子を為す意義について質問です。 一般的には、自分(たち)の子・DNAを残したい、子どもが好き、老後・人生を考え、孤独が嫌、世間体、といった理由があるのだと考えています。集団・生物として考えれば種の存続・繁栄のためといったところでしょうか。 いまひとつ、なかなかに良いことの続かない世に、新たな生を誕生させる理由足り得るのか、と考えています。社会的に意義深いことを理解し、周囲や懇意になれるはずの女性からの理解を得難いであろう、と危惧しての質問です。 子を考えるどころか、結婚やその候補すら存在しないため理解の及ばないところであるのかとも思うのですが、御回答いただければ幸いです。
最近は、ネットの書き込みは見ないようにしているのですが、よく「海外の反応」っていうのがありますよね? ネットばかり見ていた時は、よく日本関連に関する海外の反応を見て、ああ、日本のコレって海外ではこう言われてるのかと一喜一憂していました。その書き込みに影響を受けることもあります。 たまに今でも気になることがあるのですが(汗)、海外の反応って、正直、良いのでしょうか。 「ネットのニュース」の質問と重複するかもしれませんが、ご意見をよろしくお願いします。
よく、ネット克服関連でお世話になっております。 ネットの書き込みやネットの百科事典は、よく嘘が多いと伺いましたが、インターネットのニュースへの対処はどうすればよいのでしょうか。 livedoor、全国新聞のネット記事etc・・・ 一応、信ぴょう性がありそうなものもありますよね。 よくそれでも不安になります。見るな!というのが一番の答えだと思いますが(汗)、運悪く見てしまったら、どうしたらよいのか(汗) 毎回、同じような質問で申し訳ございません。
いろいろと考えて思ったのですが、世の中はバランスによって成り立っているような気がします。善があり悪があり、陰があり陽がある。 そして、存在していると信じているものは実は不確実で、存在とは思考により生まれた産物なのだと思います。 例えば、絶対的に「良い」とされる行いを、「良いことをした」と考え、過去の記憶(記録)として覚えておく、誇らしく思うこと、つまり自分の現在や過去の「善」に執着することで「善」を生み出し、同時に「悪」を生み出すことに繋がるのではないか、と思うのです。 ですから、世の中を良くしたいと思うなら「善」の行いを「良いことをしている」という意識を取り払って行い、そして行った事実をできるだけ早く忘れる(執着しない)、ということで世の中が平安になれるのでしょうか? 世の中の悲しみは、「罪悪」ではなくて「罪悪感」、「喪失」ではなくて「喪失感」のように、感覚から来るものが多いような気がします。 ならば、感覚を生み出す「意識」ををコントロールすることで平和にもなれるのかなと思いました。 「以心伝心」のように、人と人の心が繋がっているなら、自分の思考を「無」にすることが、隣の人の心の平安になるかもしれない、そして、それが世界中の平安に繋がるといいなと思いました。
イライラしている人、怒り狂う人、自分の感情や他人の振る舞いに支配されきっている人を見ると本当に可哀想になってしまいます。 最近人と接する仕事に転職し、それらをますます生々しく感じ取る機会が増えました。 般若心経の一節に「色即是空 空即是色」とありますが、 自分という人間は色即是空、で止まっているような人間なのです。空即是色までどう頑張っても至れないわけです。 もしかすると自分は仏教的思想とは無縁で、西洋的な虚無主義者にすぎないかもしれません。 根本的に意味のない世界で、意味のないことに踊り狂わされている人々を見ると本当にこの世は惨たらしい地獄なんだと思ってしまい嘔気を催してしまいます。 通勤ラッシュの人混みで、具合が悪くなります。人間がロボットに見えてしまうのです。実際彼らは「生きる意味」というありもしないものに支配されているから出勤しているわけです。 自分は人生の当事者であるくせにどこか傍観者的です。 観るもの聴くもの感じるもの全てに根拠がありません。 全てに意味がなく、自殺することも出来ないまま、今朝も非常に可哀想なお客さんは私に怒鳴り散らしました。 苦しみの悲鳴に聞こえて、今でも頭に灼きついて胸が痛みます。(情けないことに謝ることしか出来ませんでした。私が彼らにしてやれることは何もありません) 何もないこの世界に対して私は何を行えばいいのでしょうか? 苦痛が大きいですが、私は彼らを救えないし、身寄りがありませんので、引きこもることも出来ませんし、自殺も出来ません。
私は就職活動を終えた大学院生なんですが 就職活動中、「社会人に必要なものはコニュニケーション能力。 だから、コニュニケーション能力を上げろ」と何度も言われたんですが、そもそも、日本語には存在しないコニュニケーション能力とやらを上げろというのは無理なことを言っているように感じてしまい。 コニュニケーション能力という言葉を聞くたびにいつも違和感を覚え、気分が悪くなってしまいます。 コニュニケーション能力って一体なんなんでしょうか?
昨日、駐車場で他人様の車をこすり、ショッピングセンターで呼び出しをしすぐ持ち主を探し警察にも連絡をしました。 車に戻ると持ち主さんがいらしたので、事情を話し平謝りをしているところに娘さんが戻ってきました。 その娘さんは十代の後半くらいで来るなり「お母さん、どうしたの?」「くるまぶつけられちゃて」娘、「マジ、おかしくねぇ、前から車突っ込んで留めてぶつけるなんて頭がおかしいんじゃねーそんなバカいるんだ!糞女!」と言われました。 母親は「なにいってるの、もう言いからくるまからでないで!」と言い不貞腐れた娘は車の中でケータイをいじりダッシュボードに足をのせた態度で居ました。 警察とのやり取りで書類を見せるように言われてもびくとも動かずそのままで母親が一人で対応していました。 その後、私は再度誤り、夕方旦那と誤りに果物を持っていきました。 私がぶつけなければ良かったのですが、もう後の祭りです。反省もしてますし、修理代を払うつもりですが、いくらこちらが加害者でも、娘さんの一言がどうにもこうにも引っかかると言うか、不愉快なんです。 他人様、しかも年上に向かって馬鹿だの頭がおかしいだのよく言えるなぁ、私の娘がそんな言動ならその場でぶん殴ります。 自分でも躾を間違えたと自分を攻めてしまうと思います。 口は災の元、どこでどう繋がっていて、何処でお世話になるかわかりません。頭で思っても言ってはいけないと思います。 事故に関しては、反省しています。 どうしても、その言動が頭から離れません。
お坊さんの皆様は安部総理が掲げる安保法案に ついてどう思いますか? 率直な意見が聴きたいです。
ニュースを見たくありません。 最近は見れば死体が見つかりました。 死後○日はたっています。殺人のようです。 こんなニュースがここ最近毎日流れ、はっきり言ってなぜ簡単に殺してしまうのか解りませんが、悲しくなります。 数日たつと犯人は身内や昔付き合ってた人や昔同じ職場だったりと逆恨みが多いんですよね。 もう、こんなニュースは沢山です。
私は仕事の関係で、中国や韓国の方々と接する機会が時々あります。 中にはあまり友好的ではない方もいます。 彼らが日本の悪口を言う時や、ニュースなどで反日運動を目にする時などは非常に腹が立ちます。 しかし一方、最近ネットなどでよく見かける極右的な意見には賛同できません。 あまりにも極端なコメントを見ると背筋が凍るような悲しい気持ちになります。 教育現場などでも取りざたされているように、健全な愛国心を育てる事は必要なのかもしれません。 しかし私自身も恥ずかしながら愛国心をどのように表現するのが良いのか戸惑うことがあります。 仏教的な観点からは「愛国心」をどのように捉えるべきなのでしょうか? 愛国心をもつことは望ましいことではないのでしょうか? また、中国や韓国の方々の非友好的な態度に接するときは、どのように対応するのが良いのでしょうか? 是非ご意見を拝聴させていただければと思います。
先日ニュースでも話題にりましたが、シリア難民の3歳の男の子が溺死した件を見て涙しました。 自分にも小さい子供がいますが、多くの子供が何不自由なく育っている日本と、住むところもない多くの難民の子供。 難民の数は年々増加の一途だそうですが、全て大人のエゴの結果です。 どうすれば解決できるのだろう?と思いましたが、なかなか妙案もありません。ご意見いただければ幸いです。
宗教・宗派を超えて、聖職者・宗教指導者は異口同音に「人を赦せ」といいますよね。 私も、ここで別件で質問させていただいた際、御回答いただいた師から、やはり加害者を赦すようにと御指導いただきました。 理論上・理屈上、理解できますし、私に御指導していただいた師の御指導道理に努力します。 しかし・・・・・ ふと思いました。 犯罪・不正・いじめ・暴力・嫌がらせとかをやったヤカラを赦した際、これらのヤカラが、自身が課外をやった被害者から赦されたことによって、自分のやった悪行を自覚し、悔い改め、反省し、更生するのであれば、赦し甲斐があり、赦す意義があるというものでしょうが、反省もすることなく、まだ悪行を続けている場合は、いったいどうなんでしょうか? 仏陀は、赦しを受けても悪行を続けるガンダダ(『クモの糸」に登場する悪人」)みたいなヤカラを、どう御覧になっているのでしょうか? 以前別件で相談させていただいた、私に三年間にわたって嫌がらせ・侮辱し続けたヤカラは、いまだに私に対して一切謝罪・弁解・弁明も30年経ってもしてきませんが。 私の件はさておき、赦してやった者が、悪行を続けているということを、僧侶の師の各位は、仏教的・宗教家的見地から、いかがご覧になられているのでしょうか?
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
子孫繁栄に何故快楽を伴わせたのでしょう。そんなことをするから目的が子孫繁栄ではなくなる男性が増えたのではないか、何故、快楽等と言うものをお与えになったのでしょう。
分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。 ああその通りだなと思うのですが。 分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。 この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?
こんにちは。 最近、未成年だから身元が割れないと思い未成年の子供達が力も無く生きる術も人間をたよわざる得ない小さな動物の虐待が増えて来ています。 今もSNSで安否確認して、レスキューしようとしている方が居ます。 絶対助けたい。 私は元々、動物が大好きで小さな頃から一緒に暮していました。 親達が 「犬は外!」 と捨て犬だった犬を庭に係留しようとした時に…。 私は家の中から、自分の枕とお気に入りの毛布を持って来ました。 「じゃあ、私も外!だって、この子は私の妹だもん!」 毒親の実父、初孫に甘い祖父、動物が好きではないが孫の言う事には従う祖母…絶句。 こんな行動を起こした物ですから、あの時代にミックス犬のお座敷犬になりました。 留守番が全く出来なかった私が、犬と一緒なら平気と留守番できるようになりました。 その犬も最後は、毒親の身勝手な再婚で何度も保健所行きになりましたが、私が全部阻止して親戚の叔母の家にお願いしました。 寿命を迎えて昇天してしまいましたが…。 今も私は沢山の犬猫、小動物に囲まれて暮らしております。 世話は大変ですが、それ以上に幸せと楽しみを浴びるように貰って居ます。 (たまに派手な悪戯されてしかる時も有りますが) 動物を虐待した愚者達の魂 と 動物を慈しみ可愛がり大事にして来た者の魂 これはどういう風になるのでしょうか? 天国と地獄、そんなありきたりな言葉では無く…。 詳細にどうなるかとか、魂の浄化?的な事はどうなるんでしょうか? 因果応報などと言う言葉も有るので、気になるんです。 私は動物保護(自分の出来る範囲)をしていますが、動物からの見返りなんて求めておりません。 一緒に居るだけで幸せです。 が、肉食をする人間と菜食主義の私。 色んなとこで、【殺生や虐待する他人】と違うはずと思ってお坊さんに質問を出させて頂きます。 宜しくお願い致します。
教育の現場で体罰が問題になることってよくありますよね。皆様は体罰についてどうお考えでしょうか? 私は特定の条件下のみ体罰を使うことを認めてもよいのではないかと思います。その特定の条件下とはいじめっ子がいじめられっ子に暴力を振るった時です。 その理由として一つ目に暴力を振るわれた痛みをいじめっ子に理解してもらうためというのがあります。一度暴力を振るわれて自分で痛みを感じないことには相手の受けた辛さは分からないと思います。二つ目はいじめられっ子が不平等だと思うようにさせないためです。自分は肉体的に傷ついたのに相手は口先だけで終わった、そう思っているいじめられっ子も中にはいると思っています。(三つ目に言葉で言っても分からないいじめっ子がいるというのもあるといえばありそうですね) ここで誤解してほしくないのが私は決して根性論で積極的な体罰を求めている人間ではないということです。私も体罰で大怪我を負った生徒がいるのは知っています。だからこそ体罰はあくまでも限られた条件下のみで使ういわば最終手段的な形であって欲しいと考えています。決して忘れ物をしたとか部活の試合に負けたという理由で濫用してはならないと思っています。 最後に理想を言えば体罰を使わず暴力を振るったいじめっ子の心を抉るような、暴力と同じだけのもしくはそれ以上の効力を言葉で二度と暴力をしないようにさせればいいのでしょうがそんな理想的な言葉が本当にあるのかは私が知る範囲では残念ながら今のところないように思えますね・・・。
人を殺したいという動機で人を殺すというニュースを見て自分の興味本位だけで人を殺してしまう犯人の狂気に恐怖を覚えました。 そしてそんな犯人に対してもう自分の欲望が満たされれば何をやってもいいという部分にもうこんなことをする奴はもはや人間ではない、見た目は人間でも人間じゃない化け物のような何かなんじゃないかという怒りも感じるようになりました。 被害者のことを考えると悪くないのに無残な死に方をした被害者、悪いことをしたのに司法制度の欠陥でのうのうと生きている加害者という不条理を考えるとただ死ぬのではなくひたすら酷い死に方で死なないと気がすまなくなってしまいました。もはや人でないから人権を剥奪する刑でも課したいくらいです。 できれば自ら制裁を加えていくらいですがそれはできないのでこのやり場のない怒りをどうしたらよいでしょうか。
お坊さん 生命力の弱いひと、強いひと、世の中にはさまざまなひとがいますが、自然界では生命力の弱い生物はすぐに淘汰されてしまいます。どうして神様は人間だけ、こんな複雑な状況に置くのでしょうか。神様に納得できません( - _- ;) 自分も生命力が弱い人間の一人だと感じています。自然界だったら早々生きていけなくなっていると思います。外因的であれ内因的であれ生命力の強さは同じだと捉えているのですが、「自分から生きていくことをやめた」というのは、まだまだ周囲から偏見や勝手な解釈をされる気がしています。 お坊さんは「縁」という言葉を印象的に使っていらっしゃるように思います。それが自分の疑問に関係しているようで気になりました。縁とはなんでしょうか。仏教的に考えると、なぜ人間だけ生死が単純でないのでしょうか。どのような意味があるのでしょうか。
虐待の末に、親に子供が殺されてしまったニュースを見聞きします。 悲しい、切ない気持ちと共にいつも思うことがあります。 「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」と。 私は児童虐待の生き残りです。 暴力で、言葉で、態度でズタズタに傷つけられて育ちました。 幸い良い人と巡り会い、結婚し、主人の実家とも実の家族のように接してもらえています。 心療内科に通い、もう怯えたり自分を責める必要はないんだと、先生と話し合いながら、病気の治療を進めています。 怯えながら、憎みながら生活していた昔を思うと、本当に幸せな生活です。 悲しいことも悔しいことも、もう叶えられないかもしれないこともありますが、幸せなんだと思います。 ただフラッシュバックなどで苦しい時、よく思うことがあります。 「今の幸せが全部チャラになったとしても、この世に生まれてきたくはなかった」 理不尽に虐げられて生き抜いても、大人になってしまった以上、自分でなんとかしなくてはいけないという更なる理不尽。 苦しい中を生き抜いて、まだ戦わないと安らげないのなら、この命は最初からない方が良かったと感じます。 そして冒頭に戻ります。 虐待の末に命を落としても、その先に待ち受ける苦しい人生を思えば、その方が幸せなんじゃないかと。 社会は無慈悲で無理解です。 自分に責がなく精神疾患を背負っても、大人になっていればその責を本人に負わせます。 精神疾患を持っているが故に業務が滞っても、自分達と同じように仕事ができないことを責めるというケースはよく聞く話です。 「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました。 望まずして与えられた命、希望の持てない、真っ暗闇な自分の未来。 なぜ、私が生きていることは尊いのですか?