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検索結果: 165件

急逝した母と残された父

先月実母が急逝し、心の在り方、家族の在り方についての悩みです。 本当に突然亡くなってしまい、母を思い出す度に辛いです。 喪失感がいまだに埋められません。 聖人君子とまでは言えませんが、私にとってはかけがえのない優しい母でした。 私の結婚が遅く、孫をわずか一年しか抱かせてやれなかったことが悔しくてたまりません。 母を大切にしていたつもりでしたが、もっとしてあげられた事があったのではないか、なぜ病気の兆候に気付いてあげられなかったのか、と慚愧に耐えない思いです。 私は実家を出て、借家住まいです。(実家から車で30分の距離) 実家は田舎にあり、非常に保守的な地域・価値観で育ちました。 長男は実家を継ぐもの、という価値観が根強く残っています。 然しながら、実家が過疎地なこともあり、我々夫婦の老後や娘の学校を考えた場合、もう少し都市部で生活したく、家族で話し合った上、現在私のマイホームを建築中です(借家近く) 生前母は建築に賛成してくれていました。 資金援助までしてくれたほどです。 父は渋々ですが了承済です。 父は仕事は現役なので収入もあり、生活能力もありますが、やはり一人にすることが心配です。 内心寂しいのではと思います。 隠れて泣いているようです。 現代では一人暮らしの高齢者は沢山居られると頭では解っていますが、夜一人になってしまう父を思うといたたまれない気持ちになります。 私の勤務地と実家が近く、毎日様子を見に行く事は可能です。 丁度私に栄転の話もありましたが断り、せめて現在の勤務地を続けるつもりです。 実姉は独身ですが、激務で週一回の帰省が限界です。 父は予定通りマイホームは建てれば良いと言ってくれますが、父を1人にしたくないという気持ちも出て来てしまいます。 かと言って、実家の地域で暮らすことは、私達夫婦と娘の人生を長い目で考えれば、厳しいと言わざるを得ません。 堂々巡りです。 父は地元にしっかりと根付いており、近所づきあいも深く、友人も沢山いる為、我々の家に父を呼ぶことも難しいです。 私の描いていた未来は、全ては母のおかげで成り立つものだったのかも知れません。 私が母に甘えていたのだと痛感しています。 母のいない寂しさ、今後の家族を思うと不安でたまりません。 ご助言頂けますようお願い致します。

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いつか1人になるのが怖いです。

私は両親と、姉と暮らしています。 もちろん未婚です。 両親も年齢を重ね、体調崩す事が増えてきました。その度に、いつか1人になる…と思い怖くなります。 父か母どちらかがいなくなると仕事も続けられなくなるなぁ…とか、姉は障害を持っている為、両親が倒れたら、私は何からしたらいいんだろう…とかばかり考えて不安になってしまいます。 生活環境もがらりと変わるでしょう… 仕事に関しても、一応管理職となり、長期のお休みももらいにくい職場です。 以前は難病の父の心配ばかりでしたが、最近は母の体調が悪く、検査をする事になりました。 母も歳をとって来たせいか、気持ちも弱くなっており、支えて行く私の方が辛くなってきています。 それでも、家族の前では明るく笑顔で、仕事場でもいつも通り元気な姿で頑張っていますが、本当は辛くて仕方ありません。 「私がしっかりしなきゃ」と思えば思うほど、正直しんどいし、恐怖と不安でたまらなくなります。 最近若くして無くなった俳優さん。 特別ファンではありませんでしたが、何故か頭から離れません。 自死はいけないことかもしれませんが、自分が楽になる為の1つの手段だったのかなぁ…と思ってしまいます。 もし楽になれるなら、その選択もありなのかもしれない。 でも、私がここでいなくなる訳にはいかない! この2つの思いが頭の中をグルグル回ってとても苦しいです。

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

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