最近初めて座禅会というものに参加しました。 そこでの座禅の目的は、自分の歩む道を見つける為に自分を見つめる。浮かんだ煩悩はちぎって捨てる。無明を捨てれるように煩悩を捨てる、と教えて頂きました。 座禅をしながら自分の反省点を浮かべては、あぁ、ここが悪いから煩悩だ。と悪い点を思い浮かべ捨てるようなイメージ。その繰り返し。 お家でも数分間ですが座禅をしていますが、果たしてこんな感じの座禅でよろしいのでしょうか。 自分を見つめ直し道を見つけるということが難しいように思います。ただ反省点を思い浮かべ捨てるだけ。 どのように座禅と向き合えばよろしいのでしょうか?どのような考えで座禅をしていけばよろしいのでしょうか。座禅について教えて下さい。
いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。
人間は欲のかたまりです 真面目の人間 いい人間が損をする 欲深い人間は幸せそうです わたしも煩悩があり こいつらが裁かれないなら わたしも欲のまま生きてみたい と思います この世の煩悩とはなんですか? 煩悩を捨てさったときの幸せと 欲だらけの幸せ どっちが幸せですか? 幸せになりたいです よくだらけでも 裁かれないと なんでもありなんですか? 幸せになりたい
自分が人間であることに疑問を持ってます。 他に生きものはいるのに人間というものは欲深い生きものだと思ってます。 仏教にも人間は煩悩があると本を読んだり人から知りました。 それを聞いてても不思議に思うのです。確かに人間は欲深いけど全てが悪いわけではなく人間には人間の良さがある。全ての生きものにも良さがあるとわかっておりますが…どうしても欲深い煩悩があることが苦しく感じます。 自分の人生に区切りができた時に今いる世界から離れて出家して人生というものは何なのかを改めて落ち着いて考えたいと思ってます。 煩悩を受け入れるべきなのか自分を見いだすべきなのか周りをみて相手の立場になって考えるのか…どれなのかもわかりません。 なんなのでしょうか?
はじめまして、瑠璃と申します。 私は子供が大好きで、また、子供を育てる全ての方々を尊く思います。 しかし、私は生きることは苦であるということを徹底的に思い知ってしまっため、子供を産もうと思いません。 そして、子供を産む意志が無いことを結婚を前提にお付き合いさせていただいている方にお伝えしたところ、私との別れを考えているようです。 私は、生きることが苦であると知って安心しました。 煩悩を捨てる、お釈迦様の道を歩みたいです。 それなのに、まだ少し、お別れは辛いです。 お知恵を拝借出来たらと思います。 よろしくお願い致します。
自分の執着の強さがとても辛いです。執着を感じた時に乗り越える考え方を教えてください。 同期後輩と比べ決して実力では劣っていないと思いつつ周りが自分より恵まれた環境にいると感じて嫉妬してしまいます。 目の前の仕事に集中しようと思ってもふとした瞬間に執着に囚われ、ウジウジとした自分に自己嫌悪してしまいます。 すでに結婚して子供ももうじき生まれ、幸せを感じているはずなのに女性への性欲が捨てきれません。 妻に申し訳ないと思いつつなんとかして周りの素敵な女性と深い仲になりたいとウジウジ悩んでメールしている自分に自己嫌悪がとまりません。 一番の問題はすぐにウジウジ悩む自分の性格てあることはわかっております。 また簡単に煩悩が捨て去れないこともわかっておりますがどうやったら執着をなるべく持たないような考え方になれるのか、 またもし執着が邪魔してウジウジと悩んでしまった時、どうやったら乗り越えられるのか教えてください。
おかしな話ですが、幸せな分自分が何故生きてゆくのかわからなくなりました。 実親はアルコール依存症が原因で離婚し、もう10年以上会っていません。会いたいとも思いません。 私の方の事情を受け止め、結婚した夫と子供がいます。 幸せです。 過去に色々あったけど、今は幸せ。本当に実感しています。 壊れた家庭に育った分、今築いている家庭が一番大事です。 でも、ふと思うのです。 もし夫と子供がいなくても、私自身は生きて行く訳で、私自身はどんな生き方をする人間なのかな、と。 妻であり母である自分の一部を取り除いたら、棉ほこりやこびり付いて乾燥したヘドロのような、つまらない過去の記憶しかない、つまらない人間のような気がします。 自分の個性を失っているような、自分自身の輪郭がぼやけているような漠然とした疑問が付いて回っています。 夫と子供の為に生きているからいいじゃないか、というのは模範解答のような気もしますが、私自身を捉えなおしたいという気持ちがあります。自分は何者なのかと漠然と考えてしまいます。 これは煩悩なのでしょうか。幸せにうもれで没個性になっているような感じです。何かお言葉をいただけたらありがたいです。
世の中には、たくさんの素晴らしい宗教と、たくさんの素晴らしい神様・仏様がいらっしゃるのに、何故、(宗教対立も含め)戦争はなくならないでしょうか?繰り返されるのでしょうか?これは私の、幼い頃からの疑問であり、永遠のテーマの1つです。是非とも、いろんなお考えをお聞かせ下さい。
こんばんは。いつもお世話になっております。 誰に対してもというわけではないのですが、特定の目上の人物に対してとても萎縮してしまい、ビビってしまいます。 相手は私のことを想って時に厳しく、時に優しく導いて下さるので悪意がある方ではないのですが、私の受け止め方がどうしても「怖い」「なに言われるんだろう」とビクビクして構えてしまうのです。 これを克服したくて色々な方に相談したら、ネットで調べたり、本を読んだりしているのですが一向に改善されず困っております。 その方とは今後も関わっていきますので、どうにかしてこのビビる心を変えたいです。
今まで私の煩悩を聞いて下さりありがとうございました
最近、特定の性別や人種、特徴などを否定する風潮が広まってきているような気がします。 人種に関するヘイトスピーチのデモやその類の出版物はもちろん、ネットでの”○○叩き”もひどいものです。テレビでも「これだから○○は〜」みたいなネタで溢れていて、疑問を感じます。 以下はあくまで私の意見なのですが…。 人には確かに、男とか女とか国籍とか、区別があり、生まれつきどこかの集団に属しています。でも結局は一個人であって、○○だからこうだ!というのは無いと思うのです。 性格などの違いから、あの人は嫌だ、と思うことはまだ納得ができます。でも、あの人が嫌だからあの人の属している集団もみんなそうなんだ、となり、それを叩く理由がわかりません。しかし、世の中にはこういうことを言っている人がたくさんいます。 そう言っている人にもその人なりの考え方があって、それ自体を否定したいわけではありません。 誰が加害者で誰が被害者か、なんてことがよく分からずもつれあい、表現や思想がより過激になってしまう事が恐ろしいのです。 意見を主張することは、素晴らしいことです。しかし、主観だけの暴力的な考え方が、結果的に多くの人を傷つけてしまうのを見るのは、私はもう嫌になってしまいます。 この世の中において、お互いを個人として受け入れ尊重する人が増え、冷静な主張や討論をしてほしいと思います。 わかりにくいことをずらずらと書いてしまい、申し訳ありませんでした。私の意見の中でそれは違うのではないか、という部分があれば遠慮なくおっしゃってください。 最後に質問です。 お坊さんは、最近のこういった風潮に関してどう思いますか? また、これから未来を背負って立つ私たち学生は、何をしていけば良いと思いますか? よろしければ、回答やアドバイスをお願い致します。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
お忙しいところ、申し訳ありません。 最近は、世の中が不穏な気がします。 前よりも良くなっていることもありますが、自分が騙されやすいということと、自分がポルノ作品を過去に見てしまったこと、そして事件等のせいで、この世の全てを疑わないと生き延びられないように感じるようになってしまいました。さらに、信用するためには、疑わないと真実を見抜くことができないという考えもあるからです。 逆に信じているのは、家族の言葉と、この人間界のシステム(因果応報)です。 しかし、それ以外がもう信じられません。 ですが、どうしても気になることがあります。 仏教では、疑心暗鬼、疑うことは罪にあたりますか? このせいで、地獄には行きたくありません! どうか教えてください…!
こんにちは。いつもご丁寧な回答ありがとうございます。 さて、本題なのですが、欲とはどうすれば制御できるのでしょうか。私の場合は、 性欲が強く、自分の性欲を満たすためならなんでもするというほど性欲が強く、たびたび悩まされています。 これは友達に指摘され気付いたのですが それまでは自分の性欲の強さを理解しておらず、指摘され意識するようになりました。 また、性欲に限らず欲や煩悩が多い性格でもし無くせるなら無くしたいと思っています。 お坊さんは悟りを開かれているとお聞きしました。煩悩の塊のような私にも悟りを開き欲を制御する事はできるのでしょうか。
林真理子さんの「野心のすすめ」という本が70万部突破と書いてあったので、書店で買って読んでみました。 題の通り野心をもちなさいという本なのですが、読んで私はとても共感し元気にもなりました。上を目指して常に挑戦していくことは大切だと思います。 そしてこの本の中に、何かを手に入れるとまた欲しくなる。煩悩が大きすぎて全部捨て去れないからこそ野心を持てるというようなことが書かれていました。 煩悩って除夜の鐘で叩くのもあって、持っていてはいけないものというように教えられた感じがするのですが、野心を持って上に行きたいということはだめなのでしょうか?私は林真理子さんの本に励まされたので、もっと欲しいと思う気持ちを持つことは人が成長するために必要だと思います。 いかがでしょうか?
何度も回答を頂き有難うございます。あれからもうすぐ4ヶ月位になりますが、お陰さまで主人も大分元気になりまして会話したり、怒ったり、食事も左手で三回普通食に戻りそうですし、リハビリも頑張っていますが、トイレもリハビリで頑張っていますが、夜中はオムツなので苦しいみたいです。私達は夫婦二人なのですが、もちろん頑張って生きていかねばと思いますが、私は今まで主人に頼りっぱなしで生きてきたので、悲しくて寂しくて仕方ありません。もちろん主人の為に私が頑張らなくてはいけないのですがかたくるしいですが生きてゆく心構えというか子どもみたいに弱い私に教えて下さい。これから先が不安です。宜しくお願い致します。
3月11日震災の日が近く、ある女性の手記を目にしました。その女性はお母さんと一緒にいる時に津波が来て逃げようとしたところ、お母さんは瓦礫に挟まり身動きが取れなかったそうです。 でも津波はどんどん迫ってきて、女性はお母さんを置いて逃げる事しかできなかった。その気お母さんは、「待って!行かないで!助けて!」と、ずっと叫んでいたそうです。女性は「ごめんなさい…ごめんなさい…どうか許して…」と、胸を引き裂かれる思いで避難したとの事でした。そしてお母さんは遺体で見つかったと…。 9年経つ今でも、ずっとお母さんの声が頭から離れず苦しんでいらっしゃいます。一緒にいてあげれば良かったのか、何とかできなかったのか…という思いが何度も押し寄せるそうです。 少し話は違いますが今まで質問させて頂いた通り、まもなく私には赤ちゃんとお別れした日がやってきます。それに加えて震災でのこうした手記などを読み、最近は命や魂が救われているのかをよく考えます。 この世に生まれる事なく空へ帰った赤ちゃん(水子様)は一切の恨みや煩悩は無く、私などが思うより限りなく純粋な魂であり、母が幸せに前を向いて生きていく事を望んでいるとハスノハで学びました。本当に尊いです…。また、煩悩などは生まれてから大人になるにつれて身に付くものだとも学びました。人間には生きたいという本能があると思います。だから女性のお母さんは、そう叫んだのだと思います。 赤ちゃんはこうした気持ちは持っていないかもしれません…。でも女性のお母さんの魂や思いは、仏様に救われているのでしょうか?本能でその瞬間は助かりたいと叫んだのだと思います。でも、娘さんである女性がずっと苦しむ事を望んでいるわけでもないと思うのです…。女性が間違った行動をしたとは思いません。自分の事もお母さんの事も、助けようと必死だったはずです。私なんかがとてもおこがましいですが、自分とリンクして考えてしまいました。赤ちゃんを助けたかった、本当は自分が死んでもいいかは産んであげたかったです…。それができなかった酷く愚かな母です。 でもそんな私を清らかな赤ちゃんは受け止めてくれていると学びました。女性のお母さんも今は救われているのでしょうか?女性を恨んだりなどしていないと信じたいです。 長々とすみません。色んなご意見をお聞きしたいです。
福沢諭吉さんの有名な言葉の中で 「世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です」 というのがありますが、久しぶりにこの言葉に遭遇して、ハッと我に返りました。 競争社会の中でいつの間にか他人の生活を羨んでいたなと。いつも忘れないようにしたいと思います。 この他に世の中で醜い事って何がありますか?
おはようございます。 前回に引き続き浄土真宗の教えについて質問させて下さい。 吉武文法様の御回答より引用 〉「覚りの世界に触れさせていただく」の具体的な相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。御念仏を申すところに阿弥陀仏の願いを聞き、智慧がはたらくことを感得する。 〉それは私自身が「まこと」になるのでなく「念仏のみぞまこと(歎異抄)」であるという感得により「まことならざる私」が明らかになるという形での覚りとの接触です。 かなり乱暴ですが、例えるならウサインボルト(阿弥陀様)の存在を知る事によっていかに自分は足が遅いか、まだまだダメな存在(煩悩にまみれた存在)かという事に気づけば、具体的な距離として自分のダメさに気づく事ができる。 そのダメさに気づく事ができれば、もっと練習(修行やお念仏)をしよう。と具体的に問題が解決に向かう知恵が出る。 という様な事なのでしょうか? どうも私の理解力が不足している様で、前回の御回答を通して「凡夫の君には煩悩をなくす事はできないのだから、生きている間は煩悩まみれの苦しいままでいるしかないじゃないか。」と言われている気がきました。 それとも、死後は極楽に往生するという教えを苦しんでいる「今」の私がお念仏を通して触れさせて頂いたとして 「死ねば確実に苦しみから免れる事は約束されているのだから、今苦しくてもいつか終わるじゃないか!苦しみながらでいい、気楽にいこう!それをいつも忘れない様に南無阿弥陀と唱え、覚りに触れ続けましょう!」と仰っているのでしょうか? もしトンチンカンな事を言っているようならば、ハッキリと仰って頂いてかまいませんし、回答者様の個人の味わいで問題ありませんので、お手数ですが御回答下されば幸いです。
はじめまして。 年末に旦那の浮気が発覚しました。 既婚女性とのお互い好きだなと思うメールがあったり。仕事で帰れないと言った日に会っていたり。 ただ問い詰めると一度だけ酔っていて覚えてないが身体の関係が、あったかもしれないと言われました。 その後はなんどか飲みに行ってるが、本当に何もない。との事です。 旦那は浮気をした時もしてない時も普段と変わらず私を大切にしてくれます。 優しいですし、愛情表現もしてくれます。だからこそ 旦那が浮気なんて考えもしてなくてショックで 今だに信じられません。嘘をついてまで会ってて 彼女にも私にも好きと言っている旦那が信じられません。 今は彼女とも会ってなく 私と子供を愛してるからもう一度やり直して一緒に居たいと言っています。後悔はあるようです。 ただ旦那への愛情はほとんどなく、優しくできない時やイライラしてしまう事が多々あります。愛情も尊敬も信頼もなくなった人と一緒に居るのは精神的につらいです。 今はこの事をストレートに言うべきか 迷っています。どうしたら穏やかな日々と気持ちが落ちたりしない日々をとりもどせますか? どうかアドレスよろしくお願いします。