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検索結果: 847件

宗教とは

祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。

有り難し有り難し 38
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旦那の風俗

はじめまして。やっと質問できました。ありがとうございます。わたしには一才にならない娘がいて育児中です。 出産後は確かにホルモンの関係などでイライラし、旦那には冷たく当たったりしました。旦那が逆ギレすること、自分は妊娠中に仕事を辞めてしまって収入がない負い目などもあり、意見をすることが億劫になり、段々と会話が減りました。 そして、旦那の部屋を掃除していて証拠を見つけて一瞬固まりましたが、二、三日聞き出せず眠れない夜を過ごしました。 しかしついに我慢できずに、私はあんたの子を命削って育ててんだよ、なめんな!とぶちギレました。外に愛人でも作られるよりはマシですが、それまでは真面目で風俗など縁もない人でした(と信じていただけかもしれませんが。) 結婚してから、だらしないところばかり気になり楽しくなくなり頻度が減り、セックスについても話し合いを何度もしました。駄目なら風俗いくぞ、と言われたこともありますが泣きながら、それだけはやめて、と頑張りますがやはりそんなに旦那の要求に応えられないことが増えてまた話し合い、みたいなことになります。子供ができたら夫婦の絆もまた強くなるかなあ、と思ったのと、年齢のこともあり頑張ったところ何度かで運良く妊娠できました。正直、妊娠したらしばらく旦那とセックスしなくていいと思うと気が楽でした。妊娠してから育児も落ち着いてきたし、そろそろ旦那の要求にも応えてあげないといけない頃かなあ、と思っていた矢先でした。 顔を見るのも辛く、平日は旦那が帰る前に就寝し、出勤してから起き出します。土日はどうしても顔を合わせるので必要最低限の会話はします。 友人や両親に相談しても一向に気持ちが晴れず、一度許そうと決めたけれど、信用も愛情もなくなり、顔を見るのが辛い日々です。 こんなことをする人間にしたのは自分にも一因があります。自分が我慢すれば、前を向けるようにすれば良いことでしょうが、1ヶ月以上経った今でも、どう旦那と向き合えばよいのか分かりません。このまま気持ちが変わらなければ、定職に就いて生活の目処がついたら娘と家を出るつもりです。でも可能ならば旦那と老後を過ごしたいという気持ちがあります。 何かお言葉をいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 165
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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 712
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