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子どもが似ていません

初めまして。 私は三児の母です。 第一子のことで最近ある考えが頭から離れません。それは、子どもが夫婦に似ていないことです。目元や口元、体型が明らかに似ていません。第二子、三子はそれぞれ顔つきは違いますが、どちらも夫婦に似ている部分があり、他人からは三人それぞれで三者三様ねと言う風に言われます。 そこで、思うのは、第一子妊娠前にお酒の失敗があり目がさめたら警察署で保護されていたことがありました。当時結婚前でしたが同僚たちと飲み会後、普段は行くタイプでもないクラブへ行きそこから記憶が全くありません。その後とても反省しお酒の飲み方は十分に気を使うようにしました。 当時、現夫に知られたくなかったので保護された事実は誰にも言わず墓場まで持っていく秘密と決めました。 ただ最近子どもを見るたびにその事を思い出してしまいます。保護される前のことは一切記憶がなく、もし何かあるとしたら事件である可能性もあり考えるだけで怖いです。 またもう1つ不安に思うのは、夫に似ていないだけでなく私にもあまり似ていません。夫との関係でできたものと思う事実も確かにあるので、極端な考えですが産院での取り違えもまた疑ってしまいます。 この2つの疑念が頭をよぎり苦しくなります。今1つ言えるのは子どもと似ていないと言うことです。 産院での取り違えの悩みならば夫に相談できるのですが、その先DNA鑑定などに飛躍しもし夫との子どもでないと判明した場合が怖いので誰にも相談できずにいます。自分の軽率な行動のせいで招いてしまった問題を今は深く深く反省しています。この悩みをこれからどの様に解決すればよいのか分からず、今は前に進めずにいます。 何かにすがりたい気持ちでいっぱいです。 有り難いお言葉いただきたく思います。

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LGBT差別に腹を立てることも煩悩なのか?

私はゲイです。 最近、LGBTの存在が広く知られるようになったおかげで、楽しいことも増えましたが、同時に酷い差別も目だってきました。 もとい、差別は昔からありましたが、ネットの発達によって、いわゆるヘイトスピーチを目にする機会が増えてしまいました。 私もパートナー制度の実現を喜んだりしただけで、虹色のイベントへの参加報告をブログに書いただけで、見も知らぬ人から心ない言葉をぶつけられます。 またゲイとの交流が深まるにつれて、差別で辛い思いをしている人々の話しを沢山聞き、自分と同じ性指向だけに他人事のように考えることは出来なくなりました。 「差別」は他人様がされているのを見るだけでも非常に不愉快ですが、自分が差別されると、その不愉快さは何百倍もします。 だから少なくとも自分は、他の少数派や弱者の方々を差別しないように気をつけていますし、「ヘイトにヘイトで返してはいけない」と自重しています。 でもやはり内心では、はらわたが煮えくりかえります。 いわゆるヘイトをする人には、これを娯楽半分で面白がっている人が少なからずいます。こちらは切実な問題なのに・・・ でも「怒り」は煩悩ですよね。 私は自分を差別してくる人間に対し、菩薩のように接するのは無理です。 私がお不動さんに惹かれるのは、これも理由かもしれません(お不動さんの慈悲の怒りとはほど遠いですが)。 そこで質問なのですが、 仏教でも差別に対しては、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けてやる」べきなのでしょうか? それとも、非暴力、例えば言論等での抵抗はゆるされるのでしょうか? 差別に対する怒りも煩悩であり、消さなければならないのでしょうか? よろしくお願い致します。

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

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