主人が亡くなり2年が過ぎました。 それまでお寺とはご縁が無かった上、いきなりの事で選択する余裕など無かった為、紹介されたお寺の檀家となりました。 葬儀を引き受けていただく際に檀家になる事が条件で、断れない状況でした。 今まで親戚や知人の葬儀に参列した事が何度もあり、通や・葬儀・初七日法要・初盆など、必ずお経の後、ひと言ふた事有難いお話をしてくださり、心が和んだものでした。 しかしながら、主人の通やから、三回忌法要まで、一度も法話らしきものがなく、お経が終わるとサッサと帰られます。 私ひとりの時は構わないのですが、沢山参列してもらった時には、違和感を感じております。 40代のご住職なので、お若いわけではありませんし、お布施も少し大目にしているつもりです。 臨済宗ですが、全く法話をしない宗派があるのでしょうか。 また先日の三回忌に、数珠なしでお経を唱えておられる事に気付きました。 大事な法要ですのに、ショックです。 聞くのは遠慮しましたが、きちんと供養になったのか心配です。 今までの立ち振る舞いや葬儀社からの印象など、仏に仕えている立派なイメージがなく、尊敬できません。 主人にも申し訳なく、檀家をやめたいくらいですが、簡単にいかないでしょうし悩んでおります。
こん○○わ。初めまして。よろしくお願いします。 さいきんとある方から聴いたのですが、阿弥陀仏の48願というものがあるとききました。 今流行りのアイドルのような数字なので、気になり調べましたが、 センターの願いとでもいうべきでしょうか。 第18願を浄土宗の法然氏は一番大切と言ったそうですが、インド語の原文にはない部分で書き足された部分だという話をききました。 私も聞いた話なので、詳しいことは知りませんが、 このことが本当なら、これはどのように捉えれば良いのでしょうか?? お坊さんの皆様お願いいたします。
顔見知り程度だったママさんに会った際に言われた言葉が許せません。まだ赤ちゃんですが、お互いの子を比較しマウントを取られました。 「あなたの子は育てにくい、それに比べてうちの子は聞き分けがよく育てやすいからすぐに二人目を考えられる。 ウチの旦那はいい子を持てて幸せ。 二人目考えてる?ウチの子みたいな子が欲しくないの?」 というような内容とその他の自慢話でした。 あまりに急に色々言われてその場で言い返せませんでした。 我が子や家庭を悪く言われた事に腹が立ちすぎて、忘れられません。 おかしな人はどこにでもいる、今後関わらなければいい、相手にするなと言われてもずっと頭に残っています。 腹が立つのは私自身の問題でしょうか。 私は何をすべきでしょうか?
宗教とは何ですか? 宗教とは何を目指しているのでしょうか?宗教の目的がよくわかりません。 祖父母の法事等で、宗教行事に触れる機会はあるのですが、この私の人生にどういう意味があるのかが、わかりません。 宗教の目的はなんでしょうか? お坊様がたの信仰されている宗教について、その宗教とは何か?その宗教の目的とはなにか? を教えていただけたら幸いです。 宜しくお願い致します。
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。