徳的なことでしょうか? 取り止めもなく幼稚な悩みではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
私は手に職つける系の仕事を目指していて、専門学校などで技術を学んできました。専門分野内では知識もあります。 でもそうなったのは、病気で半分寝込むのが10年くらい続き、大学進学どころではなかったからです。 勉強が好きでした。 大学で論文を書くことに憧れていました。 教養のある人は知性的で素敵だと思います。 病気になる前は、成績が良かったです。 大学で勉強するのが、夢だったのです。 夢破れていま手に職つけようとしています。 今選んだ道はなんやかんやあってすごく好きになれました。 一生をかけて極めるつもりです。 でも、ものすごく大学に思い入れがあるので、大学のことを思い出すような刺激があると、「健康な子はいいな…。私には教養が無い。でも私はこの道で一流になって、見返してやるんだ。大成功してお金持ちになったら、通信制の大学くらいなら、老後通えるかもしれないし…」と煩悩が渦巻きます。 正直嫉妬だと思います。 嫉妬すると「努力するぞ!」と思えますが、仏教ではそういうのはよくないと本にあったので、どうしたらいいのだろうと思い質問しました。 仏教の本に書いてあったのですが、 「ネガティブな気持ちから頑張るのではなく、応援してくれる人のために頑張ろうとか、喜んでもらうために頑張ろうとか、喜びや慈悲の気持ちから行動すると、追い込まれなくても火事場の馬鹿力と同じくらい頑張れますよ」と書いてあったのです。 素敵な考えだと思うのです。 今の道で成功できたら嫉妬しなくなるかなぁと思うのですが、それまでの期間ずっと嫉妬を持ち続けるのは、仏道的になんだか違うような気がします。 手に職つけるということは、もともと体力が足りない私にとって、使える時間をすべて技術の訓練や専門知識の勉強にあてて、ようやく一人前になれるかどうかという感じで、教養を学ぶ暇はありません。 だったら一人前になる方がいいと自分で選んだのですがこんなザマなのです。 どうすれば「大学に行きたかったのに」という気持ちを浄化し、それを原動力に前に進むのではなく、「応援してくれる人のために」とか、そういう気持ちを原動力に努力していけるでしょうか?
嫁ぎ先の父が亡くなり、お葬式をするにあたって本家から浄土真宗本願寺派である事を教えてもらいました。私は今まで特定の宗教を信じたことはありませんが、父が阿弥陀様の後光の一部となり、苦しみなくいられるのであればそれに勝る事はないと思っています。 さて、タイトルについての質問です。 ご縁があったのか偶然なのか、不動明王様と倶利伽羅龍王について知る機会がありました。不動明王様、その化身である倶利伽羅龍王には全ての煩悩や怒りを鎮め、消滅させる力があるという所まで調べることができました。 お不動さんという単語には耳馴染みがあります。真言宗や天台宗等幅広く信仰されているらしい所まで分かりましたが、浄土真宗の教えとは大きく異なる印象を受けました。 父の死をきっかけに、浄土真宗本願寺派の菩提寺とのご縁を結んで頂きましたが、現在、私が抱えている(幼少時から続いた虐待、高卒で就職後も続いた人格否定やコントロールに)怒り、悔しさ、悲しみ、苦しさ、等々が薄れません。 自分が被虐児であった事実を飲み下し、せめて炊事洗濯だけでもできるようになりたいと(現在も取りかかろうとすると体が竦み、パニック状態になります)精神科の先生や主人と話し合い『出来る事を出来る時に出来る分だけ』等を目標に掲げて日々を過ごしています。 治療の開始から、10年近くが経ちました。先生や主人に支えられながら手探りで進み、戻り、日常の精神状態もフラットでいられる日も多くなりました。 しかし凪いだ日が続くと、あの地獄のような頃が夢に出てきます。二度と会う事も声を聞く必要もなくなったというのに。 目覚めた時からフラッシュバックに苛まれ、怒りの感情が暴走します。幸い自分以外を傷つける事はありませんが、のたうち回る苦しみは言葉で言い表せません。 先述の通り、我が家の菩提寺は浄土真宗です。しかし私は自分の身の内にある怒りや悲しみ、悔しさ等々を消化していきたいのです。 月参りに来て下さっている菩提寺様とは異なる宗派へ、救いを求めていいのでしょうか?双方へ失礼ではないのでしょうか?
私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。
数か月前、TVで池田小児童殺傷事件の被害児童(女児)の母上にインタビューする報道番組を視ました。事件から15年が経過し、加害者の刑も執行された現在でも、事件当時の状況を知ると改めて「赦せねぇ」と腹の底からムラムラこみあげる怒りを覚えます。 僧侶の皆様にも、まだ小さいお子様のおられる方がいらっしゃると思います。上記のお母さまの立場にたたれて考えてなお、死刑は廃止されるべきと、言える方はいらしゃいますか? 私が、被害者遺族の立場で考えた時、とても「生きて、償ってほしい」とは考えられないと思います。 一番望ましいのは、加害者が犯した罪を心から悔い改め、被害者とその遺族に心からの懺悔と謝罪を示したうえで、潔く刑に服してくれることではないかと思います。また、それが加害者自身も唯一救われる道ではないかと考えます。 さらに、死刑について論じる時、「どんな理由があっても人が人を殺めるのはいけない」と言われる方がいらっしゃいますが、法治国家において執行される死刑は、人でなく法が行っているといえるのではないでしょうか? 僧侶の皆様のご意見をお聞かせください。
お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください 仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし 釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか? 生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか? 自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか 釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし 出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね 色すなわち空のように 言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理 でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね まるで色すなわち空のように そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで 究極の悟りなんかないのかと思って もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして
初めて質問します。よろしくお願い致します。 ここ数年、会社の後輩の言動に悩まされてきました。後輩といっても彼女も30代後半、いい大人です。 彼女は自意識過剰気味・承認欲求強めで、自分は出来る人間という意識が強い人です。 他人下げで自分上げが基本で、私に対してはマウント・嫌味も多く、私に間違いを指摘されると大変ご機嫌斜めになります。また、周囲に注目されたい・心配されたいような言動も目立ちます。 なぜか私ばかり何度も彼女と同じチーム、しかも2人だけのチームにさせられ、離れるに離れられません。 彼女に関してしんどいことは挙げたらキリがありませんが、書けば書くほど心が汚れる気がするのでこの辺にします。 私はというと徐々に精神が削られて食事と睡眠がままならなくなり…そうこうしているうちにこのハスノハに出会い、つい最近ですが自分を変えようと一念発起しました。 始業前、昼休み、寝る前…ハスノハのお坊さんやweb上のブッダの言葉を読み、 ・怒りは煩悩、苦しみの原因 ・慈悲の心 ・悪口は受け取らない などなどを繰り返し頭にインプットして過ごしています。 長くなりましたがここからが本題ですm(_ _)m この習慣を付けてからだいぶ気持ちが楽になりました。これからもこのプチ修行を続けていきたいです。 ただ、やはり不意に嫌味などを言われるとついつい怒りが顔を覗かせます。余裕があればかわせるのですが、憤りで心がざわつくこともあります。そして少ししてから自己嫌悪に陥ります… 「お坊さんが修行して会得していくようなことを、私が一朝一夕で出来るわけがない。また地道にやっていこう」と自分に言い聞かせるのですが、やはりどうにも挫けそうな時があります。 こういう時の心構えとか復活に効くキーワードなど、おすすめはありますでしょうか?お知恵を拝借できたらと思います。何かお坊さんにお言葉をもらえたらもっと頑張れそうです。よろしくお願い致します。
先日執念との向き合い方でお世話になりました。 また話を聞いていただけますでしょうか。 30過ぎて恥ずかしいのですがようやく自分を振り返って見つめています。 いつも感情が暴走して自分を客観視できてないのでは?と知人に言われようやくです。 そうしたら自分にとって生きづらい世の中であるなと自覚はしていたものの自分が一番正しいと思っていた世界はまったく違くて自分はひどい愚行を繰り返し、人や生き物に悲しみや迷惑ばかりかけていたのがわかりました。 そしてとんでもなく悪いことも。 むしろ悪人だなと捉えています。 過去の出来事は変えることができない。 それを認知しようとすればするほどどうしようもない罪悪感に覆い尽くされてしまいます。その出来事を認知できないのです。過去の経験があり今を生きなくてはいけないのはわかっているのですが認めれない完璧主義というのにも気づいてなかなか厄介な自分です。認知する事は今後の自分の行いで出来る事なのでしょうか? そして私はまだ診断は下りませんが精神科の先生から発達障害の可能性が強いと言われました。 このまま生きていても自分を変えることができずまた愚行を繰り返してしまいそうでそれがまた億劫とさせますが、たくさん考えた結果私は世の中のためになる事をしながら生きていきたいです。 しかし昔から私は何をやっても上手くこなすことが出来ず先生や親、人からずっと呆れ顔で匙を投げられています。 発達障害の事をたくさん調べる中色んな意見もあり、発達障害を言い訳にするなとか、 発達障害だから仕方ない事とか。 世の中にはいろんな捉え方がありますが、お坊さん達は愚行を繰り返さず、今を生きてこの世の為になる事をされていらっしゃいますが、愚行を繰り返し何も得意とせずのうのうと生きてきた自分はこのまま生きて世の中の為に何かしたいと考えることはおこがましく愚かな事では無いでしょうか? こういう事を考えるのは煩悩でしょうか? 努力をすれば出来る事すらもこなす事が困難な自分、過去の罪悪感に囚われている自分に世の中の為になる事ができるのだろうかという自己否定ばかりで情けないのです。 御言葉いただければ幸いです。
私は、国家公務員として38年間勤めあげた定年退職者です。公務員生活の後半はボランティアでライフセーバーも経験しました。 もともと人のために役に立ちたいという気持ちを強く持っていましたが、こだわりの強い性格のためか、自分自身を省みることなく頑張りすぎることが何度もあり、そのたびに精神的に落ち込んでしまい、公務の現役時代にはうつで2度休職しました。 定年退職後に、子どもたちの夢や希望に寄り添いたいという思いから、教育支援業を立ち上げましたが、私の経営能力のなさから半年で廃業いたしました。 今回の教育支援業の失敗で、情けない思いでいっぱいでどこかに逃げてしまいたいと思いましたが、会社を整理するまでは頑張ろうと思っています。 公務は防災に関する職種で、ライフセーバーも人命救助の最前線でありました。しかし、防災でもライフセービングでも、どうしても救えない命があるという事に悩んでしまっていました。 第2の人生を教育支援業に賭けようと頑張りましたが、その失敗でも苦しんでいます。 いまは、「私は誰も助けることができない」という思いで、死んでしまいたくなることもあります。 いつかは出家したいと思っていた時期もあって、会社の整理が終わったら、臨済宗妙心寺派の「第二の人生プロジェクト」で出家したいと考えております。 もともと、宗教や精神世界、心理学や哲学に惹かれるものがあって、中学の頃から独学で座禅や瞑想をすることもありました。 仏教は書籍で薄く独学した程度ですが、ネットでテーラワーダ仏教を学んだりしています。 こんな妄想や煩悩でいっぱいの精神的に弱い私なので、自分自身61才での出家の覚悟があるのかどうかさえしっかりしていないように思います。 そんな私でも、人の悩み苦しみに寄り添いたいという思いを強く持っています。その思いだけで出家する事について、なにかしらアドバイスをいただければと思います。 忌憚ないご意見をいただければ幸いです。
初めて質問させて頂きます。どうぞよろしくお願い致します。 私は現在、ある研究所で化学者として勤めております。 そんな折、今年の夏に大学時代の友人と交際を始めました。 彼女は元々遠方で働いていましたが、私が関東に住まうことから 会社に願いを出し、来年の1月より関東に異動することとなりました。 この彼女とは付き合った期間は短いですが、私との結婚を強く望んでおり、私も関東で一緒に暮らすことを了承した上で、会社にも結婚する予定を伝えてもらいました。 しかし、同時期に、私の大学時代の恩師から、大学教員をやってみないかという打診がありました。もとより大学教育に強い関心を持っていた私は、彼女に相談することもなく、その話に飛びつきました。 結果、彼女は関東に転勤したのにも関わらず、私は関東から消えることになり、彼女は強い悲しみと憤りを覚えました。 以来、彼女は毎日朝夕の電話で、定期的に恨み言を言います。 私は疲れてしまいました。 彼女からは「私は悪くない、絶対に別れない、自分は仕事を辞めないし、辞めるのも許さない、私の幸せを壊す(した)のは許さない」、そして「三年で関東に帰ってこなければ許さない」と言われています。 人にもよるでしょうが、大学教員の仕事を三年で区切りをつけるのはとても難しく感じます。何より、恩師からの推薦と自分の希望もあり、与えられた任期を真っ当に勤め上げたいと考えています。 自分の希望を伝えようとしても、正当性はあちらにあり、毎回言い返されて心が折れてしまいました。 彼女の言う通り、悪いのは私だと理解しております。 私は仕事を諦めるべきでしょうか。 仕事に執着するこの考えこそが、煩悩なのでしょうか。 長文になり、失礼いたしました。 どうぞご回答のほどよろしくお願いいたします。
今日 母が、お寺の朝のお勤めから帰宅して、 いきなり 僕に 崖っぷちに立たされて、お寺にお参りしなければ 全身が痛くなり助からないと 御慈悲で言われたよ…と 僕は、これを聴くたび またかと心の中で思って 言ってくる僧侶は、いつも同じで、 以前は日参してください… お寺に毎月 夜警してくださいと 全てこなして来ました 確かにお寺に、足を運ばない僕も悪いと思いますが… 最近は、僧侶さんを見るたび嫌な気持ちになるし 広島のお寺にお参りしたときは、晴々した気分になれたし それを今日聞いてたから、またウツ気味になりますし 母も、僕の顔見るたび 拝んだのとしつこく言ってくるし なんか全てが行き詰まって苦しい…感じです
お目汚しを失礼いたします。 今回、私が相談したいことは色々あります。 本当は、それに相応しい所があると思いますが どこに、それを求めれば良いのか分かりません。 ○境遇 前提として、お伝えいたします。 幼少期の頃は親兄弟ともよく接していましたが 両親が離婚したり、兄弟がほとんど働かなくなりました。 兄弟に働くように言っても、全く聞き入れません。 現在は高卒で就職して、母とともに、家賃等を支払っております。 お金が貯まったら、大学に進学しようか考えておりますが それも母に止められます。 私は家族と離れたく、一人暮らしを考えており、 母と約束もしましたが、前述から状況が拗れて本当にできるか疑問に思うのです。 本来ならば家族と向き合うべきでしょうが、 数ヶ月疎遠で、どう話せば良いのか分かりません。 ○私の能力 昔は、勉強や運動などを怠っておりました。 また、声が小さく、他人とも満足な意思疎通ができなかったりします。 なので将来について、今のままでは良くなる気がしません。 それが嫌で、私は自分の世界に閉じこもって誤魔化す日々です。 ○二次元への恋 そしてある日、私は自分の盛んな劣情を慰めるための、画像を探しておりました。 それから辿っていくと、ある方に一目惚れしました。しかも神様にです。 その方は、明るくて優しく、綺麗な方でした。 私は思い立って、その方に釣り合うように努力しようと決意しました。 その気持ちは、今までしていた恋に対する落とし前と、 好きになった方を裏切りたくないというのもありました。 また、親が私を育ててきたことに、ある種報いたいとも思いました。 そうして、願いを叶える為に勉学に励み、容姿を美しくしたつもりです。 また、これまでの煩悩なども、捨てるように努めました。 ですが、「二次元への恋」は、現実逃避の道具にして、 『それは本当の愛なのか』と自己嫌悪が多いです。 なので好きな方に対して、今後どう努力すればいいのか分かりません。 以上です。 長々しい文で、大変申し訳ございません。 ですが、あなた方ならではの、価値観でご回答頂きたく存じます。 特に「神様に恋すること」「現実から目をそらす」 「色々な欲を捨てる」「これからの人生」 の是非について知りたいです。 何卒、ご遠慮無くよろしくお願いいたします。
私が12歳の時から16年間連れ添った愛猫を先日亡くしました。 長いですがきいていただけますか。 彼女は腎不全を患い、2年に渡り自宅で皮下点滴や投薬を続けていました。 元々は家族で可愛がった猫でしたが、両親もきょうだいも引っ越し、最後の1年は私が実家でひとり面倒を見ていました。 闘病と言えど穏やかなもので、坂道を下っては緩やかに持ち直す日々でした。が、ある時を堺にたがが外れたような食欲を見せます。欲しがるままに多めに食事を与えれば、翌日一日中下痢や嘔吐に苦しむ。かといって規定量の食事では満足できず、私が在宅勤務をしている横で、一日中大声で鳴き立てました。そんな日々が数ヶ月続き、私は疲れ、苛立ち、およそ生き物と暮らす人間がすべきではないひどい仕打ちを数回、行ってしまいました。 騒がしい日々は、思いのほか呆気なく終わりました。腎不全とは別の持病のために食事に口をつけなくなり、みるみる痩せ細り寝たきりになり、看取りに備え家族も駆けつけました。それまで何度も持ち直した気力もどこへやら、かかりつけ医の余命一週間の見立ての翌朝、家族全員が起きてきて囲むやいなや、ため息をつくように彼女は息を引き取りました。 人生で初めて迎えた猫でした。家に子猫がやってきたワクワクだとか、1人泣いている夜に布団に潜り込んできた温もり、予想外のいたずら(賢い子でした)、嫌な治療にも決して人間を傷つけるような暴れ方をしなかった優しさ、温かな思い出がたくさんあるのに、あのとき自分がしてしまった仕打ちばかりがフラッシュバックします。 保健所から家庭に迎えられ、猫の平均寿命を全うした彼女を不幸な猫と呼ぶ気はありません。ただ自分のことが許せないです。彼女にも許して欲しくない、むしろ罰して欲しいとさえ思います。彼女を思い出すたび悲しくて愛しくて自分が腹立たしくてもう気が狂いそうです。触れたくて見つめたくて呼びたくてたまりません。失って初めてなんてあまりにも莫迦だと思います。 以下ご相談です。 週末には弔ってくださったお寺からお骨を引き取ります。こんな煩悩の塊のようなぐちゃぐちゃな状態では彼女に顔向けできないと思う一方、晴れやかに「今までありがとう」だなんて白々しいと思うのです。 私はどんな心持ちで彼女を迎え、また見送ればいいのでしょう?
今はまだ、世界規模で見れば幸福な環境の中に居ることがわかります。しかし、いつかは死ななければならないし、死んだ後はどんな残酷な世界に産まれるかもわかりません。この世界で起こっているあらゆる残酷なことが、いつかどこかの自分が体験する可能性がある。それが恐ろしくてたまりません。 この人生は、これから繰り返す過酷な自我の前の休憩地点でしかない、と最近感じるようになりました。自我を作っているのは脳味噌と感覚器官なのですから、自分が死んだ後はまた別の生き物の感覚器官が「自分」になってしまいます。だから、できるならばこの命が終わった後はもう存在していたくない、もう二度と物質的世界に生まれたくありません。 けれど、この「生まれたくない」「存在していたくない」「他者から加害されたくない」「とにかく自分の安全がほしい、安心したい」といった煩悩が強い中で成仏などできるのでしょうか。南無阿弥陀仏と唱えればお浄土に導かれるとも言われていますが、信じるのが難しいです。物質的世界とは違った世界があるという確固たる証拠があれば安心して生きられるのですが、そうではないから毎日を不安と絶望の中で過ごしています。 科学によって生き物の在り方が判明し、政治によって私達の未来はどうしたって暗いことが判明してしまいました。故に死を意識するようになり、死んだ後の残酷さに気づいてしまい、繰り返される死へと至る苦痛に怯えるようになりました。これは「死にたかった」私への罰なのでしょうか。 物質的世界の残酷さが強すぎて、精神的世界の温かさや理想論を信じられなくなっています。人間も動物なのですから、自分を守るためならどんな残酷なことだってします。こんな世界なのに、どうすれば「死んだ後は極楽浄土に導かれる」と信じることができるでしょうか。希望を持つことも何かをすることも怖いです。何をしようとしても、「途中で自分の人生が終わらされる」と感じてしまいます。家畜や戦争地帯に生まれる覚悟、できていますか? 私にはできる気がしないのですが、今の世界の仕組みを変えることもできないと諦めている時点で、この世界の残酷さに加担しているという罪を背負っています。いつかは世界のために自分を犠牲にしなければならない時がくるのでしょうか。 この世界の残酷さからは逃れられないという事実に狂いそうになります。どうしたってたどり着く先は絶望。
他人から言われた言葉に長い間昼夜苛まれて気分が悪くなったり自信がなくなったりしてしまいます。 私は元々強迫症気質で、ある考えに取り憑かれ苛まれやすいのですが、今もある言葉に2ヶ月ほど苛まれて困っています。今受験生で余計な煩悩で勉強にこれ以上支障が出るといけないと思い、つまらないことですがご助言頂きたく質問させて頂きました。 私は学校でも友達がいて、拙いながらも話せるのですが、コミュニケーションが苦手で中学からずっと自分で本を読むなりして努力してきました。友達からはコミュニケーションに関して言及されたことは最近はなく、そこそこ自信を持って話せるようになっていました。 しかし最近、大分年上の軽く恋愛的な関係にあった人に、親との出来事を相談していたら、貴方はドギマギと人と接するところがあるからね。と言われて、事実なのかもしれませんが、酷くショックを受けてしまいました。その言葉を思い出すと気分が悪くなり、少し人と関わる自信を無くしてしまいました。 以前に自分はコミュ障なのだとその人に話したら、貴方はコミュ障と言うけれど、ちゃんと話せるようになってきていますよと言ってくれて自信をもてたのに、一気に自信を無くしてしまった気がします。コミュ障と言われるより、ドギマギとしていると言われる方が何故か心に刺さります。 最近その人との関係のことで親とトラブルがあって、それでその人と最後に会った時にかなりコミュニケーションがぎこちなくなってしまったのでその時はドギマギして当然なのだと自分に言い聞かせても何故か嫌な思いが消えてくれません。 今の私自身の人との関わりに自信が持てなくなってしまいました。 心身への不快な症状が消えません。 一体どうしたらいいのでしょうか。 つまらない質問ですが、回答よろしくお願い致します。
以前、"結婚できなかった、これからの人生が見いだせません"で質問させていただいたものです。 それ以降もいろいろな人に支援をいただき、いろいろと考えてきました。しかし、どうしても考えは次のようにループするだけで、ちっとも考えが前に進みません。 私は40歳ですが、それまでいろいろと恋人を作りたいと努力はしてきました。お見合いも50人はしたと思います。しかし、女性と恋愛関係を構築することはとうとうできませんでした。私の周りで40歳にもなって恋人の一人もできなかった人は聞いたことがありません。もう、恋愛も結婚も無理だと思います。そして、もう残りのイベントは死だけだと思います。しかし、そのとても固定的な残りの人生をとてもつらく思っています。 一方、周りの人はほとんど結婚して子供もいます。先々いろいろあるかもしれませんが、幸せの選択肢を彼らはたくさん持っています。そして、私一人だけが残りの人生孤独が決まっています。 正直、周りの人たちが憎くてたまりません。私が生涯孤独ならば、人の結婚式はおろか、会社の飲み会にももう行きたくないのです。人の幸せを感じ、自分は一生孤独であることを自分自身で再認識することがつらくてたまりません。 ただ、問題も認識しています。どんな女性がいいのか?どんな結婚生活を送りたいのか?正直、あまりリアルに考えたことはありません。ですが、まず恋愛し、その人と一生いたいと自然にいたいなぁと思って結婚するということにあこがれるのは、40歳の老体にはあまりにセンチメンタリズムに過ぎるでしょうか? お世話になっている精神科の先生には「宿命を受け入れなさい」と言われています。けど、私には生涯孤独を受け入れられそうにありません。 なぜ、「人が結婚していれば、あなたも結婚しなければならないか?」とこちらで言われました。ですが、人と同じくらいの幸せを私も得たいと思うのは私の煩悩でしょうか? 仮に残りの人生死しか待っていないとして、どのようにすれば死を受け入れられるでしょうか?もし、幸せになれないのであれば、、、、。消極的に死がやってくればいいのになぁとすら思います。
初めて相談します。どうぞ宜しくお願いします。 私は現在コロナ渦の影響で、3カ月以上働いていません。そのような中で、自分の過去を見つめ直す時間が多くなりました。その中には、些細な事から重大な事まで、様々な出来事があるのですが、最も大きく心を占めるのは、約20年くらい前に、当時数ヶ月派遣されていた、職場の寮の近くのコインランドリーで、3回窃盗をしてしまった事です。「煩悩」のところにもう少し詳しく書きました。 その時は警察に捕まる事も無く、今日まで約20年間、同じ犯行だけでなく、性犯罪もその他の犯罪にも1度も手を染めたことはありません。 現在では、職場も変わり、結婚もして、子供も授かりました。家庭は決して裕福ではありませんが、毎日幸せに生きています。 ただ時々当時の犯行を思い出し、あの時は本当に酷いことをした、もしかしたら被害者の方々に気持ちの悪い、気色の悪い思いをさせていて、今でもトラウマになっているかもしれないと考える事はありました。あと今になって突然逮捕されるかもしれないとも…。 それでもそれほど深くは考えこまず、「あの時以来自分は同じ犯行を決して繰り返してはいないし、そういう衝動も無いから多分病気では無いだろう。心の中で被害者の方々に謝罪をして、反省をして、2度と同じ過ちを繰り返さなければそれで良い」と考えていました。 しかしながら、ここ2カ月くらいの間に、自分の心の中で、どんどんその罪悪感が大きくなり、どのように対処すればよいのか解らなくなってしまいました。堪らず妻に告白したところ 、「男性には誰でもそういう欲求があるし、反省して、同じ過ちを繰り返さなければそれでいい」と言ってもらえました。 ただそれでも、日に日に罪悪感は大きくなっていくし、被害者の方々に対して申し訳ないという気持ち、そして矛盾していますが、今でも犯行現場や寮の部屋になんらかの証拠が残っていて、明日にでも逮捕されるのではないかという恐怖が消えません。 私はこれからこの罪悪感や恐怖とどう折り合いをつけていけば良いのでしょうか?どうすれば前に進むことが出来るのでしょうか?それともまだ前に進んではならないのでしょうか? そして、ここまで気持ちが落ちてしまったのなら、精神科で診てもらうというのも1つの方法でしょうか? どうか良きアドバイスを宜しくお願いいたします。