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hasunoha 問答検索結果 : 「 無視 どうしたらいい」
検索結果: 1387件

祖母のお骨についてアドバイスお願いします。

昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。 

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友人と疎遠になり寂しさを感じています。

私は元々、心許せる友人と少人数で集まるとか、一人で読書等をする方が好きな方で、人の私生活に深く立ち入るのも、自分の私生活に立ち入られるのもあまり好まない所があります。 それでも、少なければ少ないなりに仲のいい友達はいていい関係だったと思いますし、夫、舅姑とも円満にやっていました。 しかし、年を重ね、友人とも物理的に離れたり、お互いの生活が違ってくると交流もままならず、話も弾みにくくなるので疎遠になる事も多くあります。女子会などが好きな方ではないので、なかなか新しい友達もできにくく、寂しさを感じています。無理して同調するのも疲れる気がしますし、つるむだけの友達ではなく、もっと深い部分で親しくなりたいと思っています。 今のところ、健康には不安がなく、生活の心配もありません。 結婚十年以上になりますが、夫、姑との関係も良好です。しかし、近くにいる友達らしい友達は1人か2人だけになりました。 もっと大変な悩みを抱えている人からしたら贅沢な悩みになるのかもしれませんが、子供もいないのでいつか一人になるような気がして不安になる事が時々あります。もっと明るく前向きに生活するにはどのように考えたらいいのでしょうか。助言を頂けたらと思います。

有り難し有り難し 180
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パワーストーンや運勢についてです。

以前悩みを相談させて頂き、解決に至りました事、お礼を申し上げます。本当にありがとうございました。 相談の内容は全く変わるのですが、今回の質問は「人には持って生まれた運勢があるのか。パワーストーンは本当に効き目があるものなのか。」という事です。 先日知人によく効くと評判で自分に合ったパワーストーンを、姓名判断・生年月日出生時間・生まれた県・現住所等から占い(風水的な考え方から)選んでくれるというお店に連れて行ってもらいました。 占いの結果「運には大きく分けて5つの運があり、貴方には持って生まれた素の運の内、これとこれの運はありますがこの運がありません」「正し素の運は変わらないがそれにプラスして1年ごとと、大きな転換としては10年ごとに運気が変わる」「貴方の持っている運のうち、持ってはいるが少なくて、他の強く持っている運とのバランスが悪くなってしまうのを補う為のオススメのパワーストーンはこれです。」等と説明を受けました。 そういえば、お寺さんや神社にも数珠やパワーストーンを置いている所があるなと思いましてして、疑問に思ったのでお尋ねしたいです。 元々八百万の神様等はいたら楽しいなと思い信じているのですが、人が持って生まれた運等もやっぱりあるのでしょうか? お店の説明では、そのお守りとしてパワーストーンがあるとの事ですが、あまり物を増やしたり、依存したくありません。 運に本当に影響があるなら、お守りとして信じて一個購入してもいいかもしれないとは思いましたが、 例えば人間関係の運を上げたいと思っても元々その運が無い人が人間関係が上昇する石を持っても意味が無いそうで、元の持って生まれた運をもうちょっと上げたい時に手助けするのがパワーストーンだと言うので、なんかそれだとあまり夢が無い気がして悲しくなりました。 お坊さんの腕にもパワーストーン(数珠)をつけている方をよく見かけますが、それは自分が好きな石をつけているのか、それともこんな運が上がれば良いな~と意味を調べて身につけているのか、若しくはお寺で僧侶はこの石を身につけるとよいされている石があるのかも気になります。 是非教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 349
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個性を磨く。

お久振りです。いつもお世話になっております。ユーリです。 今回は、個性を磨くということについて質問いたします。 教育現場では、良く「個性を磨く」といった文言が使われ、「生きる力」と共に、二大教育用語になりつつあると、私は考えております。 さて、個性というと、広義にはその人の特性・性質ですが、それを磨くというと、どういった意味なのでしょうか? 私個人の見解を述べますと、やはり、短所のない人間はいないわけで、また、自分と同じ人間もまたいないわけであります。 自分を追及し(今頑張っています。)、自分をより深めることで、自分にしか出せない味を出す。それによって、噛めば噛むほど味が出てくる。噛めば噛む程、噛んだ傍から味が出るような。そんな人間を目指すのが、「個性を伸ばす」だと感じてならないわけであります。 私は、部活の野球はベンチ外。勉強は、論外の外。顔は、圏外の外。 喋らせたら、うるさいとよく言われ…。そんな人間です。 ですが、人に誇れるものというととくにありませんが、この喋りというのは、自分の中で好きな部分ではあります。 アホなこと言って、「自分ってあほやなー」と、振り替えってにやにやしてしまう。そんな自分が大好きです。 元々、芸人になりたい私ですから、そう感じるのかもしれません。 「よく喋る・デブ・ちび・くそメガネ・頭悪い・送りバントが得意」これが私の個性です。 ですが、「よくしゃべるなー・・・」と周りに言われるということから、それを不快に思う人もいるかもしれないわけです。 自分は誇らしく思っても、そんな一面を磨いてどうするのかと思うわけです。 「個性」には、対個人、対社会にプラスのもの、マイナスなものがあるわけで。 マイナスなものだとしても、それを伸ばせ、ってことなんでしょうか?

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諦めることと小欲知足

私は回転寿司に頻繁にご飯を食べに行きます。 大体、週に1日くらい行ってます。 そこで気が付いたことに対しての質問です。 回転寿司ではほぼ毎回、お皿22枚(44貫)と青さの味噌汁1杯食べたところでお腹がはちきれんばかりになります。 今日はお皿18枚(36貫)と青さの味噌汁1杯でお腹がはちきれんばかりになり帰ってきました。 ここで普段30皿(60貫)と青さの味噌汁2杯食べる人が、 『その程度の食事で諦めるな(放棄するな)。もっと記録を目指せ』 と言ってきたとします。 自分の中では満足しており別に上を目指す気もない場合は、『諦めている(放棄している)』とはみなしていないです。 また、自分の心の声で、 『普段はもっと食べているんだから諦めず(放棄せず)に普段の記録まで持っていけ』 とあったとしても、今はお腹いっぱいなのでやっぱり『諦めている(放棄している)』とはみなしていないと思っています。 それどころか、満腹でお腹が苦しいという事は、食べ過ぎており、諦めていない(明らかに見ていない=邪見)であるから、次回からはよく心を観察して、今回より減らして食べよう、そしてそれが苦しまずに足りているか確認し、多いようならまたその次は減らそう。 ただし、明らかに少ない皿数(1皿2貫or青さの味噌汁1杯)だけを食べて帰るという真似は足りてないからやめよう、と考えております。 前置きが長くまり申し訳ありません。 ここで質問です。 1.出家者にしろ在家者にしろ、明らかに見た(諦めた)結果の小欲知足は、人によって基準が違うのでは。だからやり方は教えれるけど答えは人によって違うのではないか。 2.ブッディズムでいうところの『気付き』は、特別な場所や時だけのものではなく、いつでもどこにでも転がってお普段から注意深く観察しておれば、誰でもできる『行』となるのではないか。 3.なぜ自分は毎回食べる前からわかっているのに、苦しくなるまで食べ過ぎて苦しんでしまうのか、、それはあれもこれも食べなければ(しなければ)ならないという思い込み、つまり正思惟の逆のことをやっているからでしょうか。 最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。 アドバイスをお願い致します。

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 729
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