殺処分や、動物実験、その他諸々について心を痛めてます。 罪のない動物の恐怖や悲しみ、苦しみは、彼らにとっての進化の過程で、必要な意味や理由があるのでしょうか? とても感情移入をしてしまい、どうすれば傷つかず考えることが出来ますか?
東日本大震災から2年が経ちました。世間では復興復興といつつも、政府はエネルギーの話に切り替え、しまいには増税を論じて、最近ではTPPの加入を急いでいます。義援復興金というお金も別のものに使われ、復興は進んでいるようで本当に苦しい人はまだまだいると思います。 ボランティアという大義名分のもと、出会いを求めて東北でお祭り騒ぎをする愚かな若者。節電を多いに利用して経費が浮いた企業。東京では対岸の火事のごとく、他人事でそれを利用して暗い街を何かのイベントと勘違いした若者が合コン騒ぎ。復興という名を利用し、なおかつ放射能汚染を無視して、購入して東北を助けようとなどとマスコミを動かす企業。それを正義のごとく振る舞い、プロパガンダ的に利用するマスコミ。海外では大きく問題に取り上げられている福島原発の汚染水の処理問題を全く報道しないマスコミと報道規制をする政府。 震災直後、雪の舞う瓦礫の前でお祈りをするお坊さんの写真がありました。家族が無事であるように祈る小ささな子の写真がありました。目の前で家族を亡くし泣き崩れる少女の写真がありました。 心が痛むなか、3.11を迎えて改めて考え、このような世の中で、私たちは何をするべきでしょうか。何ができるのでしょうか。
長文で失礼します。生きて行くなかでどうしても納得ができないことがあります。 ある大型衣料店でのこと。週末はこのお店は混雑します。 車で久しぶりに行く事になりました。駐車場は相変わらず混んでいました。 すると、大きな外車を改造したような、いかにもって感じの車が割り込み、しかもお店の目の前の障害者優先駐車場にどうどうと停めました。中からでてきたのは前頭葉が未発達の頭の悪そうな金髪ジャージ家族で子どもも金髪。タバコもその場でポイ捨て。 私たちはその後にやっと駐車でき、お店に入る事ができたのですが、障害者マークをつけた車が来て、停めれるはずの場所に大きな改造外車がどうどうと停まっているため駐車できずにいたのがなんとも心苦しく、私が駐車したばかりの場所を譲ろうとも考えましたが、お店の入り口からは遠い上に、他にも車が並んでいたので、それが困難であきらめました。私は罪悪で押しつぶされそうになりました。 なんだかんだでお店で買うものを選び、レジでならんでいたところ、例の先ほどの金髪家族がレジをしていました。すると、そのお店でキャンペーンをやっていたらしく、滅多に当たりもでないようなレジのくじに大当たりし、商品券が当たりとても喜んでいました。そうして、先ほどの障害者用にとめた車に乗って大音量の音楽で他を蹴散らし帰って行きました。 彼らには誰が罰を与えるのでしょうか。彼らは自分での罪悪も感じず、その行いすら気づきません。他人に優しくするような人は罪悪の判断ができるので、それだけ心苦しくなり、罪の意識も感じますが、彼らはそうではない。なぜならそれにすら気づかないのだから。 この一例に限らず、世の中はそういうところだと思っています。常に回りを考え道徳、譲ろうとするこころを持っている人には罰もくだり、その常識もなにもない人には罪悪もないので平気で悪い事をしても本人はしらない、もしくは他人よりもそれにより優越を感じているくらなので、幸せで仕方がない。で本人にはいいことばかり。 これが世の中でしょうか?
先日ラジオで流れてたのですが、日本人はエレベーターで閉ボタンをよく押す。閉まるまでの数秒も待たずに押す。ボタン近くに立った場合はエレベーターガールのように閉を押す。先に出る場合は、出るときに中に残っている人のためにわざわざ閉ボタンを押してあげながら出る。そこまでする必要があるんでしょうかね~みたいな話が放送されてました。 欧米では自然と閉まるを待つのが普通のようですね。 自分も確かに閉ボタンを押してしまいます。 やっぱりせっかちなのでしょうか。 お坊さんになると自然に閉まるのを待ったりしますか?
毎朝、満員の通勤電車に乗っています。 乗り換えの駅があって、その駅のホームの向かいに乗り換え電車(始発)が止まっているのですが、満員の通勤電車のドアが開いたとたん、向かいの乗り換え電車の席に座ろうと猛ダッシュで走って行く人がいます。 自分も疲れてるので、空いてる席があればもちろん座りたいですが、走ってまで席を取りに行きたいとは思いません。まわりを蹴散らしてまで必死になる人を見ると腹が立つのですが、本心は座りたいのに座れない自分を正当化しているだけなのでしょうか。 毎朝のイヤな気分から逃れたいです。