まず、私自身、障害者(身体内で出血があり原因不明の病気です。)であり、生保と障害年金で生活をしています。 月にすると約78000程で光熱費や家賃の不足分等を支払っています。 毎月残るのは45000程です。 家族、兄弟姉妹は居らず単身独居です。 母の妹が一番近い身内になりますが確執があり連絡を取ることを拒否されています。(障害者だということで嫌われています) 先日、お寺より寺費の請求がきました。 約13000円です。 生活で目一杯で払えずにいます。 このことをお寺の方にも伝えたのですが分かってもらえず困ってしまいました。 大切な家族が眠るお墓がある、お世話になっているお寺様なので払いたい気持ちは山々です。 しかし現実は困難です。 再来月には母の1回忌を控えており、その為にやっと僅かなお布施と花代を貯めました。 1月~3月までは生保が351円しかいただけず、暖房もつけずに一日一食、食パンを一枚だけ食べて過ごしました。 母の供養のお布施を使うわけにはいきませんし… 知恵をお貸しください。 また、トバの名前は私の名字になるのですが、元旦那の暴力で夜逃してきた為に籍は抜けていますが元旦那の名字のままです。(離婚後に暴力を受けました) この名字のトバをお墓に立てたくはありません。 事情を話し、旧姓でトバをお願いすることは出来るのでしょうか? お教え願います。 そして最後の質問というか悩みなのですが、母の妹である叔母との関係はどうしたらいいのか悩んでいます。 昨夜、親戚が亡くなっていたのを地元の友人と話していて知りました。 すぐに電話で連絡を取りお詫びをしたのですが、叔母に私へ連絡をするように頼んだそうです。 しかし叔母から連絡は来ていません。 正直に話し、私の連絡先を親戚には伝えました。(他の親戚にも伝えてもらえるようお願いしました) 何も出来ませんがせめて最期のお別れくらいは言いたかったです。 なぜ、障害者というだけでそこまでの仕打ちを受けなければいけないのか…納得いきません。 だからと言って、この事を叔母に伝えても夫婦揃って役立たずの障害者!お前は恥だ!と罵られるでしょう…。 好きで病気になったわけではありません。 このまま肩身を狭くして生きていかなければいけないのでしょうか? 法要の事もあり落ち着かずにいます。 支離滅裂な文章になってしまいすみません。
新築建て売りを購入し神棚を設置した際に神主さんを呼んで神様を入れていただく為の儀式と地鎮祭同様にお祓い、ご祈祷をしてもらいました。 その際にきた神主さんがとてもお喋りな方でした。最初はすごく気さくな人だなと思って悪い気はしませんでしたが、まるで家電屋の店員のように世間話というかどうでも良い事まで話していました。 電話で各部屋を回るか話した際には別な方がでて神棚がある部屋で拝んで終わりと聞いていたのに実際は全部屋を回りました。 電話をしたのが主人だった為に私は主人が知っていたもんだと思いその場で神主さんに「全部回るなんて聞いてませんよ」なんて言う事もなく心の中で主人に「全部屋みるなら言ってくれれば良かったのに」と思ったりしていました。 主人は神主さんに電話の事を問いただしもせず慌てて寝室などの片付けに行ってしまい私と幼い娘が神主さんを案内しながら各部屋を回りました。 その際に神主さんが部屋をみるたびに感想を言ってこられ、風呂をみてオモチャがいっぱい、トイレをみてタンク式なので水が…うちのキッチンと同じかな…等と言う具合に一言つけるので何を思ってるんだろう。口に出さなくても…と、 神聖な気持ちにもならず、この人きちんとお祓いしてくれているのかな?と不審感しかありませんでした。 最後には一升瓶のお酒を黙って持って帰り、神主さんが酒を持って帰るとは思っていなかったのでビックリし、主人に至っては持ち帰られた事にも気付いていませんでした。そういうしきたりなのかな…と思い、 でも持ち帰るなら何か一言あっても…とお喋りな方だっただけにモヤモヤしました。 それとも私共が神主さんにどうぞと捧げなくてはいけなかったのに黙っていたので持って帰られたんでしょうか? もしや準備した野菜や果物も鯛も神主さんに差し上げなければいけなかったんでしょうか? 神主にきいてくださいと言われてしまいそうですが、聞ける訳もなく、ネットで調べても詳しい事があまりでてきません。 なんだか気持ち的に不完全燃焼な感じになりました。 神主さんというと神聖なイメージだったのでガッカリしてしまったのもあります。 職業柄雰囲気とかはあまり気にしないのでしょうか?性格だから仕方ないんでしょうか?ケチだと思われそうですがお酒に至っても疑問です。私の心が狭いのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
拝読下さりありがとうございます。 私には中絶の過去があります。当時は学生で経済力もなく、相手の男性も頼りにならず、泣く泣く中絶しました。今でも忘れることはありません。当時付き合っていた彼とは中絶が原因で別れています。 悩んでいるのはこの事実を今お付き合いしている彼に話すかどうかです。 付き合って半年ほどになります。とても誠実で優しくて素敵な方で、最近将来の話や結婚について話をすることが増えてきました。ただ、今の彼には中絶の過去を話していないのです。理由は、本心を言いますと、話すことで嫌われたくないという思いが根底にあると思います。でもそれだけではなく、話すことで、彼を悩ませ、傷付けたくないこと。彼に知ってもらった上で私を受け入れてほしいという思いはあるけど、私の過去の事なのだから私1人が胸の内にしまい、墓場まで持っていく必要があるのではないかと考えること。このように考えていたから今までは話しませんでした。 でも、彼が彼のご両親に私のことを話してくれたり、将来の話をしてくれたり、誠実に向き合ってくれればくれるほど、とても嬉しく、幸せな反面、中絶の過去を話していないことが、彼に対して不誠実なようでとても申し訳なくなります。考えたくはないけど、私の過去を知った上で私と別れる選択肢、権利も彼にはあると思ってしまうのです。でも、正直なところ、今彼がいなくなったら耐えられる自信がありません。 また、彼に話す必要があると思ったのにはもう一つ事情があります。私は母とうまくいっておらず、母に中絶の過去を不本意な形で彼に話されてしまう可能性あると考えたからです。そうなった時に、彼を必要以上に傷付けてしまう可能性と、「どうして話してくれなかったのか」となってしまうならば、私からきちんと話す必要があるのかな、と考えたからです。 中絶をした過去は消えるわけではないし、絶対忘れてはいけないことだけど、私1人が胸の内にしまいご供養をしていこうと考えていました。でも今の彼の素敵なところを知れば知るほど、自分への嫌悪感と後悔の念、彼に話していない罪悪感でいっぱいになってしまいます。自業自得なのは承知の上ですが、何かアドバイスを頂けると幸いです。。よろしくお願いします。
学校が嫌いで嫌いでとても行きたくありません。 元々小学4年生の後半くらいから学校への苦手意識が出てきてそれからずっと不登校で今更っていう恐怖心もあるんだと思います 行かなくちゃいけないとわかっていてもやっぱり学校には行きたくなくて、 正直行きたくない理由はないんです、親からはどうせめんどくさいからだろ?と言われてきたんですが、激しい嫌悪感と恐怖心があって 親や学校から「何故行けないんだ、何がダメなんだ、何が嫌なんだ」と聞かれる度ストレスを感じるようになり、 なんで行けないんだろう、理由がないってダメなことなのかな、もしかしたら自分がどこかで甘えているだけかもしれない、ととことんネガティブになっていってしまい 最終的には鬱になりかけるまでになってしまって、日常の些細なことでどうしようもないくらいに死にたくなったり、ふとした瞬間に自分はこれからどう生きていくんだろう、学校も行けずに生きていくことなんてできるのだろうか?こんな自分は生きていてはダメではないのだろうかと考えるようになりました 親からの「こんな子に育てたつもりは無い」や祖父からの「なんで弟はあんなに出来ていて愛想もいいのにお前はダメなんだ?」という言葉を聞くと怖くて怖くて いつか自分は親にも見放されて独りぼっちになってしまうのではないだろうか、親の思い通りに育たなかった自分は死ぬしかないのかもしれない、親不孝だ、死にたい、と何度も思うようになり遂に自傷行為に走りました 誰にも相談も出来ず、元々人に自分の話をするのがとても苦手で、親が連れていってくれた病院のカウンセラーさんや学校のカウンセラーさんにも本当のことは言えずにヘラヘラ笑っていたら結局独りになってしまい 友達にもネット上でもこの気持ちを話せずにいつもいつもただひとりで泣いて、親の前では何も無いように笑って振舞ってそれが本当に苦しくなってここならどうにかしてくれるかもしれない、と思いました 親にも友達にも相談が出来なくて、 というか誰も信用出来なくなってしまっていっつも疑心暗鬼で生きていて、 親が怖くて、人が怖くて 学校に行って親に見捨てられないようにしたいのにやっぱり行けないんです、怖いんです、震えてしまうから怖いんですなのに私の心の問題のせいでうじうじ閉じこもっていて、どうやったら私は学校に行けるようになるのでしょうか
相手は、ノロウイルスです。 日常生活に支障を来す程の、強い恐怖心や不安感があります。 何とか仏教の教えをヒントに、克服できないものかと質問しました。 例えば、 (1) 汚物を処理する時の精神的ストレス (2) 激しい症状による肉体的苦痛 (3) 二次感染の不安 これらを過剰に恐れない考え方(捉え方)が見つかれば、気持ちが楽になり、もっと生きやすくなると思います。 適切な対処法は厚生労働省のHPを見て知っています。また、どんなに予防しても対処しても100%じゃない、なるときはなるもの、と分かっています。でも、心が追い付いてこないのです。 3つのうち1つでも構いません。ノロウイルスに対して動じない心を持てるよう、どうか知恵を貸して下さい。 よろしくお願いします。
何をやっても空回りが続きます。 もう半年ほど、追い風が吹きません。 自分の夢も分からなくなり、希望も薄れてきました。 物欲はあっても、心が貧しい状態です。 こんな年になって恥ずかしいと思っています。 否定ばかりされてきた幼少期の反動が今出てきた気がしています。 以前は掃除をしたり、お墓参りで心の整理ができましたが 今はそれでは解決できなくなりました。 客観的に自分を見るとダメだしばかりしてしまいます。 こんなみっともない当方ですが、 何が見えていないからこうなのでしょうか。 どうぞ、一隅の光を私に与えてください。
私はお寺の長男です。 昔から寺の跡継ぎになって欲しいと言われて生きてきました。 しかし跡を継ぎたくなく、そのことに悩み高校に不登校になったりしました。 大学も、親からの頼みで仏教に関係のある場所に入りましたが、気が進まず一度も行っていません。 . 田舎の小さなお寺で檀家も少なく家も老朽化が進みボロボロです。 お寺としての収入は少なく、金銭面で困ることや、それについての悩みが後を絶えません。 . 昔は良いお寺だったのかもしれませんが、正直に言って父も尊敬出来るような人間ではなく、逆に嫌悪感さえ感じています。 ですが、育ててくれたことへの感謝はあり、無下にも出来ず、跡を継ぐのが嫌だと伝えたりもしましたが、納得してもらえず、はぐらかされたり適当なことを言われたりもしました。 . 言うなれば私は神を信じていません。 自殺を考えたこともありましたが勇気もなく母を悲しませたくなくて行動には移せませんでした。 . 住職を辞めることも考えましたが、ボロい寺の住職になりたいと思う人はいないでしょうし、金銭的にも新しい住居を探すことは難しいでしょうし、考えれば考えるほど問題が浮き彫りになっていきます。 . 出来るかはわかりませんが 私はお寺を取り潰したいと思ってます。 もし自分に子供が出来た時、その子にこの重荷を背負って欲しくないのです。 そして、私もこの責任から逃げだしたいと考えています。 . 長くなりましたが、お寺を取り潰す方法や、それに関する知恵を授けて頂きたいと考えております。 正直、檀家やお墓のことなどは全然わかりません。 どうかよろしくお願い致します。
お世話になります。 主人の実家にお仏壇とその斜め上に神棚があります。 仏教的に神様とはどの様な存在でどの様な位置付けになりますか? 仏教初心者なので、色々と気になってしまいます。 宜しくお願い致します。
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?