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「後悔・自己嫌悪」を含む問答(Q&A)一覧

あるがままに生きたい

よろしくお願い致します。 無意識に未来を考え過ぎ不安になり 多分それがきっかけで 強迫神経症になりました。 厄介な病いです(´╯σ ╰`) 180度人生が変わりました。 楽しみにしていた行動さえも 楽しみでなくなり 引きこもりになりました。 辛い。。。 明るかった私が暗くなり 積極的だった私が消極的に 普段気にもかけていなかったことが 殆ど恐怖の思考となってしまいました。 なので何をするにも億劫です。 本当は、そんなこと感じず 身体を動かして 働きたいのに。。。 治したいのに医師や家族 友人の言うことも 聞けなくなりました。 どうしたらいいですか? 医師にはあなたは未来に生きています 今、今が大切なのに。。。 僕だってこの上の屋根が落ちてきたら って考えると怖くなりますからね。 手をゆっくり丁寧に回してください。 その時間だけでも余計な事を考えないですよね。と、アドバイスを頂きました。 確かにです でも以前にも良くないことですが 食器洗いながら 仕事の事や次にやることを考えたりしていましたが、そこまでぶっとんだ恐怖な思考に苦しむことはなかったと思います。 やはり今この瞬間を大切に生きていく練習をしたらいいしょうか?

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嫌な思い出が離れない

高校の時、いつも一緒に居た友人と何気なく進路のことを話していたのですが、その際に友人が同じ専門学校を志望していたのを全く知らずに聞かれたままに『推薦が決まりそう』と話しました。 それを聞いて友人は腹を立て、クラス中の子に『こんなひどいことを言われた!』と騒ぎ立て、クラスのみんなに無視されるようになりました。 そのまま卒業し、仲の良かった子とも最後の方は会話もなくなってしまい複雑な気持ちでした。 卒業から数年経った頃、当事者である友人にばったり会い、何も無かったかのように話し掛けられて困惑していたのですが。 それから、Facebookで事の発端となった会話の場にいた別の友人から『あの頃は私も子供でごめんね。ずっと謝りたかった』とメッセージをもらい、何か心のモヤモヤが少し薄れた気がしました。 それでも、クラスの他の友人達とは今も繋がりもなく一歩おかれているような状況です。 今となっては、他にも友人もいるし、その出来事を知っていて仲良くしてくれる友人もいるので気にしなければいいだけの事なんだと思います。 けれど私は、自分がしたことは、そんなに皆から避けられたりすることだったのかな?そんなに私は、悪いことをしてしまったのかな?と時々思い出して悩んでしまいます。 私は、そんなに人に嫌われるほどの悪いことをしてしまったのでしょうか?

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家族が死ぬのが怖い もう死にたい

こんにちは この頃私はすぐ泣いてしまいます 母から買って貰った物や、家族とよく一緒に通る道やスーパーを一人で歩いたり、家族との思いでがある場所(家の中など)にいると、胸が苦しくなって、手が震えて涙がぼろぼろ落ちてくるんです。 一人になるとすぐそんな事になってしまって辛いです。 私は小学5年生ぐらいの時から、母のようなお母さんになりたいと思っていたのですが、今思うと 母のような人になりたいのでは無く、母になりたいんです 優しくて強い父と結婚して、私を生んで、数年したら妹を生んで、私と冗談を言い合って、父がゲームをしている所を私と一緒に見て、近所のスーパーに私と行って、今自分が住んでいる家で私と妹の子育てをしている母に憧れていたんです 母のようなお母さんになって新しい家庭を作るのではなく 母自身になりたいんです 今住んでる家を出て、違う家で、違う場所で、家庭を作るんだと思うと この先私は幸せになれるのか不安です ずっとこのままでいたいんです ずっとこの家で母 父 妹 おじいちゃんおばあちゃんと暮らしたいんです そんな事は出来ない事は分かっています でも苦しいんです 怖いんです これからそんな気持ちで生活するのは嫌です、でもすぐに悲しくなってしまいます 何か楽しい事をやっていると落ち着くのですが それをやめると どっとつらい気持ちになります それがもう2週間も続いています こんなネガティブで家族離れできていない自分が嫌です どうしたら、そういう事を考えないように出来るでしょうか 助けてください 死んじゃいたいです 

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自分のせいで友達が

息子が苦しんでいます。 前回ご相談したことの続きです。 息子とA君はいつの間にか仲直りしていました。あっけないものです。 しかし… 息子に暴力を振るったお子さん(A君)が、あの事件から2週間ほど経ったあたりから、日に何時間か支援級へ行っているようです。 支援級の受け持ちの先生に連れられて、支援級のクラスに入っていくのを息子とクラスメートが目撃したとのことです。 担任の先生は生徒たちに何も話してないようです。 担任の先生に毎日提出するノートの日記欄に 「A君が支援級に連れていかれるのを見た。もしかしてあのこと(A君が息子に暴力を振るったこと)が原因なんだろうか。もしそうであれば、A君は僕たちの仲良しの仲間なのだから、絶対に普通のクラスにいれるようにしてほしい。」 と書いていました。 先生からの返事は 「あのこととは関係ないから安心してください」 とありました。 一旦それで納得したようですが、日が経つにつれて、やはり自分とのことがあったからなのでは?との思いが拭えなくなってきているように見受けられます。 先生が関係ないと書いていたし、無理やり支援級にやられるということは無いんだよ、今まで通り仲良くできたらいいねと息子に話しましたが、それでも悩んで表情が冴えません。 A君は来年度からは完全に支援級に移るようです。息子が本人から聞いたそうです。A君は行きたくないと言っているようです。 自分がA君から暴力を振るわれた時に、怒ってしまったからこういうことになったのでは無いか? と、担任の先生に何度も普通級へ残してほしいと直談判しているようで、それでも何も変わらないことに無力感を感じています。 もう決まったことなのだから…とわたしからも言っても、頭では納得しても心がついていかないようなのです。 わたしは親としてどうするべきなのでしょうか。

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自分には生きている価値がないと思ってしまう

こんにちは。 私は今、とある理由で生活保護を受給しています。今年の1月から受給し始めました。去年までは働いていたのですが、持病である精神病が悪化し、職場に通えなくなり、援助を求められる身寄りもいないことから生活保護を受給することになりました。おそらく半年は病気を快復させることに専念する生活を送ることになるかと思います。そして病気が快復したら、また働き出したいと思っています。 前置きが長くなってしまいましたが、その生活保護について、悩んでいることがあるのです。よくテレビなどで、生活保護の不正受給者の特集が取り上げられたからかわかりませんが、ネットなどで「生活保護の受給者はクズ」という意見を目にします。おそらく受給者への侮蔑を込めての呼称なのでしょうが、「ナマポ受給者」という言葉もよく見ます。どうやら彼らにとっては、不正受給者が、ではなく、生活保護を受給しているという時点で「生きている価値がない」となっているようです。 私は、こういった意見を働いている頃から知ってはいました。なので、自分が受給者になった今では、周りに知られることが恐ろしいのです。絶対に知られたくありません。まるで生活保護の受給者は生きる権利がないとでもいうような、あの否定した意見がもはやトラウマとなっています。考えてはいけないと思っているのに、毎日「自分はクズなんだろうか」と考えてしまいます。それに私の場合ですが、持病とはいえ、身体ではなく精神の方なので、パッと見は健康な人となんら変わりはありません。そのせいで、なおさら悩んでしまうのです。

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男性にまつわる良くない思い出

はじめてご相談します。 昔あった喜ばしくない出来事を、普通の思い出にしたいです。 私は最近いわゆる婚活を始めました。 そこでふいに、この数年すっかり忘れていた出来事を思い出しました。 大学生当時に男性の先輩に付き纏われたことです。 はじめは考えすぎかと思いました。 が、かなり露骨に避けるようにしても変わりなく、 むしろどう考えても普通はしないと思われる行動に出たため 半年位経った頃、最終的に相手へ直接、やめて欲しいと言いました。 幸いそれで、追いかけられることはなくなりました。 危害を加えられたり嫌がらせをされることもありませんでした。 それから忙しくしている内に、日常生活で恐怖心を覚えることは段々なくなっていきました。 いまでは自信を持って信頼できる男性の友人がいます。 婚活してみたことで初対面だろうと楽しく過ごせるようになっている自分を発見し、ほっとしました。 そもそも考えないでいられていたことに安心しました。 けれどこの一件を思い出してから、 お話しして楽しかったからといって、この人を信用していって大丈夫なのか と考えてしまいます。 あの先輩とも、はじめから話すのが嫌だった訳ではないからです。 せっかく関心を持って頂いた方にあらぬ疑いをかけているのでは申し訳ないです。 自分がそんな心持ちではどなたとも信頼関係なんて築けない気がします。 気にしすぎないようになりたいです。 また、10年も経ってまだ引きずっていることが情けなく、なんだか悲しくなります。 怖かったけれど、怖かっただけと思えば余計です。 こちらに相談してみようかどうしようか、またどのように書いたものか 頭の隅で考えていた間は、やっぱり気分は沈むし、 何の関係もない仕事中に脈絡もなく泣き出しそうになったりして、少し困りました。 あまり考えないほうが良いのでしょうか。 一方で、どこかで洗いざらい喋ったらすっきりするのだろうかとも考えます。 当時相談はしましたが、具体的に起きたことをまとめて話したことはありません。 思い出しても振り回されないようになりたいなと思っています。 うまくまとめられず長くなりました。申し訳ありません。 何かご意見を頂けたら嬉しいです。

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好きであるとは、心に懸けるとは

失礼致します。先日はご教示ありがとうございました。 このたびはご質問をさせていただきたく存じます。 生活していると、ある物や趣味、またある人間に対して「好きである(好きになる)」という表現が用いられることが多々あります。 この「好き」という言葉につきまして、自身の中で不安定な部分があり、お伺いする次第です。 自身にも少ないながら趣味があります。ただ最近、その「好き」が趣味そのものではなく「趣味を嗜んでいる自身」に向かっていることに嫌悪感・罪悪感や不安を抱かずにいられません。 自らの存在価値がないと感じられた折、「趣味を嗜んでいる自身」にすがって心を保った経験があり(自死などを選ぶよりは遥かにマシである、といった風に)、そのような場合にはある程度有益な見方では、とも考えられました。 ですが、精神的に最悪の状況から少しなりとも抜け出してなお、その見方がなされてしまうのは、いかがなものでしょうか。趣味に対する冒涜のように感じられる部分が拭いきれません。職業でこそないにしても、自身にその道を歩む資格があるのかと疑われ、真に心を入れて取り組んでいる方々を思うにも不甲斐なさが付いて回ります。 人を好きになることについても似たように考える節の無いこともありません。 正常な形とは言えない執心を断ち切らんと、なぜ自身がその人に執着しているのかを自問したところ、その理由は一つではなく、過ちを謝罪したいと思っていたことなどいくつか考えられました。その中にはやはり「彼女を好きである自身」に拘っていた部分も見出され、これは単なる自惚れではないかと気づいた次第です。 純粋にその物事や人を「好きである」と言い、心に懸けるとは、少なくとも現在の自身にはたいそう難しいことのように感じられます。 ただ、趣味・人のいずれにしても、関わっている自身を心のうちで称揚することは、一方では対象への敬意・感謝であるとも解釈できるのではないでしょうか。それがあってこそ、その人がいてこそ自らの心身が救われたという具合です。 「好きである」ということはどうあるべきか、そもそも「どうあるべきか」という基準を意識する必要はあるのか。 ご意見をお伺いしたく存じます。よろしくお願い致します。 長文失礼致しました。 ご高閲ありがとうございました。

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