私の生き甲斐だった娘が突然死で亡くなりました。 まだ17才でした。 娘に会いたくて会いたくて仕方ありません。 時々夢に出てきてくれます。そんなときはこのまま一生眠っていたいといつも思います。 私が死んだ時 娘に会えるのでしょうか
はじめまして ネットで何か質問をするのは初めてですので、拙いところ等あるかと思いますが話を聞いて頂けたら幸いです。 私は自分が嫌いで仕方がありません。自分がゴミのような存在に思えます。その理由についての自分なりの分析はできています。 私は幼少期から兄と自分を比べて生きてきました。まわりにそのような空気があったこともありましたし、兄を嫌っていたわけではないのですが、この人に負けるのは嫌だと思って生きていました。 ですが、中学受験の際、兄が合格した学校に私は合格できませんでした。その時に生まれて初めて自殺というものを意識しました。他人にしてみれば取るに足らない挫折の一つかもしれませんが、私にとっては特別な敗北だったのです。 また、受験期に継母の情緒が不安定になり、ちょっとしたことで暴力を振るうようになったことも死を意識するようになった遠因かもしれません。 中学に上がった後も無力感と絶望感に苛まれ、眠れない夜も多かったのですが、同時に前を向きたい、自分を肯定する何かが欲しいと思っていました。 その後高校に上がり進路について考える頃になると、幹部自衛官に興味を持つようになりました。初めて兄を意識せずに自分自身が興味を感じた道だったのですが、小児喘息持ちだったこと、他の進路もあるかもしれないと思ったこともあり、防衛大学校ではなく一般大学に進みました。 ですが、就活の段階になってもその夢は変わらず、結局一般大卒の幹部自衛官採用試験を受けました。結果は一次は通ったのですが、二次で不合格でした。 その後、一旦は民間企業に就職したのですが、諦めきれず会社を辞してもう一度受験しました。今度は必ずと決意したのですが、結局同じ結果に終わりました。 小児喘息だった(完治したかはわかりません)という要素が無意識のうちに自分の選択に迷いを生じさせたのか、あるいは生来の性格故かはわかりませんが、恐らく面接が敗因だと思います。 その試験は年齢制限のためもう受けることはできません。追い求めたものだったのに、ただ時間を無駄に過ごした、自分は自分の期待にさえ応えられなかったのだと思うと死にたくて仕方がありません。 私は異常でしょうか。 長文・乱文失礼致しました。宜しくお願い致します。
前回自死してしまった娘のことでご相談したのですが、 とある僧侶の方から自殺した者はすぐに仏様の元へ行くことはできないと考えている。なぜなら辛くとも最後まで精一杯生き抜いた人と途中で諦めた人が評価が同じではないからと言われました。 私はそうは思えません。 自死する人はみな心の病が原因だと思うのです。普通の精神状態であれば誰が自ら死を選ぶでしょう。諦めたのではない、それしかもう選択肢が無かったのだと思います。 心の病も身体的な病も同じものではないのですか。 また闘病されて亡くなった方でも生前に悪行ばかり行った方もいるでしょう。それでも自死してしまった人間がすぐには行けない極楽へ行けるのですか? 娘は苦しみ抜いて自ら死を選んでしまいました。 精神科へ通院入院もしていましたしカウンセリングへも通いました。それでも病は少しも良くはならなかったのです。 これも立派な闘病だと思います。 娘は生前、抗ガン剤治療で髪を失った方の為に長い時をかけて髪を伸ばしヘアドネーションへ32センチもの毛髪を寄付しました。 免許証の裏面の臓器提供の欄にサインしてあったのを知っていたので、死後に角膜提供もしました。 子供の頃から人の悪口を言ったり無責任な噂話をするのも嫌いな子でした。 親バカかもしれないですが、こんな心の美しい子が自死してしまったからと言って、生きるのを諦めたから生から逃げたから、病死の人と違うからすぐに極楽へは行けないというのは本当に哀しく気持ちの持っていきようがありません。 その僧侶の方は残された私どもの行い次第で娘は成仏するのだと言われました。私達が娘のために功徳を積むのは当然と考えますが、 だからと言ってそれをしなければ娘が成仏できないとは考えられません。娘の人生は短かったかもしれないけれど、立派に生きたと思います。 残されたものが功徳を積まなければ成仏できないのであれば天涯孤独で自死してしまった人はどうすればいいのですか。 自死を選んでしまった人間は本当にすぐには極楽に行けないのでしょうか。 私の前回の質問への回答を読まれてしまった同じような自死遺族の方々もショックを受けられるのではないかと心を痛めております。 自死を容認できないからと言ってわざわざ自殺と言う言葉を使う僧侶の方は回答なさらないでください。
初めて質問させていただきます。 読んでいただけたら、幸いです。 私には娘がおります。毎日、元気にしています。 そして、娘には5歳年下の妹がおりました。 元気でいてくれたなら、この春に幼稚園へ行くはずでした。 次女は生まれて五ヶ月で、亡くなりました。 突然死でした。 私は娘の死を、自分の腕の中で看取りました。 何故・・・ このようなことが起こるのでしょう。 私は・・・なにかとてつもない大きな罪を犯したのでしょうか・・・ 子供を亡くしたこの苦しみは、私の命が尽きてもずっと続くのでしょうか。 上の子のためにも、と毎日、奮闘しています。 泣くことも、落ち込むこともしないよう、毎日、家の中が暗くならないよう、 努力しているつもりです。 それでも、毎日が苦しいです。辛いです。 仏壇に飾った娘の写真・・・亡くなる直前に見せてくれたのと同じ笑顔。 会いたくて、会いたくて、会いたくて。また、娘を抱きしめたいです。 蜘蛛の糸のような・・・一筋の光があるならば、 この辛さ、苦しさの先には何があるのか。 導いてほしいのです。 乱文、申し訳ございませんでした。
はじめまして、30代半ばの男です。 現在、定職にも就き恋人も友達も普通におります(結婚は考えてません) とりわけ恵まれない環境ではないとは思いますが、人生に飽きがきました。 うまくいえませんが「絶望」ではなく「飽き」です。年齢的に人間としてもオスとしてもピークは過ぎて一番楽しい時期は過ぎてしまいました。 残りの人生上手に生きて、上手に老後を過ごして、上手に死ぬしかないのでしょうか。 自分なりの分析としては。 若いとき比較的恵まれていました、恋愛や遊びを人の何倍も楽しんだし、 「やりたいこと」はありますが「やりのこしたこと」はないです。 奥さんも子供もいないので自分が護るべきものもありませんし、今後死への足かせになる結婚を積極的にしたいとは思いません。 今は両親が健在なので、しっかり最期まで介護をしようと気持ちがありますが2人を送り出した後、本当に生きる意味を失ってしまうのではないかと思います。 一番いい時期を過ぎてしまったなら、数十年後に死ぬのも明日死ぬのもさほど変わりないように思えてなりません。
はじめて質問させて頂きます。 幼い頃にいつか自分も死ぬと自覚してから、死の恐怖に襲われます。 hasunohaにも同様の質問がたくさんあり、たくさんの回答を読ませて頂き仏教の宗教観にも触れ恐怖感が薄まることはあるものの、心の奥底にどうしようもない恐怖があります。 私が一番怖いのは、死んだら身体も意識も消滅し、全てが無になってしまうことです。私は今の生活をとても幸せに感じており、これが私や家族の死によっていつか終わるということがものすごく悲しく、おかしくなりそうです。そして、死後、私の意識は一体どこに行ってしまうのか、消滅するということは私にとってどのような感覚なのか(死んだら感覚なんてないと分かっているのに、感覚がないという実感がわからない故に不安になってしまう)と考えて、胸が冷たくなり、凄まじい恐怖に襲われます。 私が好きなものも全て手放さなくてはならないこの世界が憎く悲しく、最悪の世界だと思ってしまいます。 この恐怖から、今私が存在していることが気持ち悪く思えてしまうようになりました。いま意識があるという状態が気持ち悪いです。見てる景色がテレビのワンシーンのように思えるのに、そこから離脱できない自分が気持ち悪いような感覚になり、発狂しそうになります。 家族が大好きなのに、死ぬのが怖すぎて生まれたくなかったと思ってしまいます。こんな思いを自分の子供にはさせたくなくて、将来子供をつくるのも躊躇ってしまいます。生まれなかったら死ぬこともないから、そっちの方が断然幸せなのではないかと思ってしまいます。 そして、いつか死ぬと思うと、人生が虚無に思えます。なにをしても最後は死んでゼロになる。宇宙さえもいつかなくなると思うと怖くて叫んでしまいます。そう思うと本当に生きているのがしんどくて、いっそ今死んでしまった方が良いなどと意味のわからないことを考えてしまいます。 まとまりがなく、感情的な文章で本当に申し訳ございません。 私の意識は死んだらどうなるのでしょうか。そしてこの様々な恐怖はどうやったらなくなるのでしょうか。弱い私に、どうかご助言をよろしくお願い致します。
おはようございます。 今年2月に出産しました。 幸せなはずなのに今はなんかいつも心配事が離れません。 まずは自分のことですが、死にたくないって気持ちがやたらと強くなってしまい苦しくなる時があります。 理由は自分が両親を早く亡くした為、自分の辛かった事を思い出してしまい子供にはそんな思いをさせたくないからだと思います。 そうな事考えても仕方ない事は分かっています。 もう一つは保育園の事です。 経済的な事もあり0歳児から預ける事になりました。 親の都合で申し訳ないです。 こんなに早く預けてしまって万が一大きな病気をさせてしまったらと不安でしかたありません。 いつも最悪な事まで考えてしまいます。 自分の兄が2歳で亡くなっていて、それもあってか何故か命に対してネガティブになってしまいます。 頭では分かっているのに心がついていかない事があります。 どうしても家族の死を何処かで結びつけてしまう自分はおかしいと思います。 せっかく子供を授かって幸せなはずなのに、色々ネガティブになってしまい苦しいです。 もっと気楽にポジティブになれる様お言葉をよろしくお願いします。
こんにちは 何度か「死への恐怖」について質問させていただいてます。 あれから自分でも哲学書を読んだり宗教やオカルト、脳科学、神経科学などを調べてみましたが、自我や意識、記憶についてますますわからなくなって来ました。 死んで自我や意識が失われることが一番怖いです。 海外では死後蘇生のため遺体の冷凍保存や意識をネットワーク上にアップロードして不死を得るような試みがされています。 ただ、神経科学的には肉体と精神は不可分であり、死ねば意識が失われ、その意識自体も個体を生存させるための幻という説が出ています。 私はますます怖くなってしまいました。 「自分」というものを失いたくないです。日々変容していますが、確かにここに存在しているのです。死にたくない、滅びたくない、眠るのがこわい、と思ってしまいます。 病院で不安障害と診断されましたが、治ればそんなことを思わなくなるのでしょうか? 何度もしょうもない質問をしてしまってすみません。ただ、怖くて仕方がないのです。
高校以来ずっとつきあいのある友人のことです。 高校生の時、友人が突然休みました。仲の良かった私と数人だけが教師に呼ばれ、友人の父が自死したので欠席していることを知らされました。 私と友人たちはどう接すればいいのかわかりませんでした。 数日後、登校した友人は休んだ理由をはっきり話さず、父親が亡くなったことも口にしませんでした。私たちは知らないふりをしていつも通りに接し、結局卒業までそのままでした。 20年近くたち、最近になって友人が自ら「父が死んだこと」「自分がどう感じ、考えてきたのか」を口にするようになりました。お父様の自死にははっきりとは触れません。 私が当然知っていたと考えているようです。私も今さら驚いた風もしませんでした。 事実を知りながら、彼女の気持ちを放置したも同然な高校生時代からこれまでを思うを、今更どうすれば償えるのでしょうか。 今でもいい友人です。彼女自身はお父様の死を自分なりに昇華しているようにも感じます。 これまで通りで良いのでしょうか?恩のある友人です。今更でもできることはあるのでしょうか?
初めて投稿させて頂きます。 中学時代から引きこもり始め、高校には進学出来たものの、いじめられて上手くいかず中退。高卒認定試験を受けて大学卒業し、正社員として就職しました。 ですが、仕事をする中でミスをする事がたまにあります。その度に「死にたい」と思ってしまう自分が嫌になります。 どれも迷惑をかけてしまうものではありますが、多大な損害を与えたり、傷つけてしまうものではありません。 自分でも「こんな事で死んでしまうのは馬鹿らしい」「気持ちを切り替えて繰り返さないようにすればいい」と思うのですが、別のことでもミスをしてしまうたびに「死」という逃げ道を一瞬考えてしまうのです。 過去には恐らく鬱状態になっていた時期もありますが、今は本当に恵まれていて一時期しんどかった家族とも一定の距離が出来たので精神的にも落ち着いています。 きっと今後も自殺までする事は無いでしょうし、仕事も続けると思います。日々の些細な気持ちを上手く切り替えられるようになる為のアドバイスを頂ければ幸いです。
離れて暮らしていた父親が突然亡くなりました。いろんな事情があり、亡くなる直前すごく酷いことを言ってしまいました。その後、なんとなく元気の無い姿を見てしまい、心苦しくも仕方なかった事だと、自分の気持ちを抑えてきました。その後父は孤独死しました。父の突然の死は、私の行動が原因だったかもしれないと誰にも話しませんが思ってしまいます。そしてたまにいろんな辛さが押し寄せてきて、自分の欲求が全て無くなって、もういいかなと思ってしまうときがあります。死にたいとかではないですが、ふっと体の気が全て抜けるような感覚です。父も最後は今の私のような状態で亡くなったような気がしてならず、怖いです。 私には子供が居るのでしっかりしなければと思うのですが‥ どうしたらいいのでしょうか?
突然失礼致します。 昨年の1月、乳がんの手術を受け未だ闘病中です。そんな中、同年の7月に肺ガンで母が他界しました。母の肺ガンは4年前に手術をし快方に向かっていたのですが、転移をしなくなりました。亡くなる前の約2ヶ月自宅にて介護をし看取りました。漠然であるのですがその時死と言うものを意識していました。ですが昨年の12月にわたしの骨転移が見つかり、本当の意味で死が身近に感じる毎日です。主治医は今すぐ死に直結するものではないとおっしゃって頂けましたが…やはり余命を意識せざるおえません。 やはり私はバチが当たったのでしょう…もっと母との時間を大切にしていればと後悔するばかりです。 今とても辛いです。どうなるものでもない事も重々承知しております。 ただ…少しで良いので救いの言葉を頂ければと…何卒よろしくお願い致します。
いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。
祖父が嫌いです。四人兄弟なのですが私だけ祖父から嫌われています。 理由は昔から祖父は母のことが嫌いで、「結婚させるのも反対だった」と口癖のように言います。割と母親に懐いてた私はその事が原因で祖父を嫌いになりました。 四人も子供がいるので小学生の頃などは整理整頓が出来ず、散らかってばかりの部屋を見て祖父は「豚小屋」とか「あんな母親になるなよ」とか妹のことを祖父母は溺愛してるのですが妹が口をポカーンと開いてると、「口を開いてると眼鏡をかけたおばさんになるぞ」(母は眼鏡をかけて、鼻炎がひどいので口呼吸になりがちなんです)とか言ったりしていました。 それが本当に嫌で兄弟の中で私だけ祖父に反抗していて、口が悪いですが「うるせー黙れ」と言ったり していたせいで嫌われました。 母親が接客業で年末年始は帰りが遅くなり、洗い物をしてないと祖母がやるんですが、それを見て祖父は「それは母親の仕事でお前がやることじゃない」とか言ったりします。とことん母を毛嫌いしてますね。 兄弟格差も数え切れないほど色々あり、私嫌われてんなーと思ってしまいます。 別に嫌われてることに関してはなんにも思いません。今更って感じですから。 質問なんですが私はよく心の中でですが祖父に対して「早く死ね」って思ってしまいます。それっていけないことですか?人の死を悲しむことは良いことですけど、人の死を喜ぶ事はいけないことなんですよね? 不謹慎な話自分が大学進学するまでには死なないと思うので、大学進学して県外に出てった後に死んだらお葬式に出るつもりはありません。 なんか私って本当に醜いですよね??兄弟の中でもひねくれ者ですし、頭が良かったら反抗もせず聞き流してたのかなと思います。 小学生の頃から高校生になった今まで「じじい死ね」と心の中で思っていますが、自分って幼稚なんだなと思いますし、なんかそんな自分が嫌になります。
先月、2カ月の娘を亡くしました。 これから先、49日などの法要をしようかどうか悩んでいます。親は「してあげなきゃ、〇〇が可哀想だ」と言っています。 もちろん毎日手を合わせることは欠かしていませんし、娘のことをいつも思い出しています。 主人も、「〇〇のこと、思い出して毎日手を合わせているから、別にお経を読んでもらったりとかする必要はないと思う。供養の形は色々あっていいと思う。」と言っています。 また、遺骨をお墓に入れることも躊躇しています。(幼くして亡くなったし墓に入れられるのはちょっと、、、と思いますし、正直ずっと一緒に居たいというのもあります。)
はじめて質問いたします。 先日、祖父が亡くなりました。 小さい頃たくさん遊んでもらった楽しい思い出ばかりが思い出され、祖父のことを考えると涙が溢れてきます。 亡くなった顔がとても綺麗で、綺麗すぎて、ああもう違うところへ行ってしまったんだ、と思いました。 もっと会いに行けばよかった、自分の名前を呼んでほしかった、と後悔の思いがあります。 ただ、闘病、介護生活が長かったため、祖父も大変だったろうな、ようやくゆっくりと休めて、自由に動けるのかなとも思います。そう思いたい気持ちもあります。 しかし、祖父にもう会えない、と思うと信じられないし信じたくないと思ってしまいます。 また、祖父の死から、自分にとって大切な人たちにはいつか亡くなる日が来てしまうんだ、そして自分は今後それに向き合わなければいけないんだということを実感しました。 でもそんな日が来るのがとても怖いです。昔に戻りたい、と思ってしまいます。 それでも時間は進みます。しっかりと向き合っていかなければならないと感じます。 どうしたら人の死を受け入れられるのでしょうか。
こんにちは。領といいます。 私は小さいときから虐待を受けて育ちました。 それまで誰にも気付かれることなく、そして自分でも虐待だと思わないまま18まで過ごしました。 ある時から胸が急に酷く痛み、息も出来なくなることが続くようになり、だんだんと体調が悪くなっていきました。 自分ではないもう一人の誰かが心の中に居るように思えてきたのもこの頃からです。 そして今年4月に就職しましたが仕事場でイジメがあり、ついに日の光が浴びられなくなりました。 そのあと大量服薬をして、かつぎ込まれた病院で受けた診断は統合失調症と解離性同一性障害とパニック障害でした。 いまは退院して仕事もボランティアという形でしていますが、どうしても息が詰まるような、生きにくい感覚に襲われます。 でも誰かに相談などできないので、気持ちがまた死に傾いてしまいます。 どうすれば良いのでしょうか。 死が怖いという訳ではないのですが、死ぬことを考えると酷く息が詰まり体を動かす事が出来なくなります。
28歳、独身、一人っ子です。親元を離れ東京にいます。地元は飛行機で1時間ちょっとの場所にあります。 最近将来のことを考えると辛く、1人で家にいる時、常に涙が出てきてしまいます。 結婚もしておらずひとり、彼氏もいません。婚活も上手く行きません。 一人っ子であり、両親は高齢出産、親ととても仲が良かったこともあり、段々歳をとってしまう両親を見ていて、いつか死んでしまったら自分は1人になってしまう、そんな想像をするとさらに涙が止まりません。仲良しな親に申し訳ないのですがなんで生まれてきてしまったのかな、死にたいとまで思ってしまいます。 また、本当は地元に帰りたいのですが、地元は田舎で結婚適齢期24~25歳。自分が地元に帰っても結婚もできずに孤独死するんじゃないかということまで考えてしまい全てがネガティブな方向にしか考えられません。 まとまりのない文章になりましたが、親にも友人にもこのような悩みを相談することが出来ず相談させて頂きました。
あけましておめでとうございます。 初めての投稿です。 妻子と死別して10年が経ちました。と言いましても子は妻のお腹にいましたので、顔さえ知りません。 僅か25ヶ月の結婚でした。 その時は神仏さえも怨みました。 私への罰なら何故私に与えないのか、 まだ生まれてさえいない子に何の罰があるのか? その後少し見方を変え、他の人を少しでも助けることが出来れば供養になるのはと思い職を変え、被災地の障がい者や子どもの支援に没頭しました。 しかし、埋まらないものが大きすぎて特にこの時期はふとしたことで涙がこぼれます。いつまでこの埋まらないものを抱えていけばいいのだろう。 我欲なのでしょう。早く迎えに来てくれないだろうか。それともこちらから彼方へ行くことを待っているのじゃないか。 ふと自死が頭によぎります。 仏様から見れば、人の一生など刹那のことかもしれませんが、しかし人にとっては無限に等しい時間であります。 苦しみから逃げるのは悪なのですか。 自死は悪なのですか? みなさんの視点からは仏への冒涜の言があるかもしれません。 無知ゆえとお許し下さい。
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。