こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。
人生嫌なことがありすぎて、少しの幸福も不幸で塗り潰されてしまいます。 嫌なことがありすぎて、少しでも嫌な気分にならないように、最近はめっきり感情が薄くなってしまいました。 ほとんどのことに何も感じず、あるのは悲しみとか怒りくらいです。 人生、何で嫌なことばかり起こるのでしょうか? 神様からの試練?こんなに心が死にかけながら乗り越えるものってなんですか? なんだか、ベランダから飛び降りたくなってきました。
最近、身近な人の死に接する機会が増えました。 友人や親戚の訃報に接し、「やがて自分も死ぬのだ」と死について意識するようになりました。 しかし、理屈では「死から免れない」「生まれたものは必ず滅する」とわかるのですが、自分は「まだまだ死にたくない」という気持ちが沸々と湧いてきます。 事故にでもあわない限り、遅かれ早かれ必ず死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません。 宗派によっても死生観がことなると思いますが、死をどのようにして受け入れていったらよいのかご教示賜りたいと存じます。 よろしくお願い申し上げます。 合掌
こんばんは。都内に住む、ごく平均的な男子高校生です。 自分は中学から男子校に通っていて今高1です。これが初投稿になるのですが今回ズバリ聞きたいのは性の話です。男子校ということもあってか自分ではそうは思わないのですがよく周りからお前は性欲が強すぎると言われます。思い返せば何度か思い当たる節があるのですが(男色ではありません)何をやっても平均的な自分だから性欲に関してもきっと平均的だと思っていただけに少し驚きました。 これを友達に言うと笑い話と捉えられまともに聞いてくれないのですが何故、東京都は条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)で性的感情を刺激することが青少年の健全な成長を阻害するもの(第三章の第七条等、複数)としているのでしょうか。(確認していませんが恐らくどの都道府県にも同じようなことが書かれているのだと思います。) 生まれた時からインターネット環境があるような時代に生まれた僕は探そうと思えばいくらでも探せました。当時はこれが無断でアップロードされた物でここに転載される事で困る人達がいる、ということすら考えられていませんでした。が、しかし流石にこの歳になるとそもそも何かの法律に引っかかってそうですが正規の手段で買わねば本当に買えるようになった時にはそもそも業界が潰れてしまうのではないか?と、法律の観点からも経済的な観点からも正規の方法で買うべきだと考えるようになります。そこでぶち当たるのが先程の壁です。(昔の自分はその壁を違法に超えていた訳ですが)ちゃんと条例を読むとまるで性欲を覚えることそのものが健全ではない。お前の周りの人間がお前の教育の仕方を間違えたのだと言われているようです。果たして高校1年生(自覚していなかったのだろうけど小学生から性欲はあったのだと思われます)が性欲を覚えることは不健全でしょうか。また男子校の高校1年生がその鬱陶しい性欲を発散する手段として自慰行為をする際にオカズ(要はAVだとかエロ本だとか本来は正規の手段で入手出来ない筈である物)は本来なら不必要でしょうか。本当ならこんな話都庁に直接言えば良いしお坊さんも条例等が絡んでくると少しやりづらいかもしれませんが回答して頂けると助かります。 長文失礼いたしました。
社会や宗教はよく、「人は人を殺してはならない」と説きます。しかし、僕はこの問いに対して自らの内に納得できる答えを出すことが未だできていません。 決して僕自身は人を殺したいとは思いませんが、僕は別に人を殺したいなら殺してもいいと思うし、殺してしまったらならそれは仕方がないと思っております。 よく、自分が殺されたくないなら人を殺すな、だから人を殺してはならない、という回答を散見します。しかし僕はこれに納得していません。その相手が憎くて「殺されてもいいから、殺してやる」と思う場合、人を殺してもいい、ということになってしまうからです。 僕は度々報道される殺人事件のニュースを見ると悲しくなってしまうのです。「なぜ人は人を殺してはならないのか。」この問いに対する真実の答えがこの世のすべての人に知れ渡れば、殺人事件や戦争などという悲しい出来事がなくなると思うし、自殺もなくなると思うのです。 僕は決して殺人を犯した人がいなくなればいいなどとは思いません。殺人を犯してしまった人も、この地球に生まれ落ちた我らが同胞であり、兄弟であり、愛すべき存在だと僕は信じているからです。 そして、僕は生きる苦しみから逃れたい、自殺したいと思っていた時期がありました。自殺も、つまるところ「人(自分)が人(自分)を殺す」という事象に当たると思っています。自殺もいけないことだと真っ向から否定してほしいのです。 僕は生きる悦びを手にし、その生きる悦びを愛しているので自殺することはないと思います。しかし、この地球上に生まれ落ちた愛すべき存在を、殺人や自殺などといった形で失うことを、僕はただただ悲しいと思うことしかできないのです。 また、自殺の方法として餓死を選んだ場合、人は生きる苦しみから解放されるのでしょうか?一般的に自殺は生きる苦しみからの逃げ、だと僕は思っています。自殺の方法として餓死を選んだ場合、それは生きる苦しみと真っ向から向き合うことだと考えています。 近い将来、自分が餓死による自殺をしてしまうのではないか、と不安になる時があります。
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
3年前に結婚が破談になってから卑屈な自分となりうつ病を患ったりと安定しない日々を送ってきました。今はうつ病の薬もやめて体調も安定したのですか、卑屈な自分が前面に出ているのか声が出しにくく対人スキルがかなり落ちました。 もともとは人見知りもなく明るくて、よく話し積極的で前向きな性格だったのでこんな数年で自分の変わりように悲しくなります。お酒を飲むと明るい話せる昔の自分に近づくのですが。このままだとさらに独身だろうなと自分で分かりまたしょげてしまいます。どうしたらいいのか分かりません
今、絶対に許せない人がいます。 もう人生どうでもいいので直接、そいつか家族に復讐してやろうかとさえ考えています。 仏教では怒り、絶対に許せないことや人に対して、どう考えますでしょうか?