5年前、友人が病死しご家族のご好意で火葬後の骨上げにも参加させていただきました。 友人の命日には墓参りを。と思っておりましたが、ご家族の意向により、納骨はせず今もご実家にお骨がある状況です。 その為、お盆や命日等友人に会いたい。墓参りに行きたい。と思った時はご家族にアポイントを取る必要がありました。 ご家族の連絡先は友人が持っていましたが、友人も機種変更により連絡先がわからない状況に…ならば住所はわかるので命日のお供え物だけでも。と思いましたが、"事前に遺族に郵送する日時を伝え、法要の2〜3日前には到着するよう手配するのが良い。"と知った時にはご家族との連絡手段を確保する余裕もなく一周忌がすぎてしまいました。三周忌に…と思いましたが、知識不足で、周忌の数え間違いをしてしまい…ずるずると今に至ってしまいました。 数ヶ月程で命日があります。今から準備すれば連絡先を知り郵送をする事も叶いますが、今更…と思われないか心配です。また、今年はは贈らず、七周忌で贈る方が良いのでしょうか。 また、ご自宅へのお参りは家族にとって苦しいものにならないでしょうか。
私は旅をするのが好きで、よく田舎のお寺や神社を巡っています。 写真や動画を撮るのも大好きでよく映像制作もしています。 そのため神社(鳥居)やお寺さんの敷地内、お地蔵さんもよく撮るのですが、 (もちろん撮影OKの場所のみ) ある日ふと、 「神社に入って早々に鳥居やお寺をパシャパシャ撮る行為は失礼なのかも…」と気づきました。 早速調べ、いろいろな記事を見て回りましたが失礼という方もいるし気にしないでいいという方もいて、結局よく分かりませんでした。 一応お寺や神社を撮る前(入る前)は、 「失礼します」という意を込めてお辞儀をしたりなど、写真を撮らせていただくということには感謝させていただいてます。 お坊さんから見て、 (撮影OKの)お寺や神社にきて早々にパシャパシャしている人をどう思われますか? 田舎のお寺や神社は撮影に関して記載がないところの方が多く、書いていないならOKなのかな?と思っているのですが、この認識も良くないですか? また、鳥居を後ろから撮る行為は神様に失礼でしょうか? 調べても出てこず困っております。 やはり良くないのでしたら、もうやめようと思います。
この時期になると吹っ切れたはずの心がモヤモヤします。1年前、コロナに罹ってしまい、せっかく私のために仕立てた振袖も準備も何もかも無駄になったからです。 いろんな投稿が流れてきて、綺麗な振袖を見るたびに1年かけて宥めすかしてどうにか持ち直した心が、羨ましい、行きたかった、悲しいという気持ちで辛くなります。浪人した人、そもそも式典が中止になった人、私以外にも行けなかった人はたくさんいると思いますが、あと一歩、二日前に発症した病のせいで、当日みんな着飾ってる中私はベッドにゲロを吐いていました。 この本当に惨めな気持ちを毎年思い出して、残りの長い人生生きるのでしょうか。どうしたらこの痛みを和らげることができますか。
前から着物に憧れていて最近着付けを覚えて、先日京都にお参りに行きました。そのときに帯がほどけてしまい慌ててしまって裾まで踏んでしまって、直すに直せなくて泣きそうになりながら目に入ったお寺さんに駆け込みました。 お坊さんがお寺に上げてくれ、女性を呼んでくださり親切にお直しをしてくれたのですが、そのときはパニックになっていたのもあってお礼だけ行って出てしまいました。 失礼なことをしてしまったと思い、今さらになりますがお供えを送りたいのですがおいくらぐらいが良いでしょうか?また、お直しをしてくださった女性宛てか(お名前はわかりません)、お寺さん宛かどちらがよいでしょうか?お教えください
ずっといろんなお守りをもっていたことを忘れてしまっていました。 今すぐお礼と謝罪をしたいけれどやり方がわからないです。 来年返納予定ですが、今少しでもこの気持ちを伝えるにはどうしたら良いでしょうか…?
11月11日に義父が亡くなりました。 神棚に半紙を貼りお供えを全て下げてしまうのは気が引けて水のみ毎日交換し塩、米、酒はそのままです。 12月23日に49日を終えた為、半紙をはがしお供えをまた新しいものにしてしまったんですが大丈夫でしょうか? ネットで見ると亡くなってから50日は半紙ははがしてはダメと記載してあり失礼だったかと気になってます。 再度、お供えを下げ半紙を貼った方が良いでしょうか? 義父が生きてた時はお供えの置き場所などは教えてもらいましたが、ずっと義父がやっていたので亡くなった今、分からない事だらけです。 宜しくお願い致します。
父の一周忌が数ヶ月後にあります。 そのことで悩んでいます。 父の相続で兄弟の強欲に振り回され深く傷付きました。もう二度と兄弟と関わりたくないと強く思っています。 そんな家庭なので一周忌に来てくれる親戚もいません。 当日はお寺でお経をあげていただいて、スーパーでお惣菜を買い、それを実家で食べて解散です。 父のことを思えば少しの時間我慢をして頑張らないとと思うのですが…考えるだけで苦しく、どうしてもどうしても行く気になれません。 一周忌に行かないことは非常識だとも言われました。 家で手を合わせたりお墓参りだけでは供養になりませんか? 自分の気持ちは置いておいて、なんとしても一周忌に行くべきでしょうか? この先も法事に参加しないと父が悲しみますか? 教えていただけると有り難いです。 よろしくお願いします。
ご供養の仕方について質問です。 私はとある新興宗教に以前入っておりました。 今は経済的に厳しいことや、菩提寺のお坊さんの助言もあり、脱退しましたが、過去帳というものを作ったので日めくりにして、毎日般若心経を読んで、お線香をあげています。今年は月命日という習慣があるんだと知り、月命日にはお墓参りをしようと目標をたてたのですが、母が倒れたショックと、家を売却した環境の変化に耐えきれず入院してしまい、お彼岸にも行けなかったので、先月やっと退院してお墓参りできました。以前はお墓が歩いていける距離でしたが自転車で2時間以上かかるので休みにしか行けなくなってしまったので彼岸とお盆と新年には行こうと思いますが、命日や月命日は行けたら行くので良いんでしょうか。それとはまた別なんですが、うちの仏壇は造花が飾られていてまえから気になってはいたのですが、やっぱり生花のほうが良いのではないかと。言っても、生花はお金がかかるからダメだと親がいうので。 仏教を通して、座禅や写経や読経やお地蔵様のお掃除など作務を行ってきましたが、遠くなってしまっては。よく分からない文章になってしまいましたが、宗教嫌いな人は沢山いるけど、私は仏教が大好きです。仏様が墓参りしろと言ったんじゃないことは知ってますが、お墓参りというのはしたほうが良いと私は思ってますが、宗教はいけないことなんでしょうか。
#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 ここ数週間の間、寺社で立て続けに不審者に遭遇しています。 見つめられる、近寄ってこられる… 私は、色々な寺社で男性信者から性的な前兆事案に遭っています。 「前兆事案」とは、刑事用語で、「犯罪には至らないが、やったら おまわりさんに注意される行為」のことです。 たとえば、見つめる、声掛け、後をつける、触られるなどです。 もっと厳密な意味があるのでしょうが、私の解釈はこのような感じです。 近所のお寺にウォーキングに行っていたのですが、このお寺では 2回ほど不審者に見つめられました。他にも様々な寺社で不審者に 遭っていることをおまわりさんに告げると、 「辛いかもしれないけど、お寺にはもう行かないほうがいい」 と言われてしまいました。 仲良くしているおばあちゃんにも、 「なんであんたは、変な奴が来るってわかってる所に行くんだ。 大馬鹿三太郎のやることだよ」 と言われてしまいました。 結論、「お寺好きの友達と予定を合わせて一緒に行く」という ことになりましたが、友達は医療系専門学校に通っていて、多忙です。 おばあちゃんは、 「なんとか就職できれば」 と言ってくれたのですが、 「まだ先生から、訓練すら段階的にレベルを上げて、という話で、 就職なんてまだ先」 と言われたことを伝えました。 悪しき野心を抱いたケダモノたちのせいでお参りが できなくなってしまうのは、悲しいし悔しいです。 しかし、うちには浄土宗の仏壇があるので、それを大事にして いればいいのでしょうか。でも、私は寺社のあの雰囲気が好きです。 行けなくなるのは、本当に悔しいです。
先日父が旅立ちました。私がひとり親で実家に戻り、ふたりの息子を育てましたので、息子たちにとっても、父親がわりのような、大好きなおじいちゃんでした。 本来の四十九日は正月過ぎですが、その頃の法事はできないとお寺で言われ、法事ができるのは1月中旬の予定です。 当方関東在住ですが、上の息子が北海道の大学に通っており、法事の頃は試験も近く、また雪深い季節の為(北海道の中でも豪雪地帯におります)、帰省は難しいとのことですが、本人も参列できないことが大変無念のようです。 年末年始は帰省していますので、何かその時にできるお弔いはありませんでしょうか。 倒れてわずか1ヶ月での逝去、その1ヶ月の間に北海道から2往復、今回の葬儀含め3往復するほど大好きなおじいちゃんでした。 ただ「参列できなかった」ではなく、代わりにできることがあれば、息子も納得できると思います。 お知恵を拝借できればと思い、投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。
先月祖父を亡くし、来月の頭に四十九日を迎えます。 四十九日を迎えるまでの魂は私たち家族のそばにいて見守ってくれているという話を聞いたのですが、その後の魂はどうなってしまうのか、という相談を先日こちらでさせて頂いたところ、有り難いお言葉を頂きとても心が癒されました。 その中の一つに、「魂についての捉え方などでわからないことがあれば、葬儀でお世話になったお寺さんに聞きに行ってみてはどうでしょう」というご意見がありました。 実際に葬儀でお世話になったお寺さんは我が家が長い間お世話になっているところでして、葬儀の終わりに住職さんから「わからないことがあれば聞きに来てくださいね」と言って頂きました。 しかしあくまでそれは法事などの際に何か質問をさせてもらえるということだと思っていたのですが、直接こちらからお寺に出向いてお話をさせていただくということはお寺として可能なのでしょうか? お墓や葬儀についてではなく個人的な気持ちの悩み相談という形になってしまうので、そのようなことでお時間を取ってしまうのは申し訳ないと思うのですが、お寺のほうに電話などで確認を取ることはご迷惑ではないですか? そして、もし直接お話させてもらえることになった場合、お布施というか、何か持っていくべきものはあるのでしょうか。 わからないことばかりで、助言をいただけると嬉しいです。
お墓の近くに氏神様があります。同じ日に行ってもいいのでしょうか?それとも氏神様に先にお参りしてから、お墓参りをした方が良いでしょうか?
怪我をしてしまい、治療院へ約2ヶ月ほど前からお世話になりました。 その院は門前の仲見世通りにあり、初夏に新しくできたばかりでした。 怪我した当初は、適切な処置で仕事を休むことなく大変良かったのですが… 一向に治療が終わる気配もなく、次、また次の予約で、施術や接遇マナーについても少々気になる点はありました。 例えば、相手に接している間に業務連絡や他の患者さんの所へ行くなど、その場を離れる時は必ず手を離す前にひと声かける、一連の動作の中で、なでる、トントンとたたくなど、患者の心身の緊張を緩めるための手の置き方があるのですが、元々痛めた部分を拳で普通に叩いて響いたり、単純に重くのしかかるだけの雑に感じられる置き方、などの違和感です。 治療学を学びに学会へ参加したり、手技を生業としていた自分の中で経験者として備わった常識との隔たりに、日に日に不信が膨らみました。 ある日、施術中に「今度、ハロウィンの仮装をするんです」と他の患者さんへ話す声が耳に入りました。 怪我直後は応急処置に助けられた反面、ずっと長々通ううちに質が薄れていき、施術や接遇マナーに疑問が生じていた矢先でしたので ハロウィンの仮装をした治療家に、お預けするのは気が進まず、理由は伏せて「卒業」を告げてきました。 大変残念そうな感じでしたが、寺院や大きな神社のある門前町の仲見世に院を構え「地域の人々に貢献する」という建前と、施術の質が伴わないこと、治療行為と仮装(仕事と遊びをごちゃまぜにする)が受け入れ難かったこと 真心が手から伝わらなかったこと それらを伝えずに去ったこと、それで良かったのか、時々心に浮かびます。 年代は20代前半の方ばかりで、患者さんを集める能力や、予約に繋げるノウハウがあることはわかります。 ただ、肝心の施術の質が…(あくまで私の感覚ですが) 繁忙してくると何か大切なものを忘れてしまう…、応答もマニュアルがあることが察せられますし、一生懸命なのはわかりますが 驕れる者は久しからずに思えてなりません。 (クリスマスケーキを売るために、商売人がサンタの格好をするのはわかるのです) プロフィールにも書いた通り、志もあるので、今回のことは学びに繋げたいと思います。 下手にクレーマーになるよりは、それで賢明な選択だった、大人になった、そうけじめをつけたいです。
いつもお世話になっております。 最近、気になっています。人は、なぜ祈るのでしょうか? 私は毎日、私がお世話になっている精神科医療スタッフさんが 安全にお勤めできるように、また、ストレスのため体を壊して しまった友人が早く回復しますようにと祈っています。 最後に自分のために祈ったのは、いつだったか。といった ところです。 あるお坊さんが、 「祈りとは誓い。『私は、○○をします。お見守りください』と、 神(仏)だのみではなく、自分が頑張るのを見守ってもらう」 とおっしゃっていました。私は、本来の仏教は神秘主義に傾倒した、 現実逃避の教えではないんだ。と安心しました。 しかし現実は、祈りや寄進が「自己愛の増幅」に繋がってしまって います。 「私はこれだけ○○様にお祈りしてるんだワ!」 「私はこんなに○○寺にご寄進したんだワ!」 と、ナルシストになってしまっているのです。 だから、信者間でのモラルハラスメントや、不倫や性暴力の 横行といった、これが宗教者かと思われる、アリエナイ事態 が各所で乱発しています。彼ら彼女らからは、本来宗教者が 持つべき「謙虚さ」が欠落しているのです。 現に私は、色々なお寺で色々な嫌な事をされています。 まともに祈って努力して頑張っているのは、医学生さんや 法学生さんくらいでしょう。 現に仏教系の大学は、偏差値が低い所ばかり。まあ、偏差値 というのは倍率のような側面もあり、志望者さんが多い学校ほど、 「きりがないから優秀な子から…」と高くなるようですが。 昔、陰謀論は宗教が担っていたそうです。陰謀論にはまる人々は、 「私は真実を知っている」「世界は間違っているが、私たちは正しい」 と驕ります。そして彼らは、科学が嫌いで怠け者です。 仏教では、 「あらゆる事象には科学的な原因があるから、呪いやたたりなど 怖くない」 と説いていると聞きますが、これを理解している人が、どれだけ いるでしょう? もっと言いたい事はありますが、長くなるのでここまでに します。 私は祈りを捧げるとき、周りへの感謝、そして、頑張ります、 という気持ちを大切にしたいと思っています。そして、祈ったら、 次は現実的なアクション。間違っていますか?
散歩の距離にちょうど良く、稲荷ではない神社へお参りに行くのが好きなので何回も行ってしまいます。 多くても1日2回くらいです。 基本的に生きてることへの感謝、いやなことがあった時の息抜きで訪れています。 お賽銭を入れないときのほうが多いです、10円が縁起が悪くなかったらもう少し頻繁に入れられると思うのですが...。 抽象的な相談内容ですみません、大丈夫だと思いますか?
お寺にお参りに行くと、特にお稲荷様や弁天様のお社に、ワンカップなどのお酒などがお供えされています。あの外に置かれたお酒などは、後にどうなるのでしょうか?私もお供えして、置きっぱなしにしておりましたが、蓋をつけたままといえ、後でお寺さんのご迷惑になるのではないかと思い。最近はお祈りするときだけ、お供えして、持ち帰っております。やはりどこの誰がお供えしたかも、分からないものは、蓋がついているとはいえ、お寺さんも困るのじゃないかと思うのですが、どうされているのでしょうか?
とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。
はじめまして。 これまで無頓着で何となくしか関わってこなかったので不勉強な質問で失礼します。 今年、子どもを亡くしました。菩提寺が遠方で、私自身も寂しいということもあり、お骨はまだ自宅で供養しています。 葬儀や49日法要は、葬儀屋さんの紹介でお坊さんに来ていただきましたが、そちらのお坊さんは普段、このエリアの布教事務所(お寺がありません)で出張で対応されているだけです。 天台宗なのですが、住んでいるエリアには数えるほどしかお寺がありません。 天台宗にも派閥があって教えも若干違うと伺ったことがあるのですが、月命日など、お寺にお参りしたい時、天台宗のお寺であれば近くのお寺(といっても歩いて行ける距離にはありませんが)にお参りして読経をお願いしても問題ないでしょうか。 ・月命日に家にお坊さんに来てもらって、、、というのが一番良いのですが、体調が不安定でスケジュールが立てれないので現時点ではお寺にお参りして供養をと考えています。 付帯で質問です。気持ちさえあれば宗教に関係なく、どこのお寺にお参りでもよかったりしますか? よろしくお願いします。
思う所あって浄土真宗から浄土宗に改宗した者です。金戒光明寺での授戒会が今月末に迫ってきましたが、冥加金6万円+交通費と宿泊費で約2万円という高額なので未だに参加すべきかどうか迷っています。頂けるのは二字の戒名で道号は無しということですが、それなら以前に西本願寺で頂いた法名があります。 西本願寺の浄土真宗には戒はありませんが、戒ならこの夏に高野山大師教会で(参拝客向けの簡易的なものとはいえ)授かりました。たぶん真言宗も浄土宗も戒は同じ大乗戒じゃないでしょうか。 西本願寺で授かった法名と高野山で授かった戒を足せば、金戒光明寺で受けられるものと一緒じゃないかなあなんて考えています。なにより浄土宗の教義からいうと持戒は必須でもないことですし。 いかがでしょうか?