なぜ、仏教では宗派を問わず、誰もが持つ死への恐れを信者から取り去るためのありがたい話をせず、「死後のことは分からない」と突き放すような言い方をされるのでしょうか。比較するのもおこがましいと思われますが、キリスト教でもイスラム教でも、一応はそれなりの死後はどうなる的なお約束を説教してくれるのに。
長文ではありますがお読み頂き、何かしらのお言葉を頂けると有り難く思います。 今月、私の不注意で十一と半年一緒に過ごした愛猫を亡くしました。 あの子が寝転んでいる近くに物を落としてしまい、すぐ後ろに落ちたこともあってそれに驚いた愛猫は心臓発作を起こしました。 元々、心臓に欠陥がありあまり興奮させないように獣医師から指導されていたのに、私が驚かして殺したんです。 おもちゃで遊ぶのも少しだけ、ご飯だって結石が出来ないようにするために療法食フードで、たくさん我慢させての最期がです。 結婚して一ヶ月半ほどしてから飼い始めた子で、子どもがいない自分にとっては子どものようにも思っていた子へ自分がしたことが信じられず、後悔しましたし何より自分自身に怒りが込み上げてきてどうしようもありません。 動物霊園をされているお寺で葬儀をし、共同墓地ではあるものの納骨をしました。 あの子のために何かできるのは、もうそれぐらいしかないと思っていたからです。 私の不注意で殺したようなものなのに、生あるものの生き死にはどうしようもないことだからと夫は私を責めず、お寺へも運転していってくれ、当人も落ち込んでいるだろうに色々と慰めてもくれ、助かりました。 ですが、夫が言った一言が許せないんです。 火葬場で骨になった姿にショクを受けたというようなことを言った後に「肉の焼けた美味しそうな臭いがした」とも言ったんです。 私の中に今回のことで、それまであった申し訳なさや感謝の気持ちが怒りに変わりました。 あの子の生前には、私自身が冗談で食べちゃいたいくらい可愛いと言ったこともありますが、思ったとしても言うようなことではないだろうと。 でも、今回のことは私自身によって起きたことです。怒る資格なんて私にはないのだとも思います。 あの子へ自分のしたことが許せず、夫の一言が引っ掛かり、心の整理をつけられそうになく、十二月から始める予定の本格的な不妊治療も不安ばかりしか感じられず、延期をお願いしようと考えていますがそれ以外は何も考えていません。 心の整理には時間が必要だとは知ってはいますが、あまりにも今は感情が混乱しすぎて、心の整理かつくまで夫へどう接すれば良いのかわかりません。
はじめまして。 今年女の子の双子を出産し、生後3ヶ月で1人を亡くしました。 妊娠中から様々なトラブルに見舞われ、緊急帝王切開で早く産まざるを得ませんでした。 かなりの早産だったため、2人とも1000g満たない小さな赤ちゃんでした。 出産直後は誕生してくれた喜びよりも、こんなに小さく産んでしまった自分を責め、この子達は無事に大きくなれるのだろうかという不安でいっぱいでした。 2人ともNICUでしばらくお世話になったのですが、長女はすくすくと大きくなり2ヶ月ほどで退院することができました。 次女はなかなか思うように大きくなれず、手術も何回も繰り返し、結局NICUを出ることなく亡くなってしまいました。 次女が亡くなった直後は、生きている長女のためにも頑張らなくちゃという気持ちで無理をしていたのかもしれません。 しかし、四十九日を過ぎたあたりから実感が湧き始め、慰めのつもりでかけられる言葉が胸を突き刺さるようになりました。 今では人に会うことが怖くなり、外に出ることもできなくなってしまいました。 元気に育ってくれている長女のためにも、一生懸命生き抜いた次女のためにも、私はしっかりとこの世を全うするつもりです。 しかし、毎日次女を思っては涙が止まらないんです。 何で他の赤ちゃんではなく次女だったのか。 私には2人を育てる器量がなかったのだろうか。 何でもっとお腹で大きく育ててあげれなかったのか。 一人で寂しくしていたらどうしよう。 いつも私たちと一緒にいてくれてるのだろうか。 また会えるのだろうか。 こんなことばかり考えてます。 次女を亡くした悲しみを乗り越えるつもりはありません。 乗り越えたいとも思いません。 ただ次女がどうしているか知りたいんです。 お願いします。
ネット配信サービスで映画『ファンシィダンス』を観ました。 主演の本木雅弘さんは私とほぼ同世代ですが、公開当時はお寺に関心がなく、観ていませんでした。改めて今観ると、とてもコミカルで楽しい作品で、「もっと早く観ておけばよかった」と思いました。(当時のバブル時代の雰囲気も懐かしいです) この作品はお寺での厳しい修行が見どころですが、実際に修行を経験されたお坊様方のご感想や体験談、ツッコミをぜひ伺ってみたいです。 たとえば―― 「ここに共感した」 「ここは現実ではあり得ない」 「自分の時はもっとツワモノがいた」 「私はこんな失敗をやらかした」 ……などなど。 宗派や時代は問いません。皆さまのリアルなお話を楽しみにしています。
父を亡くし、先日四十九日の法要を終えましたが、四十九日の法要を行った日は亡くなってから四十六日目であり、本当の四十九日の日ではありませんでした。そこで、 ①父はどのタイミングであの世(極楽浄土?)を目指すのでしょうか。 ②お供えなどは本当の四十九日まで行った方がよいのでしょうか。 ③お供えや話しかけたりするのは本当の四十九日が過ぎてもして良いものなのでしょうか。
今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。