今年本厄の大厄なのですが、年が明けてから実家(岩手県釜石市)の近くにある神社に行って、私と旦那さん、私の両親にお婆ちゃんの5人で厄払いをしてもらいに行きました。。 お祓いをしてもらった後、お清めのお酒と御守りを頂きました 私は今年本厄で、旦那さんは後厄なので御守りは二つ頂きました 御守りは小さな袋に入れ、毎日首にぶら下げていました 寝る時に「ありがとう」と言っていました それなのに…お風呂に入る時に御守りがない事に気付きました 会社のロッカーにわすれたと思い、次の日会社のロッカーも見てみましたがありませんでした… 今思えば、御守りを入れていた袋に、自分の連絡先を書いた紙も入れておけばよかったと後悔しております。。 こういう場合、こうしたほうがいいとかあったら教えて頂きたいです 宜しくお願いします
運気が悪くて、水晶などをネット購入しました。 紫色の水晶のブレスレットが届いてはめたとたん眠くなって、そのままベッドに横たわりました。 したらビビビって電気が体中を駆け巡って、バっていきなり映像が出てきました。女性が裸で色んな男性を相手にしている映像で 半分自分の様な、半分知らない女性の様でよくわかりません。しばらく動けなかったです。 怖くなってブレスを外しました。 これは何なのでしょうか 私は頭がおかしくなってしまったのでしょうか 誰にも言えずに悩んでいます
はじめまして、ロトウと申します。 同性異性問わず信じていた人達に裏切られた過去から人を信じられません。 その為、過去現在の中で親しい人間はいなかったと断言できます。 まず、異性についてです。 小学生の時に好意を抱いてくれた女子がいましたが、その後彼女に当時の自分が大事にしていたものを「キモい」と言われたことから、子ども心ながら女性不信が根付き始めたようでした。それ以降女性と関わることに忌避感を抱き、異性に対し積極的になることができませんでした。 次に、同性についてです。 中高で自分が親友と思い込んでいた男子と当時仲良くしていましたが、大学以降は徐々に疎遠になりました。成長による価値観の相違は受け入れていましたが、当時約束していた旅行を反故にされたことを裏切りだと感じております。 以上が自分が人を信じられなくなった経緯です。 彼らの本質を見抜けず盲信した自分の愚かさに常々嫌気がさします。 周囲から「過去に縛られなくていい」と慰めのお言葉を頂くこともありますが、心に強く根付いた人間不信が原因で生きづらさを抱えています。 自分が大切に思える誰かがいない自分は生きるべきではないのでしょうか。ご回答お待ちしております。
何度も何度も占いをしてしまいます。当たらないとわかっていてもしてしまいます。 迷信にすぎないと理解しているつもりなのに、なんか気にしてしまうんですよね… 特に将来の運勢を占うことが多いです。 やめるにはどうすればいいでしょうか…
仏様を拝む意味を教えてください。 例えば、仏様を一生懸命拝んで合格祈願をしても、 全く勉強しなければ合格することはないように、 お願いごとをするために、つまり私利私欲の成就のために仏様を拝んでも、 意味がないように感じます。 (なお、本人が勉強すなわち努力しないと仏様は助けてくれない、 と言う人もいましたが、仏様がそんな選り好みをするとは思えないですし、 思いたくもありません。) むしろ、私利私欲の成就ために拝むならば、 たくさん拝むことはそのまま欲望の大きさにつながり、 これまた心の安寧という意味では意味がないどころか、 欲望を強める結果にもなってしまいそうです。 これらのことは、例えばお坊さんが、信者など誰かのために拝むことも、 そういう私利私欲のために拝むことになり、同様のように思われます。 (お坊さんには私利私欲なく、すなわち信者の願いが叶ってほしいとは 思っておらず、 信者の願いを仏様に伝えているだけ、 ということも考えられますが、この場合、お坊さんがそうする意味が よくわかりません。 お坊さんから伝わった方が、仏様は願いを叶えてくれるということは ないように思いますし、仏様がそうであるとは思いたくないです。) ところが、お坊さんを含め、多くの方が、仏様を拝んでいます。 その際、呪文のような言葉(真言?)や、お経を唱えていたりもします。 その内心はわかりませんが、お寺の絵馬には様々なお願い事が書かれており、 また、お寺ではご祈祷・ご祈願がなされていることからすると、 何らかの欲の成就のためのように思われます。 拝んでも願いは叶わないなかで、 ①仏様を拝む意味(祈願以外の意味)は何でしょうか。 ②なぜ、ご祈祷・ご祈願がなされているのでしょうか。 ③また、お寺では、お勤めとして、朝晩、お坊さんは仏様を拝み、 お経を読んでらっしゃるようですが、これは、何のためでしょうか。 (書かれているお経の意味を理解・確認等するためであれば、 仏様の前で木魚を叩いて音読するよりも、 自室で黙読すれば足りると思われます。) なお、②につきましては、宗派により考え方に大きく差があるようでしたら、 御回答いただかなくても結構です。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。