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どうすれば、すべての人を尊敬できるようになるのでしょうか?

長文で申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします。 私は小さな頃から「天才だね」「何でもできるんだね」と言われて育ちました。実際にかなりの才能に恵まれているようですが、自己肯定感が強いので、どうしても傲慢な気持ちが捨て切れません。 私は長い間、業務能力が芳しくない人と一緒に働くことで生じてしまう様々な非効率に悩まされてきたので、正直「賢くないことを自覚していない人」がとても苦手です。 正直「賢くない人と働きたくない」という思いもあり、学生の頃に個人事業を起こして順調に経営していましたが、25歳の頃に孤独なお金儲けが虚しくなり、大きな仕事を純粋に楽しむことを目標に一流企業に入社しました。 日本でも指折りの入社難易度を誇る会社でしたので、入社後は優秀な人に囲まれて本当に楽しく働いていました。「やっぱり、優秀な人に囲まれて過ごせば悩みは解決するんだ。賢くない人に関わりさえしなければ、健全な気持ちで働くことができるんだな」と感じたのです。 しかし心の底では、「優秀ではない人を見下してしまう自分」がすごく嫌いです。その人の人として尊敬できる部分を探して尊敬しようとしても、「あ、この人頭が悪いんだな・・」と感じるとどうしても上から目線になってしまうんです。 これではいけない、傲慢だ・・・と思い何度も謙虚になろうとするのですが、「頭の悪い人に対する嫌悪感」が強く、うまくいきません。 「頭の良さ=人徳」ではないことはわかっているのですが、経験上「頭が悪い人からは迷惑をかけられたり失礼な目にあう」という認識が拭えないのです。 しかし、私が人より器用に生まれたのは、自分ではなく誰かを助けるためなのだろうな、とも感じています。 どうすれば、賢いとはいえない人に対して尊敬の念を持つことができますか?

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 712
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