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自分自身の価値が見出せません。

はじめまして。 ご質問させていただきます。 私は小さいころから、両親に褒められたことがほとんどない状態で育ちました。 テストで100点とっても「続かないと意味がないのよね」と言われたり、世間では難関と言われる大学に合格しても「何で第一志望落ちたの?」と言われたり。 「何をしても認められることがないんだな」と思うと、自然と口癖が「死にたい」になっていきました。 そのうち、難関資格の勉強をしていたときに躁鬱病を発症し、倒れました。 その時に言われたのは「何やってるの?」の一言。 打ちのめされました。 そんな私でも結婚はできるもので、今の主人と結婚することになりました。 でも、「自分になんて結婚してもらうだけの価値があるのだろうか、自分は死んだほうがいいんじゃないか」と思うと、「死にたい」という口癖が消えることはありませんでした。 この前主人から「お前が『死にたい』というのをもう止める気力もなくなった」と言われました。 見捨てられたんだ、と思いました。 「だったら死んで、保険金残したほうがいいでしょ?」と真顔で言ってしまいました。 はっきり言って、「死にたい」ということを口癖にすること自体が甘えと言われても仕方がない、とは思っています。 生きていたくても生きられない人がいるのに、そういうことを口にするのは罰当たりであることも頭では理解しているつもりです。 ただ、私は自分が生きていることに価値を見いだせないのです。 自分が生きることで誰かが救われるのか、誰かを幸せにできるのか。 まったく自信がありません。 昔から勉強はできるほうだったので、派遣会社の人がびっくりするような資格もいくつも持っています。 でも、「こんな資格持っていても使えない自分じゃん」と思ってしまいます。 いっそ、自殺して脳死状態になったときに、臓器提供して移植を待つ患者さんのところに自分の臓器を届けたほうがよっぽどいいんじゃないかと思う今日この頃です。 自分自身の価値を見出す方法を教えてください。 そんなものない、ということでしたら、人間の価値というものについてどうお考えか、お聞かせ願えれば幸いです。

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回答でとても傷ついてしまいました

以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。

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死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

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