いままで培ってきた経験に基づいた性格は 変えられるのでしょうか。 いくらがんはったところで、既に周りの人に与えてしまった自分の印象は変えられないのではないかと…
前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。
こんにちは。 ちょっとしたことをズルズル引きずってしまい、悩んでいます。 私は怒られることがとても苦手です。 怒られると心臓がバクバクしてしまい、顔が赤くなって泣きそうになってしまいます。 「どうして怒られてしまったのか」 「次から気をつければ良い」 と、前向きに、冷静に対処しなくてはいけないのですが、どうしても恐怖心に負けてしまいます。 つい先日、高校の同好会で、遅くまで学校に残りすぎて怒られてしまいました。 こんなちっぽけなことが、どうしても忘れられません。 「すぎたことをくよくよしても仕方ない」 と思っても、嫌な気分がどうしても残ってしまいます。 今後の活動で影響は出てしまわないか、先輩方に迷惑をかけてしまわないかと、不安です。 先輩にも謝りました。先輩は、特に気にしていないようで、気にしないでと言ってくださいました。 怒られるということに対して、どのような見方、考え方をしたら良いのでしょうか?
何もする気が起きない時 何をやってもだるい時 こういった気持ちになった時お坊さん達はどのように対処しているのか、その対処法を教えてはもらえないでしょうか?
お付き合いをしはじめたばかりの彼がいます。 でも、緊張してしまうのか、沈黙がコワイのか 「どうでもいい話」ばかりしてしまいます。 例えば、別れた夫の話。 彼には関係のない 私の友人の話。 彼は、聞き上手なのか 私のことを少しでも知りたいと思ってくれているのか、ずっと私の話をニコニコ聞いてくれていますが、 ふと気付くと 「どうして私、こんな話してるんだろう?」 と思って 悲しくなります。 もっと彼のことが知りたいのに、気付くと私のどうでもいい話で もちきりになります。 もともと、人づきあいがあまりうまくなくて、それをストレスに感じてしまい、別れた夫からも グチばかり言う女だ といつも言われていました。 カウンセラーさんにお話に行ったり、お寺をお参りして心を軽くしようと日々努力を積んでいますが、どうでもいい話をする癖が治りません。 離婚後も何人か男性と知り合いお付き合い直前まで進んでも 「話が重い」と言って別れを切りだされたこともあります。 ようやく、きちんとお付き合いが出来る人が現れ もう失敗したくない・・・と思うと余計に それに緊張を感じて どうでもいい話をしてしまうことに、後悔ばかりして お会いして帰ってきても 「また振られるかもしれない」という不安に襲われます。 お坊さんは、いつも ご説法をされるときに 限られた時間できちんと大切なことをまとめてお話をされていて お聞きしていても、すごいなぁと感心させられます。 どうでもいい話をしなくするために お話をする時のコツや、 要領よく 大切なことを話す方法、 相手のことを丁寧に聞き出す方法などを教えてくだされば幸いです。
こんにちは。ご質問させていただきます。 気分が落ち込みがちなので、ポジティブ思考指南のHPや書籍などを読むようにしていましたが、最近読むと疲れを感じるようになりました。 無言の『押しつけ感』に疲れる、という状態です。 さりとて、明るく過ごしたい気持ちは募るばかり… こんな時のより良い対処法を、ご指導頂きたいと思います。
嬉しいはずの新築を建てますが世帯主が43歳で今からローンを定年以後も払い続ける事を考えると心にゆとりがありません。 人間なので前向きに考えるときもあれば、気持ちが沈む日もあります。 気分転換すればいいのでしょうに。と思われるかもしれませんが気分転換する気にもなれません。 どうしたら良いでしょうか?
私は大学卒業後1年間資格取得のためアルバイトをしながら勉強をしてきました。先日試験があり採点したところ不合格の点数でした。 私の家は母子家庭で母は苦労しながら大学に通わせてくれました。私も少しでも負担が減ればと思い奨学金を借りました。 なのに今回このような結果になり母に大変申し訳なく、親不孝者だとつくづく思いました。母は来年も受けてみたらとは言ってくれました。しかしまた落ちたら…と思ってしまう自分もいます。心が重く辛いです。
農家の嫁です。手作りのものが好きで、パン・ジャムや梅干し、つくだ煮などを作って、友人にあげることがあります。 それは、「おすそ分け」の気持ちです。我が家では食べきれないこともあるし、今の時代では手作りは珍しいこともあり、食べて、味わってほしいなぁと思うこともあります。 先日も、自家製の天然酵母のパンを焼き、いっぱいあったので、友人数名にあげました。 ある方は、お菓子を持ってきてくれる人もいれば、お花をくれた方も。 しかし、別の友人から「お金、払うよ?いくら?」と聞かれて、困ってしまいました。 あくまでも、手作りが好きでやっている。手作りでしか出ない味を楽しんでほしいだけで、お金という価値で置き換えられません。 友人には「今度、何かをおごってね」と言って、お金は受け取りませんでした。 こういうことは、今までも何でもあります。 そのたびに、何か「お金で・・・」と言われることに、抵抗というか、虚しさを感じます。心がないのではないけれど、何か気持ちがすっきりしません。 お金がほしくて、作っているわけではないので、お金を受け取ることにも、お金での価値(値段をつける)ことにも、できません。 この気持ち、どうしたら、すっきりするでしょうか?
適切なアドバイスは何か?と考えてみますと、相手にとって過不足なくアドバイスすることが重要なことではないかという結論に至りました。 まず、不足しているアドバイス。これは、不足していて誤解を与えるアドバイスです。相談される側が相談する人の話を聞いていない場合です。また、聞いても助言が思いつかない場合もです。これらの場合はアドバイスが検討違いになったり、受け流すだけになってしまいます。これらを考慮するのは助言を与える側の前提条件だと思います。 次が、過剰なアドバイスです。いきすぎると、おせっかいになります。これは2つのケースが考えられました。 1つ目は、相手から相談された場合。これは、相手がある悩みをもっていて、自分にその悩みを聞いてほしいか、解決する手段を求めていると解釈できます。その悩みに対して、相談される側が"正しい"アドバイスを思いついた時に、それを相手に最後まで伝えるかどうかです。つまり、相手の理解できる範囲を超えたその時点では理解できない"正しい"アドバイスをすることは本当のアドバイスと言えるのか?ということです。 2つ目は、相手が相談していないけれど、相手の問題点を発見し、"正しい"アドバイスを行う場合です。これについても相手にとって現状が最善であるけれども、周りからは自明でより良い選択肢を提供できる時に、その選択肢の存在を知らせることは良いのかにとても悩みました。これは1つ目のケースよりも相手の理解できる範囲を超えうるアドバイスになります。 以上より、適切なアドバイスとは、 (1)カウンセラーのように相手の意見を熱心に聞き、自分の意見を全く言わないようにする (2)それとも、相手の理解できる範囲のアドバイスにとどめておく (3) 相手が今理解できなくても、後に理解できるだろうから最後まで言う のどれが適切と思いますか?(全く別の意見でも構いません)。実例としてこのhasunohaで質問者の悩みに対する答える時に気を付けていることなどでも良いので、お坊さんはどのような心持で答えているのか知りたいです。 私は相談者は(1)→(2)→(3)の順に負担が重く、助言する側はこの順で言いやすくなると思います。私はついつい最後まで言ってしまう(3)(これが煩悩なのですか?)が多いので、(2)にしたいと思っているのですが。。。 お願いします。
幸せの価値観は人それぞれですが、 よく言われるのが、 満足度を高めるや、豊かになる、誰かの役に立つなどだと思います。 私も満たされた生活こそ幸せだと感じますが、 満たされる=必要とされる、没頭できる、会話をしてくれる人がいる、等々だと思っています。 しかし、それが『幸せ』なのですか? 『幸せ』って何ですか? そのために『どんな生き方』をすればよいですか?
このような質問をしてよいものか迷いましたが 悩みが深まるばかりでしたので、質問することにいたしました。 本当に汚い文章で申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。 お坊さんは、煩悩である性欲とどのように向き合っていらっしゃいますか? 私は大変悩んでいます。 大学生になってから1人暮らしを始めて性欲が強くなってしまい 2、3日に1度は自慰行為をしてしまいますし、 アダルトビデオ(AV)もみてしまいます。 しかし、人格形成のうえで良いこととは思えません。 できることなら自慰もAVもやりたくも、みたくもありません。 にもかかわらず、自然と性欲が湧き上がってきてやってしまいます。 このままじゃ駄目だと、ひたすら自慰やAV鑑賞を我慢したこともあります。しかし、寝れなくなったり、学業に集中することができなくなりますし、我慢することも違うように感じています。 それでいま、 「人として道を踏み外さないようにするために、性欲とどのように向き合えば良いのか」 ということで悩みが深まっていました。 そこでお坊さんにご意見をいただこうと思って質問いたしました。 人として道を誤らないために ・自慰行為はやめるべきなのか ・アダルトビデオをみることはやめるべきなのか あとは自由に性欲についてお答えいただければ幸いでございます。 ご指導のほどよろしくお願いします。
私はもうすぐ20歳になります。 しかし、それを受け入れることができません。20歳になるのがこわいのです。 実感は0歳が1歳になるのとなんら変わらないのかもしれません。毎年のように、家族や友人から「おめでとう」と言われ、ケーキを食べて、また1日が過ぎるのかもしれません。 しかし、私にとって20歳の区切りはとても意味のあるように思えてならないのです。 このことが頭を巡り始めた頃は、おそらく「責任や就職などの大人になったら乗り越えなければならない壁から“逃げたい”」という気持ちがあったのだと思います。 しかし、今はその気持ちよりも「大人になったら見えなくなるものに対する“恐怖”」が強いです。 私にとって大人は汚いもののシンボルであり、自分はこうなりたくないもののシンボルです。大人になったら見えなくなる何か大切なものがあるはずなのです。 なので私は「大人とは何か」という疑問に答えを出そうと考え始めました。 その答えが分かれば、大人を受け入れられる何かが手に入るかもしれない。そう思います。 しかし、一口に大人といっても様々です。未成年の子供を指して「あいつももう大人だなぁ」という親もあれば、いい年した部下に「子供じゃないんだから!」と怒鳴りつける上司もいます。 多分「大人」と「子供」の境界はとても曖昧なのかもしれません。 なので大人のお坊さんたちに何か「大人とは何か、どう定義するか」のヒントをいただきたいのです。 よろしくお願いします。
先のことばかり考えて不安になります。 まるで、心配することを毎日探してるような… どうすれば、この状態から脱却できるでしょうか? またなぜ、このような状態になるのでしょうか?
いい加減に仕事をやめようかと思っているけども踏ん切りがつかない・・・ やりたいことはあるけどもどうもうまくいく気がしないから困っています。 どんな人生ならば自分は満足できるんでしょうか?
はじめまして、30代半ばの男です。 現在、定職にも就き恋人も友達も普通におります(結婚は考えてません) とりわけ恵まれない環境ではないとは思いますが、人生に飽きがきました。 うまくいえませんが「絶望」ではなく「飽き」です。年齢的に人間としてもオスとしてもピークは過ぎて一番楽しい時期は過ぎてしまいました。 残りの人生上手に生きて、上手に老後を過ごして、上手に死ぬしかないのでしょうか。 自分なりの分析としては。 若いとき比較的恵まれていました、恋愛や遊びを人の何倍も楽しんだし、 「やりたいこと」はありますが「やりのこしたこと」はないです。 奥さんも子供もいないので自分が護るべきものもありませんし、今後死への足かせになる結婚を積極的にしたいとは思いません。 今は両親が健在なので、しっかり最期まで介護をしようと気持ちがありますが2人を送り出した後、本当に生きる意味を失ってしまうのではないかと思います。 一番いい時期を過ぎてしまったなら、数十年後に死ぬのも明日死ぬのもさほど変わりないように思えてなりません。
イラストレーターをしていたために婚期を逃してしまいました。 いまは、イラストレーターも挫折して、絵も描けません。 精神病になってしまいました。 人生の指針を見失っています。 どうやってなにを目的にいきていったらいいか、まよっています。
私は、仕事に限らず、プライベートなことでも、想定出来る範囲のことはすべて考えて対策・準備するようにしています。 想定外の出来事に対面すると動揺して冷静な判断は難しくなるでしょうから、少しでも多くのことを想定しておけば、準備万端であり、心に余裕を持って物事に対処出来ます。 それでも、想定外の出来事は起きるでしょうが、そのことだけに集中して対応することが出来ます。 しかし、スピリチュアル系の知人に言わせると、「最悪の場合を考えるとそれが実現してしまうから、絶対にマイナス系は考えない」と言います。 最終的なことは、人智が及ばない神仏のみが知る部分があるとは思いますが、小さな日常的なことまで、すべて、「その場その場の状況次第」というのはどうなのでしょうか? 最悪を想像して落ち込むのではなく、対策を練るために想像することは良くないのでしょうか? 1つの出来事で、本番1回だけの経験から学ぶよりも、事前練習で10パターンの対応を考えることの方が、より多くの学びが出来ると思うのは違うのでしょうか? 限られた命の中で、より多くのことを学び・経験したいと思うからこそ、自分の出来事だけでなく、世間を騒がせる事件などでも、「もし私が当事者だったら、どうするのか?」などを考えるのは、仏教的に良くないことなのでしょうか?
人より何倍もやらないと人のように動けない私に、よく周りが無理しちゃダメだよ?って言われるのですが、自分は無理してでもやらないと出来ないままだと思うんです、要領も悪く、グズです。無理しないで物事どうゆう風にすればいいんですか?
今日初めてこのサイトに巡り合いました。 私の悩みを聞いていただけませんでしょうか。 私は元より「誰かに必要とされたい」という思いが強くあります。 でも、それを否定・拒否されると、極度の絶望感に襲われ、消えてなくなりたいと思うことが多々あります。 日常のたわいのないことにも、です。 例えば、夫に「今日雨降ってるから駅まで迎えに行くよ」と言って断られた時や、同僚に「今日飲みに行こうよ」と言って断られた時など、どんな些細なことでも、自分からの誘いや提案が断られてしまうと、「断られる」=「自分は必要とされていない」という気持ちになります。 誰かに呼び出されはしないかと、寝る時もスマホを握って寝るほどで、メールやSNSが気になって仕方ありません。 かと言って、いざ必要とされた時、本当にその人に役に立てているのかは分かりません。また、オン・オフ関わらずベッタリ・ベタベタな深い付き合いはしたくない(できない)性格です。 面倒くさい人間です。 俗にいう「かまってちゃん」で、精神的に幼いままなのだと思います。 こんな私の悩みに、救いの一言をご教示くださいませ。