男の子二人の母親です。 上の子が幼稚園で頭を縫う怪我をして、翌日には下の子が自宅で頭を切る怪我をして縫いました。 立て続けで、怪我をした場所が二人共頭の左前部分(額の左上)の同じ様な場所だったので、気になっています。 数日前に無事に抜糸をして、今は二人共元気です。 実は、上の子を授かる前に、二度流産しました。 主人と結婚して、夫婦で子供を強く望んでいましたが、残念ながら二度の初期流産を経験しました。 とても哀しくて、ネットで調べたお寺で二人の水子供養のご祈祷を一度受けて、その後は毎年二人の命日(流産の処置を受けた日)に、家族でそのお寺の水子供養塔の様な所にお参りに行っています。 ご祈祷を受けた際に、住職から、近い内に子宝に恵まれるから、大丈夫ですよ。と、言って頂いて、実際に二度目の流産の二ヶ月後には上の子の妊娠が判りました。 又、二年近く前に今の新居を購入して入居した直後に、下の子の妊娠が判りました。 水子、新居が今回の怪我と関係あるのか、水子やご先祖様からの何かメッセージなのか、とても気になります。 どうかアドバイス、宜しくお願い致します。
先日、同棲の挨拶で彼氏が家に挨拶に来てくれました。両親とも和やかに話をして、共に食事をし、楽しいひと時でした。 しかしその挨拶が終わり2人きりになった時の彼の一言が心から離れません。 私の母のことを、「私の劣化版」と呼んだのです。いつも穏やかでとても素敵な彼です。この言葉にも悪気はなく、その言葉を聞いて泣いてしまった私におろおろし、何を言ってしまったか分からない中謝ってくれました。とっても優しい素敵な彼です。でも、この日のために料理を考え歓迎してくれた母を思うと許せません。一生忘れないと思います。この気持ちをどのように消化したら良いですか。
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。