私は仕事の関係で、中国や韓国の方々と接する機会が時々あります。 中にはあまり友好的ではない方もいます。 彼らが日本の悪口を言う時や、ニュースなどで反日運動を目にする時などは非常に腹が立ちます。 しかし一方、最近ネットなどでよく見かける極右的な意見には賛同できません。 あまりにも極端なコメントを見ると背筋が凍るような悲しい気持ちになります。 教育現場などでも取りざたされているように、健全な愛国心を育てる事は必要なのかもしれません。 しかし私自身も恥ずかしながら愛国心をどのように表現するのが良いのか戸惑うことがあります。 仏教的な観点からは「愛国心」をどのように捉えるべきなのでしょうか? 愛国心をもつことは望ましいことではないのでしょうか? また、中国や韓国の方々の非友好的な態度に接するときは、どのように対応するのが良いのでしょうか? 是非ご意見を拝聴させていただければと思います。
先日ニュースでも話題にりましたが、シリア難民の3歳の男の子が溺死した件を見て涙しました。 自分にも小さい子供がいますが、多くの子供が何不自由なく育っている日本と、住むところもない多くの難民の子供。 難民の数は年々増加の一途だそうですが、全て大人のエゴの結果です。 どうすれば解決できるのだろう?と思いましたが、なかなか妙案もありません。ご意見いただければ幸いです。
宗教・宗派を超えて、聖職者・宗教指導者は異口同音に「人を赦せ」といいますよね。 私も、ここで別件で質問させていただいた際、御回答いただいた師から、やはり加害者を赦すようにと御指導いただきました。 理論上・理屈上、理解できますし、私に御指導していただいた師の御指導道理に努力します。 しかし・・・・・ ふと思いました。 犯罪・不正・いじめ・暴力・嫌がらせとかをやったヤカラを赦した際、これらのヤカラが、自身が課外をやった被害者から赦されたことによって、自分のやった悪行を自覚し、悔い改め、反省し、更生するのであれば、赦し甲斐があり、赦す意義があるというものでしょうが、反省もすることなく、まだ悪行を続けている場合は、いったいどうなんでしょうか? 仏陀は、赦しを受けても悪行を続けるガンダダ(『クモの糸」に登場する悪人」)みたいなヤカラを、どう御覧になっているのでしょうか? 以前別件で相談させていただいた、私に三年間にわたって嫌がらせ・侮辱し続けたヤカラは、いまだに私に対して一切謝罪・弁解・弁明も30年経ってもしてきませんが。 私の件はさておき、赦してやった者が、悪行を続けているということを、僧侶の師の各位は、仏教的・宗教家的見地から、いかがご覧になられているのでしょうか?
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
子孫繁栄に何故快楽を伴わせたのでしょう。そんなことをするから目的が子孫繁栄ではなくなる男性が増えたのではないか、何故、快楽等と言うものをお与えになったのでしょう。
分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。 ああその通りだなと思うのですが。 分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。 この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?
こんにちは。 最近、未成年だから身元が割れないと思い未成年の子供達が力も無く生きる術も人間をたよわざる得ない小さな動物の虐待が増えて来ています。 今もSNSで安否確認して、レスキューしようとしている方が居ます。 絶対助けたい。 私は元々、動物が大好きで小さな頃から一緒に暮していました。 親達が 「犬は外!」 と捨て犬だった犬を庭に係留しようとした時に…。 私は家の中から、自分の枕とお気に入りの毛布を持って来ました。 「じゃあ、私も外!だって、この子は私の妹だもん!」 毒親の実父、初孫に甘い祖父、動物が好きではないが孫の言う事には従う祖母…絶句。 こんな行動を起こした物ですから、あの時代にミックス犬のお座敷犬になりました。 留守番が全く出来なかった私が、犬と一緒なら平気と留守番できるようになりました。 その犬も最後は、毒親の身勝手な再婚で何度も保健所行きになりましたが、私が全部阻止して親戚の叔母の家にお願いしました。 寿命を迎えて昇天してしまいましたが…。 今も私は沢山の犬猫、小動物に囲まれて暮らしております。 世話は大変ですが、それ以上に幸せと楽しみを浴びるように貰って居ます。 (たまに派手な悪戯されてしかる時も有りますが) 動物を虐待した愚者達の魂 と 動物を慈しみ可愛がり大事にして来た者の魂 これはどういう風になるのでしょうか? 天国と地獄、そんなありきたりな言葉では無く…。 詳細にどうなるかとか、魂の浄化?的な事はどうなるんでしょうか? 因果応報などと言う言葉も有るので、気になるんです。 私は動物保護(自分の出来る範囲)をしていますが、動物からの見返りなんて求めておりません。 一緒に居るだけで幸せです。 が、肉食をする人間と菜食主義の私。 色んなとこで、【殺生や虐待する他人】と違うはずと思ってお坊さんに質問を出させて頂きます。 宜しくお願い致します。
教育の現場で体罰が問題になることってよくありますよね。皆様は体罰についてどうお考えでしょうか? 私は特定の条件下のみ体罰を使うことを認めてもよいのではないかと思います。その特定の条件下とはいじめっ子がいじめられっ子に暴力を振るった時です。 その理由として一つ目に暴力を振るわれた痛みをいじめっ子に理解してもらうためというのがあります。一度暴力を振るわれて自分で痛みを感じないことには相手の受けた辛さは分からないと思います。二つ目はいじめられっ子が不平等だと思うようにさせないためです。自分は肉体的に傷ついたのに相手は口先だけで終わった、そう思っているいじめられっ子も中にはいると思っています。(三つ目に言葉で言っても分からないいじめっ子がいるというのもあるといえばありそうですね) ここで誤解してほしくないのが私は決して根性論で積極的な体罰を求めている人間ではないということです。私も体罰で大怪我を負った生徒がいるのは知っています。だからこそ体罰はあくまでも限られた条件下のみで使ういわば最終手段的な形であって欲しいと考えています。決して忘れ物をしたとか部活の試合に負けたという理由で濫用してはならないと思っています。 最後に理想を言えば体罰を使わず暴力を振るったいじめっ子の心を抉るような、暴力と同じだけのもしくはそれ以上の効力を言葉で二度と暴力をしないようにさせればいいのでしょうがそんな理想的な言葉が本当にあるのかは私が知る範囲では残念ながら今のところないように思えますね・・・。
人を殺したいという動機で人を殺すというニュースを見て自分の興味本位だけで人を殺してしまう犯人の狂気に恐怖を覚えました。 そしてそんな犯人に対してもう自分の欲望が満たされれば何をやってもいいという部分にもうこんなことをする奴はもはや人間ではない、見た目は人間でも人間じゃない化け物のような何かなんじゃないかという怒りも感じるようになりました。 被害者のことを考えると悪くないのに無残な死に方をした被害者、悪いことをしたのに司法制度の欠陥でのうのうと生きている加害者という不条理を考えるとただ死ぬのではなくひたすら酷い死に方で死なないと気がすまなくなってしまいました。もはや人でないから人権を剥奪する刑でも課したいくらいです。 できれば自ら制裁を加えていくらいですがそれはできないのでこのやり場のない怒りをどうしたらよいでしょうか。
お坊さん 生命力の弱いひと、強いひと、世の中にはさまざまなひとがいますが、自然界では生命力の弱い生物はすぐに淘汰されてしまいます。どうして神様は人間だけ、こんな複雑な状況に置くのでしょうか。神様に納得できません( - _- ;) 自分も生命力が弱い人間の一人だと感じています。自然界だったら早々生きていけなくなっていると思います。外因的であれ内因的であれ生命力の強さは同じだと捉えているのですが、「自分から生きていくことをやめた」というのは、まだまだ周囲から偏見や勝手な解釈をされる気がしています。 お坊さんは「縁」という言葉を印象的に使っていらっしゃるように思います。それが自分の疑問に関係しているようで気になりました。縁とはなんでしょうか。仏教的に考えると、なぜ人間だけ生死が単純でないのでしょうか。どのような意味があるのでしょうか。
虐待の末に、親に子供が殺されてしまったニュースを見聞きします。 悲しい、切ない気持ちと共にいつも思うことがあります。 「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」と。 私は児童虐待の生き残りです。 暴力で、言葉で、態度でズタズタに傷つけられて育ちました。 幸い良い人と巡り会い、結婚し、主人の実家とも実の家族のように接してもらえています。 心療内科に通い、もう怯えたり自分を責める必要はないんだと、先生と話し合いながら、病気の治療を進めています。 怯えながら、憎みながら生活していた昔を思うと、本当に幸せな生活です。 悲しいことも悔しいことも、もう叶えられないかもしれないこともありますが、幸せなんだと思います。 ただフラッシュバックなどで苦しい時、よく思うことがあります。 「今の幸せが全部チャラになったとしても、この世に生まれてきたくはなかった」 理不尽に虐げられて生き抜いても、大人になってしまった以上、自分でなんとかしなくてはいけないという更なる理不尽。 苦しい中を生き抜いて、まだ戦わないと安らげないのなら、この命は最初からない方が良かったと感じます。 そして冒頭に戻ります。 虐待の末に命を落としても、その先に待ち受ける苦しい人生を思えば、その方が幸せなんじゃないかと。 社会は無慈悲で無理解です。 自分に責がなく精神疾患を背負っても、大人になっていればその責を本人に負わせます。 精神疾患を持っているが故に業務が滞っても、自分達と同じように仕事ができないことを責めるというケースはよく聞く話です。 「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました。 望まずして与えられた命、希望の持てない、真っ暗闇な自分の未来。 なぜ、私が生きていることは尊いのですか?
こんにちは。いつもお世話になっております。ゆーりです。 今日は、スケープゴートについてお坊さんたちは、どう思われるか?を質問させてください。 スケープゴートというのは言わば、「仲間はずれ」だったり、「怒られ役」のことです。 Wikipediaには・・・心理学の一つの用語としても存在する。特に精神分析学や社会心理学において、人は無意識のうちに、不満や不快を覚えると、不快感やルサンチマンなどを他者に対して抱く。このような現象はあらゆる集団で発生しうるものであり、そうした不快感を押し付けられたり被られたりした個人は、その特定の集団内においてスケープゴートとなるのである。それ故、ユダヤ人の移動行動のようにスケープゴートとして犠牲になるまえに、他の地域へ移住することによって難を逃れるといった、適切な対処を行わなければならない。 とあります。 集団はストレスをその人に押し付けます。 自分が、人より優れていたい、人を蹴落としてでも、優位に立ちたいという人間の醜い一面が、見え隠れしています。 さらに一般には、スケープゴートが集団にいたほうが、集団がまとまることもあるようです。 こういう人が生まれてしまったら人間は、逃げる以外に方法はないのでしょうか? 何か、周りにできることはないでしょうか? また、こういう人が生まれないようにするには、どうしたらよいでしょうか? 今日、学科の留年してしまった友達が(一つ上)が、クラスでさらし者にされていて、自分は何もできず悔しかったです。 ぜひ、意見をお聞かせください。 人としてやはり、許せません。 また将来、教育者を目指すので、クラス経営などでも、役立つお話だと思います。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。
かなりの頻度で虐待で亡くなった子供たちのニュースを耳にします。ニュースになっているものは氷山の一角で、今この瞬間にも虐待されている子供たちがいるかと思うと胸が痛みます。 虐待のない世の中になってほしい、と心から願っていますが、私が今現在できることは祈ることしかありません。 心がざわざわします。私にできることは何かないのでしょうか?
友人、恋人、採用など人を選ぶに辺り、大切なことは「信用」「信頼」だと考えています。見た目や仕草さで判断することは良くないことですが、信用・信頼できない人にはそれなりの特徴があると思います。 ちなみに私は ・人の話を聞いていない人 ・愚痴や悪口を言う人 ・時間にルーズな人 は信用・信頼できない人だと考えます。 お坊さんの視点からこういう人は信用できない、信頼できないなどありましたら教えてください。
殺処分や、動物実験、その他諸々について心を痛めてます。 罪のない動物の恐怖や悲しみ、苦しみは、彼らにとっての進化の過程で、必要な意味や理由があるのでしょうか? とても感情移入をしてしまい、どうすれば傷つかず考えることが出来ますか?
東日本大震災から2年が経ちました。世間では復興復興といつつも、政府はエネルギーの話に切り替え、しまいには増税を論じて、最近ではTPPの加入を急いでいます。義援復興金というお金も別のものに使われ、復興は進んでいるようで本当に苦しい人はまだまだいると思います。 ボランティアという大義名分のもと、出会いを求めて東北でお祭り騒ぎをする愚かな若者。節電を多いに利用して経費が浮いた企業。東京では対岸の火事のごとく、他人事でそれを利用して暗い街を何かのイベントと勘違いした若者が合コン騒ぎ。復興という名を利用し、なおかつ放射能汚染を無視して、購入して東北を助けようとなどとマスコミを動かす企業。それを正義のごとく振る舞い、プロパガンダ的に利用するマスコミ。海外では大きく問題に取り上げられている福島原発の汚染水の処理問題を全く報道しないマスコミと報道規制をする政府。 震災直後、雪の舞う瓦礫の前でお祈りをするお坊さんの写真がありました。家族が無事であるように祈る小ささな子の写真がありました。目の前で家族を亡くし泣き崩れる少女の写真がありました。 心が痛むなか、3.11を迎えて改めて考え、このような世の中で、私たちは何をするべきでしょうか。何ができるのでしょうか。
長文で失礼します。生きて行くなかでどうしても納得ができないことがあります。 ある大型衣料店でのこと。週末はこのお店は混雑します。 車で久しぶりに行く事になりました。駐車場は相変わらず混んでいました。 すると、大きな外車を改造したような、いかにもって感じの車が割り込み、しかもお店の目の前の障害者優先駐車場にどうどうと停めました。中からでてきたのは前頭葉が未発達の頭の悪そうな金髪ジャージ家族で子どもも金髪。タバコもその場でポイ捨て。 私たちはその後にやっと駐車でき、お店に入る事ができたのですが、障害者マークをつけた車が来て、停めれるはずの場所に大きな改造外車がどうどうと停まっているため駐車できずにいたのがなんとも心苦しく、私が駐車したばかりの場所を譲ろうとも考えましたが、お店の入り口からは遠い上に、他にも車が並んでいたので、それが困難であきらめました。私は罪悪で押しつぶされそうになりました。 なんだかんだでお店で買うものを選び、レジでならんでいたところ、例の先ほどの金髪家族がレジをしていました。すると、そのお店でキャンペーンをやっていたらしく、滅多に当たりもでないようなレジのくじに大当たりし、商品券が当たりとても喜んでいました。そうして、先ほどの障害者用にとめた車に乗って大音量の音楽で他を蹴散らし帰って行きました。 彼らには誰が罰を与えるのでしょうか。彼らは自分での罪悪も感じず、その行いすら気づきません。他人に優しくするような人は罪悪の判断ができるので、それだけ心苦しくなり、罪の意識も感じますが、彼らはそうではない。なぜならそれにすら気づかないのだから。 この一例に限らず、世の中はそういうところだと思っています。常に回りを考え道徳、譲ろうとするこころを持っている人には罰もくだり、その常識もなにもない人には罪悪もないので平気で悪い事をしても本人はしらない、もしくは他人よりもそれにより優越を感じているくらなので、幸せで仕方がない。で本人にはいいことばかり。 これが世の中でしょうか?
先日ラジオで流れてたのですが、日本人はエレベーターで閉ボタンをよく押す。閉まるまでの数秒も待たずに押す。ボタン近くに立った場合はエレベーターガールのように閉を押す。先に出る場合は、出るときに中に残っている人のためにわざわざ閉ボタンを押してあげながら出る。そこまでする必要があるんでしょうかね~みたいな話が放送されてました。 欧米では自然と閉まるを待つのが普通のようですね。 自分も確かに閉ボタンを押してしまいます。 やっぱりせっかちなのでしょうか。 お坊さんになると自然に閉まるのを待ったりしますか?
毎朝、満員の通勤電車に乗っています。 乗り換えの駅があって、その駅のホームの向かいに乗り換え電車(始発)が止まっているのですが、満員の通勤電車のドアが開いたとたん、向かいの乗り換え電車の席に座ろうと猛ダッシュで走って行く人がいます。 自分も疲れてるので、空いてる席があればもちろん座りたいですが、走ってまで席を取りに行きたいとは思いません。まわりを蹴散らしてまで必死になる人を見ると腹が立つのですが、本心は座りたいのに座れない自分を正当化しているだけなのでしょうか。 毎朝のイヤな気分から逃れたいです。