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「生き方・心構え」を含む問答(Q&A)一覧

どう生きて行けばいいのでしょうか。

今、会社のお局からの高圧的な私への態度と、 自分仕事で他の人より多くの業務をこなしているのに なぜ給料はこんなにも低いのかと 考えすぎたせいでうつ病として病休中です。 たまにですが、夢にお局が出てきて 汗を掻いた状態で起きることもあります。 人と話すことが好きな私はカフェをしてみたいなと思ったのですが、 親からは水商売は本当に大変だからということで 頭ごなしに否定をされました。 それからというものの、 何をしたいのか全く思いもつきません。 ですが否定されてからは 何かを少しずつするようになりました。 パソコンを弄り、 車で遠出したいところが無いかを探したり 歩いて街中へ出かけたり 読書をしたり これからどうしていくかを少し考えたり 体を動かし汗を掻くようにはしています。 ですが先日街中へ出掛け、行きは歩きで 帰りは電車を利用した時でした。 電車の中で街中で就職活動フェアの広告を見ました。 この広告を見てから 夜になりますと、気持ちが落ち込み吐き気や 物忘れ、体がしっかりと動かない、めまいなどが出ます。 それだけでなく 好きな事への興味や 何かをする気が徐々にまた減って来ています。 また体調が少しずつと 体を動かすのが億劫になり、 起きる時間が早くなってきたのが 再度逆戻りとなってしまいました。 それだけでなく折角、好きな海外アーティストの コンサートのチケットに当選をしたのですが、 それですら行くのを辞めようかと思うようになりました。 こういう状況で自分はどうしたらいいのか 助言を頂けませんでしょうか?

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転職しようと心では決めたものの

現在勤めている会社を辞め、転職しようと考えています。 旅行会社に新卒で入社し、現在は4年目です。大学時代、単位の関係で1年留年し入れた会社だったので、そんな私を拾ってくれた会社に対する恩義はあります。もちろん、旅行が好きな上で入った会社です。 ここ数年で周りの友達が結婚や出産をし、また元々私の他に3人いた同期も最後の1人が今年の夏転職のため退職しました。そういう周り人の変化を見ていて、自分自身をかえりみることが多くなり、本当にこのままこの会社で働き続けていいのだろうかと思うようになりました。 1年目は仕事をこなすのに必死で、辞めたいと思うことはありませんでした。 2年目になると部署が異動し、新しい仕事をやるように。異動後のポジションは担当者が私しかおらず、右も左もわからない状態からのスタートで、こんなことなら辞めてしまいたいと何度も思いました。周りに理解者があまりいなかったからです。それでも社外の人とやりとりしたりする上で、小さなやりがいは感じるようになっていました。 3年目になると、そのポジションに新たに1つ下の後輩がつくように。2名体制になり私が引っ張らなければという責任感と、同じ業務をやる仲間が増えた嬉しさを感じていました。この頃もあまり辞めたいと思うことはなかった気がします。私が担当していた取引先も徐々に後輩に窓口を引き継がせていき、後輩自身徐々に仕事をこなせるようになりました。 そして4年目の今。2名体制はそのまま変わらず仕事をしています。が、既存の取引先をほぼ後輩に任せていることや、その子が得意な分野でどんどん成長している姿を見ると、次第に劣等感を感じるようになりました。社内の人も後輩の子を頼ったりする場面が多くあります。自分でも醜い感情だと自覚していますが、嫉妬があるんだと思います。自分は自分の役割を全うすべきと分かってはいますが、もはや私は必要ではなく、今の仕事はその後輩やさらに下の子にさせてあげたほうが今後の会社のためたも良いんじゃないかと思うようにもなりました。逃げなのかもしれません。ただ私も、旅行会社の先行きが決して明るくない中、今の小さな会社で学んでいくよりも、他の会社に移り新しいことを吸収したほうが将来の糧になると思っています。 転職することを小さく心には決めたものの、このタイミングで良いのか、この決断でいいのか迷っています。

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社会復帰と母との関係

昨年、帰国してから社会的にひきこもって約一年ほどになります。鬱状態の頃から大分回復しましたが、未だ社会復帰できていない状態です。 就職活動もあまり進んでおらず何も成長しないまままた一つ歳をとり、時々罪悪感や焦りと不安の気持ちでいっぱいになります。 こんな私ですが、最近になって、職を持ってひとり立ちして自分の生活を持ちたいという思いを持つようになりました。 その理由としては、今まで身近にいた親友が就職を機に上京し、一人暮らしをしているのが羨ましく感じたのと、母と距離を置いて接したいと思ったからです。 私は中学から母子家庭で育ち、専門学校まで女手ひとつで育ててもらいました。 母は派遣で働いていますが、昔から片付けるのが苦手で家は常にゴミ屋敷状態でした。私は小5からそういう環境で育ったのでそれが普通だと思っていました。 しかし、去年留学をしはじめて親元を離れて生活をし、帰国して愕然としました。自分が今までいかに劣悪な環境で育ったか、母が異常だったか。 でも、私はこの家に母を一人残していくことに罪悪感を持っています。いつかは(もしかしたら)結婚して家を出なければならない時が来るかもしれないけど、 その前に私は私の人生を生きたい。 自由に生きていきたい。 と思うのです。私は親不孝者でしょうか?ご意見お聞かせ下さい。

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"生きる"を学びに

お久しぶりです。 長い期間不登校だったのに、学校へ無理矢理行かされて… 更にテスト期間だったということもあり、何も勉強していないのに、「点数悪かったら退学!」「学校来なきゃ退学!」「嫌な科目出なきゃ退学!」と言われもう疲れました。 祖父母にも、「そんなこと言われて悔しいと思わないのか!?見返してやれ!」などと、もう精一杯なのにそんなことを言われ精神面では限界を迎えたようで、無気力が続き私を学校へ行かせようとする人間に殺意が湧いていっそ殺して死んでやろうかとも思いました。 お坊さんの回答通りにいろいろな機関に助けを求めようと、調べてはみましたが私のいる県では不登校への支援がかなり遅れているようで役に立ちません。 その事実に驚きました。 どうりで自殺率が高いわけです。 少しでも自分の中の苦を取り除くために、サイト中のお坊さんの回答をノートに写しました。 そこでやっと、お坊さん方が言う「学校へ行かなくていい」の意味がわかりました。 高校は18で卒業するものだという価値観が刷り込まれて、自分で自分を苦しめていました。 その価値観をぶっ壊して考えてみました。 しばらく学校と距離を置きたい。 変わりに"生きる"ことを学びたい、と思い北海道へ酪農のアルバイトを一年間しに行きたいと思います。 慣れない仕事で身体を疲弊させ、牛さんと関わることで命のありがたさや、食品の大切さを学びたいです。 貯まったお金で通信制高校へ進み高卒資格を得たいと考えています。 そこから仏教を学ぶ大学へ進学して、私のように苦しむ人々を救うべく、hasunohaのお坊さん方のような僧侶になりたいです。 やっと明確に将来が見えたのに それを母に伝えたところ、頭ごなしに怒鳴られ話になりませんでした。 姉が国公立の大学なため、家族の中に落ちこぼれがいるのが許せないんでしょう。 今まで学校へ行かないといけない、という価値観を押し付けられていたことに気づけたので、もう母の言うことを聞こうとは思いません。 もう勝手に北海道へ行こうと思うのですが、どう思われますか?

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すみません…ここって本当に人間道ですか?

いつもお世話になっております。何だか近頃、ここは人間道では なく、畜生道か餓鬼道なんじゃという気がする時があります。      ✳︎ 「いじめとは、種の保存が目的の行為」ある脳科学者さんの言葉 です。自然界ならまだわかります。ですが、我々は人間です。 自分じゃ抑えきれないなら、福祉や行政の手を借りるとか。 私はそのおかげで何とか抑えています。      ✳︎ なのに、なぜ彼らはよそのお子さんをおかしな理由で痛めつけたり ただ自分と違うというだけで。自分の子でさえ。 はたまた坊さんさえも信徒や檀家の心を蹂躙したり。       ✳︎ この前など、知的に問題を抱えたお子さんの事を大学生風の カップルが笑いながら悪口を言っていました。 支援者さんたちは勘付いたのか席が空いていたのにその子の 前に立ちました。 すると彼らはその隙間から覗いて笑っていたのです。目があった ので、私は彼らの上から下まで軽蔑の視線で見つめてやりました。 ✳︎ くっ付くへっ着くだけ一人前、彼らの事を人とは思えません。 先ほども電車内で誤って足を蹴ってしまったお嬢さんに謝りなが ら通り過ぎたら、降りた後も冷たい視線で私を見ていました。 ✳︎ 先生方、どう思いますか?また、上述の私の行為も、いじめ なのですか?「衆生痴暗にして…」と法語がありますが、 これはいくらなんでも!ご意見お待ちしています。 お父さん、お母さんごめんなさい。私に彼らは救えません。

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犠牲を伴わないと夢は叶えられないのか?

もともと塾講師をしながらイラストを趣味で描いておりました。 就活の時期になって、イラスト関連のことをしたいと思いながらも 親から大反対され、新卒で大手企業に入社することに決めました。 しかし入社後のギャップに耐えられず もともと橋本病を患っている私は 身体も弱く激務に追われ 2か月で適応障害になり休職したのち、退職しました。 1ケ月後には実家に帰り 病気でもアルバイトをしろと親に促されました。 辛かったですが私自身も働きながら体を慣らそうと思い スポーツジムのアルバイトを週3でやりながら 大好きだったイラスト・漫画を描いております。 おかげでイラスト関係の仕事も入ってくるようになり ほんの少しですが収入の足しにしております。 今までの人生は母親の顔色を窺って歩いてきた身だったため 誰の顔色も気にしない自分だけの人生を歩けている今が 一番楽しくて一番幸せです。 ですが、問題は収入面です。 正直、バイトとイラストでは 実家暮らしから抜け出すことはできません。 無論正社員になればお金は手に入りますが イラストをする時間は無くなります。 身体が元々強くなく、また適応障害になってしまうのも怖いです。 病気を言い訳しているような自分も嫌です。 もちろんイラスト関係で就職も考えましたが 専門学校卒でも資格もない私には その関連の正社員で働ける場所はありません。 「早くこの家から出て行って一人で生きていけ」 と、母親は常日頃経済的に自立するよう求めてきます。 長年付き合っている同い年の彼氏もいて 同棲の話も出つつある中で 私の収入のなさが彼の負担になってしまうのは 目に見えています。 私はお金は最低限でいいと思っています。 うちの両親が家庭を顧みず働く両親なので お金はありますが家庭は崩壊しています。 そんな姿を見ていたら 好きなことをして、幸せな家庭を築けるような 「普通の幸せ」が欲しいです。 でもそれは自分の収入だけでは 叶えることができません。 これは贅沢なんでしょうか。 叶わない夢なんでしょうか。 どれかを叶えるためにはどれかを捨てないと どうしても叶えられないのでしょうか。

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“今・ここ”を生きると言うこと。

いつも質問・回答をありがたく拝見しております。 私は今を生きることを意識しており、こちらのサイトで様々な仏教の考え方を知り、自分の理想としている生き方に近いものを感じて共感する部分が多く、もっと教えを学んでみたいと思っている所です。 私が普段意識していることを具体的に挙げると 「目の前のことに集中する」 過去や未来を悩むより、今、やるべきことをやる 今、目の前の人、環境、あるものに感謝する。 「その時その時の感情を、否定せずに味わう」 ポジティブな感情はもちろんですが、ネガティブな感情も、抑えようとするから苦しいのではないかと思っており、「今、自分はネガティブになっている」「ネガティブになるのも仕方ないよ」と、受け入れるようにしています。 「まずは自分を大切にする」 気が進まない事をしなければならない時、深呼吸をしたり、コーヒーを飲んだり、とりあえずトイレに行ってからにする等、まずはその場その場の自分を整えてから行動をする、ということを意識しています。 「できないことはしない」 時間がない、能力がない、できないものはできないので(笑)今の自分にできることを、できる範囲でやることを意識しています。 私の今のこのような考え方は、自己啓発系のたくさんの本を読んできて、自分が良いと思ったものだけを集めたものです。 私は元々とても落ち込みやすく、自己否定ばかりして生きてきたのですが、このような生き方を意識することで、比較的穏やかな心を保てるようになってきました。 いつか自分が様々な考え方を勉強して穏やかになれたように、学んだ考え方を何らかの形で発信して、誰かの心を軽くできたらと考えています。このような行動は仏教でいう自利利他に当たるのかと思う反面、ただの押しつけや自己満足の偽善行為ではないかとも思い、迷ったりもしているのですが…。 前置きが長くなりましたが、質問です。 お坊さまは「今・ここを生きる」とは、どのような生き方だとお考えですか?私は穏やかに生きるヒントは「今」にあるのではないかと考えています。仏教的視点、個人的意見、どちらでも構いませんのでよろしければ、お聞かせください。

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期待しないことは無責任?

こんにちは、質問させていただきます。 私、教育関係の仕事に就き、主に大学受験生を指導しております。 以前、非常に厄介な生徒に関して質問させていただきまして、そちらの件はある程度の折り合いがついたように思います。 しかしどうしても、生徒への期待の部分や応えきらない生徒への不安・不満が拭いきれません。 というのも、相手に期待をせずに指導することと「無責任」という状態をどのように区別すればいいのかがわからないのです。 自身の心をよりフラットに保てば保つほど、執着をなくせばなくすほど、より良い教育者から離れていまうのではないかという不安があり、それが自分が一歩踏み出すのを押しとどめているように感じます。 やはり立場上生徒の合格に期待することが我々の一番の喜びであり、この仕事のやりがいであると思っております。 私自身も合格報告のただそれだけに指導しているといっても過言ではありません。 それにそういった気持ちがプラスに働いた経験も多々あり、そのなかで激務であっても頑張れているというものあります。 また、私は塾の講師ですので、幅広い教育ではなく「合格」の一点を見据えた指導が必要になってきます。生徒の成長そのものは学力に限りませんが、私が仕事として、今置かれた立場でやらなければならないのは受からせることなのです。 こうした社会的立場も、今の悩みと密接です。幅広い意味での成長であれば、もう少し柔軟に考えられるのですが... 果たして仏教の教えを推し進めたその先に待っているのは、どういった教育者像なのか。 生徒の合格を願うことさえ執着として切り捨てなければならないのか。今の心のしこりです。 合格をただ目指す私の職業自体が、もはや仏教徒は相容れないのでしょうか。 仏教の教え自体はぜひ取り入れていきたい。その気持ちは強いです。日常生活で、仏教の考え方のおかげで救われることも何度もあります。だからこそ仕事も含めた生活全てできっちりと仏教の教えを実践していきたいと思っております。 この現状について、どのように考えていけばよいでしょうか。長文となってしまい恐縮ではありますが、ご回答いただければ幸いです。宜しくお願い致します。

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